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1928年、アリエル・シャロンはパレスチナで生まれました。14歳になる頃、ユダヤ人武装自警団『ハガナ』に入隊します。
1948年、第一次中東戦争ではアレキサンドロニ師団の歩兵小隊の小隊長を務めました。
1953年、対ゲリラ特殊部隊の『101コマンド部隊』を設立し、自らが隊長に就任します。この部隊はヨルダンやガザからイスラエルに侵入してくるゲリラに対する報復部隊でした。
1956年、第二次中東戦争が勃発するのですが、この戦争はイスラエルの攻撃によって開始されました。この時、シャロンは空挺師団の司令官に就任していました。開戦時に、このシャロン率いる空挺師団がエジプトのシナイ半島にあるミトラ峠に降下し、エジプト軍の進撃を阻みました。
1967年、第三次中東戦争では、機甲師団の司令官として参戦し、今度は戦車でもってシナイ半島のミトラ峠を攻めました。
1969年、イスラエル南部軍管区司令官に任命されました。
1972年、シャロンはイスラエル国防軍を退役しましたが、すぐ第五次中東戦争(ヨム・キプール戦争)が勃発します。エジプトとシリアの奇襲で始まったこの戦争は、イスラエル国防軍に大打撃を与えましたが、シャロンも召集され再び機甲師団の司令官に就任し、予備の部隊を率いてシナイ半島へ駆けつけました。
シャロン師団長はスエズ運河を越えて進撃し、活路を見出す作戦に出ます。この作戦は当たり、エジプト軍は次々に撃破され、イスラエル国防軍はなんと本当にスエズ運河を越えたのでした。
1973年、戦争が終わるとシャロンは予備役に戻り、今度は政界に進出し国会議員になります。しかし、議員は一年で辞職しました。
1977年、シャロンはもう一度国会議員となります。そして、ラビン内閣で'81年まで農務大臣を務めました。
1981年、ベギン内閣で国防大臣に就任します。
1982年、アブ・ニダルのゲリラに駐イギリス大使のシェロモ・アルゴブが襲撃されると、シャロン国防相の立案によるPLOの基地があるレバノンへの侵攻作戦が決定されました。
元々シャロン国防相はPLOの攻撃に対抗して、レバノンへの侵攻作戦を積極的に上申していました。しかし、ベギン首相は部隊の派遣ならともかく、侵攻作戦となると許可が降りなかったのでした。
そんな折の大使襲撃事件です。これがきっかけとなり、イスラエルはレバノンに侵攻したのでした。
1983年、侵攻したレバノンでイスラエルと同盟していたレバノン民兵レバノン・フォースが、パレスチナ難民キャンプへ押し寄せ、難民を虐殺しました。これは、レバノン・フォースのリーダー、バシール・ジェマイエル大統領の暗殺に対する報復でした。
この虐殺をイスラエル国防軍は傍観していたため、国際世論から叩かれシャロンは国防大臣を辞職し、無任所大臣となりました。
1984年、シャロンは無任所大臣から、経済産業大臣に就任します。('90年まで)
1990年、建築大臣に就任します。('92年まで)
1996年、ベンジャミン・ネタニヤフ内閣で、国土交通大臣に就任します。('98年まで)
1998年、外務大臣に就任します。('99年まで)
2000年、アラファト議長に譲歩を重ねる、バラク首相の弱腰を非難し、シャロンはイスラームの聖地、神殿の丘を訪問しました。
この訪問を挑発と受け取ったパレスチナ人が暴動を起こし、それを抑えきれないバラク政権は崩壊しました。そして、シャロンのリクード党が政権を分捕ったのです。
2001年、イスラエル首相に就任しました。
2005年11月21日、リクード党を離脱します。そして、25日には新党を旗揚げします。新党の名前はカディマ党です。
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