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【今日の聖句】
2017.06.03
【マルコによる福音書】
6:14 イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」
6:15 そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた。
6:16 ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。
6:17 実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。
6:18 ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。
6:19 そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。
6:20 なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。
6:21 ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、
6:22 ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、
6:23 更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。
6:24 少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。
6:25 早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。
6:26 王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。
6:27 そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、
6:28 盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。
6:29 ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた。
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ヘロデ王の耳にイエス様の評判が届いた時、王は怯え始めました。それは今朝の箇所に書かれているように、洗礼者ヨハネを「自分の都合の悪いことをはっきり指摘し、悔い改めを勧めるイヤな奴」ということで投獄し、自分の誕生日の宴席で、
いわば問題の妻ヘロデイアの娘が踊るのを見て調子づき、「お前が望むものならなんでもあげよう」と言い出し、娘がそれを母親に相談し、「ヨハネの首を」ということになったのです。
そのヨハネが蘇ってきたのではないかといぶかったわけです。
それにしても、酒宴の際のひとことで簡単に重要な預言者、真実な説教者の首をはねてしまったヘロデの心の狭さ、醜さ、結局自分のした悪は明らかになっているわけですが、さもしい感じがしますね。こういう理不尽なことが世の中には存在します。
人の悪のひどさ、醜さを目の当たりしているような気分の悪い記述です。。
自分の事も含めて、主よ、憐れんでください、と祈らないわけにはいきません。
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【箴言】
19:18 望みのあるうちに息子を諭せ。死なせることを目指してはならない。
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新改訳聖書では「望みのあるうちに、自分の子を懲らしめよ。しかし、殺す気を起こしてはならない。」となっています。
フランシスコ会訳のものでは「望みのあるかぎり、自分の息子を懲らしめよ。しかし、暴力に及ばないように心がけよ」となっています。
「諭すための懲らしめは必要だけれども、死なせるほどひどい仕打ちをしてはならない」というような意味でしょうか。
子どもは叱っても言うことをききませんね。親が余計に腹を立てて、殴る蹴るの暴力を振るってしまうこともよくあることのようです。いわば、家庭内暴力ですね。
むしろ、しっかり子どもを抱きしめ、「いてくれてありがとう」を伝えることでの諭しを実行していただければと思っています。そして、「助けて欲しい」と言葉にして、あれこれお手伝いをしてもらえるなら、今までとは違う関係が生まれるような気がします。
幼いときからの習慣で、こういう関係が育てられると良いなぁと思います。
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キリスト教
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◎明日6/2午前1020、午後720からバイブルワークショップが開催されます。「ルカによる福音書とわたし」どうぞ、お出かけください。場所はお茶の水クリスチャンセンター404号室(東京プレヤセンター)です。持っている人は聖書をご持参ください。
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【今日の聖句】
2017.06.01
【マルコによる福音書】
6:7 そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、
6:8 旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、
6:9 ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。
6:10 また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。
6:11 しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」
6:12 十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。
6:13 そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。
++++
12人の弟子たちは2人ずつに組になって派遣されます。弟子たちにとって大切な使命は「召し出されたことに対して感謝し、従うこと」と「派遣のためにこそ召されていること」を自覚しつつ生きることです。
