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市川の花火

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 『峡南の郷土』に青嶋長雄氏が、市川の花火作りが特に盛んになったのは、元禄の頃と書かれています。市川の花火は神明の花火と名付けて日本三花火の一つと評されていたそうです。花火作りに必要な紙の生産地であったことや、特に代官所が設けられてからは、原料である硝石が入手しやすいこともあるといわれています。
最初はあしの管に火薬を詰めて火が吹き出すのを楽しむ程度であったのが、高く打上げられる花火になったには、天明6年(1786)二丁目の藤次郎(一説には近藤次郎兵衛)が直径二寸ほどの竹に縄を巻いた筒で、玉火、車火、竜星、などと名付けて火と煙りを空中で開かせたそうです。当時は花火師という職業はなく、花火作りは代官所の許可を受け、古老を中心に数名集まり、祭りの数日前から準備したようです。場所は、東は御崎神社、中が江戸屋治平宅前(中銀市川支店前)西は円立寺、南が宝寿院、北は八幡神社の五ケ所で行ったようです。火薬の配合などの製法については、各組とも秘密にし、古老から中老へと口伝えであったそうです。また、家に伝わる花火の製造もあり、人に知られないため、作り方を符丁で書いて、今でも持っている家もあります。
花火の打ち上げには、代官所の役人が出張し、御幣を先頭に村役人や、百姓中から選んだ見届け人、打上げ方、火消衆が配備されました。打ち上げ場所は、宿の道路で行われ、山車に建てた筒より打上げられました。
 慶応2年(1867)霞江庵翠風の『甲州道中記』に当時の花火の様子が紹介されています。市川別当太郎の神社の神事大祭で花火が上げられていて、昼は往来で、夜は川原で上げられ、町民皆々出る賑わいとあります。火消組が大花火が上がる左右に居て、玉が落ちた板の屋根に、すばやく消していたそうです。昼は350本、夜は500本余り上げられたとあります。嘉永8年に造られた「五丁目の山車」や安政6年に造られた総桐玉入箪笥などが現存しています。

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