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【今日の聖句】
2017.05.19 【 マルコによる福音書】 3:13 イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。 3:14 そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、 3:15 悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。 3:16 こうして十二人を任命された。シモンにはペトロという名を付けられた。 ** この節のあとに12人の名前が出てきます。使徒と呼ばれる人たちです。使徒というのは、イエス様から直接呼び出された人であり、使者や大使のように、特別な使命を帯びて派遣された者たちという意味があります。 その人たちはイエス様が直接集めた人たちで自分のほうからボランティアで参加した人ではありません。 イエス様が使徒たちを招集した理由は3つです。まず、自分のそばに置くため。 宣教活動に派遣されるため。そして、そのために必要な権威を受け取るためです。 その中でも最初の項目はとても大切です。見逃されがちですが最優先事項です。 イエス様の近くにいること、これは実地教育を施すためであり、身近に置いてイエス様が誰なのか、どういう時どういうことを話し、どんな応答をするのかを見せるためでした。イエス様と一緒にいることが彼らの最初の、そして最重要の役目でした。精神的には常にそれが求められました。 呼び出してくださった方の心を知り、そのお方の求め通りに語るのが使徒だからです。 しかし、キリストに留まりつつその絆を深め、意欲や命を受け取り、使命をうなずき、方向性を教えられ、役割を果たすべく社会に生きる姿勢は使徒たちだけのものではなく、私たちひとりひとりにも当てはまる原則です。その原点はキリストのそばに生きるということです。 祝福がありますように。 ++++ 【箴言】 19:5 うそをつく証人は罰を免れることはない。欺きの発言をすれば逃げおおせることはない。 +++ 新改訳聖書では「偽りの証人は罰を免れない。まやかしを吹聴する者も、のがれられない。」となっています。 フランシスコ会訳では「偽りの証人は罰を免れない。偽りを言いふらす者も逃げられない」となっています。 嘘の証言をすること、嘘の噂を流している人、それらの人たちは結局、罰を受ける事になり、自分の信用を失墜させ、また多大な迷惑をかけることになるので、その責任は重く、どこかでその刈り取りをすることになるわけです。 人の言葉が軽く感じる今日この頃。 国会答弁などを聞いていても、なんだか嘘っぽく聞こえてしまうとか、嘘も方便というような雰囲気が強すぎると、とても不安になります。 騙し合いのような議論や責任追求は、茶番劇を見ているようで、心が痛みます。 誠実な答弁、真摯な真実追求のための議論がいろいろな場面でなされますように。 |
キリスト教
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【今日の聖句】
2017.05.18 【マルコによる福音書】 3:9 そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。 3:10 イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。 3:11 汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。 3:12 イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。 ***** 群集心理というのがありますが、実際のところ、群集は何がどうなっているのかあまり関係なく動き出し、人を押しつぶしても責任の追及ができないほど無軌道になることがあります。 イエス様はそれを察知して、小舟を用意させています。自分のいのちを最終目的までしっかり守る必要がありました。 一方、汚れた霊どももイエス様の意向に関係なく、「あなたが神の子だ」と叫び出し、奇妙な言動が目立ち出しました。それもイエス様にとっては、好ましいことではありませんでした。 自分のいのちをしかるべき時までしっかり守り、噂の広がり方に注意深く対応しているイエス様の姿がここにあります。 イエス様は、とにかく有名になれればそれで良いなどとは決して考えていませんでしたし、自分の力を見せびらかす事もしませんでした。群衆たちに押しつぶされて怪我をしたり、死んでしまうことがないように配慮することも忘れていませんでした。。 イエス様は、いつも、ご自分の使命をしっかり自覚して進んでいたのです。 それが最終的に実行に移されるように、妨げになるものを少しずつ整理しているのです。 十字架への道が妨げられてはならなかったのです。 イエス様に対する最大の誘惑は、十字架への道から逸れることでした。 **** 【箴言】 19:4 財産は友の数を増す。弱者は友から引き離される。 ++ 新改訳聖書の訳では「財産は多くの友を増し加え、寄るべのない者は、その友からも引き離される。」となっており、フランシスコ会訳では「富は友の数を増やすが、貧しい者は、そのひとりの友からも見放される」となっています。 これが現実の社会の状況なのかもしれません。 そして、箴言は「だからこそ、しっかり働こう」ということを励ましているのかもしれません。 でも、それもままならない人たちが存在します。 働きたくても働くことができず、貧しさから脱却できない人たちが存在します。 そういう状況の中で、聖書の神は「弱者の味方」としてご自身を表明しておられます。 つまり、友から引き離され、見捨てられるほどの貧しさの中に生きている人に対しても神様は「味方」となり、「支えの手を伸ばしておられる」ことを聖書は教えているのです。 希望を捨ててはならず、絶望すべきではないのです。 |
