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【今日の聖句】
2019.08.27 【ヘブライ人への手紙】 8:1 今述べていることの要点は、わたしたちにはこのような大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き、 8:2 人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられるということです。 **** 地上には「完全」は存在しません。社会も評価も人間そのものも変化し、しかも、私たちには死がありますので、どこかで断絶します。 キリストの地上での働きは、そのまま天でも有効なものとして継続しているので、安心して信頼できるのだとこの手紙は教えています。人間がどんなに立派なことを実行してもそれが本当に神様の前で価値のあるものなのかどうか確証できません。 キリストは、その復活という出来事によって、神様が満足され、神様に受け入れられたということの証しを立てられました。 キリストの地上での出来事は、そのまま天でも有効な出来事として評価されているのです。 だからこそ、キリストを救い主と信頼するなら救われるのです。私たちと父なる神様の間に立って、罪の赦しと和解を造る事ができるのはキリストだけなのだと聖書は教えているのです。 地上で人間のすべての罪となり、また神様へのいけにえとして十字架に死なれたキリストは、天においても大祭司として、十字架の出来事を有効なものと見ておられるからです。 キリストのお陰で私たちは、罪の赦しを得ることができるのです。 祝福がここにあります。 *** 【箴言】 14:13 笑っていても心の痛むことがあり/喜びが悲しみに終ることもある。 +++ 人間の心には、誰にもわからない部分があります。自分は自分であり、他者は他者だからです。ある程度の推測は出来ても、その人にはなり得ませんから、本当のところ人の痛みはわかりません。 笑っていても心の痛むことは、大いにあります。喜びが悲しみに終わることもずいぶんたくさんあります。 出来ることならもっとわかりやすく、笑えるようならずっと心が軽くなれば良いのですが、必ずしもそんなに単純ではありません。 しかし、笑う心は大事です。笑うことも泣くことも等しく大事な感情であり、どちらも出来るうちはある程度、人間らしさを保って生きているということが言えるのです。 人生は複雑なので、笑いながら泣く事も、泣きながら笑うこともあるほどです。 しかし、泣く事もあって良いのです。幸せな人は泣かない、とか、不幸な人は笑わないとか、一方だけに決めつけてしまうと、無理が生じるのです。 嬉しくても時に不運に直面し泣く事があり、泣いていても、ふと、嬉しくなって笑えることがある、それが人生です。 泣く事ばかりを恐れて前に進まないのは良くないです。笑えることだけを追い求めて、現実を逃避するのもまずいです。 人生、泣き笑い、織り交ぜて、楽しめるように出来ているようです。 今笑っている人にも、今泣いている人にも、祝福がありますように。 |
生き方
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「カウンセリングの合間のカウンセリング」
昨日はクリニックでのカウンセリングの合間に近くの知的・精神障害を持つ園児の通っている施設に行き、しばらく子供たちと遊び、その後午後先生たちと面談を行いました。 幸いクリニックから道を隔てた歩いて2分くらいのところにある施設なので、こういうことができるわけです。 私が部屋に入って行き、スリッパを脱いで子供たちが遊んでいるマットの上に登るとすぐに二人の男の子がニコニコやってきてハイタッチ。 その子たちはしばらくしてまたやってきてハイタッチ。 別の女の子は本を見ていたので「読んであげようか」と声をかけたら「いらないよ、向こうに行って」と押し退けられました。 隣の部屋では一人の男の子がレールを組み立てて汽車で黙々と遊んでいましたが、その隣には足をバタバタさせ、大泣きしている男の子。汽車で遊んでいる子はまったく我関せずという状態。泣いている子は「僕もあの汽車が欲しい・・・。今じゃなきゃ、やだー。おうちにかえりたーい」というようなことを絶叫。 昨日は園児八名。先生が六名。 しばらく様子を見て子供たちと一緒にお茶を飲み、クリニックにもどり、午後、またそこに行って先生たちと面談しながら子供についての話になりました。 最初、ハイタッチしてくれた男の子5歳。「先生、あのSちゃんはね、先生のスリッパの音がして扉の前に先生が立ったとき、気づいていたんですよ。」 「それで先生が入ってきてスリッパを脱いでマットの上に上がるのを待って、先生の所に行ってハイタッチしたんです。待てるようになって、様子を見ながら頃合いを察知して近づいていけるようになったんですよ。 