彼らの中心的使命は「悔い改めさせるため」とあります。悔い改めとは「方向転換」という意味があります。見方を変えること、視座を変えること、間違っていたことに気づいて正しい方向に進むこと、生き方の方向転換です。イエス様に出会うと多かれ、少なかれ、方向転換を指示されます。
そもそもイエス様の教えに注目しながら生きる事自体、方向転換がなければ継続できません。
派遣にあたって、弟子たちは、神さまに信頼し、他者の善意を感謝しつつ受け取り、霊的な世界の戦いがあることを自覚しつつ、イエス様からの権威を受け取って進むべきことが教えられています。
弟子たちは修練を積んで自分の力で何かを実行するわけではないのです。神さまの力、他者の善意、そしてイエス様からの権威を受けつつ、進むのです。それは今も昔も変わっていない大切な生き方の姿勢です。
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【箴言】
19:17 弱者を憐れむ人は主に貸す人。その行いは必ず報いられる。
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新改訳聖書では「寄るべのない者に施しをするのは、【主】に貸すことだ。主がその善行に報いてくださる。」となっています。
他の人に対する善意、善行はちょうど、神さまに対して実行していることと同じだという意味になりますね。これを心に教えられつつ生きることは、心地よい生き方の秘訣なのかもしれません。
「靴屋のマルチン」の話を思い出します。
これは15分ほどの紙芝居の映像ですが、どうぞ箴言の言葉を意識しながら御覧ください。
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++++ 【今日の聖句】 2017.06.01 【マルコによる福音書】 6:7 そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、 6:8 旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、 6:9 ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。 6:10 また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。 6:11 しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」 6:12 十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。 6:13 そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。 ++++ 12人の弟子たちは2人ずつに組になって派遣されます。弟子たちにとって大切な使命は「召し出されたことに対して感謝し、従うこと」と「派遣のためにこそ召されていること」を自覚しつつ生きることです。 彼らの中心的使命は「悔い改めさせるため」とあります。悔い改めとは「方向転換」という意味があります。見方を変えること、視座を変えること、間違っていたことに気づいて正しい方向に進むこと、生き方の方向転換です。イエス様に出会うと多かれ、少なかれ、方向転換を指示されます。 そもそもイエス様の教えに注目しながら生きる事自体、方向転換がなければ継続できません。 派遣にあたって、弟子たちは、神さまに信頼し、他者の善意を感謝しつつ受け取り、霊的な世界の戦いがあることを自覚しつつ、イエス様からの権威を受け取って進むべきことが教えられています。 弟子たちは修練を積んで自分の力で何かを実行するわけではないのです。神さまの力、他者の善意、そしてイエス様からの権威を受けつつ、進むのです。それは今も昔も変わっていない大切な生き方の姿勢です。 ++ 【箴言】 19:17 弱者を憐れむ人は主に貸す人。その行いは必ず報いられる。 +++ 新改訳聖書では「寄るべのない者に施しをするのは、【主】に貸すことだ。主がその善行に報いてくださる。」となっています。 他の人に対する善意、善行はちょうど、神さまに対して実行していることと同じだという意味になりますね。これを心に教えられつつ生きることは、心地よい生き方の秘訣なのかもしれません。 「靴屋のマルチン」の話を思い出します。 https://youtu.be/_D1nNw7WYBI これは15分ほどの紙芝居の映像ですが、どうぞ箴言の言葉を意識しながら御覧ください。 |
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【 今日の聖句 】
2017.05.31 【 マルコによる福音書 】 6:2 安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。 6:3 この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。 *** 今までの章の中には数々の奇跡が書かれていました。しかし、ここに、いわば地元の人たちの心の状態が書かれています。イエス様の奇跡や不思議な出来事については一応評価しているのですが、イエス様のことをキリストと認めていませんし、イエス様に何の期待もしないばかりか、軽蔑的な意識さえ持っています。 普通、ある人を呼ぶ時の常識としては「父親の息子」と呼ぶのが普通でしたが、イエス様は、ここでは「マリアの息子」と呼ばれています。 この呼び方にはある種の軽蔑が含まれています。お前の父親は誰だかわからないのだぞ、というような気分が含まれています。 また、大工ではないか、という言い方も、どこか軽蔑的な雰囲気が漂っています。大工といっても石切場の職人だったのではないかとも考えられています。 いわば力仕事だけをさせられる石切場の職人は職業の中では、それほど高く評価されていたわけではありません。 せっかく、キリストがここにいらっしゃるのに、期待も信仰もない、いわば常識の枠だけでイエス様を見ているだけなので、神様のみわざがもたらされることもありません。表面的な理解だけで、イエス様を捉えているのです。イエス様は、その不信仰を嘆きます。 「どうせ、この程度だろう」とイエス様の働きを見くびることほど恐ろしいことはありません。 これほど残念なことは他にありません。自分の偏見で神様の働きを制限し、決め付けることで、祝福が自分のところには届かなくなるからです。 礼拝の心が枯渇し、イエス様に批判的な意識を持ち始めると、不思議なことに人に対しても批判的になりやすくなります。 イエス様に否定的になるとイエス様に従っている人に対しても反発するようになるのです。 