邦文堂ブログ

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先月号の続きで『山梨郷土史年表』等から市川三郷町の歴史をたどってみます
1351正平六年夢窓疎石が亡くなります。1365貞治四年制作の板石塔婆といわれる板碑が村松与左衛門墓より出土されています。1499明応八年四尾連の石造の地蔵菩薩が作られています。
1553天文22年武田信玄は川中島合戦の前に甲斐の寺社に戦勝祈祷を命じていますが、平塩寺ではなく薬王寺に命じています。その時はすでに平塩寺は衰退しており、薬王寺に移っていたと思われます。平塩寺の衰退は平塩岡から民家が紙漉の生業のため、水の便の良い低地に移ったことが原因と思われます。1577天正五年に勝頼は、依田三郎左衛門尉に本領市川本所の内篠尾分七十貫文の内定納二十五貫三百文ならびに恩、棟別の公事・本領を安堵しています。この本所は平塩岡で低地は新所といわれていました。
1582天正十年家康が、市川に着陣し滞在します。その後、徳川家康の家臣大須賀康高、家康の命により入峡、市川郷で国事の沙汰を行い成瀬吉右衛門・日下部兵右衛門が奉行となっています。この平塩岡は甲府盆地を一望の下に見渡せます。
 1583天正十一年家康は市川紙工の諸役を免除し、後に徳川幕府の御用紙となり、市川が栄える一因となります。
1612慶長十七年富士川舟運が試造されます。これにより甲府盆地の年貢米が黒沢(市川)鰍沢、少し遅れて青柳に集まり、塩などの駿州からの荷物の上がるところとなります。
1659万治二年、八宮良純親王、積翠寺村(甲府市)興因寺に蟄居中のところ罪を許され京に帰られます。この蟄居中の数年前、上野にある薬王寺に
住職との関係で滞在した。親王は超能力者で
あられたようで多くの伝説を残しています。表門神社の神輿の「川渡り」は、親王が橋で見学なされていた為、その前を通るのは恐れ多いと川を渡ったのが始まりといわれています。
1685貞享二年八代市川大門村の一瀬調実、甲州における最初の俳書『白根嶽』を著しました。今の廻木紙店のご先祖で、肌吉衆(御用紙)の一人で、現在、大昭和製紙に飾られている大高檀紙を運んだ箱はこのお店のものです。
元禄時時代より花火が盛んとなり、神明の花火として日本三大花火の一つと数えられていました。紙の生産や武田時代の烽火の技術があったためだといわれていますが、各丁目で花火の出来を競い、名だたるお店に秘伝の製法が伝わっていました。当時は昼花火で、花火と一緒に傘やダルマ、たこなどが飛び出し、中線の通りで花火の山車から上げて楽しみました。
1716享保年間、山口八兵衛は、高田印沢川の樋門が埋まり水田が泥沼となった為、堀割りを作り泥沼を乾田に直しました。この地は釜無川、笛吹川、芦川が合流するところである為、災害時に、助ける人物が多く伝わっています
1765明和二年市川大門村に三万石を支配
する駿府の出張陣屋が設立する。1793寛政七年には甲州の市川代官所となりました。
1814文化十一年河内領八十七カ村と市川大門・西島両村との間に楮・三椏輸送に関する問題が8ヶ月ほど続きました。   <つづく>
 
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