あの子が最初きた時は落ち着きがなくて、所構わず走り回るし、座っていられないし、隣の子にはちょっかいを出すし、っていう状態でしたから、状況を見ながら先生に近づいて行ってハイタッチしたのを見ながら成長を感じました。 でも、お昼の時には大好きなお味噌汁の中に入っていたなめこを、ちょっと目を離した隙に手をお椀に突っ込んで取って食べてたんですよ。そしたら、あっという間に口の周りが赤くなってしまって・・・・。でも、最初の頃は嫌なものがあるとちゃぶ台返しを繰り返してましたからねぇ。 Sちゃんも、ずいぶん変わりました。」 「大泣きしていたT君は、今年から入ってきたのですが、気に入らないと、大爆発して、寝転がって大泣きするんです。 家には妹さんがいて、やはり妹さんとの間で嫌なことがあると、大げんかになり、泣き出して止まらないようです。お母さんが厳しくて、怒ることもあるようですが、あまり有効じゃないみたいです。できるだけ声をかけて、一緒にいてあげるようにしています。」 先生たちの温かいまなざし、忍耐強い繰り返しの練習の中で子供達は少しずつ他の人たちと一緒にいられるようになっていきます。 ご両親の中には「文字をもっと教えて欲しい。もっと数字のことを取り上げて欲しい」と求める方々もおられるようですが、それらのお子さんたちの中には年長の園児の中にも靴の右左がわからない、箸やスプーンの持ち方がわからない、自分でシャツの後ろ前を理解できていないという状況の子供たちがいるので、何を優先にすべきか、常に悩みながら子供たちと付き合っている感じです。 でも、子供達にとっては居心地の良い場所になっていることは間違いなくて、それぞれ表情がなごみ、どんどん柔なくなっていることはすぐにわかります。 園児たちに対する「いてくれてありがとう」の心は伝わっているなぁと思いました。 先生たちにも「いてくれてありがとう」 |
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【今日の聖句】
2019.08.26 【ヘブライ人への手紙】 7:24 しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。 7:25 それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。 7:26 このように聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとって必要な方なのです。 7:27 この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。 *** 他者のための「弁償」という出来事は自分自身に負債がないことが前提で成り立つものです。 自分に弁償不能の負債がある場合には、他の人の為どころではありません。 聖書は、神様の前ではどんな人も、払いきれない負債や負い目があると教えているのです。 罪ある存在というのはそういう意味です。アダムに属している私たちは、生まれながらにして神様の前では有罪者であり、なにがしかの弁済が求められて当然だというのです。ですから、祭司たちもその儀式を始めるにあたって、自分達のための罪のいけにえを用意しなければなりませんでした。それが人間の現実です。人間的頑張りや儀式、そこには、完全な「赦し」はありえませんでした。 イエス様は、罪のない存在としてこの世に来られ、私達の罪のための供え物となるためにこそきてくださいました。 そして、罪の赦しのために執り成してくださっているので、このお方を通して救い、赦しが私たちに届くのです。 神様の前で、他者の罪のための「弁償可能」な存在はイエス様だけなのです。罪に対する神様の裁き、怒りのすべてがイエス様の上に落とされたのです。それによって、私たちが赦されるために・・・・・。それが「十字架」という 出来事の背後にある意味です。 キリストは全ての人の罪の代価を十字架の上での苦難と死を通して神に対して支払ってくださいました。 ここに赦しがあり、ここに神の愛が表明されたのだと聖書は教えています。 +++ 【箴言】 14:10 魂の苦しみを知るのは自分の心。 その喜びにも他人はあずからない。 +++ 人のことは本当のところわかりません。人の痛み、人の悲しみ、その辛さは実際は親子でも夫婦でも友達でも十分にはわかりません。 自分の心の痛みは絶対的に「自分」のものです。 でも、そこにこそ希望があります。 自分のものであるゆえに、「自分の心が変われば、その心の痛み方も変わる」からです。 他の人の心を変えることはできませんが、自分の心なら変えることが可能です。 しかし、ここに重大な難しさがあります。 私たち自身が「自分を変えること」「新しいことに向かうこと」を望んでいないことが多いのです。 「あきらめと他者への憎しみや妬み」を持っているとそれにこだわりすぎて「自分を変える」努力をやめてしまうことがあります。何か損してしまうような気分になるのです。 本当は自分を辛くしているのは「あの人」ではなく「自分自身の固定観念や偏見」かもしれないです。 心の傷は癒されにくく、忘れることも困難です。 それでも、他者にはそれらはわかりませんので、自分で向き合い、自分で「今を感謝しながら生きる」方向に向かうしかありません。 一瞬たりとも無駄にせず、「過去に振り回されない時間と自分」を取り戻さなければ、なりません。 時間は決して戻ってはきませんから。 今、生かされている自分を受け止め、それを感謝し、新たな気持ちで生きられますように。 「昨日の私」「過去のわたし」ではなく、「今のわたし」「今あるがまま」で今日に向かっていけますように。 より多くの喜びを味わうためには、それが一番です。 聖書の言葉は、その歩みを支援するために提供されていると言っても過言ではありません。 「赦しのメッセージ」が多いのはそのためです。 |
