浪人浄瑠璃

長い休眠期間を終え、新年より再開したいと思います!

社会学とか

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 前のページ | 次のページ ]

 2005年10月7日付 の『週刊朝日』に「関西にも「お受験」本格上陸 名門「関関同立」参戦」 の見出しを発見!!

 西の「名門」の4校、関西大学・関西学院大学・同志社大学・立命館大学が付属の小学校設置計画を相次いで発表とのことのようです。

 前々からそういった話は聞いており、各校(関西・同志社・立命館)が具体的にどういう計画になっているのか以前に少し調べたこともあったので、興味深く記事を読ませていただきました。

 なぜこの時期に一斉に小学校設置か??

 文部科学省の小学校設置基準に必要な施設が明記されたことや、土地の確保ができたことなどが挙げられていたが、取り巻く社会状況が複合的に影響してこうした動きにつながっているんでしょうね。

 学校週5日制、から「ゆとり教育」の推進、そして「ゆとり教育」の見直し・・・と様々な形で初等教育に対する親御さんら、保護者の不安や不満があることも要因として大きいでしょうし。

 土地確保に関しても(多分これは関西大学のケース)自治体とのそれまでの締結協定を具体化し、より強化していく形として、またバブル崩壊以後の未だに明確に定まらない土地開発もえいきょうしていると思います。

 そして、小学校を設置して「初等〜高等教育」をひとつの学校(学園)が持つことのメリット!!(これは生徒数確保とかのみならず、一貫教育ができることによるターゲットを開拓し、幅広く活動ができるんじゃあないか?と思います)
 
 こうした、社会的な条件の中でも、個人的に気になるのがやはり親御さんの心境!!

 大学など高等教育は個人の意思(まぁ、いろんなことがあって保護者の意志も働きますが)によって進学先を決定していくわけですが、子供の場合その決定権はやはり保護者が握っているのでしょう!

 「なぜ私立の小学校へいかせるのか?」 「なぜ、関関同立の小学校なのか?」

 「こどもにどんな将来を歩んでもらいたいと思っているのか?」

 是非調べてみたいですね。もちろん、先にあげた「公立校に対する不安・不満」もあるんでしょうが、もっと他に何かないのか??

 それを分析することで、「教育」「学校」が置かれている状況や、現在の社会の見えない部分、そして今後の予想もできるのではないでしょうか?

 
 ※ 田舎育ちで、「私立」学校へ行ったことのない私にはいろいろとわからないことばかりですが、まぁ勉強しながらボチボチと・・・ 
 個人的に「私立小学校」は謎だらけ(@_@)??
            (なんだか、「ラシック」のCMみたいですが…東海の人しかわからないかも)
 

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

  愛地球博も残すとこあと一週間あまり、今日も多くの人が詰めかけているようです。そして、連休中日の今日は、あまりの混雑ぶりに「会場での安全性が確保できない」との理由から初の入場制限に!!

 「自然の叡智」を掲げ、「環境」をテーマとした今回の博覧会!!

 目標を超す入場者数と多くの賛辞の声の中に混じって、マイナス面を指摘するような声もあちこちで聞かれます!

 計画・建設段階から生じていた、万博会場予定地である「海上の森」の生態系保護の問題。そして会場跡地利用の問題。
 開幕初期段階に騒がれた「弁当持込み問題」。周辺観光地が万博に「お客を取られて」観光客減少・減収となっている場所があること。
 そして、「環境」をテーマに掲げているが本当に「環境」の万博なのか?という疑問の声・・・

 それらは、万博が正面きって訴える・発する「万博メッセージ」とは異なる「裏万博メッセージ」を人々に与えてくれているのではないでしょうか?
 
 視座を変えれば、今回の万博も会場予定地の選定から跡地利用に至るまでの基本計画には、地方自治体と博覧会協会の関係、そして建設会社他各種企業の関係がかんがえられるでしょう。さらに、そこに環境保護を訴える市民団体・各種NPO/NGOが活躍するようになった現代社会の状況が見て取れるし、そもそも万博会場に立候補した自治体の歴史・現在の財政状況・その地方の課題が浮き彫りになってくることでしょう。
 インフラ・雇用状況の変化も万博との密接に関係しております。
 
 「お弁当問題」でも、会場内出展飲食店と協会との関係、万が一不測の事態(食中毒etc)が発生した時の責任の所在という問題。そうした、「責任が誰にあるか?」「どのように対処するか?」を巡って人々かどのような反応をするかという日本社会の構造の問題etc・・・各種派生した問題、構造を見て取る事ができます。
 
 そもそも、博覧会は単なるお祭り騒ぎではなく、そこに含まれるナショナリズム・他者表象・「まなざし」・アイデンティティ・発展モデルetc・・・博覧会に含まれる裏の力、「博覧会の政治性」というものを無視することはできません。「権力」がきっちりと働いております。このことに関しては吉見俊哉先生他多くの人が既にご指摘なさっています。

 今回この記事で書いていることは、「博覧会の政治性」という問題とは少しずれているかもしれませんが・・・。

 しかし、何で万博会場にマンモスが展示されているのか?日本館の映像展示の内容はどのようになっているのか?各国館の出展物・展示内容はどのようになってなっているのか?会期中にどんなイベント・催し物が開催されているのか?

