邦文堂ブログ

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『夢窓国師と平塩寺』

 天龍寺の座敷の入り口に、夢窓国師のたどった軌跡の地図が掛けられていて、その軌跡の始まりは「平塩寺」とあります。七朝帝師として有名である夢窓疎石の第一歩が平塩寺であったことを伝えています。この平塩寺は我町市川の平塩岡にありました。
 夢窓国師は鎌倉から室町時代の激動の時代に政治の実権を握った人々から崇敬されました。天龍寺は、夢窓国師が足利尊氏に、後醍醐天皇らの菩提を弔うため、天皇が愛した京都嵯峨野に建てるよう進言した寺です。また、その資金調達のため天竜寺船の派遣を献策したことでも有名です。
夢窓国師は建治元年(一二七五)に伊勢国 に生まれ、四歳の時、母方一族に混乱が生じ、伊勢から甲斐に逃れてきましたが、母を八月に亡くしました。多くの宗教者と同じく、この母の死が国師に大きな影響を与えたことでしょう。幼くして仏像を敬い、経を誦み、文字を覚え、人々は国師を再来人だといいました。
 六歳の時には、性質は温厚で、他の子どもと遊び力ずくで争うこともなく、筆を執っては書を学んでいました。九歳の時、国師は父に連れられ、平塩寺 空阿大徳の許で出家します。空阿は国師の非凡さを見て、孔孟老荘の教えや世間の伎芸まで教えました。梵書を読めば暗誦し、その義理を尋ね奥義を究めました。平塩寺は教院としてかなり広範囲に学べたことが分かります。十歳の時には、母の七周忌に、人に言われたからではなく、自ら法華経を七日間唱え冥福を祈ったそうです。
 十二歳では、平塩寺から十日に一度帰省し、新しい母に愛され、母が御馳走を作ってくれると、近所の子を招いたそうです。十四歳では、夢窓国師は母を幼くして亡くしたためか死体が九つに変化するさまに興味を抱き「死」に関心を持つ少年でした。十八歳になって、叔父の内山明真講師を頼り、その指示で東大寺に行き、慈観律師に列し登壇受戒しました。平塩寺に戻ってからは外書技芸を学ばず、専ら仏書を学びました。十九歳の時、密教を学びながら天台の講義を聴いていましたが、その講師が病で急死しました。しかし、その見苦しい臨終の様子に疑問を持ち、教外別伝・不立文字という「禅宗」に興味を抱きました。密教祈祷の道場を結界し、百日を限りとして本尊仏を厳飾し籠りました。結願三日前、突然に国師は禅寺に導かれ、「疎山」と「石頭」に導かれました。そこで和尚から達磨の半身の珍相の軸を渡され、国師は禅宗と契縁のあるのを知ったのです。
 
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