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生き方

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【愛する力】



こんな文章を見つけました。

【愛する力】

その赤ちゃんは
生後3週間で百日咳にかかり、
心臓が停止する。
しかし、母親の
必死の心臓マッサージにより生き返る。

9歳、両親が離婚。
10歳、祖母のもとへ。
12歳、バレリーナになる。
そのころ、戦争で親戚が銃殺される。
兄弟も強制収容所へ。
食料はなく、
植物の球根を食べて飢えをしのぐ日々。

彼女は栄養失調で、
貧血、呼吸困難、内臓疾患に。
16歳、看護婦になる。
戦争が終結。

無一文からの再出発。
19歳、
映画やテレビの端役の仕事を始める。
21歳、準主役になる。
23歳、映画の主役になる。
タイトルは「ローマの休日」
その作品でアカデミー主演女優賞を獲得。

彼女の名はオードリー・ヘップバーン。

その後は「ティファニーで朝食を」
「マイ・フェア・レディ」など
19本の映画に出演。
名曲「ムーン・リバー」は
彼女をイメージして作曲された。

母親の愛を受け、
世の中の多くの人からも
愛と名声を受けた彼女は59歳で引退。

彼女は、今まで与えられた愛を
今度は世界の子どもたちに与える生き方を選ぶ。

国際連合児童基金(ユニセフ)の親善大使に就任。
戦争直後の子どものころ、
食糧と医療の援助を受けた彼女は
戦争で苦しんでいる子どもたちに
母の愛と笑顔を届けた。

63歳、ガンで亡くなる。

彼女は教えてくれる。
「愛は行動なのよ。
言葉だけではだめなの。
言葉だけですんだことなど
1度だってなかったわ。
私たちには
生まれたときから愛する力が備わっている」

愛は与えるもの。
人生を終えてのちに残るものは
与えたものである。

++++
彼女の大きな目と明るい笑顔を思い出しながら
壮絶な人生を生きた人だったのだなぁとしみじみ思います。
でも、晩年、アフリカに行って栄養失調の子供を抱きかかえる彼女の優しさ、そして強さは目を見張るものがありました。それは映画スターの美しさではなく、人を大切に生きる人の美しさだったように感じます。
いてくれてありがとう。

参考までに
https://www.youtube.com/watch?v=SjjezF3auAc
https://www.youtube.com/watch?v=4vyuLTVhICg

【日ごとの糧】2019.08.12

【日ごとの糧】〜ローズンゲンによる〜
2019.08.12

彼らも「主は恵み深く、イスラエルに対する慈しみはとこしえに」と唱和して、主を賛美し、感謝した。主の神殿の基礎が据えられたので、民も皆、主を賛美し大きな叫び声をあげた。
(エズラ書3章11節)

こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。
(ルカによる福音書13章17節)
++++
神の恵みや慈しみを「感じる心」そして、それを喜ぶ心が欲しいですね。
素直な心、感謝する心、そして感動できる柔らかい心を今朝、神様に求めたいと思います。
怖いのは「慣れ」です。「恵みに慣れてしまう」という状況には陥りたくありません。