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【キアヌ・リーブスの気づき】
数日前からフェイスブックにアップされているメッセージに興味を持ちました。 キアヌ・リーブスの人生の中の苦悩、苦難とそんな中で彼が「気づいた大切な生き方」 こういう「気づき」は実に重大な意味を持つように思います。 +++ 【キアヌ・リーブスからのメッセージが心に響く 】 私たちは、毎日の生活に捉われすぎるあまり、人生の中の美しさに目をやることを忘れてしまっています。 ゾンビのように生きているのです。 上を見上げてヘッドホンを取り外してください。 目が会った人に挨拶をしたり、辛そうに見える人にハグをしてあげてみるのもいいかもしれません。 誰かを助けるのです。 毎日を人生で最期の日であるかのように生きてください。 数年前、私はうつになっていましたが、決して他の誰にも言わなかったのでこのことは誰も知らず、 うつから自分で脱出する方法を見つけなければなりませんでした。 私が幸せになるのを妨げていたのは、私自身でした。 いま、一日、一日が貴重ですから、毎日を貴重な日として生きましょう。 明日がある保証などないのですから、今日を生きましょう! ほとんどの人は私のことを知っていますが、私の人生については知りません。 私が3歳の時、私の父親が家を出て行くのを見ました。高校は4つの違う学校に通いましたが、失読症のためにほとんどの他の人たちよりももっと教育を受けるのが難しくて苦労しました。 23歳の時、一番仲のよかった親友のリバー・フェニックスが麻薬のオーバードースで死んでしまいました。 1998年にはジェニファー・サイムと出会い、お互いに一目で恋に落ちました。 1999年にジェニファーが女の子を妊娠しました。しかし、悲しいことに、8ヵ月後には私たちの子供は死産となりました。 彼女の死で私たちはあまりにもひどく落胆し、これが原因で最終的には私たちの関係は終わってしまいました。 それから18ヵ月後、ジェニファーは交通事故で亡くなりました。 その後は真剣な交際や子供を持つことを避けるようになりました。 私の妹は白血病でしたが、今は治っています。マトリックスシリーズの映画から得た収入の70%を白血病患者を扱う病院に募金しました。 ハリウッドのスターの中でも豪邸に住んでいないのは私くらいなものでしょう。 ボディガードもいませんし、高級な服も着ていません。 私は1億ドル(100億円)相当のスターだそうですが、今でも地下鉄に乗っていますし、大好きなんですよ! 結局は、どんな悲惨な状況の中でも素晴らしい人は力強く生きることができる、ということには誰もが同感できることかと思います。 あなたの人生で何が起きていようとも、あなたはそれを乗り越えることができます! 人生は生きる価値のあるものです。 あなたの人生の中で苦労したすべてのことのおかげで、今のあなたの存在があります。 苦難の時はあなたを強くするだけなので、そんな時には感謝しましょう。 私の友人の母親は、一生を通して健康的なものを食べてきました。 アルコールや「体に悪い」食べ物は決して口にせず、毎日運動をし、体は非常に柔軟で、とても活動的で、医師が薦めるサプリメントは全部摂り、太陽に当たる時は必ず日焼け止めを塗り、また日光に当たる場合も可能な限り短時間で済ませていました。 つまり誰もが考えうる限り最大限で健康に留意していたのです。 しかし、彼女は今76歳でガンと骨髄のガンになり、非常に深刻な骨粗しょう症になっています。 その一方、私の友人の父親は大量のベーコン、バター、脂肪を食べ、運動など本当に一切したことなく、夏になるたびに真っ赤になるまで日焼けするなど、他人の指図には耳を貸さずに人生を最大限に生きるような生き方をしたわけです。 彼は81歳で、医師曰く、彼の健康状態は若者レベルだと言います。 毒からは完全に逃れることは出来ません。毒はあちこちにあり、あなたを見逃さないでしょう。 まだ生きている私の友人の母親は「私の人生がこんな風に終わるのなら、したらいけないと言われていたこと全部をやって、人生をもっと楽しむ生き方を選んでいたのに!」 と言っていました。 この世を出る時に生きたままの人はいませんから、どうかあなた自身を真剣に考えすぎた上で扱うのは止めてください。 