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まぼろしの平塩寺



市川大門の平塩の丘に行基が開基したと伝わる平塩寺がありました。天台百坊といわれた巨寺でしたが、今はなく、また、いつ廃寺になったのか定かでなく、まぼろしの平塩寺ともいわれています。この平塩寺は夢窓国師が弘安六年(一二八三)父に従って空阿上人について出家を志した所であり、大月の花井寺の大般若経四〇五巻の末尾に筆師幸明平塩在八代郡市川とあり、若草の法善寺のものは五五〇巻の奥義に畢阿遮梨平塩寺降舜とあります。また、花園院に四軸の平塩寺過去帳があります。
 長い間、市川に住む人々に愛され郷土の誇りとされていましたが、残念なことに現在は、多くの人がその存在を知らない状態になっています。私なりに平塩寺のことを調べ、気軽に読める物語風にし、地元の皆さんに少しでも平塩寺を知っていただければと、細々ですが調べ始めました。幸いなことに、中倉茂先生が『武家政権鎮護の寺があったー北条時頼が造った平塩寺ー』(一九九七年出版)を書かれていますので、いろいろご指導を頂いております。
 今回は、「平塩寺が何時まで存在したか?」の諸説を紹介します。
☆一五八二年説。浅間社古文書の巻物明治二六年に書かれたものに「天正壬年三月武田家御没落の刻郷礼におよび、敵将織田信長良臣川尻肥後守信胤のためらん平塩山諸堂並びに末社に至るまで悉く波布せり」とある。
☆一六八六年説。貞亨三年の附文書に平塩寺の諸堂が『武家政権鎮護の寺があった』に書かれている。
☆一八〇六〜一八一四年説。甲斐国志巻之八十六に仏寺部第十四 八代郡西郡の一. 平塩山薬師院 同村 同宗同末本尊薬師 を平塩寺の一部が残っているとする。しかし、甲斐国志巻之五十の古跡部第十三と絵地図で、平塩寺廃跡としているので一八〇六〜一八一四年にはもうすでになかったとするとも言える。
 平塩寺が滅びた説に、市川では「織田信長に焼かれた。」の説が根強くあります。私が教えを戴いてる先生方は織田信長は韮崎から甲斐に入ってきており、徳川家康が先に市川に来ているのでこの説はないと言われています。
 焼かれた説の一つに一九九〇年の市川大門文化審議委員の記事、毎月の広報の「平塩山平塩寺 赤池忠則」があります。
抜粋ー一体は古い巻物であり、今の庄の木稲荷の岡にある浅間社のものである。
「そもそも当社開闢は天平年中平塩山平塩寺と号し行基菩薩の開基にて、則ち境内に富士浅間社建立がある。然し変化難避天正壬年三月武田家没落の時、敵将織田信長家臣川尻肥後守信胤の為平塩山諸堂並びに末寺に至るまで悉く焼失せり」 
この原本はどこにあるかと調べましたら、市川三郷町市川大門町民会館二階の古文書資料室のロッカー下段引き戸にありました。五〇センチぐらいのかなり傷んでいる巻物でした。赤池先生の文と少し違いがありますので抜粋します。「そもそも当社開闢は天平年中平塩山平塩寺と号し(中略)武田家御没落の刻郷礼におよび、敵将織田信長良臣川尻肥後守信胤のためらん平塩山諸堂並びに末社に至るまで悉く波布せり・(中略)・明治二十六巳四月十八日 扶桑教会 今社長 元行真」
 明治に書かれた富士講の巻物の書き出しでした。庄の木神社の西側に富士講の石碑が並んでおり、その奥に浅間社の建物がありその中に保存されたのだと思われます。この書き物では「焼失」ではなく「破布」でした。波布を調べたのですが正確には分かりませんでした。ご教授いただければありがたいのですが平塩寺のことも情報があればお願いします。

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