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【今日の聖句】
2017.05.17 【マルコによる福音書】 3:1 イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。 3:2 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。 3:3 イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。 3:4 そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。 3:5 そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。 3:6 ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。 *** 掟に縛られていた当時の宗教家たちにとって、安息日に他者とかかわりを深め、何か他者のために行為することは難しいことでした。 何もしないことこそ、安息というような理解があったからです。 イエス様は、まさに、そこにメスを入れました。安息日に善を行うこと、悪を行うこと、そのどちらを神様が喜ぶだろう。 人が健康を回復すること、問題から自由になることさえ、安息日だからダメだという人間不在の宗教は人を縛るばかりであり、人を解放するものとは言えないように思います。 イエス様は怒ります。悲しみ、憤ります。宗教家たちが安息の本質を理解していないことへの嘆きです。 そして、その日、宗教家の批判をよそに、イエス様は手の不自由な人を癒します。それが愛であり、神様は人が生きることを喜んでおられるのだというメッセージでもあります。 その結果、宗教家たちは、イエス様を殺す相談を始めます。神様の愛とは何か、神様は何を求めておられるのかということを、律法という枠でしか理解しようとしていないのでキリストを殺してしまおうと考え始めるのです。 保身がもたらす怒りは大きいものです。自分の思い通りにならないと、すぐに怒り出す現代人と似ているかもしれませんね。 そして同時に、律法主義で縛ろうとする宗教のもたらす非人道的な決まりごと、習慣、文化も大いに気をつけなければならない重要事項だと思います。 解放と平和と喜び、それを求めつつ生きたいですね。 ++++ 【 箴言】 19:3 人は無知によって自分の道を滅ぼす。しかも主に対して心に憤りをもつ。 ++ 新改訳聖書では「人は自分の愚かさによってその生活を滅ぼす。しかもその心は【主】に向かって激しく怒る。」となっています。 フランシスコ会訳によると「人の愚かさは、その歩みを邪(よこしま)な道に導く、しかもその心は主に向かって憤る」となっています。 フランシスコ会の訳は、わかりやすいですね。 興味深いのは、私たちの無知や無謀が人生を危うい方向に導いてしまうというところで終わらず、人の心が神に対して怒りや憤りを持つという内容に言及していることです。 イエスさまが十字架につけられた時の宗教家たちの心にあった神への怒り、憤りは、まさにここにある言葉通りの出来事のように感じます。 私たちの傾向として、良いことが起こると自分の手柄にし、悪いことが起こるとすべて神様のせいにして神様に対して憤り、怒りをぶつけるということがあるように思います。 そういう怒りや憤りのすべてをイエスさまは十字架に担い、その罪のすべてを処分清算してくださったわけです。 |
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【今日の聖句】
2017.05.16
【マルコによる福音書】
2:18 ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」
2:19 イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。
2:20 しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。
2:21 だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。
2:22 また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」
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当時の宗教生活においては、断食と祈りと献金(施し)がとても重要なものと考えられていました。
イエス様はその大切さを否定してはいませんが、それを形式的、掟的に守れば良いのだとは考えていませんでした。
ですからイエス様の弟子たちは宗教家たちから見れば、無法者のように見えたと思います。
断食もせず、いつも明るく、時に口論しながら飲み食いしていたからです。律法主義者からは白い目で見られていたに違いありません。
古い考えと古い方法でイエス様が用意した新しい福音をくくろうと思っても、それは無理だとイエス様は言いました。「あれをやれ」、「これをやれ」という、形式主義的、掟的な生き方でイエス様の教えを理解しようと思っても、それは新しいぶどう酒を古い皮袋に入れようとしているのと同じことだと教えています。新しいぶどう酒が膨張し古い皮袋を張り裂き、こぼれていますのです。確か30倍くらいの気化膨張をすると言う話を聞いたことがあります。
同様に、イエス様の福音は律法を守ることに縛られ、それだけに必死になる生き方ではなく、
心が縛られるもののない、おおらかな、自由な、生きることを喜べるものなのです。
今朝の言葉は、律法主義やユダヤ教からの決別を意味している言葉とも取れるかもしれません。
私たちの信じている福音がイエス様の否定した「掟的」「律法主義」に陥っていないだろうか?
