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与田孝の生家は酒造業

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『依田孝の生家は酒造業』


 先月号を読んだ方から当社が保存活動をしている二葉屋酒造は、元は依田孝の生家だったと教えてくれた方がいました。二葉屋酒造は明治38年の創業なので可能性があると調べました。
市川三郷町の図書館の方が、依田孝のことなら有泉貞夫先生がと紹介してくれました。先生は京都大学文学博士で、山梨県史の近現代部会長をされた方です。
依田孝の生家の場所はこの辺りだが、代々酒造業や父が依田伊祖右衛門だとはっきりしているので、安政四年の市川大門村の古地図で調べるようにと指導を受けました。早速教育委員会の和田さんに頼み古地図を見せてもらったところ、現在二葉屋酒造のある場所には依田伊右衛門とありました。また酒造場の2棟続きのお倉も今と同じ中北の道に沿って伊右衛門酒造場とありました。依田伊祖右衛門と依田伊右衛門と継承されているともいえる範囲と、苗字をもつ家柄が少ない時代ですので、この地は孝の生家であろうと考えられます。
市川マップの会では町並みウォッチングで、平塩の岡にある甲斐源氏旧跡碑を建てたのは郡長依田孝が中心となったこと。字は太政大臣三条実美公によると紹介し、依田孝は中央政界の方にも力があったのだと説明してきました。地方自治・行政に尽くし、区内郡内に尽くし、区内郡内の争いを円満に収めたことなどの逸話も少なくない、明治の偉人、郷土史にかがやく人でした。
 

依田孝伝より


 依田孝は、嘉永四年(1851)に市川大門村の何代も前から酒造業を営んできた裕福な長百姓(村役人)の長男に生まれる。幼名豊之助、修三。明治6年、23歳で八代郡第12区(市川大門・高田・山保)の副戸長になる。10年、県会に民権運動家となり、区長であったため官選議員として登場。11年、「第2回地方官会議」のため上京、傍聴は許されてなかったが自由民権思潮に触れ見聞を広め、甲府・市川で演説会を開く。12年、県会議員のはじめての選挙に当選、副議長となる。藤村県令を批判し、県の開明を進めようと『峡中新報』がスタートし株主総理となる。13年、山梨県最初の政治結社である「峡中同進会」が結成され総代として太政大臣三条実美に宛て国会開設の請願書を捧呈したが受理されず、抗議して秋まで交替で運動をする。14年、山梨の代表として不平等条約下、生糸の取引の改善のため横浜で奔走するが良い結果は得られず、列強の強さを痛感したと思われる。官民一致して国力を挙げなければと決意したのか、その後県会副議長を辞し、県令の腹心の部下が.座る役職である西八代郡郡長となった。この転身は驚きをもって迎えられ週刊紙『かなめ新聞』の戯画ともなった。その後、県会議員・郡長を歴任し、第一回総選挙から第三回まで国会議員を目指すが落選。その頃より家産も傾き始め、32年、南巨摩郡.郡長を辞任して東京に移り住む。36年、息子の病気看護のため帰峡中肺炎に罹り死去された。
 
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