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 国文祭、五味文彦先生 講演

 4月14日(日)、東京エレクトロン韮崎文化ホールにて国民文化祭の催しで、放送大学教授・東京大学名誉教授の五味文彦先生が「戦国文化の意義と継承」と題し、基調講演をされました。その内容を紹介します。
 戦国時代は、激動の時代で明日はどうなるかわからない時代から、地域が統合されて地域国家が形成されていった時代である。また、お城と古墳を、人々が自分たちで造った統合の象徴・モニュメントであるとし、古墳が地域統合の象徴であり、その後の律令国家への足がかりとなったように、戦国時代のお城も守る人や守られる人の象徴となり、近世の幕藩体制への基礎単位となっている。
 次に甲斐国に目を向けると、武田氏は12年周期(干支)で象徴的出来事があり、それをたどることにより戦国大名として成長していった過程がわかる。まず、基軸となる年を、晴信(信玄)の自立ととらえる「父信虎追放の時」に置く。晴信が譜代の家臣の支持を得て父を追放したことは非情に映るが、当時の下剋上の時代にあっては、平和的な王殺しである。次の12年後は、川中島の戦いの始まりで、上杉謙信が信濃へ出兵した年に当たる。その12年後は、勝頼と信長の養女との婚姻があり、その後、今川氏との姻戚関係のある嫡男義信を廃嫡にし、駿河へ侵出した布石となり、ひいては中央を目指す西上作戦へと通じた。
 この12年のサイクルは信虎追放以前にも適応され、明応2年、甲斐は武田家惣家の兄弟争いで「乱国に成り始め」、その12年後は、兄弟げんかの原因を作った信虎の祖父信昌が死去した。次の12年後は、信虎が国内統一をしたこともあり、川田館から、躑躅ケ崎館に移し。府中(甲府)に城下町を築き家臣を集住させた。12年後、郡内の小山田氏の関係が悪化し、扇谷上杉氏と同盟強化を図ったのは、その後の軍事同盟の始まりである。
 信玄は文化人であり、『吾妻鏡』を学んでいたと思われる節がある。北条義時が父時政を伊豆に避けたのを模して、信虎を駿河に追放し、源実朝が妻を京の坊門家から迎えたのを模して、三条婦人を京より迎えた。鎌倉時代の府中の再現として甲斐府中と称し、鎌倉時代の甲斐の神社を再興して宗教の保護と統制を図ったと考えられる。
 江戸時代、信玄の統治能力を高く評価した徳川家康により、武田家臣を積極的に登用し、信玄の民政と文化が継承され、『甲陽軍艦』により伝説化された。

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