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【今日の聖句】2017.05.24

おはようございます。昨晩の歌声ペトラの映像はこちらです。
どうぞ一緒に歌ってください。
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【今日の聖句】
2017.05.24
【マルコによる福音書】
 4:24 また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。
 4:25 持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」
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私たちの脳の目的は「育つこと」だと言われています。どんどん成長して行き、到達することが目的ではなく、その目的のために成長を続けることこそ大切なことなのだそうです。

イエス様のたとえでも、そのとおりのことが教えられています。自分の秤が大きいものであればあるほど、与えられる分量も大きくなるというたとえは、成長を願う気持ちがあればあるほどその願いはかなえられるということに通じています。
「もう十分だ」「面倒なのでもういらない」「祝福などそんなにあるはずがない」
「もうみんなわかっている」などと自分の判断で、見くびってしまうと、決してそれ以上には成長もしないし、退化して行く恐れがあります。

まだまだ先があるのだ、まだまだ祝福を受け取れるはずだ、もっともっと深みに漕ぎ出していけるはずだ・・・という意識を神様は与えてくださいます。
確か福沢諭吉の言葉だったと思いますが「進まざる者は必ず退き、退かざる者は必ず進む」というのがありましたね。

自分の脳が「もっと恵みの深みを味わいたい」と常に成長を求めていることを、忘れてはなりません。もう到達してしまったかのような錯覚をもってはなりません。
止まってしまうと、後戻りし始めるからです。前進と成長、成熟の道を進みましょう。


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【箴言】
19:9 うそをつく証人は罰を免れることはない。欺きの発言をする者は滅びる。
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新改訳聖書では「偽りの証人は罰を免れない。まやかしを吹聴する者は滅びる。」と訳されています。
嘘、偽り、欺きが社会の中にもたらす深刻な問題は、個人の出来事の比ではありません。
国会における証人喚問とか、裁判における証人としての発言の重要性は誰にでもわかっていることだと思います。
でも、たとえば、国会における証人喚問や議会における百条委員会での喚問などでの発言、いいえ、一般的な議会での討論にしても、本当のところどこまでが真実なのでしょう。
言葉が軽くなってきている時代だなと感じる今日このごろです。
信じられる内容が乏しい時代なのかもしれません。
でも、その結果として発言者ばかりでなく、国民にもたらされるものは深刻なものです。
ま、現代社会においては、そういう議員を選んだのは国民一人ひとりの責任ということですから、議員たちの嘘や偽りがもたらす影響は、全部選んだ私たちのところに返ってきます。
議員たちの質を問う前に、それらの人たちを選んだ私たちの人を見る目や国をどうするかという発想の質を高めなければならないような気がします。



【今日の聖句】2017.05.23

◎本日、歌声ペトラが開催されます。夜7時からお茶の水クリスチャンセンター地下ホールにて。
ぜひどうぞ。237番目の新曲が出来上がりました。一緒に歌いましょう。岩渕まこと、市原康、西原悟、関根一夫、ベック由美子、萩原ゆたか、他スタッフ一同首を長くしてお待ちしています。

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【今日の聖句】
2017.05.23
【マルコによる福音書】
マルコによる福音書
4:13 また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。
 4:14 種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。
 4:15 道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。
 4:16 石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、
 4:17 自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。
 4:18 また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、
 4:19 この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。
 4:20 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」
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弟子たちはイエス様のたとえ話が理解できませんでした。私にもよくわかりません。
ただはっきりしているのは、種は間違いなく良いものなのだということです。問題は種の落ちた場所、その土地です。道端、石だらけ、茨の中、良い土地に落ちた場合が語られます。人はイエス様の福音を聞くのに、どうしてある人は信じ、ある人は拒否するのかという疑問に対する答えでもあります。
よく考えてみると、私は道端のような心だなと思うこともあるし、石だらけ、茨の中、それぞれに該当することもあるような気がします。自分は絶対良い土地のような心だと自信を持っている人はあまりいないだろうと思います。
私たちの心は、そこれら4つの要素を全部持っているように思うのです。
それもそのはず、パレスティナでは耕す前に種を蒔く習慣があるからです。