おいしい物を食べましょう。 太陽の下を歩きましょう。 海に飛び込みましょう。 あなたは自分の心を隠された宝物のように運んでいる、というのが真実です。 馬鹿げたことをやりましょう。 優しく生きましょう。 人生にはその他のために使う時間なんてないのですから。 私は尊敬の念を見せるように育てられました。 ドアを開ける前にはノックをするように教えられました。部屋に入る時は挨拶をするように。 そしてお願いします(please)、とありがとう(thank you)を言うように。 自分よりも年上の人には尊敬の念を払うように教えられました。 私が席に座っていて、他の誰かが席を必要としているなら席を譲ります。 返事は「イエス、サー」か「ノー、サー」と答え、誰かが助けを必要としている時は、横に立って眺めているだけじゃなくて手を差し伸べます。 自分の後ろに入ってくる人のためにドアを押さえ、必要な時は「すいません」と言います。 人を愛するのは、その人から自分が何かを得ることが出来るから愛するのではなく、その人の人となりを愛します。 そして何よりも大事なのは、自分が他人からされたい扱いを、自分も他人に行うよう育てられたということです。 それが尊敬というものです。 あなたも同じように育てられたのでしたら、これをシェアして下さい! あなたの自宅がどれだけ大きくても、乗っている車がどれだけ見栄えがよくても、銀行口座の残高がどれだけ大きくても関係ありません。 私たちの墓(死)は皆同じです。 謙虚に生き続けましょう。 (キアヌリーブスについてのウイキペディア) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%82%A2%E3%83%8C%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%96%E3%82%B9 |
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MACF礼拝説教要旨
2019.08.25 ルカによる福音書7章1節〜10節 【百人隊長の信仰】 7:1 イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。 7:2 ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。 7:3 イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。 7:4 長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。 7:5 わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」 7:6 そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるよう な者ではありません。 7:7 ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。 7:8 わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。 また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」 7:9 イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」 7:10 使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。 ++++ 1)病気の部下のために 当時の社会では、ユダヤ人以外の人間は「汚れた人間」とみなされていました。ですから外国人とかかわることは不浄な出来事と理解されており、家に帰った時には浄めの儀式を行わなければならないほどでした。 しかも、紀元6年にはユダとその一族が カファルナウムに近いガリラヤ地方でローマ帝国に反乱を起こし、多数のユダヤ人が見せしめのために民衆の前で処刑されたという歴史がありました。 この記事はそれ以前の状況ではありますがローマの兵隊といえば自分たちを支配している敵国の人間であり、憎むべき存在だったのです。そういう人からのリクエストにイエス様がどう答えるのか、それは多くの宗教関係者には大変興味深いことでした。 外国人の、しかも自国の敵であり支配者でもある人の部下を癒すということは、売国奴的行為としてみなされても仕方のないことでした。 それらの外国人については「憎んで当たり前」というのがその当時の社会通念であり、宗教家たちの教えでしたから。 しかし、イエス様は心を動かされ、気の毒に思い、そのリクエストに耳を傾けます。 2)彼は厚意を受けるにふさわしい人です:人の評価 ルカは、この百人隊長は「他のローマの兵隊と違い、我々の宗教を尊敬し、会堂を建ててくれたほどユダヤ人を愛してくれている人です。」