邦文堂ブログ

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夢窓国師と平塩寺2
 
 
 二十歳、禅宗に契縁があると確信した国師は、禅宗と密教を兼ねている法燈国師を師にと紀州由良の西方寺に向かいました。しかし、途中で友人の徳照に会って、「禅寺において規則を学ぶべし」と建仁寺に行く事を勧められ、その道を選択しました。修行に励み、二十三歳では、国師は声が美しく音楽的才能があったために、楞厳頭(お経の各段の始めに文言をひとりで唱え音頭をとる役)に選ばれました。二十五歳には、鎌倉に行き、元の渡来僧である一山一寧と師弟の縁を結びます。その後、一山一寧の首座となりました。しかし、師と言葉が通じないなど分か合えないこともあり、臨済宗の高僧である高峯顕日(後嵯峨天皇の皇子)に傾倒します。その後、二人の師から指摘された「論理の世界に留まる」自分を断ち切るため、人との関係を切り、自然に身を置き悟りを得ようと修行し、苦悩します。
 三十一歳、初夏に臼庭で涼をとっていたところ、暗くなり庵に入ったとたん誤って転倒してしまい、おもわず失笑した時に忽然と悟りが開かれました。十月に、高峯顕日との問答をして、印可を受けられました。
 即日、甲斐に帰り両親に会い、牧庄(現山梨市)の主の要請で、浄居寺の住持となりました。三十四歳に、鎌倉に行き高峯顕日に印可の恩に報いました。さらに、一山一寧の許に行き所解します。
 八月、甲斐市川の平塩寺において、静達上人から思いがけず密教の伝法を迫られますが、国師は、ただ静かに「はいはい」と聞くだけでした。
 三十五歳の時に、高峯顕日に仕えますが、国師のところに修行僧が日夜訪ねてきてしまいます。そのため高峯顕日に遠慮して国師は、再び甲斐へ帰りますが、その後、高峯顕日から書簡が届きます。その手紙には国師を長老と呼びかけてあり、「末世の乱幣を一体誰が救うのでしょうか。あなたは、孤峰頂上に草庵を結び、お釈迦様をしのぐ勢いで向上の家風を堅持して、膠で切れた弦をつぐように、衰えた仏法を再興しなければならない。」と書いてありました。その後もこの二人は会う事はなかったのですが交流は続きました。三十七歳、甲斐の龍山庵(河浦)を結びますが、国師の風を慕って集まるものが多く、庵を別のところに移します。三十九歳、荒廃した甲斐の真言宗の古長禅寺を禅宗寺院に再興しました。その後、訪れる僧を避けるようにして隠遁への思考が明瞭となっていき、美濃の長瀬山、京都の北山、土佐の五臺山等に庵を移し、十五年山野に過ごします。
 

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