邦文堂ブログ

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『山梨郷土史年表』等から市川三郷町の関連記事を抜粋し、歴史をたどってみました。
 市川の歴史は縄文中期時代からはじまります。遺跡が旧市川大門の大木地区の宮前遺跡と家の前遺跡や旧六郷から甕形土器、壺形土器の破片などが発見されています。弥生時代は旧三珠に大塚、伊勢塚、エモン塚、狐塚など高塚があります。平安時代の初め、弓削神社が官社に加えられていて、集落が形成され、統治者や神主がいたことがわかります。864年に富士山が爆発しました。
969安和二年には、甲斐国の荘園の中で、最も
古い市河荘が、法勝院領目録に登場します。法勝院領目録が火事で焼失のため、新たに書類を提出した資料の中にある一文です。したがって市河荘が荘園になったのは、この時より以前で、寺の荘園である為寺もあり、荘司がおり、その役を市川氏が務めていたと思われます。1081年白河天皇御脳みあらせられた時、市川氏(神主)が京都に上って在り、占術祈念の法力に名高かった為、参上し占はしめたところ主上の御脳み忽ち御平癒あそばされ、五十一末社迠御造営下され、其上梵字の文珠画像及品々を寄進されています。
1130大治五年、この荘園の管理者として義清が
平塩に居を構え甲斐を治めます。息子の清光は逸
見の里に、また、清房は市川内膳行房と改め、御崎(表門)神社の神主となります。
この時中央ではこの地域を青島荘(長講堂領)とされていましたが地元では市河荘と呼んでいました。1180治承四年安田義定は頼朝の石橋山の合戦を聞いて甲斐を出発した際、市川別当行房らを引率しています。1248宝治二年北条時頼は武田信光の冥福を祈って市川荘(平塩)に寺を興したと記されています。この寺が天台百坊の平塩寺ですす。す。が創立されました。
市川氏はその後幕府の武人として各地で活躍しております。1244還元二年市河入道見西、旧妻藤原氏の落合泰宗との密通に対し荏柄社に起請文を書きますが、藤原氏女の無実が証明され、市河見西の所領甲斐市河屋敷等は氏女に領掌されますが、市河屋敷は氏女の死後見西の子孫に譲ることに決められます。これは甲斐市川は市川氏の本家である為でした。
1283弘安六年夢窓国師 (国師九歳)は平塩寺において空阿大徳のもと得度します。才能を発揮して群書を読みました。母を幼くして亡くしているためか、死体が九つ変化する絵を描いています。十八歳の時、叔父の明真講師を頼り、東大寺に行き慈観律師に列し具足戒を受け、顕密二教を学び平塩寺に戻ります。しかし、天台の講師が急死した時見苦しい姿を見て疑問を持ち、教外別伝・不立文字という密教祈祷に傾きます。国師は法燈国師に参じようと高野山を目指しますが、途中友人の徳照に会い、「叢林に在って規矩を学ぶべし」と建仁寺に行く事を勧められます。四年の修業の後、一山一寧と相看となり、楞厳頭(れんねんじゅう)となり一山一寧の首座となりますが、師とは言葉の通じない事もあり高峯顕日に傾倒し、三十一才の時、高峯顕日から印可を受けます。甲斐に帰り両親に会い。後に牧庄に浄居寺を開創しました。
この平塩寺は大般若経を所有しており、大般若経<六〇〇巻>を作成した寺です。平塩寺で書写されていた大般若経には花井寺本と法善寺本がありました。<つづく>
 
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はじめまして、初めてコメントを投稿させて頂きます。

私の苗字は市川で、現在、甲斐の市川氏を中心に市川姓の一族の系譜を研究している者です。

さて、国会図書館に所蔵されている甲斐源氏一族の八代氏の家系図の記述によりますと、市川別当行房は、源義清の次男の方原次郎師光の長男である市川別当大夫行光の長男とあり、行房の弟として市川別当次郎貞光・市川三郎行平・市川別当六郎行氏の記載があります。

