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【今日の聖句】
2017.06.06 【マルコによる福音書】 6:37 これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。 6:38 イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」 6:39 そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。 6:40 人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。 6:41 イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。 6:42 すべての人が食べて満腹した。 *** 有名な5千人への給食の奇跡の記事です。イエス様から見ると、群集はまるで羊飼いのいない羊のように見えました。それらの人たちのために、イエス様は休むことなく語り続け、教えられました。弟子たちもその姿勢の中から大切なものを学びました。 そして、イエス様の名前が知れ渡り、5千人もの人たちがその教えを聞こうと集まってきました。弟子たちにとっては得意満面でそこにいたと思います。 しかし、時間が経過し、おなかが空いてくるようになってから、弟子たちは、群集を早めに解散させて町に戻したほうがよいとイエス様に進言しています。 イエス様は「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになりました。 これは、弟子たちを困惑させる言葉でした。 5千人の人たちのための食料をどこで手に入れればよいのか、どうしたらよいのか、どこに行けば良いのか、誰に信頼すれば良いのかなど、弟子たちにとっての教育的な意味合い深いやりとりがここに記録されています。 イエス様は弟子たちに「あなたがたで食べ物を与えなさい」と命じたのです。 これはやがてイエス様が復活の後、天に戻られ見える形では不在になってから弟子たちが毎日実行しなければならない事でしたから、重大なレッスンでした。 イエス様は、弟子たちの持っている資源を求めました。 すると5つのパンと2匹の魚だけでしたが、見つかりました。 イエス様は、それだけの資源を土台にして、分配し、みんなが満腹して、そのうえ、12のかごが一杯になるほどあまりがでるほど十分に提供なさいました。 弟子たちは何を学んだのでしょう?あなたはこの奇跡から何を学ぶことができますか? +++++ 【箴言】 19:21 人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。 ++++ 新改訳聖書では「人の心には多くの計画がある。しかし【主】のはかりごとだけが成る。」となっており、フランシスコ会の訳では「人の心には多くの計画があるが、主のみ旨だけはかわることがない」となっています。 いろいろな理解の仕方があるように思います。 ひとつは「人間の人生はなかなか思い通りにはいかないものだ」というもの。 「多くを計画し、考えても結局、人はひとつしか道を選べない」という考えも成り立つかもしれません。「結局は神の備えた道しか、残されていないのだから野望を捨てて神に従いなさい」という考えもあるでしょう。 あるいは見方を変えれば「神は各人に対して計画をもっておられ、人はその計画を見出しさえすれば主の期待に応えつつ人生を歩むことができる」という考えも出てきます。 振り返って、いろいろなところを通された結果、今がある、としみじみ思い返せる人にとってはまさに「いろいろあったけれど、やっぱり神さまが道を備えてくださったので、ここまで来れたのだな」と感謝することができるかもしれません。 どちらかといえば、あとのふたつの考え方のほうを箴言は勧めているように感じます。 |
キリスト教
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2017/-6/02
バイブルワークショップ 「ルカによる福音書とわたし」 第一章 |
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2017/06/04 MACF礼拝映像です。
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MACF礼拝説教要旨
2017.06.04
ペンテコステ記念に
「もうひとりの助け主」
ペンテコステを記念して、聖霊についてお話します。テキストはヨハネの福音書14章から16章までです。
1)別の弁護者:イエス様と同質の援助者
14:16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
14:17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。
「別の」という言葉は、「同じ質の別なもの」という意味があります。イエス様と全く同じ資質をお持ちの助け手が与えられるという約束です。そして「弁護者」とは「援助者として傍にいるように呼び出された存在、仲保者、慰め主」という意味があります。常に傍にいて、支援してくださるお方なの
です。イエス様は、私たちのために「イエス様と同じ資質を持ち、同じ力を持っている援助者」である聖霊をお遣わしくださいました。文字通り、もうひとりの助け主です。私たちを常にイエス様に結びつけ、父なる神様に結び付けてくださるお方、それが聖霊なる神様なのです。イエス様が癒しをもたらし、赦しをもたらしてくださったように、聖霊は私たちに賜物をくださいます。それによって神様を喜び、神様の働きの一部を担えるようにしてくださるのです。
2)イエス様の教えを思い起こさせてくださる聖霊
14:26 しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。
15:26 わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。
私たちがイエス様のことを深く理解し、聖書の真理を深くわかるようにと、聖霊は遣わされました。
聖書の真理はいわゆる学問だけで理解すべきものではなく、霊的な取り扱いによって、つまり心の中に神様からの語りかけを受けながら、体得するという解り方が求められているのです。知的好奇心を満
たす部分と、霊的必要を満たす部分があるのです。聖霊は霊的必要を満たすために御言葉を理解させてくださいます。
マタイによる福音書の中でイエス様は弟子たちにこう教えています。
10:17 人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。
10:18 また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。
10:19 引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。
10:20 実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。
マタイ10;17-20
私たちが苦しみに出会い、悩むとき、聖霊は私たちの心にイエス様の教えを思い出させてくださいます。御言葉に立ち戻らせてくださいます。聖霊は私たちがイエス様に愛されていることを思い出させ、更に、そのことを弁明できるような力も賜物も与えてくださいます。
3)罪、義、裁きについて教えてくださる聖霊
