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革命・内戦・特殊作戦

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■ アドルフ・アイヒマン
アイヒマンは第2次世界大戦時にユダヤ人を虐殺したナチスのユダヤ問題総責任者です。彼の仕事は効率がよく約600万人のユダヤ人が抹殺されたとしています。
 
ブダペスト駐在スウェーデン公使のラウル・ウォーレンバーグは、ユダヤ人を救出するためビザをばら撒き、時には処刑寸前のユダヤ人をナチスからお金で見逃してもらうというようなことまで行いました。
 
あるパーティーでウォーレンバーグは敵の大ボス、アイヒマンと対決します。ユダヤ人から手を引けと言うアイヒマンに対し、ウォーレンバーグは毅然と拒否します。
 
アイヒマンは『あなたは人間じゃない悪魔だ。』と罵ったウォーレンバーグに対し『私は命令に忠実な、いちドイツ人だよ。少し勤勉すぎる嫌いはあるがね・・・。』と返します。
 
この直接対決の後、アイヒマンはウォーレンバーグを暗殺しようとします。ウォーレンバーグはからくも逃れましたが、SS(ナチス親衛隊)に狙われる事になり命の危険は常に付きまとっていました。
 
それでもウォーレンバーグは自身の命を捨てる覚悟でユダヤ人救出を続けていました。そしてついに、ドイツ軍がソ連軍によって撃退されたのです。
 
ドイツが降伏するとアイヒマン中佐は姿を消します。もちろん捕まれば戦犯になる事が分かっていたからです。
 
そして、ウォーレンバーグはソ連軍へ事後処理のため交渉に行く事となり、出頭する時、『私は客人としていくのか、それとも捕虜としていくのか。』とつぶやきます。その意味深い言葉は現実となり、ウォーレンバーグは出発したまま帰って来なかったのです。なんと、彼はスパイ容疑でKGBに逮捕されシベリアに送られていたのでした。
アイヒマンは逃亡し、ウォーレンバーグは逮捕されるという不思議なめぐり合わせが起こったのでした。
 
【ユダヤ人救出に尽力したのは、ハンガリーに送り込まれたスウェーデン人のラウル・ウォーレンバーグ、リトアニアでユダヤ人の国外脱出のためビザをばら撒いた、大日本帝国の駐リトアニア大使杉原千畝、ドイツの事業家オスカー・シンドラー、中国の駐オーストリア大使何鳳山などがいました。】
 
■モサドのナチス狩り
モサドは諜報活動以外にも、世界中に潜伏しているナチス戦犯を探し出し、逮捕もしくは暗殺するという任務がありました。
 
そのモサドに、アイヒマンの情報が飛び込んできたのです。モサドはこの件を最優先事項に指定し、アイヒマン逮捕に向かいます。
 
リカルド・クレメントという偽名で、アルゼンチンの自動車工場に勤めていたアイヒマンを発見したのは1959年12月の事でした。
【注:アルゼンチンはWWⅡ時下、絶対中立を貫きます。終戦直前、中立各国が枢軸国に宣戦布告し連合軍に加わった時にも、アルゼンチンは国交を断絶すると宣言したのみで、あくまで中立を貫いたのです。
そのため、戦後ナチスの人々がアルゼンチンに逃亡してきたというわけです。もっとも、ドイツ系移民が沢山いたのもその理由です。】
 
モサドの工作員はアルゼンチンに潜入し、アイヒマンを見張ります。そして、ついに逮捕・・・となれば一件落着でしたが、まだ問題がありました。
 
その場で処刑してしまえば、後はモサド要員が各々イスラエルに帰るのみですが、アイヒマンは裁判にかけるためイスラエルに連れて帰らなくてはなりませんでした。しかし、誘拐して、連れ帰るとなれば、親ナチのアルゼンチンも見逃すはずがありません。出国するときに見咎められるに決まっています。
 
そこへ、偶然チャンスが訪れます。近く開催されるアルゼンチンの独立記念式典にイスラエルから外務大臣が参加する事になったのです。モサドはアイヒマンをこの特別チャーター機に乗せ、連れ帰る事にしました。
 
そして、モサドは作戦の決行を決め、1960年5月11日、帰宅途中のアイヒマンを逮捕(拉致)したのです。アイヒマンは自分がイスラエル機関に捕まったことを悟り、無駄な抵抗する事なくお縄につきました。
 
しかし、問題はこのあとです。アルゼンチン独立記念式典が終わり、チャーター機がイスラエルへ戻るのは5月21日でした。それまでの10日間はアジトへ隠れていなくてはなりません。
 
アイヒマンが捕まった(行方不明)事は、会社へ出勤しないのですぐに分かります。アイヒマンの会社の社長は彼が誰であるのかを知っていたのでした。イスラエルが拉致した事が分かると、アルゼンチン政府もアイヒマンを渡せと言ってくるに違いありません。さらには、ネオナチ組織がアイヒマンを救出にくるかもしれないのです。
 
