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生き方

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【日ごとの糧】2019.08.19

【日ごとの糧】〜ローズンゲンによる〜
2019,08.19

娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者高ぶることなく、ろばに乗って来る雌ろばの子であるろばに乗って。
(ゼカリヤ書9章9節)

人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」
(マタイによる福音書20章28節)
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聖書に登場する救い主の最も特徴的な一面はその「謙遜さ」です。
彼は王であり救い主であり、いえいえ「神のひとり子」でもあるのですが、自らの発言として「仕えられるためではなく仕えるため、自分のいのちを他者のための身代金として提供するため」に来たと言うのです。
そういうお方に愛され、守られ、支えられている生き方から私たちはこの救い主との関係の居心地良さを味わいます。
そして、この御方の愛に応えつつ生きたい気持ちが育ってきます。

【今日の聖句】2019.08.19

【今日の聖句】
2019.08.19
【ヘブライ人への手紙】
 6:10 神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。
 6:11 わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。
 6:12 あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです。
***
神様は私達の信仰を喜んでくださいます。私達の奉仕や愛を決して忘れることはありません。つまり、私達の人生を「無駄なもの」とは言わないのです。
神様は誠実に私たちを愛し、私たちを支えてくださいます。なかなか私達の思い通りには事が進まなくても、神様に見捨てられ、忘れられたわけではありません。神様に忘れられ、見捨てられるという出来事はイエス様が十字架の上で経験してくださいました。私達のためにその苦難を通過してくださいました。キリストを信頼し、キリストのうちに生きるなら、神様に忘れられることも捨てられることもありません。

だからこそ、今を丁寧に生きることが大切なのです。心配せずに礼拝者として生きて良いのです。
もし神様に「わたしのことを覚えていてください」「祝福してください」「守ってください」と祈りながら、自分では、神様を覚えようとせず、歓迎しようとせず、礼拝しようともしないとすれば、その関係はちょっと歪(いびつ)なものになっています。立場が逆転しているようです。
神様からの祝福を受け取ったら、その祝福に励まされて、さらに神様を深く知ることを励んでほしいと手紙の記者は言うのです。
それは義務とか仕事ではなく、きずな関係から生まれる当然の応答なのです。
私たちは基本的には恩知らず集団ですから、神様の祝福をいただくばかりで、感謝も応答もしないことがよくあるのです。
にもかかわらず、神様は祝福し続けて、生かしてくださいます。その愛に応答し続けるものでありたいですね。

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【箴言】

13:13 言葉を侮る者は滅ぼされ/戒めを敬う者は報われる。
13:14 賢人の教えは命の源。死の罠を避けさせる。
13:15 見識は優雅さを伴う。欺く者の道は手ごわい。
13:16 思慮深い人は皆知識に基づいてふるまう。愚か者は無知をさらけ出す。
+++
考えながら言葉を用い、出来るだけ相手の言葉を丁寧に理解しようと心がけることはとても大切なことです。
いろいろな格言を考えてみること、あれやこれやと悩みながらも、自分の人生を投げ出さないで、ゆっくり建てあげようと努力すること、聖書の教えをじっくり考えながら生きること。
希望や優雅さは、そういう生き方の中で生まれ、そういう生き方を通して身についてくるようです。
悩むこともあります。考え込んでしまうこともあるのです。それが人生です。
でも、どこかに希望の光を求めつつ、積極的に賢人の教えを聞いてみることで道が開けてくることがありますから、本を読んだり、聖書の解きあかしを聞いたりしてみてください。そういうことで得られる知識は心を高めてくれるものになるのだと思います。
幅広く本を読んだり、考えたり、あれこれ思い巡らしながら、他者とも議論しながら知恵や知識を得、それを大切に保ちながら生きること、それは死の罠からの救いにつながり、欺くものからの脱出にもつながります。

MACF礼拝映像はこちら  https://youtu.be/aGHxB-8BXm4
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MACF礼拝説教要旨
             2019.08.18
イエスの生涯#26
「ペトロのしゅうとめ」
ルカによる福音書
4:38 イエスは会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった。シモンのしゅうとめが高い熱に苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスに頼んだ。
4:39 イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。
4:40 日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。
***
この小さなエピソードの中にとても興味ふかいメッセージが隠されています。
1)シモンの家で
イエス様の活動の初期の頃のお話です。イエス様は会堂でメッセージを語り、個別に質問に応え、またここでは個人の家に行き、神の福音を語り、神の愛を伝えています。
このお話はシモンの家での出来事ですが、シモンのしゅうとめが高熱に苦しんでいました。
どんな病気かは特定できませんが、苦しんでいたことは確かです。
そのことを聞いたイエス様は彼女の枕元に立ち、「熱を叱りつけた」とあります。
この記事の周辺にはイエス様が悪霊を追い出したり、病気を癒したりする場面が描かれています。
 
イエス様の権威を示す記事となっています。
でも、それは「癒す人」としての人気を博し、ご自分の本来の「罪の赦しをもたらす救い主」としての役割を妨げる恐れがあるほど人間の社会に必要なものであることをイエス様は感じ取っておられました。
ある意味でのジレンマがそこにはあったと思います。それはこの章の終わりの部分に書かれています。
4:42 朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた。群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた。
4:43 しかし、イエスは言われた。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」
 
しゅうとめは癒されました。同時にその夜多くの人たちが癒されました。
 
2)癒されてから
4:39 イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。
ここには高熱から解放された彼女が「すぐに起き上がって一同をもてなした」と書かれています。
実はここに見逃してはならない真理があるように感じます。
彼女は高熱から解放されて、良かった、良かったと安心し、「ちょっと安心したので休みます」とは言いませんでした。
むしろ、元気になったことを喜びつつ「一同をもてなした」のです。
「もてなす」とありますが、英語ではministerという言葉になっています。これは「お世話をする」というような意味があります。
彼女は癒されてから、他者の痛みに敏感になり、他者へのお世話の心をもって生きるようになりました。しかも、「すぐに」。
 