高慢、偏見、変化を容認できない心と軽蔑の連鎖は、常にイエス様を追い出したくなる心なのかもしれません。気をつけたいですね。 キリストの平和とキリストへの信仰が、私たちの心の隅々にまでゆきわたりますように! ++++++ 【 箴言 】 19:16 戒めを守る人は魂を守る。自分の道を侮る者は死ぬ。 ++++ 新改訳聖書では「命令を守る者は自分のいのちを保ち、自分の道をさげすむ者は死ぬ。」となっています。 それぞれの生き方について、心に指針を持ち、あるいは神の教えを心に留めて生きるなから、その人の魂、いのちが守られ、自分の生き方を軽視し、神の教えも戒めも軽視するような生き方を進めていけば、きっと死を招くことになると箴言は語ります。 自分の日常における小さな決意、小さな気づきが、魂を守ることにつながることがあるし、小さなことへの軽視、不注意の継続が、やがて、命取りになってしまうことがあります。 肉体的な健康を考えても、この言葉は妥当性があるように思います。 身体の健康を願う声を聴きながら生きる人は、自分のいのちを守ろうとする人であり、その生き方はいわば大切な生き方なのだと思います。もうどうでもいいのだと投げやりな生き方は健康管理には心が向きませんから、危険な生き方になるでしょう。 肉体的な出来事も、霊的な出来事も関連性がありそうですね。 |
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2017/05/28
MACF礼拝映像はこちらです。祝福がありますように。
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【今日の聖句】
5:22 会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、
5:23 しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」
5:24 そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。
5:25 さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。
5:26 多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。
5:27 イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。
5:28 「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。
5:29 すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。
5:30 イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。
5:31 そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」
5:32 しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。
5:33 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。
5:34 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
5:35 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」
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娘が死にそうなので、助けてほしいと、会堂長ヤイロはイエス様にひれ伏し懇願します。イエス様が手を置いてくださればきっと娘は癒されると確信していたからです。要請を受けてイエス様は一緒に彼の家に向かいます。ヤイロはおぼれる者はワラをも掴むという心境できっと早足になったことでしょう。
しかし、その途中で、時間を割かれてしまう出来事が起こります。長い間出血が止まらず苦しんでいる女性がイエス様に触れて癒されるのです。
イエス様は立ち止まりその女性を捜しだし、彼女に語ります。イエス様に対する信仰、信頼が癒しをもたらしたのだと優しく声を掛けています。
イエス様の権威や力からもたらされる祝福を受け取る受け皿こそ「信仰」です。
癒しを経験したこの女性にとっては、これほどうれしいことはありませんでした。イエス様への信頼が、癒しを受け取るために必要だったのです。イエス様に期待し、イエス様を信頼すること、ここに解放があるのです。
しかし、イエス様がその女性と話をしている間に、ヤイロのもとに絶望的な知らせが届きます。「お嬢さんは亡くなりました。もう先生を煩わすには及ばないでしょう。」
もし、あなたがヤイロの立場だったら、イエス様に対してどんなことを感じるでしょう?また、この女性に対して何を感じるでしょう?
ヤイロはまさに、「信仰の危機」を通過しているのです。
もちろん、一番重要なのは、イエス様がその知らせを耳にしているという事実です。
しかしヤイロの立場に立ったら、絶望的な気分になるように思います。
せっかくイエス様を信頼し、イエス様が助けてくださろうとして家まで向かってきたのに、別のことで時間を取られ、そうこうしている間に娘の死が告げられてしまうわけですから。
でも、この物語には後半があり、何かが起ります。
それはまた明日。
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【箴言】
19:13 愚かな息子は父の破滅。いさかい好きな妻は滴り続けるしずく。
19:14 家と財産は先祖からの嗣業。賢い妻は主からいただくもの。
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新改訳聖書の訳ですと
「愚かな息子は父のわざわい。妻のいさかいは、したたり続ける雨漏り。
家と財産とは先祖から受け継ぐもの。思慮深い妻は【主】からのもの。」となっています。
「息子」と「妻」の存在がその家を繁栄させ、あるいは明るい方向に向かわせるために重要な役目を担っていることを箴言は指摘しています。
しかし、事の発端は、主人が「主」の心を深く悟って結婚しているかどうかということになるので、息子と妻の責任や役割だけが問われているわけではありません。
原点に立ち戻って関係を吟味し、そこにしっかり立つことができるかどうか、重要ですね。
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