しかし、アジトは発見されず、アルゼンチン政府もアイヒマンが捕まったことに気づいていませんでした。そして、式典は終了し、モサド工作員達はSPのふりをして、外務大臣一行とともに飛行機に乗り込みます。
 
飛行機は無事イスラエルに到着し、アイヒマンは刑務所に入れられました。そして、1960年5月23日、イスラエルはアイヒマン逮捕を発表しました。
 
アイヒマンは裁判の後、1962年絞首刑にされました。

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エジプト革命

■オスマン・トルコとナポレオンの戦い
1798年、オスマン・トルコが支配していたエジプトへ侵攻したフランス軍(ナポレオン)は、
古い戦術で戦うオスマン・トルコ軍をあっさり破りエジプトを占領しました。
(この時ロゼッタストーンが発見されます。)

しかし、オスマン・トルコもこのまま黙ってはいませんでした。
当時フランスとやりあっていたイギリス帝国と手を組み、
エジプトのフランス軍を攻撃、これを降伏させます。

■傭兵隊長ムハンマド・アリー
オスマン・トルコは再占領したエジプトに
ムハンマド・アリーというやり手の軍人を太守として派遣しました。

太守に就任したムハンマド・アリーは、
フランスに全く歯の立たなかったオスマン・トルコの弱体化を憂い、
自分の支配下にあるエジプト軍だけは近代化を押し進めました。


そして、宗主国であるオスマン・トルコの腐敗を憂慮し、
ついにオスマン・トルコ打倒の兵を上げるのです。

いちエジプト太守では大オスマン・トルコを倒すと言うことは不可能だと思われましたが、
なんと予想に反しエジプト軍はオスマン・トルコ軍を次々と破り、
首都のコンスタンティノープル(イスタンブール)に迫っていました。

ここで、イギリス帝国がオスマン・トルコ側にたって参戦します。
さすがに最新鋭のイギリス帝国軍には勝てないと悟ったアリー軍は、
講和することになりました。


■エジプト王国、建国
アリーのエジプト州軍は、この講和によって
オスマン・トルコから占領していた地域を返還する見返りに、
自身の任地であったエジプトを王国として独立させる事に成功したのです。

この国家をエジプト王国ムハンマド・アリー王朝と呼びます。
しかし、この状態は半独立であり、
依然オスマン・トルコやイギリス帝国の干渉がかなりありました。

■スエズ運河
ムハンマド・アリーの亡くなったのち、
スエズ運河という大事業がはじまります。

しかし、この大事業のおかげでエジプト財政は破綻してしまい、
イギリス帝国とフランスの財政管理化に置かれます。
いわば一つの国が倒産したということです。(実はイギリス帝国の策略)

さらに、イギリス帝国はエジプトを保護国とし、
第一次世界大戦の時には植民地としてしまいました。
これではさすがにエジプト国民も黙ってはいません。

植民地化されたことに対し、大戦中から反イギリス運動が高まり、
結局イギリス帝国は独立運動を抑えきれず、
大戦後の1922年、エジプトに独立を約束します。

しかし、例によって形だけの独立であり実際はイギリス帝国が裏で国を運営していました。

そして、第二次世界大戦と第一次中東戦争を戦い終わったエジプト王国は、
1951年10月、ファルーク国王がイギリスとの同盟の破棄とイギリス軍の退去を要請しました。

傀儡政権みたいな国王にもまだ少しばかりの愛国心が残っていたようでしたが、
納得しなかったのはエジプト国民だけではなく、
イギリスも国王を無視しました。
 

■エジプト革命
1952年年明けの1月23日、イギリスとその傀儡状態である国王に対し、
国民の怒りが爆発します。

エジプトの民衆は各地でイギリス軍を襲撃し、
攻撃にはエジプト正規軍まで加わる始末でした。

1952年7月23日、改革派青年将校たちで結成された
自由将校団がクーデターを起します。

政府軍がこれの鎮圧に向かいましたが、
クーデター軍と相対した政府軍は、革命に参加する意思を表明します。

自由将校団はこの政府軍を率いて、まず軍の中枢である参謀本部を占領し、
続いて市内を制圧しました。

そして、自由将校団はムハンマド・ネギブ中将に協力を要請します。
ネギブ中将はこれを了承し、革命軍最高司令官に就任しました。

革命軍が占領した放送局からクーデターの声明文が発表されると
エジプト国民は狂喜しました。
ところがこれを聞いて肝を潰したのはファルーク国王です。

革命軍は7月26日、国王に対し退位を要求します。
このクーデターのリーダー、ナセル中佐は2.26事件から教訓を得てかどうかはわかりませんが、
腐敗した国王をはじめとする官僚達を殺さなかったのです。
国王は保障された財産と共に豪華ヨットでギリシャへ亡命しました。
そのため無血クーデターとなりました。

こうして、1953年6月19日、ネギブ中将(自由将校団ではない)を
首相兼大統領としてエジプト共和国の設立が宣言されました。
ナセル中佐は副首相の座に着きました。

