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No.261 まぼろしの平塩寺

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まぼろしの平塩寺

平塩寺の研究の結果第2弾を紹介します。,任蓮◆嵎娠寺の成立は、大般若経の奥書から『鎌倉時代に北条時頼により武田信光への謝恩と追福のため建てられた説(1248頃信光卒去)』が有力」と話しました。では、平塩寺を生んだ平塩岡はどのようなところなのかを話したいと思います。
平安時代、平塩岡は甲斐国では一番古いといわれている法勝院の荘園、市河荘の中心でした。在地の刀祢(田畑の検注などを行っていた在地有力者)がいたと思われます。お寺の荘園ですので、仏教とは縁が深いところだったことでしょう。その在地有力者が市川氏であったと思います。
甲斐源氏の祖とされる義清が1130年頃、市川庄に配流か、何らかの理由で移ってきたか、市川庄に住み着きます。市川家の文書に「市川内膳は峡南第一流の名家にして、世々武人にて神官を奉仕す、遠祖は甲斐源氏新羅三郎義光の三男刑部三郎義清の次男清房に出づ、」とあります。今の市川家は義清の息子清房から始まると書かれてますが、五味文彦先生を初めとする歴史家が「在地有力者である市川家と姻戚関係を持ち勢力を伸ばした。」と、発表していますので、義清以前からの家柄といえるでしょう。
さらに五味文彦先生は、「義定[安田] は治承四年八月二十五日に頼朝の石橋山の合戦を聞いて甲斐を出発した際、市川別当行房らを引率している。義定の父が義清であったとすると、義清はこの市川氏の娘婿となって、安田義定を出生した可能性も考えられよう。」と発表されてい
ます。鎌倉幕府が興る時から市川氏は関わっていたことが分かります。
鎌倉時代は武士階級の支配となり、安定した世の中になり、仏教界が繁栄した時代です。新仏教が興り、旧仏教といわれる天台宗、真言宗が本流となり、平塩寺が誕生しました。東院に福寿院、西院に宝寿院を配し多くのお堂や伽藍が立ち並び、学問僧が修行する巨刹です。夢窓国師が得度した所で、花井寺本・法善寺本の大般若経も作成されました。
室町時代は幕府が京都に移り鎌倉時代ほどの繁栄ではないでしょうが、平塩寺に実相寺本の大般若経があったと思われますので、大寺の体裁は整っていたと思われます。
平塩岡は古くからの紙の産地で、室町の終わりから戦国時代には、民家が紙漉に便利な水の便の良い岡の下に移りはじめ、幾つもあった寺院も下に移り、徳川家康が平塩岡に滞在し時にはすでに幾つかのお堂を残すのみとなり、上野村の薬王寺さんが平塩岡の平塩寺を兼帯する状態となっていました。『甲斐国志』(1806〜)が制作された時には松林や畠地となってしまいました。

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広島にも武田家の縁者の居城跡(武田山)が残っています。毛利に滅ぼされたとの事です。また、平塩(ひらしお)と言う苗字の人もおりますので、平塩寺と何かつながりが有るのでしょうか。

2010/11/30(火) 午前 11:10 [ ぬ〜 ] 返信する

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