吾妻鑑に見える市川別当行房が、源義清の血を引く甲斐源氏の一族であることは確かですが、市川氏以外の他の甲斐源氏一族に伝わる系図をひもときますと、源義清―方原師光―市川行光―市川行房が実系ではないかと思います。つまり、源義清系の市川氏は、義清の孫である市川行光が初代ではないかと思われますが、市川三郷町の地元の伝承はどうなっているのでしょうか?ご教示頂ければ幸いです。 削除

2010/8/5(木) 午前 7:18 [ 市川@埼玉県北部 ] 返信する

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先日の補足です。国会図書館蔵書の各家系図に収録されている“青木家譜系図”によりますと、源義清の子供としては、黒源太清光・方原次郎師光・竹川小次郎清秀・逸見四郎清泰・武石七郎光方・落合九郎義経・女子(諏訪氏室)が記載されておりますが、清房はありませんでした。その代わり、方原次郎師光の長男に市川別当大夫行光を載せ、さらに同図書館所蔵の諸系譜という典籍に収録されている八代家系譜にはその子供として先日の投稿に記した通り、市川別当太郎行房等を記録しています。
また、ネット上の資料によれば、源義光の嫡子で三井寺金光院初代院主である刑部禅師覚義には頼圓・頼儀の二人の子供がおり、頼圓は「市川太郎別当文殊院律師民部卿」を名乗ったと伝承する甲斐源氏一族の系図も存在する模様です。

これらを含め、何かご存知のことがあれば、ご教示頂ければ幸いです。 削除

2010/8/9(月) 午後 5:18 [ 市川@埼玉県北部 ] 返信する

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市川氏のお尋ね返事が遅れて申し訳ございません。
武田家系図は数多くあり、山梨の郷土研究家や
歴史学者がそれぞれの考えをお持ちです。
武田氏研究の冊子も刊行されています。

私が知るところはほんの一部です。
今、市川大門では、市川氏の事で中倉茂先生が研究途上です。
義清の子として清房が載っているのは、昭和42年に発行の『市川大門町誌』P506の武田氏系図と大正時代に若尾文庫に集められた資料の「市川内膳」にあります。
詳しい情報が欲しい場合は、お手数でも住所氏名を教えてくだされば、コピーを送ります。 削除

2010/9/7(火) 午前 9:51 [ hobundo ] 返信する

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hobundo様

ご多忙中にも関わらず、ご返信頂き、誠に有り難うございました。

また、市川清房を刑部三郎源義清の子供とする資料をお教え頂き、深く感謝申し上げます。

曽我物語には市川城小太郎(市川行房?)は「兄弟五人」とあり、この「兄弟五人」とは八代家系譜に掲載の市川行光の子として記載される四人に、曽根禅師厳尊の子で市川太郎別当文殊院律師民部卿頼圓の養子になったとされる市川別当大夫頼尊を加えた五人なのでは…と愚推しておりましたので、清房=市川行房を源義清の子とする甲斐の地元の市川氏の伝承を大変興味深く思っております。

hobundo様がご提示なされた文献史料は未見ですので、お言葉に甘えさせて頂きまして、後日、当方の連絡先をお知らせ致しますので、お分け頂けば幸甚です。 削除

2010/9/9(木) 午後 8:33 [ 市川@埼玉県北部 ] 返信する

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hobundo様

先日、御社にメールにて、ご連絡させて頂きました。
こちらで使用したハンドルネームの「埼玉県北部」は、私の父方の市川家の出身地域で、現住所はメールでお知らせしました場所です。

御業務ご多忙中、ご迷惑をおかけ申し上げ、大変、申し訳なく存じますが、御善処・御高配の程、重ねてお願い申し上げます。 削除

2010/9/16(木) 午前 7:06 [ 市川@埼玉県北部 ] 返信する

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