邦文堂ブログ

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大門村、安政4年古地図

 8月18日市川アカデミー気軽に行講座で「市川大門の街と代官所」の講演会がありました。菊池邦彦教授が講師でした。
 先生のお話では、大門村に代官所ができたのは、江戸時代が始まって200年後であり、その100年後には明治時代となり、代官所の統治はわずか百年のことでした。大門村は寛永元年(1624)には、千塚村が1807石の時に、1379石だったのが、宝暦6年(1766)には1905石となり、千塚村が1871石となって、大門村は甲斐国最大の村となっています。大門村が千塚を抜いたのは元禄頃(1686〜)だと話されました。大きな村は、村の中に○○町を入れており、大門村は1町目から7町目まであり、安政の4年の古地図を模写され、その説明をしました。
 代官所は村の形成後にできたため、代官所は村の中心の通りから外れ、火除け地を充分とった所にある。これは、代官所を市川に誘致するため、広い敷地を用意したことの証拠である。また、他の村
では寄合を村役人の家でおこなわれたが、大きい村のため会所があり、五町目の一番南が代官所で、会所は一番北側の中北通りにある。牢屋、郷蔵、郷宿、酒造所、料理屋、銭湯があり、借家、借地が明記されている。また、百姓代で夫銭見届(会計監査)が四名いることは大きな金銭が動いたことによると言っていました。
 私がこの地図に注目したのは、今は1丁目といっているのが1町目と書かれており、現在一丁目の御崎神社が、「文殊」とあり、平塩岡には延寿院、花園院、宝寿院、浄蓮寺のお寺の外は3軒しかなく、宝寿院の北側の地域に長百姓で御用紙漉き(肌吉衆)である市兵衛は、道の東に屋敷があり、西には市兵衛店を出してあるのがわかります。水路や、蓮光院の隣に八幡宮御旅所(お神輿の休憩所)、伊兵衛後家、六兵衛娘はる、三郎兵衛隠居、七兵衛母と記入され、その当時の情報のありかたが窺えます。屋号は、近江やと松田やの2軒の記載のみです。慶福院から笛吹川へ行く道に楮問屋、楮置場、渡船頭喜平次、番非人なども書かれ、現在の家並みと比べるなど、いくら見ていても見飽きない古地図です。
 
 
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