 しっかり見てみると、そこに含まれている「裏」が見えるのかもしれません・・・

 逆に取れば、これは所々で上がる愛地球博に対して「本当に環境博か?」との疑問の声に応えてくれるのではないでしょうか?

 その多くが「外国館(主として小さな国)が単なる物産館、おみやげもの展示即売所と化している!」とのご意見!
 しかし、そもそも何で外国館の内容が物産館になっているのか?そうした物産館のような展示を誰かが(来場者、つまり我々が)暗黙のうちに求めていないのか? 各国の展示内容には「その国らしさ」を求めているのではないでしょうか? その国が「売り出そう」「知ってもらおう」としているものが展示されているのではないでしょうか? こういったこともじっくり考えてみる必要があるのでないでしょうか?
 
 なんで、この展示になったのかをもう一度考えてみると、もしかしたら我々が望む(きらびやかな、ハイテクな)「展示」をする力量がない、もしくは余裕がないのではないのかもしれません。 では、その原因は何か?国際社会、国際経済との関係からも想像できるのではないでしょうか・・・?
 
 そして、そもそも我々は自分達がが求める「環境」に反する、もしくは許容域に達しないものを「排除(認めていない)」しているのではないか?と問い直すと、そこには各国の「環境」を感じ取れるのかもしれません。

 「環境」・・・今回は「自然の叡智」ですが、広い意味で自然環境・社会環境・情報環境etcで見つめなおすと万博も新たな一面が見えるのかもしれませんね!




 ・・・なぁんてことを思ってみました。個人的には万博いろいろと楽しませていただきました。いい想い出ですねぇ〜(V^−°)♪
 
 

留学生との話し合い

 先日、戦後60周年ということで留学生との話し合いの場がもたれました。
 「同じ大学に通いつつも、国際問題や国家間の関係について大勢で話し合う機会はそんなにないのではないか?」という指導教員の意見で「場」がもたれることになりました。
 フランス・ベトナム・大韓民国・中華人民共和国・台湾・日本の学生14名が集まり、このような会は今回で2回目。

 まず、広島・長崎への原爆投下についてから話がきりだされ、核兵器保有の問題、中国と台湾の関係、朝鮮半島の問題、そして歴史認識・首相の靖国神社参拝についてと様々なテーマが飛び交いました。(正確に言うと時々脱線したのかも?)
 話し合いは紆余曲折しながらも、お互いの考えを述べ合うことがある程度できたのではないかと・・・(どうしてもテーマがら感情的になるもので上手くいかない面もありましたが)

 私自身印象に残ったことは「戦後60周年」という「節目」の年であるから、開かれた話し合いの場であったのですが、今年は必ずしも「60周年の節目の年」ではないということを感じたこと。
 つまり、各々の国や地域では今年はその他にも重要なことがある年でもあるということです。

 日露戦争から考えれば100年、ベトナム戦争から考えると40年だったり、同じく在日コリアンの方からすると日韓基本条約から40年だったり、南北首脳会談から5年だったり、台湾では蒋介石死去30年だったり、様々な観点から「節目」なんですね。

 現在、「戦後60年。節目の年」と盛んに言われていますよね。(今は郵政問題とかであまり言われてませんが)それにより、我々は改めて物事を「見つめなおして」みたりする機会を得ているのでしょうね。しかし、「60周年」が叫ばれるその裏では(60周年の視点から「外れれいる」ことにより)「見えなくなっているもの」「見えにくくなっているもの」の存在というものを改めて感じることができましたかね。
 

 博物館の展示は(特に「歴史展示」)「過去」のことが展示されている。それらは、江戸時代だったり、明治時代だったり、時には古代だったり様々な時代区分がなされ、観覧者に対しての歴史の流れ、その地域のあゆみだったりを示してくれるものである。それらは、自分たちが「知らない」「経験したことない」時代の「過去」である。

 しかし、自分たちが「見知っている」「経験したことのある」時代(過去・出来事)についての展示を行う場合、自分たちの「記憶」と展示物によって表象される「時代」「出来事」との間の差異が、自分たちが実際に見聞きしていない時代の展示に比べて、より敏感に感じられるのではないか?
 応仁の乱よりも、第二次世界大戦の方が。 安政の大地震より、関東大震災の方が、そしてそれよりも阪神大震災や新潟中越地震のほうが・・・。