という長老からの評価を書き添えています。 ローマ人であってもすべてが野蛮人ではない、外国の人たちの中にも善良な人たちがいるということを伝えたかったのかもしれません。 確かに世の中には善良な人たちがたくさん存在します。クリスチャンであってもなくても、すばらしい生き方をしている人、常に支援的にいろいろ手助けしようと考えてくれる人たちが存在します。ありがたいことです。 しかしイエス様は、この百人隊長が善良な人だからというので、部下を助けようと思ったわけではないと思います。 マタイによる福音書にある同じ記事には、この百人隊長の善行については触れていません。 イエス様は単純に、深い同情心から、憐れみの心から部下を癒そうと思われたのです。 3)ご足労には及びません:謙遜さへの気づき しかし、この百人隊長は、イエス様が家に向かおうとすると、それを丁寧に断ります。百人隊長は最初、長老たちに頼んでイエス様にきていただこうと考えていたのですが、この場に及んで、考えを改めています。あることに「気づく」のです。 「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。」と語るのです。 そこには潔い謙遜さがあります。自分の立場を深く理解している慎み深さがあります。 また、彼には尊敬に値する「信仰」がありました。 「どうぞ、お言葉をください。私には部下の兵隊がいますが、私が彼らにここに行けと言えば、行きますし、ここに来いと言えば来るのですから、あなたがお心にある言葉を語ってくだされば、きっとその通りになります。」とイエス様に伝えたのです。 つまり、イエス様の存在を自分にはもったいない存在と考え、またイエス様の言葉には権威があり、きっとその言葉通りのことが起こるに違いないと考えているのです。 4)言葉に対する信仰:キリストの権威ある言葉と恵みに対する気づき この姿勢とこの理解はイエス様を驚かせ、また喜ばせます。「イスラエルの中で、これほどの信仰を見たことがない」とさえイエス様に言わせるほどの、すばらしい理解と姿勢がここに表明されています。 イエス・キリストは、その人がユダヤ人だろうが、外国人だろうが、悩み苦しむ人にいつも変わらず憐れみ深い愛を示してくださいます。 それによって、人々から売国奴だと言われるような恐れがあっても真っ直ぐ愛を示されるのです。 この出来事にあるローマの百人隊長の部下への憐れみの心は、当時のユダヤ人社会の中では異常とも思える出来事でした。 しかし、イエス様の心には憐れみの心が満ちあふれています。 この隊長の「謙遜さ」「権威を認める意識」「言葉に対する姿勢」「信仰」が大いに評価されているのです。 外国人であり、聖書も知らず、文化背景も違う、そういう人であっても、イエス様が表明している父なる神への畏敬の念を持ち、自らにはお迎えする資格はないけれど、このイエス様が語ってくださるなら、その通りになると信じているこの百人隊長をイエス様は評価しています。 イエス様の示してくださっている「恵み」「赦し」「癒し」「祝福」は、底なしです。 そこに、恵みの深さ広さがあります。 私たちはこの百人隊長から何を学べるでしょう。 まず「謙遜への気づき」でしょうか。 「イエス様、私にはあなたに求める資格などありませんが、どうぞ、私を憐れんでください。」 その祈りが今の私たちに一番必要なのかもしれません。 「神は私のために、こう言うことをやってくれて当たり前だ」と思うようであれば、そこには危険が潜んでいます。 高慢であり、神より自分が上になってしまっている危険です。それは信仰と言うより、むしろ「神への指図」に近いように思います。それは危険であり、冒涜でさえあります。 この百人隊長はまじめな優しい人でした。施しを丁寧に提供している人でした。でも、彼は、それを切り札にして、神が自分を助けてくれることは当たり前だとは考えていませんでした。むしろ、「自分はそんなことを求める資格などない存在」だと気づいたのです。それはある意味で正しい姿勢でした。 「主よ、取るに足りない私を憐れんでください」 「キリストの権威あることばへの信頼と気づき」 「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」 言葉が届いたなら、それは大きな励ましになるでしょう。キリストの言葉には力があり、キリストの言葉には愛と希望があることを彼は信じていました。 他のものがなくても、キリストの言葉があったら、私たちの心は元気になります。 私たちはいつの間にか、あれがなければ、これがなければ幸せには生きられないと決めつけ、常に物に対する執着を持っています。 しかし、これは私たちが勝手に思い込んでいる発想です。人はパンだけで生きるものではありません。むしろ、神の言葉で生かされるのです。 社会的には「取るに足りない存在」である私たちに耳を傾け言葉を与え、手を動かしてくださる神様に感謝し礼拝をささげつつ謙遜に生きたいですね。 |




