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五味文彦先生の歴史講座

 7月29日に東京大学・放送大学名誉教授の五味文彦先生が、旧二葉屋酒造の酒蔵で「市川三郷地域の歴史の力」の講座をしてくれました。20017年に市川大門町民会館で講演をしていただいたので、今回はどのようにしたら、地元の歴史を調べることができるのかを教えてくれました。レジュメには、市川周辺の古代から近世にかけて、史実にある出来事をA4判4枚にびっしりと書かれていました。人・山・食・道がキーワードになるとして、*古墳時代 甲斐文化の黎明(れいめい・夜明け)、*武士の台頭、*鎌倉幕府の形成、*仏教文化広がりの窓口、*禅宗文化の広がり、*在郷町としての展開、*俳諧文化の広がり、*代官所の設置と分けてありました。
 大塚古墳や重要文化財の赤鳥元年銘の神獣鏡が取り上げています。805年に弓削神社が官社になったことが『日本書紀』にあること。甲斐国での荘園の初見が市河荘だと『平安遺文』よりわかること。『尊卑分脈』の源氏系図の義清の欄に「刑部三郎武田冠者配流甲斐国市河庄 出家四十九才」とあること。
 『吾妻鏡』に1180年市川別当行房が相模の石橋山での合戦で、安田義定、工藤景光・子行光らと甲斐国を出発したことや、1186年市川別当行房は、頼朝が鶴岡八幡宮に参詣した時の随兵十名の内にいたこと。1228年〜花井寺(大月市)の『大般若波羅蜜多経』の奥書に、平塩や平塩寺で写経したとあることや、1254年にも武田八幡宮に納められた『大般若経』に書写や校合をしていること。1283年、夢窓国師が九歳の時父に連れられ平塩寺空阿大徳の許で出家し、その後禅宗に転じたこと。1540年武田信虎印判状に市川に住む矢作衆に特権付与したこと。1583年徳川家康奉行衆書状に市川之はた吉の名があること。1685年市川の肌吉衆の一瀬調実が『俳諧白根嶽』を刊行したこと。―和歌は貴族、連歌は武家、俳諧は町民文化である―市川の花火は 代官所の許可を受け、三河国吉田・常陸国水戸とともに日本三大花火の一つとして知られ、神明の花火と名付けられたことなど、史料名を挙げ、市川の歴史の流れを話されました。市川は、交通の要所であり、人物も多く輩出しており、宿場町が形成されていたことなど歴史ある町だと再認識しました。また、先生は、皆さんでそれぞれ興味のあるところを深堀して、それこそ町誌を作られたら愛情あふれる文面でいいものができるでしょうと話されました。

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