多くの人たちが癒され、解放され、自由になりましたが、身体的、精神的な癒しや解放は単に、その人が元気になれば良いという目的のためではなく、その人が元気になり「生きる」意欲を復活されるためでもあるようです。
 
癒しは、肉体的な回復だけでなく「生きる力の回復と共に生きる意識の復活」でもあるのです。
私たちに対するイエス様からの様々な解放、回復、祝福は私たち自身が元気になるという面と、その元気さを「分かち合いながら生きる」という両面があるようです。
もちろん、それぞれできることは違いますし、なすべきことも違います。でも、他者の祝福を願うこと、一緒に喜ぶこと、一緒に泣くこと、一緒に同じ方向を向いて応援すること、そういうことができるために回復や解放がもたらされたのだと考えることができると、感謝の範囲が変わってきます。
イエス様からの解放や助けを受けた経験がありますか?それは、あなたの生き方に何をもたらしましたか?
自分だけの生き方ではなく、他者を祝福する生き方に変わるための解放、祝福だったかもしれないことを思い出しましょう。
他者を視野に入れた生き方、神が今、私たちに求めている生き方はまさに、そこにあるように思うのです。
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【日ごとの糧】2019.08.17


【日ごとの糧】〜ローズンゲンによる〜
2019.08.17

モーセとアロンはファラオのところに行き、彼に言った。「ヘブライ人の神、主はこう言われた。『いつまで、あなたはわたしの前に身を低くするのを拒むのか。わたしの民を去らせ、わたしに仕えさせなさい。
(出エジプト記10章3節)

だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。
(ヤコブの手紙4章7節)
***
モーセにとってもアロンにとってもエジプトの王ファラオのところに行くことは、そして神のメッセージを伝えることは簡単なことではありませんでした。ある意味決死の覚悟が必要でした。
でも、彼らは神に託された役割と信じて、それを実行し、ついに脱出への道を開くための大きな役割を果たしました。
神への服従は、容易な道ばかりではありません。でも、その道のために必要な力も知恵も神様は与えてくださいます。
神への服従こそがまさに、悪魔に反抗する生き方なのです。

【今日の聖句】2019.08.17

【今日の聖句】
2019.08.17
【ヘブライ人への手紙】

 6:4 一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、
 6:5 神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、
 6:6 その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。
 6:7 土地は、度々その上に降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ農作物をもたらすなら、神の祝福を受けます。
 6:8 しかし、茨やあざみを生えさせると、役に立たなくなり、やがて呪われ、ついには焼かれてしまいます。
 6:9 しかし、愛する人たち、こんなふうに話してはいても、わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています。
***
この文章は、クリスチャンになってから罪を犯したりすると、もう二度と立ち返ることができないという意味ではありません。
そういう脅しに使われそうですが、本来の意味は違うようです。
確かに背教、棄教に対する警告なのですが、その強調点は脅しではなく、希望です。

「キリストの恵みを心にいっぱい味わい、その祝福を知り、聖霊によって御言葉が自分の心にしっかり教えられ、希望に満たされて生きているなら、自分から積極的にキリストを再度十字架につけるような意識で信仰を軽蔑したり、キリストの働きを侮辱したりしないですよね。それなのに、キリストを敢えて侮辱するとなると想定の範囲を超えていますよ。自分を無益な者にしてしまってはなりません」という意味が成り立つと思います。

棄教や背教をした者に神様は容赦なく、裁きを実行するぞという脅しではなく、むしろ、そういう方向ではなく、もっと良いこと、希望につながる救いがあるのだから。そこにしっかり目を留めておくようにという勧めの言葉なのです。神様は、あなたのことを決して忘れませんよという言葉が続きます。
 6:10 神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。
 
 
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【箴言】

【癒やす言葉:箴言】
13:12 待ち続けるだけでは心が病む。かなえられた望みは命の木。
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新改訳聖書では「 13:12 期待が長びくと心は病む。望みがかなうことは、いのちの木である。」と訳されています。
「いつかきっと」という歌がありますが、それが長すぎると、だんだん心が下向きになってしまうのだと箴言は教えています。
「主を待ち望む者は力を得る」という言葉もあります。主を待ち望むというのは、待って待って何もしないということではありません。
主を待ち望みつつ、最善を努力し、主に期待しながら自分のなすべきことを一生懸命実行する生き方が奨励されているのです。
望みには二種類あって、長期的な視野にたった望みと、すぐ目の前で達成可能な望みとのふたつです。
長期的な視野に立った望みは、すぐには達成できませんので、神様を信頼しつつ、誠実に生きることが必要です。目先のことについては、同じように神様に期待しながら、自分の努力も添えながら手を伸ばしていくのです。望みが叶えられるために、何にもせず、努力もせず、漠然と待っているだけという生き方もあるのかもしれませんが、聖書は、怠惰を推奨してはいないように思います。

主を期待し、主を待ち望みつつ、与えられた役割を精一杯生きること、そしてもし、望んでいるような結果がもたらされたらそれを大いに喜び感謝し、もし期待通りに事が運ばないとしても、自分が誠意をもって働くことができ
たことを感謝するという生き方が聖書の勧める信仰者のあり方のように思います。
大きな望みがなかなか叶えられないことを嘆くより、小さな望みが、叶えられてきたことを感謝しながら、積極的に前向きに生きることを勧めているのではないでしょうか。
 

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