【今日の聖句】2019.08.12

◎昨日のMACF礼拝映像はこちらです。
https://youtu.be/98LUWD8ounU
++
【今日の聖句】
2019.08.12
【ヘブライ人への手紙】
4:4 なぜなら、ある個所で七日目のことについて、「神は七日目にすべての業を終えて休まれた」と言われているからです。
4:5 そして、この個所でも改めて、「彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない」と言われています。
4:6 そこで、この安息にあずかるはずの人々がまだ残っていることになり、また、先に福音を告げ知らされた人々が、不従順のためにあずからなかったのですから、
4:7 再び、神はある日を「今日」と決めて、かなりの時がたった後、既に引用したとおり、「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない」とダビデを通して語られたのです。
4:8 もしヨシュアが彼らに安息を与えたとするのなら、神は後になって他の日について語られることはなかったでしょう。
4:9 それで、安息日の休みが神の民に残されているのです。
4:10 なぜなら、神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。
4:11 だから、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。さもないと、同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません。
4:12 というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。
++++++
イエス様を信じたからと言って「自動的に」安息がもたらされるわけではないと記者は語っています。
信じたのだからあとは、何をしても構わない、どんなことをしてもしなくても自動的に天国に行けるという発想は聖書の教えとは異なっています。
聖書の言葉を心に留め、神への礼拝と人への愛、そしてその生き方を吟味しながら丁寧に生きること、そういう生き方を保持する努力はとても大切です。
旧約聖書の中に出てくる不従順な人たちの末路は、私たちに対する警告として受け取られる必要があります。
罪からの救いはイエス様の犠牲によってもたらされています、それは永遠的な救いです。
しかし、だからと言って自堕落な生活の中に戻ることは危険なことだとこの書は警告しているのです。


++++

【箴言】
12:14 口の言葉が結ぶ実によって/人は良いものに飽き足りる。人は手の働きに応じて報いられる。
+++
私たちが何を語るか、どう語るかによって生活も関係も豊かになったり、厳しくなったりするようです。
私たちに言葉が与えられ、それを理解し、それを用いて様々な情報を発信したり受け取ったりして伝達できることは素晴らしいことです。意思の疎通が可能であることは私たちに大きな可能性をもたらします。
どういう言葉を使うのか、どう語り、何を語るのか、時代によって態度や内容に変化がでてきます。

パウロは「愛をもって真理を語る」と表現しています。言葉で罪を犯したくないからと、遠慮し過ぎて何も発言しないと問題がそのまま増大してしまうことがあります。
しかし、思いついたことをすべて、全く遠慮も配慮もなくぶつけてしまうと関係が壊れてしまうことになります。

その辺のバランスは難しいですが、恐れや無関心から真理を押し殺すよりも、愛をもって真実を語る勇気が必要だなと思います。
優しい言葉も増やしたいですし、厳しくても、しっかり本当のことを伝える姿勢も保ちたいものです。

そのためにも優しい心で関係における地ならしが必要です。
言葉に関して書く場合には、どうしても「気をつけましょう」という引き気味な言葉が多くなってしまう傾向がありますが、時にははっきり語る勇気も必要です。
それで関係が壊れるなら、その関係はその程度のものだったということが分かるわけですから、無駄ではありません。
ただ、関係を壊すためではなく、関係を深めるためにこそ真実を語りあう心が必要なわけです。

そういう議論、概して日本人は下手だなと思います。「そ
の一言」が「その人全部」を嫌いにしてしまうような感覚をもってしまっていることが多いからです。人の発言は、必ずしもその人の全体を現してはいません。
意見の相違が、その人への軽蔑を生み出してはならないのです。
意見は意見、その人はその人で良いのです。そうでないと、同じ感覚で、同じ方向を向いている人以外とは話も出来なくなってしまいます。
その閉鎖性は危険です。実は、意見の違う人たちからこそ学ぶことがたくさんあるはずなのです。
意見が違う人を見つけたら、丁寧に、尋ねることができると良いですね。

MACF礼拝説教要旨
2019.08.11
「ペトロのアップダウン」
ルカによる福音書5
5:1 イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。
5:2 イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。
5:3 そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。
5:4 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。
5:5 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。
5:6 そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。
5:7 そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。
5:8 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。
5:9 とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。
5:10 シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」
5:11 そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った
 
この箇所でのペトロはイエス様の威厳とその奇跡的な力とに圧倒され、漁師である自分をはるかに超えている素晴らしい神的存在として尊敬し、従う決意を固めています。
ペトロにしてみれば、ずっと待っていた「あこがれの人」のように感じたかもしれません。そして、このお方に従うことで自分のレベルも上がると感じていたかもしれません。
イエス様についても、従おうとしている自分についても自信満々な感じがするのです。勢いを感じます。
 