福音は無造作に私たちの心に蒔かれます。たとえば、この日々の聖句は毎朝届きます。
ある日は、全くつまらない聖句に聞こえるでしょう。
ある時は、まさに自分のためにあるような言葉だと感動することもあるでしょう。
その時の心のありさまが、種への反応に跳ね返るのです。
昔は間違いなく茨の中のような心だったのに、しっかり耕されて良い土地にされたということもあるのかもしれません。蒔かれた場所はすべてがそのままということではなく、日替わりで変化するような気がします。人の心が一定ということはありえません。ある時までは茨、ある時までは石ころだらけ、ところが、あることをきっかけに良い土地のようになったということがあるのです。
私たち自身で心を耕し、心の石をどけて良い土地にするのは不可能です。
ですから、種を受け取り実がなるという出来事は、まさに、神様のタイミングと神様のめぐみがあったからこその結果なのです。聖霊は私たちの心を耕してくださいます。
日々そうしてくださいます。昨日まで茨のような心だと感じている人があったら、主よ、憐れんでくださいと祈ってみてください。主よ、私に清い心をくださいと求めてみてください。
きっと何かが起こります。


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【箴言】
19:8 心を得た人は自分の魂を愛する。英知を守る人は幸いを見いだす。
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新改訳聖書では「思慮を得る者は自分自身を愛する者、英知を保つ者は幸いを見つける。」となっています。
これはいわゆる学歴の問題ではなく、生活姿勢の中で「思慮深く生きようとする姿勢」「教えられた英知を保ち、またその教えを守り、教えられたように生きる」ことで幸いを得ることができるという教訓です。
自分を本当に大切にして、幸いの中に生きたいと思ったら「神の心を教えられつつ、思慮深く生きる」ということに尽きるのだと箴言は教えているように思います。
そもそも、私たちは忙しすぎて、神様が何を考えておられるのか、何を教えておられるのか、ゆっくり考えたり学んだりする時間を取りにくいし、取ろうともしてないのかもしれません。
まさに、私たちが「何に忙しくしているのか」が問われる教訓とも考えることができるように思います。

【今日の聖句】2017.05.22

2017/05/21のMACF礼拝映像はこちらです。
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【今日の聖句】
2017.05.22
【マルコによる福音書】

3:31 イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。
 3:32 大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、
 3:33 イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、
 3:34 周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
 3:35 神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」
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マリアをはじめ、身内の者達がイエス様のことを心配して、呼びに来ました。
親や身内はありがたいものです。もちろん、その心配は噂によるものであり、誤解によるものでしたので、取り押さえられる必要はまったくなかったわけですが・・・。
イエス様には使命がありました。父母を敬えという律法がありますから、それを敢えて破ろうとはしていませんが、イエス様はいわば肉による地上の父母を喜ばせることよりも、天の父なる神様の御心を実行することに命をかけていたのです。
ですから「神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」と語りました。イエス様は、人々の心が、「神の御心を生きる」ようにという使命だけをしっかり見つめていたのです。そのためにこそ語り、そのためにこそ行為したのです。

イエス様を喜ばせなから生きようと思ったら「神様の御心は何か」を知り、それに沿って生きることです。
しかし、これは必死になって「律法や戒律を守ればよい」という生き方とは違います。そうではなく、「イエス様を救い主として、主なるお方として信頼すること」からすべてが始まるのです。
イエス様と身内の付き合いをさせてもらいながら生きる、これは思いがけない重大な祝福といえるかもしれません。

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【箴言】
19:7 実の兄弟も皆、貧しい人を憎む。友達ならなお、彼を遠ざかる。彼らは言っていることを実行しようとはしない。
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新改訳聖書では「貧しい者は自分の兄弟たちみなから憎まれる。彼の友人が彼から遠ざかるのは、なおさらのこと。彼がことばをもって追い求めても、彼らはいない。」となっています。
おそらくここに書かれている「貧しい人」とは、いわゆる弱者ではなく、「仕事もせず、責任を果たそうとせず、怠惰極まりない人」という意味があるのだと思います。
怠惰、無責任、放蕩に対する警告と理解するとわかりやすいかもしれません。

