ゑびす おみくじ 第弐番 不思議に当る 中吉 運勢 思ひもかけぬわざわひに胸を痛むも心静にゑびすの神に幸をねがひつゝ 身をつゝしみ居れば 雪の朝日に消ゆるが如く楽しみ必ず来る 今は何事も控えるべし ○ 願望 心配多きに無理に事をなすはあしし 時をまて叶う ○ 商法 売買共にり少し ○ 農業 損なく利多からず ○ 方向 北の方万事よろし ○ 縁談 途方にくれて迷ふ事あり見定めよ ○ 出産 安心すべし難なし ○ 病気 思はず早くなほる ○ 争事 人の意見に任せ吉 ○ 失物 必ず出づ早く探せ ○ 待人 来らず来るも遅し
神様の お告げ通りに 驕らず こつこつと 心は 上向き 姿勢は 下向に ・・・
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◆ 神 ◆
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『 お初天神 』 思い通りになる運です。
短気をいましめ、身をつつしみ、 何事も静かに他人とよく相談してから事をおこなうこと、 幸運です。 今日のテラオは、久しぶりに大阪に行ってきた。 大阪で働いていたころに、よく行っていた(仕事をサボって・・ね)お初天神様で御神籤をひいてきた。 露天神社 「お初天神」 創建以来1300年の歴史を持つ古社。 曾根崎・梅田地域の総鎮守として現在も崇敬を集めています。 【露天神社の由来】 通称「お初天神」、正式名は「露天神社」 (つゆてんじんじゃ)。 社伝によると、当社は上古、大阪湾に浮かぶ小島の一つであった現在の地に、「住吉須牟地曽根ノ神」を祀り御鎮座されたと伝えられており、「難波八十島祭」旧跡の一社である。曽根崎(古くは曽根洲と呼ばれた)の地名は、この御神名によるとされている。創建年代は定かではないが、「難波八十島祭」が文徳天皇の嘉祥三年(八五○年)にまで遡ることができ、六世紀の欽明天皇の頃には形が整っていたとされることから、当社の起源もその頃と推察される。 なお、承徳元年(一〇九七年に描かれた「浪華の古図」には、当社の所在が記されている。 南北朝期には「曽根洲」も斬次拡大し、地続きの「曽根崎」となった。この頃、北渡辺国分寺の住人・渡辺十郎源契や渡辺二郎左衛門源薫ら一族が当地に移住し、田畑を拓き農業を始め、当社を鎮守の神とし曽根崎村を起こした。 以後、明治七年(一八九四年)の初代大阪駅、明治三八年の阪急電鉄梅田駅開業などとともに地域の発展に拍車がかかり、当社も大阪「キタ」の中心、梅田・曽根崎の総鎮守として崇敬を集めるに至っている。 注:「難波八十島祭」 古代難波において、王権のもとに執り行われた最も古い祭?とされ、奈良時代には即位儀礼の一環として、即位の翌年に、天皇自ら難波の海辺に行幸し斎行されていたと考えられている。 近松門左衛門作「曽根崎心中」より元禄16年4月7日、堂島新地天満屋の遊女「お初」と内本町平野屋の手代「徳兵衛」が露天神社の森にて情死する事件が起こった。 これを近松門左衛門が「曽根崎心中」として劇化、大評判になり、以後たくさんの参脂回向の老若男女が押しかけた。 以後、人々は露天神社を「お初天神」と通称するようになった。 今も恋の成就を願う多くの人々が訪れています。 昌泰4年(901年)2月、菅原道真公が筑紫へ左遷配流される途中、福島に船泊まりされた折りに、当神社東方に伽藍を構える「大融寺」に船頭茂大夫の案内でご参詣されました。その道すがら、当地で、 「露と散る涙に袖は朽ちにけり 都のことを思い出ずれば」 と詠まれたことが神社名の起こりとされています。 菅公大宰府にて御他界の後、その道徳を偲び奉り合祀し、右の御歌うより 【露の天神社】 と称することになった。 【御祭神】 少彦名大神 大巳貴大神 天照皇大神 豊受姫大神 菅原道真公 大阪市北区曾根崎2丁目5番4号 JR大阪駅から徒歩10分・北新地駅から徒歩5分・地下鉄東梅田駅から徒歩5分 現在も梅田、曽根崎地区の鎮守として信仰を集めている。 |
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『 市比賣神社 御神籤 』 今年 四枚目 第七十九番 半吉
▼ このおみくじにあたる人は、
としおいて若がえるがごとくふたゝびさかえにおうてたのもしきすがたなり神仏を祈りてよし
▼ よろこび事半吉のちはよし
▼ 病人長引信心あらば本復すべし
▼ 待人おそし
▼ のぞみ事かなうべし
▼ あらそい事半よし
▼ うせものおそく出る、ふしん、やうつり、こんれい、人をかかえること、旅立よろづ半吉
▼ うりかい急ぐはあしゝ
▼ 耺は刃劔、金物るい鏡るいは何にてもよろしけれど木か紙に縁あることもよし
▼ 子宝おゝし
▼ 冬枯れをいたむもしばし春くればよろこびのいろ野に山にみつ
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『京都 ゑびす神社』 |