首相はネギブ中将と言う事でしたが、
実質的な政策は自由将校団リーダーのナセル副首相が行なっている状態です。
この後、ナセル副首相とネギブ大統領の対立が表面化していくのでした。

もともと、この革命自体が腐敗政治を一掃するために国民が団結したのであり、
自由将校団の中にも右派から左派までいろいろ織り交ざっていました。
そして、一つの目標を達成したのちはそれぞれの理想を主張し始めたのです。

■ナセル暗殺計画
そしてついに、超改革派のナセル副首相に対し危機感を募らせていた
いわば保守派のネギブ大統領はムスリム同胞団と手を組み、
ナセル副首相の暗殺を企てます。

1954年10月26日、演説中のナセル副首相に対し、
数発の銃弾が発射されます。

しかし、運よく弾丸は命中しませんでした。


ナセル副首相は演説を続け、

『このナセル死すとも、革命は死さず。』

と叫び、聴衆の喝采を浴びました。

この事件により、ネギブ大統領は逮捕され失脚しました。
しかし、ナセルはすぐに新大統領には就任しませんでした。

暗殺からからくも逃れたナセル副首相は、
自分の身の危険などかえりみず、
革命政権を革命政権たらしめるべく次なる行動を起こします。

■イギリス軍の退去
前国王が要求するにはしたものの結局黙殺されている
イギリス軍のエジプトからの撤退についてですが、
これが完全に行なわれなければ、エジプトは真の独立国家といえません。

イギリス軍はスエズ運河の保護のため、
前国王が撤収を要求したにもかかわらず依然エジプトに駐留していたのです。

これに対し、ナセルは改めて撤収を要請し、
これを了承したイギリス軍は1956年6月20日までに撤退を完了しました。

このイギリス軍の撤退を見てナセルは1956年6月25日大統領に就任しました。

しかし、このイギリス撤退に対し反応したのはイスラエルでした。

イスラエルにとってはイギリス軍がスエズにいる限り、
エジプトの軍事的圧力が緩和されていたので、
この撤退を妨害するためにエジプトに対し攻撃を仕掛けます。

これによりエジプトは、革命でうやむやになっていたイスラエルとの敵対関係を再認識します。

そして、アメリカ、イギリス帝国およびフランスに武器の供与を依頼しますが、無視されました。

ここで、ナセル(大統領就任前)はソ連に接近します。

これにはソ連も飛びつきました。
中東に進出するきっかけがつかめたからです。

これにより、エジプトはソ連製の最新鋭兵器を手に入れることに成功しました。

■非同盟主義
ナセルはエジプトが大国との同盟により、
以前のように食い物にされることを嫌い、
西と東のどちら側にも組しないとの方針を打ち出しました。
もちろん、こういう行動は国民やアラブ諸国からも拍手を送られました。

しかし、現実はイスラエルに対抗する武器を手に入れるため、
チェコスロバキア経由でソ連から兵器を買うことになってしまいました。

■アスワンハイダム
アスワン・ハイ・ダム、つまり旧アスワン・ダムの
さらに上流に作られた新アスワン・ダムです。

この新しいダムによって電力の供給を賄い、
近代的な都市を作り上げ、なおかつ氾濫によって
定期的に発生する農耕の停滞を防ぐという計画です。

しかし、ナイル川をせき止めて作るため、
恒例の氾濫によって肥沃な土地となっているナイル川周辺の農業や遺跡が水没しました。

さらに、事業費が莫大であり、
アメリカやイギリスからの借り入れを当てにしていたのですが、
ソ連に接近したエジプトに対して、アメリカやイギリスが融資を断ってきたのです。

これがナセル大統領の背中を押すことになり、
世界が仰天するような計画が実行に移されることになるのですが、
ダム自体はソ連の融資により1960年1月9日に工事が始まり、
1971年1月15日に完成する事が出来ました。


そして、そのとんでもない計画とは・・・。

■スエズ運河国有化
スエズ運河はエジプトにありながら、
通行料のホンの一部が国庫に入るのみで、
あとは大株主であるイギリス帝国とフランスに利益を搾取されていたのでした。

このことから、ナセル大統領は常々スエズ運河の国有化を計画しておりました。

そこへ、アスワンハイダム建設費の融資取り下げで、
資金のめどもたたなくなり、
ついに1956年7月26日の革命記念日にナセル大統領は国有化を宣言しました。
こうして、得た利益はアスワンハイダムの建設費に当てると言うことです。

これを聞いてびっくりしたのはイギリスとフランスです。
自分達が得てきた利益が一夜にして無くなるという事態になり、
両国はスエズ運河を取り返すため、イスラエルを誘い戦争を計画します。

こうして、イギリス、フランス、エジプトにイスラエルを加えた四ヶ国は戦争に突入したのです。

この戦争はスエズ動乱(第二次中東戦争)と呼ばれました。

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