送り手側はある社会的事象について、言説化・表象化の作業を行う際、当該事象の全ての事柄について記号化することはできず、そこには送り手による取捨選択の作業がなされている。 つまり、ある物事に対し、記号化しようとする時には「語られているもの」/「語られていないもの」の二分法が生じることとなる。 ここで、「語られているもの」/「語られていないもの」の二分法が存在すると規定した時、過去の出来事であり、時間的に経験できえぬ場合、また同時に物理的・空間的な要因によって自分自身(読み手)の体験として直接的に知覚できない場合、ある種の問題が発生する。 自分では知覚できえなかった出来事は、なんらかの記憶装置・情報伝達装置を媒介手段として我々に伝達されるのであるが、その際「語られなかったこと―語りえないこと―は、出来事として存在しえないことになる」(岡,2002,7p『記憶物語』) 「平和」というテーマのもと博物館が活動を行ない、「平和」に関する出来事を集め、それを展示・表象することについては、どのような点に焦点が当てられるのか。 いかなるメッセージや展示構成・及びその空間によってなされているのか、送り手である博物館側の意味づけの社会的枠組みは何なのか。 そこでは博物館という文化装置を用いてどのような価値観やイデオロギー性を記号化し、送り届けようとしているのか。 送り手側の意図と、彼らを取り巻く社会的枠組みを踏まえたうえでの分析は、展示の伝達機能に対し、博物館の「権力性」を明らかにすることにもつながる。 「博物館の権力性」「博物館の政治性」に関しては吉見、福田、金子らの仕事ですでに言及されており、展示をともなうイベントには色濃く製作者側の意図が存在することとなる。 また、こうした博物館の政治性に関する研究に加え、近年での博物館研究では、来館者に対する積極的な研究がなされている。 展示物の受け手として来館者の存在は、これまであまり注目されていなかった。しかしながら、展示という形でエンコード(encode)された事象に含まれる意味は、送り手のみの存在によって成立するものではない。そこには受け手としての来館者の存在が不可欠である。展示物を読み取り、解釈し、反応する行為があってこそはじめて展示に関する伝達行為が成立しうることとなる(decode)。 こうした研究は橋本・三木らの仕事によって、広く認知されつつあるが、そうした来館者の存在が重要であることを念頭に置きながらも、展示物の一連の受け手としての来館者の反応過程についてまでは積極的に取り扱うことは今後の課題でもある。 つまり、こうした研究からは、展示対象となる事象について記号化(encode)、解読(decode)の両過程がどのように成立し、送り手側がいかなる社会的な枠組に影響を受け、社会的枠組の中の言説を構築しているのか。そして、その構築された展示物としての言説を受けて側はどのような社会的枠組みにともなう解釈フレームによって受け取り、理解しているのかといった両者の「平和」に関する展示記号をめぐる関係について考えなければならない。 「平和」というものに対する個々人のイメージは千差万別であり、複数存在する。 しかしながら、平和博物館で語られる「平和」は各々の館の理念・性格、事情等々により変化しながらも、概ねある程度一定のイメージに変換され、集約されてしまっている。 そこにはある一定のイデオロギー性や社会的制約といったような「外的要因」と、展示をどのように展開し、博物館が意図する意味を発信しようとするのかという、レトリック的な「内在的要因」が存在すると考えられる。 |
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太平洋戦争の資料を展示した「戦争と平和の資料館 ピースあいち」が 2007年5月4日、名古屋市名東区よもぎ台にオープンしたそうです。戦争の記憶を次世代に引き継ぐということは、あらゆる意味において大切なことですね。私も一度行ってみたいと思っています。
2007/5/5(土) 午後 8:56
そうですね!私も一度見学しに行ってみたいと思っております!!また、見学してきたら見学レポート記を記したいですね!!「良い」「悪い」ということは別に資料館について「分析」ができるように…久しぶりに研究熱が上がってきますね!また後日…
2007/5/6(日) 午後 11:28