ところが、その数年後、イエス様は十字架に死に、よみがえられたとはいえ、基本的には見えない存在となり、何かペトロは自暴自棄までは行かないまでも、なんとなく元気がありません。自分で3度もイエス様を否定したことも心の傷になっているかもしれません。
それがこのヨハネの福音書21章の背景です。彼らは自分たちで何か生きる道を探さねばならないと感じ、「漁に行く」と言い出し、昔の自分の仕事を始めます。
ところが何も取れないのです。最初にイエス様と出会った時と似ています。
 
ヨハネによる福音書
21:1 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。
21:2 シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。
21:3 シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
21:4 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。
21:5 イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。
21:6 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。
21:7 イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。
21:8 ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。
21:9 さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。
21:10 イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。
21:11 シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。
21:12 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。
21:13 イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。
21:14 イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。
 
気まずい空気ではないのですが、何かぎこちなさがここにはあります。
本来、イエス様が見えなくても、イエス様に愛されていることを感謝し、希望をもって生きることができるはずだったのに、内向きになり、後ろ向きになり、自力で何かを始めようとした弟子たちの中に、
少し後ろめたさがあったかもしれません。
 
21:15 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。
21:16 二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。
21:17 三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
 
そして、有名なペトロに対する質問が三度。これはペトロが三回イエス様を否定した回数と同じです。
そしてその質問は単純なものでした。イエス様は決してペトロを詰問せず、責めることもせず、ただ「わたしを愛していますか」と尋ねます。
 
最初から、最後までイエス様との関わりの中で重要なのか「イエス様を愛していますか」ということ。あるいは言い換えれば「イエス様に愛されていることを忘れていませんか」ということなのだと思います。
イエス様の奇跡を見て興奮し、イエス様に従うことで信仰が始まったとすれば、それはそれで素晴らしいことだと思います。
イエス様が素晴らしいことをしてくださったということを知ってイエス様を信じ、従うことはとても素晴らしいことです。
しかし、その素晴らしいことを繰り返し期待し、奇跡を期待していても、なかなかその通りに事が起こらない場合、私たちは幻滅を感じ、イエス様に文句を言いたくなり、できない自分を責め、何も起こしてくれていない神を責めることがあるのです。
そして、自分の力で何ができるわけでもないのですが、イエス様に信頼するとか感謝するとかしなくても人生なんとかなるような気持ちになり、弟子たちがそうであったように「イエス様抜きの生活の中に戻ろう」とさえすることがあるのです。
 
イエス様は弟子たちに現れ、指示し、魚を取らせてくださいました。そして、一緒に食事をする事、愛していることを確認なさいます。それを他者への愛、ケアの心の存在とで検証しておられます。
食事をするということは「いのちを分かち合うこと」であり、「愛しているか」を尋ねることは「キリストが愛してくださっていることを信じているか」という質問に通じており、それを受け取って「他者への思いやりや他者を大切な存在として見ているか」と尋ねておられるのです。
これが今朝、イエス様が私たちに求めていることなのだと思います。
イエス様に命をかけて愛されていることを思い出しましょう。その愛を受けて、他の人への祝福をいのれる心をもって進みましょう。それを原点に生きましょう。アップダウンは必ずあるからです。

【日ごとの糧】2019.08.10

【日ごとの糧】〜ローズンゲンによる〜
2019.08.10

あなたは根拠のないうわさを流してはならない。
悪人に加担して、不法を引き起こす証人となってはならない。
(出エジプト記23章1節)

あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。
(マタイによる福音書12章37節)
++++++
「噂の流布」はとんでもない害をもたらすことがあります。
それぞれ自分の言葉に責任を持たなければなりません。
特に最近はネットなどでの発言などの言葉の出所などはきちんと調べてから流さないとただただ噂を広めるだけのことになってしまいます。
「言葉」による諸問題については本当に気をつけなければなりません。


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