MACF礼拝説教要旨
2017.05.21
【悲しむ人々の幸い】

 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。(マタイによる福音書5章4節)
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1) 悲しむ人は幸いなのか?
この箇所について、いろいろな意見や考え方があります。
「自分の罪を悲しむ人は幸い」とか「現実問題について悲しめる人は幸い」であるとか、そういう説明がよく聞かれます。
自分の罪を悲しむことによって、心が悔い改めへと進み、心の清さを願いつつ生きられるようになるとか、世の中の悲しみに同情し、共鳴し、それによって一緒に悲しみながら、世の中を改善するために有益な人となれるとか。
それは正論なのかもしれません。しかし、私は自分自身の事を考えてみても、「自分のことを悲しむ」というより「相手への憤りを感じ、怒りさえ感じてしまう」ことや「悲しむよりも言い訳をあれこれぶつけてしまう」とか、純粋に自分の至らなさや罪を悲しむということよりも、周辺的なことへの意識が強くて、なかなか悲しむ作業に向かえないことがあるのです。
ですから、そういう意味では、純粋に悲しむ事ができる行為そのものは、とても重要な意味があると思います。しかし、条件をつけて「悲しむ」ことをしようと思うと、なかなか幸いは感じられず、心が重くなっていくように感じます。

2) これは宣言である。
とても不思議なのは、「こういうことで悲しんでいる人達は幸いだ」とか「この件について悲しんでいる人は幸いである」とかいう条件がまったくつけられずに「悲しむ人々は幸いである」とイエス様が語っておられるという現実です。つまり、これは宣言です。
私たちの悲しみがどんなものであっても、どういう理由であっても、悲しみを通過しているなら、その人は幸いだとイエス様は語るのです。それはなぜかといえば「慰め」が待っているからです。
神の慰め、悲しむ私たちに対して神は決して軽蔑せず、慰めを用意してくださっているとイエス様は語られました。
つまり、悲しみを通過している現実の中に「慰め」をもたらし、それによって幸いを作り出そうとしてくださっているのです。

3)慰められる
どんな悲しみだとしても、「慰められる」とすれば、それをもたらすお方は神ご自身です。
そして、「慰められる」という意味は多くの場合「解決そのものが提供されること」ではありません。
つまり、悲しみを経験しているその真っ只中で、その人は「慰められる」事によって、その悲しみを担い続け、背負いながら生きることに向かえるということです。
慰められても悲しみそのものは消えないと思います。でも軽くなります。
ドイツのことわざに「愛する人と悲しみを分かち合えると悲しみは半分になり、喜びを分かち合えると喜びは倍になる」というのがあります。
悲しみが半分になったとしても、その悲しみ自体がなくなるわけではありません。辛い出来事が全部解消してしまうわけではないのです。
でも、現実的に「慰められる」という出来事がもたらされると、勇気が与えられ、元気になれる可能性が大きくなり、問題を別の視点から見ようとする意欲も育ちます。
「慰める」という言葉は「励ます」という言葉とも共通しています。「慰めや励まし」が寄り添って歩んでくださるイエス・キリストからもたらされる、あるいは共にいてくださる神ご自身からもたらされるとイエス様は教えているのです。

「悲しみ」それ自体が幸いなわけではありません。悲しんでいる人の幸いは、悲しみそれ自体ではなく「慰められる」という約束、宣言の背後にある神様からの支援が幸いなのです。
イエス様は、私たちの悲しみを担い十字架にかかられました。十字架は人間の悲しみ、辛さ、すべてがキリストによって担われた場所です。
イザヤ書53章には(新改訳での文章)
53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
とあります。
キリストご自身が「悲しみの人」と紹介されています。
この御方が私たちと寄り添って歩んでくださるのです。この御方からの慰めがあるのです。痛みを知り、悲しみを知っておられる救い主が慰め主でもあるのです。ちなみに父なる神様から送られる聖霊は「慰め主」と呼ばれています。神様の心は私たちへの慰めの心でいっぱいなのです。