しっかり考えてみる必要があると思います。教会の中に入り込んでいるガンバリズムに酔って、本来は自由で人を活かすはずの「伝道」「奉仕」、「礼拝」でさえも、全体をただただ徒労感の中に引きずり込んでしまうような形式的な掟主義、しなければならないという律法主義に陥ってはいないでしょうか。
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【箴言】
19:2 知識がなければ欲しても不毛だ。あまり足を急がせると過ちを犯す。
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新改訳聖書では「 熱心だけで知識のないのはよくない。急ぎ足の者はつまずく。」となっています。
フランシスコ会の訳では「知識のない欲望はよくない。急ぎ足で歩く人は道を踏み外す」となっています。
翻訳の難しさというか、多様性というか、いろいろな考え方があるものだと感じます。
しかし全体的な意味は、どれを読んでもある程度は通じます。
箴言は知恵と知識の重要性をずっと語っています。霊的な意味での神との礼拝関係を深めることが最重要の知恵ですが、生きるための知恵や知識も当然大切な要素です。
知識がなければ、とありますが、これは要するに物事に対する「準備」「操作内容」「目的」などについての知恵と知識の必要性のことです。体重を測定するのにパソコンを買う人はいないでしょうし、資産運用の計算や財産の目録などを作成するのに体重計を買ってくる人はいません。
でも、何かをしなければ、という思いばかりに駆られて、準備もせず、一機種前の値下がりした安物を買い込んでみたら機能がついていなくて失敗をすることってありますよね。あ、私だけかもしれません・・・。
知識、準備、熟考が必要です。
そして、気ばかり焦って決定すると間違った決断になることも多く、しっかり、じっくり考えて決断することが重要です。あらゆる結論を想定した上で大事なことを決めるという意識はとても大切なことなのだと思います。
様子を見るべき状況の時期、と、決断して確定すべき時期というのがあるように思います。
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MACF礼拝映像(2017/05/14)はこちらです。
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【今日の聖句】
2017.05.15
【マルコによる福音書】
2:16 ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
2:17 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
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イエス様と関わる人たちは、特殊な人たちと言えるかもしれません。
自分を、完全とは程遠い、罪を犯す存在として認めており、キリストの助けがなければ、きっと自己中心のまま、不幸な道を進むことになると知っている人のためにキリストは来てくださったからです。
当時の社会では軽蔑の対象になりそうな人たちとイエス様はよく食事をしておられます。
今のままでは、まっすぐ進むことも、神様を愛することも、他者を愛することもできず
希望も持てそうにないと気づいている人のためにこそイエス様は来られました。
そんなダメな人間じゃない、そんな愚かじゃない、自分は自力で心をきれいにできるし、
神様との仲直りもできるから大丈夫と思っている人たちには、キリストは無縁の存在になってしまいそうです。
自分をどう見るか、これは思いのほか、重大な課題です。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」というキリストの言葉を、「あぁ、わたしのために来てくださったのだ」と歓迎できるすべての人にキリストの恵みは即座に届きます。
キリストの祝福と癒やしの対象、そして条件は、まさに「罪人」(いつのまにか神様の心から逸れてしまう傾向を持つ人、神様に対する反抗心、不信があり、自分のことも愛することができず、不誠実だと自覚している人)。 わたしは真っ先に手を上げたい一人です。
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【箴言】
19:1 貧乏でも、完全な道を歩む人は、唇の曲がった愚か者よりも幸いだ。
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新改訳聖書では「 貧しくても、誠実に歩む者は、曲がったことを言う愚かな者にまさる。」と訳されています。
フランシスコ会訳のものは「貧しくとも誠実に歩む者は、嘘をつく金持ちに勝る」となっていて、これが一番すっきり感じる訳になっているように感じます。
こういうふうに比較してみると聖書の中に、特に箴言の中に出てくる「愚か者」という言葉は、ある場合には知恵のない人という意味ばかりでなく、高慢な「金持ち」のことも指していることがわかります。
貧乏と金持ち、誠実と不誠実、これらの4つの単語を組み合わせたとき、「金持ちで誠実」が一番なのでしょうけれど、なかなかそういうことにはならないようですね。
「金持ちで不誠実」が厳しく糾弾されているのは、社会の中にもたらす問題がとんでもなく大きいからです。しかし、社会全体の価値基準が、貧乏で不誠実の人のほうが、金持ちで不誠実の人の犯罪よりも重く罰されているような気がして、とても気になります。
幸いに生きたいと願うなら、神と自分に対して、そして相手に対しての誠実さを養う事から始めなければなりません。
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