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天使の味覚 ー2ー
「人食い人種」Cannibals の風習について、私の知識は皆無なのでなんとも比較検討しようが
ないのですが、ただ、彼らがランダムに手当たり次第殺し合って食べ合ったわけではなかった
ように思う私はナイーブでしょうか。むしろ、セレモニー的な意味合いが強く、戦争の勝利者が
敗れはしたものの、最後までよく闘った戦士の肉を食することによって、彼の力そのものを
自分に取り入れるという行為、というふうに考えたい自分がいます。どうでしょうか。
或いは、それこそ非情な非常の世界に於いて、飢餓の極みにのみ成される行為。そういえば、
このテーマを扱った実話をもとにした映画がいくつかありました。
そうした極限の状況におかれた時、自分がどのようになるのか、ちょっと想像できませんが
できれば、食べたくありません。菜食主義者(たとえ70%でも)として。
しかし、世間に知られていないだけで、人食い行為は結構多いのではないか、と思ったりもします。
可愛い赤ちゃんをみて「食べちゃいたいくらい可愛いィ…。」といった表現はよくあります。
実際に恋人を食べた人もいたようですし、これから食べようという人もいないとも限りません…。
英語でも、I want to eat you..という表現があります。このあたりに話がきますと、「人食い」
行為に何かエロティシズムのひらめきを感じて目眩がしてきましたのでやめておきます。
「欲望は着飾りすぎた本能」これはずっと昔につくった私の拙い詩中のことばですが、
食欲は一応「欲望」です。この欲望は第一義的に本能と密着されたものであるはずなの
ですが、昨今は食欲が生存本能を過剰に上まって、「着飾りすぎた本能」つまり本能を覆い隠す
ほどの「欲望」と化した観があります。食欲だけがひとり歩きを始めてしまったようです。
よりおいしいものをより変わった、より良い、よりより、となって、これが芥川龍之介の『芋がゆ』
的もっともっとということの虚しさへの訓戒に通じるのでしょう。
「たくあん和尚のたくあんを食べてみたい」と思った人は多くいると思いますが、
粗食であればあるほど、食物の味は鮮烈になるようです。
或る時、禅寺で接心のあとにいただいた一汁一菜のあまりのおいしさに感激したことがありました。
ちょっと、塩気が足りないようにも感じましたが…。
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実は僕の原点も 禅 です。15歳の夏頃、人間とはなんだろうと思い 京都の寺の参禅会に出向いたのが最初でした。 すご〜〜く、マセた子供だったんです(笑) (比叡山のお坊さんの手造りのゴマ豆腐が 美味しかったですよ)
2006/11/5(日) 午前 11:56 [ ima**co_*ess*ge ]
私も「禅」にはひかれました。断然モダンでミニマル(最小限)な感覚は生活の手本としていますが、なかなか…。「ガラクタの氾濫」は私の生涯の敵なのです。(笑)
2006/11/5(日) 午後 3:36 [ pasturedogs ]
最近の私は『客観』で食べ物をいただくようにしています。・・なんでも美味しいですし、それに粗食で済ませられます。・・きっと、昔の侍はそうだったのだと思います。
2006/11/7(火) 午前 6:02
すると味も「客観」的になるのでしょうか…。美味しいということなら「客観」というのは頼もしい良いことなのですね。
2006/11/7(火) 午後 5:38 [ pasturedogs ]
『客観』とは、研ぎ澄まされた感性です。
2006/11/8(水) 午前 10:57
私の愛読書には、「釈迦も基督も優れた客観力の持ち主であったに違いない」と記しています。
2006/11/8(水) 午後 4:58
春とさん、ふと思ったのですが、ハルト、HALT 英語で停止とか休息という意味があるのですね。なにか示唆的ではありませんか? 「禅」的。
2006/11/9(木) 午前 1:42 [ pasturedogs ]
わかりません。・・本名を少し変えただけです。・・・英語は苦手なんです、でも今の私は確かに『禅的』かもしれません。・・・貧乏な思想家です。
2006/11/9(木) 午前 4:49
今の社会に必要なのは、『停止と休息』なのかもしれません・・・。
2006/11/9(木) 午前 5:24
私もそう思います。そうした「この世の動きを止めたい」という衝動を自分のなかに感じます。
2006/11/9(木) 午前 6:18 [ pasturedogs ]