16:7 しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。
16:8 その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。
何が正しいことで何が間違っていることなのか、どうあれば、神様が私たちを赦して下さるのか、神様の最終的な裁きは本当にあるのかないのか、基準があいまいな私たちに聖霊はきちんとそれらの内容についての考え方を導いてくださいます。
世の中で考えられている「罪、義、裁き」と神様が私たちに求めている「罪、義、裁き」についての理解には大きな溝があるのです。人は罪の下に置かれていること。義とされる希望はただひとつ、人間の努力や頑張りではなくキリストの十字架による「贖いとなだめ」にかかっていること。「裁き」は存在
し、キリストが私の身代わりの裁きを通過してくださったので、永遠の救いはすでにキリストを信じる私たちにもたらされていること。それらの真実を聖霊は明確に心に教えてくださいます。
この世の中の水準ですと「罪は犯罪、誰にでもある悪い心」程度の理解が主流でしょう。
「義」という概念については「人間はそもそも善なのだ」という発想もありますし、神様には「お布施」「修行」で許してもらえると考えている人たちが多くいるのです。
「裁き」については、それ自体を否定する人たちがたくさんいます。聖霊は、それらひとつひとつについて、私たちの心に真理を届けてくださいます。
4)過去、現在、未来についての真理を教える聖霊
16:13 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。
16:14 その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。
聖霊は、聞いたことを語り、これから起こることを告げるとイエス様は教えてくださいました。
つまり、過去について、将来について、聖霊は確信を与えてくださいます。信じるものの立ち戻るべきところはどこなのか、そして、信じる者が行き着くところはどこなのか、聖霊はそれを教えてくださいます。
私たちのなすべきことは、聖霊の促しを歓迎すること。聖霊が来てくださって、心に住んでくださっていることを信じること。聖霊が私たちを活かそうとし、教えようとしてくださっていることを信頼すること。丁寧に聖書の教えを聞き続け、読み続けることです。
聖霊は過去の出来事と聖書の教えを結びつけてくださいます。将来の希望と聖書の御言葉を結び付けてくださいます。生きることを支援してくださるのです。
もうひとりの、イエス様と同じ力、同じ愛、同じ資質をお持ちの援助者である聖霊が遣わされました。
そのお方を歓迎し、そのお方の働きをしっかり心に留めながら、日々、そのお方の支援を受けて前に進んで行きましょう。
しかし、これはどういうことかと言えば、私たちの全生活が「神の守りと支配の下に置かれている」ということをより実際的なものとして教えるための出来事なのだと思います。
私たちは見えないけれど、神の中に置かれ、イエス様の中に置かれ、聖霊の中に置かれて生きているのです。私たちの全存在が神さまの中にすっぽり包まれて生かされているのです。私たちがどこにいようと、何をしていようと、神の「中に」置かれていて、愛の眼差しをうけながら生かされているのです。
この詩篇を心に留めましょう。
「どこに行けばあなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。
天に登ろうとも、あなたはそこにいまし陰府に身を横たえようとも見よ、あなたはそこにいます。
曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも
あなたはそこにもいまし御手をもってわたしを導き
右の御手をもってわたしをとらえてくださる。
(詩篇139:7〜10)
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【今日の聖句】
2017.06.03
【マルコによる福音書】
6:30 さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。
6:31 イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。
6:32 そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。
6:33 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。
++++++
弟子たちは、宣教活動に出かけ、そこでの活動による疲れを感じながらも、ある種の充実感をもってイエス様に活動報告をしました。病人へのケア、悪霊の追い出し、貧しい人たちへの励まし、そして、人々の生活の中に「神への悔い改め」がもたらされるよう話し、励まして来たことの報告です。
イエス様は、彼らの報告を聞いたあと、弟子たちに「休むように」と励ましました。
人々からの要求が多く、しかも多くの人達が出入りしていて、心も身体も休まるときがなかったのです。
群衆に追われるような生活は、厳しいものだと思います。しかも、それらの群衆が何かしら要求しながら彼らに迫ってくるわけですから、ある種の強迫観念をもってしまっても無理のないことかもしれません。
休みが必要でした。
人里離れたところでの「リトリート」が必要でした。
そこで弟子たちが、個々に神さまとの時間を持ち、心を自分と神さまだけの親密な時間を持つことをイエス様は命じたのです。
知らない間に、疲れは忍び込み、それが溜まり、フラストレーションが膨らみ、判断が鈍ったり、気持ちを込めて奉仕する力が弱ってきたりすることがあるのです。
しかし、そういう時間を取ろうとしても群衆は彼らを探し出し、結局、捕まってしまうことになるのですが、とにかく、イエス様は弟子たちにリトリートを命じていることに注目しなければならないと思います。
「休み」「退修会」「リトリート」「休養」なんと呼ぼうと、より良い働きを継続するために、必要なものとして記憶し、実施することが大事です。
頭ではわかるのですが、貧乏性の私には、長い間、「お休み」は無縁なものです。
冗談めいて自嘲気味に「もうすぐ長い休みを経験できるからなぁ」などと心に言っている自分を恥ずかしく思います。
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【箴言】
19:19 激しく憤る者は罰を受ける。救おうとしても、あおるだけだ。
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新改訳聖書では「激しく憤る者は罰を受ける。たとい彼を救い出しても、ただ、これをくり返さなければならない」となっています。
激しく憤り、自分でそれをコントロールできないほどのものになったら、それは自分を傷つけることになり、他者を傷つけることにもなっていきます。その人に近づくだけで「怒りの熱」を感じるほどになってしまうと、その熱は仲間を求めますから、その人への批判などしようものなら反発を感じることになり、巻き込まれることになるでしょう。
激しい憤りは、なかなか収まることなく、小さな爆発を繰り返すので、その人への信頼が低下する結果となります。もしかすると、それ自体が「罰」なのかもしれません。
そういえば、「小言幸兵衛」という落語がありましたね。
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