4)悲しみは悪ではない
「悲しむ人々は幸いである」という言葉があるにもかかわらず、私たちは気をつけないと「悲しむことは罪だ」と誤解し易い傾向があるように思います。クリスチャンは「いつも喜んでいなければならない」と教え込まれて、悲しみを押し殺して、作り笑いをして生きるなど、不自然極まりない、偽善ではないだろうかと感じます。

イエス様ご自身が「悲しむ人々は幸いだ。」と語っておられます。つまり、「あなたがたは悲しんでも、泣いても良いのだ、大丈夫なのだ」と。
なぜ、それがOKなのかといえば、「悲しんでいる私たちのそばに、救い主であるキリストがともにおられて、慰めを与えようとしているから」なのです。
イエス様からの慰めは、私たちの悲しみを覆い、そこに安心と勇気と知恵が添えられるのです。
悲しみが襲ってきたときには、ぜひ、思い出しましょう。
「慰めがきっとある。」ことを。
キリストに近く、生きましょう。泣きながら、悲しみながらでも礼拝に来てみてください。
礼拝に来たことで悩みのすべてが解決することはないかもしれませんが、神様からの慰めは必ずあると信じています。それがイエス様の宣言であり、約束だからです。

【今日の聖句】2017.05.20

◎明日(5/21)のMACFの礼拝は午前10時からOCC 8Fで開催されます。
ピアノと独唱は竹下静さんです。ぜひ、お出かけください。
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【今日の聖句】
2017/05/20
【マルコによる福音書】
3:20 イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。
 3:21 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。
 3:22 エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。
***
イエス様は群集に囲まれ、食事の時間がないほどの忙しさの中で福音を語り、悪霊を追い出し、病気の人を手当し、癒していました。
神の国の到来、神様の支配と祝福のおとずれとしてそれを喜ぶ人もあれば、当然のように良からぬ噂を流す人たちもありました。
「気が変になっている」「悪霊の親玉であるベルゼブルに取り付かれている」「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」などなど。
身内の者達は、その噂に翻弄され、イエス様を取り押さえようとしています。律法学者たちは噂を流している張本人ですが、悪意に満ち、イエス様がなさるあらゆる事柄について全く善意には解釈せず全否定し、陥れようとしています。
若造イエスのもとに群集が押し寄せ、話を聞きたがり、癒しを受け取り、解放がもたらされているという事実を律法学者たちは認めたくなかったのです。
他者の祝福や繁栄を喜べない心がそこにはあります。
自分たちが中心でなければなにひとつ歓迎できない心の狭さがあるのです。
わがままな、気まぐれな、いじけた心、すねた心がそこにはあります。実は、そういう心をこそキリストは解放するために来てくださったはずなのですが・・。彼らは神様を敵に回してまでも悪意をイエス様にぶつけてきました。自分が何をしているのか、本当のところわかっていないのです。悲しいことです。
意図的に神様を敵にして生きる、そんな道を選ばないように気をつけたいですね。
私たちの心の中に「自分がいつでも中心でなければ気がすまない」というような傾向はないでしょうか。イエス様に中心になっていただけたら良いですね。


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【箴言】
19:6 高貴な人の好意を求める者は多い。贈り物をする人にはだれでも友になる。
++
新改訳聖書では「 高貴な人の好意を求める者は多く、だれでも贈り物をしてくれる人の友となる。」となっており、フランシスコ会の訳では「多くの者が高貴な人の好意を求める。そして、贈り物をしてくれる人なら、誰とでも友となる」と訳されています。
こういう記事を読むと、バレンタインデーなどにアイドル歌手などのところに山のように届くチョコレートのことと、その送り主の心を考えます。

ちょっと皮肉っぽい考え方ですと「人の好意を贈り物で買おうとする」そういう行為は当然のように行われているけれど、それだけのつながりを当てにして生きるのは、ちょっとさびしいような気がします。
「贈り物」ができなければ、友達になれない、親しくなれないという関係のあり方は常に「何か下心」が見え隠れしているようで、不安定です。
人と会食して3回くらい続けて、相手に食費を提供してもらうと、4回目からは相手がそれをすることが当たり前になり、出し渋ると「ケチな人だな」と考えるようにさえなってしまうと言われます。
贈り物ができなくても、友達になれる人、尊敬し合える人と出会いたいですね。




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