 そうした、現在において実際に当該出来事を体験した者が未だ存在するような「近過去」の事象を博物館が展示として扱う場合において、人々がいかにして展示物と自分との関係性の中で「過去を喚起する」ことができるのか、またその効果を考えることがひとつポイントになるのではないだろうか?
 上記のように、自分たちが経験した過去を意識化することは、悔恨、苦悩、懐古(ノスタルジア?)等々様々な方法によるものがあるであろう。

 ノスタルジアなんかは「出郷者の記憶の中で故郷は類型化され固定化されるが、一方で、時間の経過と主に主体を取り巻く状況は必然的に変化する。この、変化した現在の状況に照らして類型化された勝手の故郷が想起されるとき、ある特定の意識が生み出される」ものなどと理解されるらしい。現在では、必ずしも空間の移動がなくとも時間移動による急速な変化によって同じようなノスタルジアがかんじられるようなことはあるようである。

 また、戦争や災害などの「苦悩」を伴う過去(「負の記憶」)においても、語る主体、想起する者が、現在属する社会の状況に照らし合わせて事象に対する喚起がなされ、関わっているのではないか?
(もちろん、そこでは主体である「自己」は「自己」を安定たらしめるため(「自己」を空虚なものにしないため)に「他者」を必要とし、自らの属する「共同体」を維持するために「記憶の共同体」を構築することが必要としていると考えられよう。)

 ノスタルジアにおいても、「負の記憶」においても両者とも自分たちが経験した「近過去」の出来事を、現代社会の中での変化の過程の中で「うつろいやすいもの」(現在生きる日常生活の中においても、将来においても喪失して言う可能性があるもの)としてとらえ、それを「永遠」の願望の中で扱っているものではないだろうか?

 J.アーリによると「古いもののしるしや古つや、古い場所、匠の技、家屋、田舎、などに対する審美的な感覚」が増加していく現代の消費社会においては「遺物を通じた過去の魅力的な表象は視覚的な消費に適している」としており、その中で「過去は単純なナラティブとスペクタクルに変化させるスペクタクルに変化させるイメージとステレオタイプ」を集めるような「簡潔」さによって理解されるのだという。

 つまり、本題に戻ると「近過去」は人々により、現代社会において「うつろいやすい」ものとされ、それを消費の対象とし、想起の対象とすることによって、社会の中で取扱われているのではないだろうか?そこでは、過去の「うつろいやすさ」を「永遠」たらしめるために、また、そのために必要な個々人の記憶を共同体の集合的記憶に昇華するために「保存」という行為がなされる。そして、その「保存」と「社会化」を行い、人々が過去を喚起するための必要な媒体となるのが、「永遠」が求められている「博物館」であり、博物館の展示なのではないだろうか?(他にも、いろんな文化装置(記憶媒体装置)はあると思うが・・・)

 昭和などの「近過去」の展示がなされたり、現代社会の厄災を扱った展示や博物館の建設がなされているのはそういった理由もあるのであろう。

 同時にそうした欲求によって作られた展示は先にも述べたように、往々にして観覧者の経験と展示との間に齟齬をきたしたりすることがある。それは、地域(空間)による変化だったり、同時代的に多くの人が直接的・実際的でないにしろマスメディア等を通じて「知っている」ので、一種の切り取りされた『ナラティヴ」を個々が有しているということなのである。

 これらを的確に捉えようと思うと、博物館の条件、社会状況・社会意識、観覧者の属性・心理状態や、観覧者の条件等々によっても人々の「喚起」が左右されることを踏まえなければならないのかもしれない・・・・p(;_;?)q

・・・・なぁんてことを思ってみたりしました。・・・・うまく書けないないなぁ( ̄〜 ̄;)ウーン・・・

フーコーとか その1

 社会学者のミシェル・フ−コーは様々な業績があるが、彼の業績の大きなものはこれまでの「権力」に対する考え方とは異なるものを示した事にあるのではないか。いわば、「権力論的転回」によって社会の見方に新たな一面を与えたことにあると思う。

 著作、性の歴史シリーズの『知への意志』で、近代初頭に性が積極的に語られて始めることによって、近代において性は生殖と関連づけられるようになり、権力が生殖を管理・調整するようになっていくことによって性が管理される対象となっていくと流れができると考えられる。

 そうした、流れの中で性に対して、社会にとって好ましくない状態にある者たち(ゲイとかレズビアンとか?)は医学だったり、社会的機関の中で言及されるようになってくる。

 こうした、性に対する言及はこれまで「よろしくないこと」などと曖昧だった人々やものを、社会的排除のカテゴリーのひとつのかたちとして社会に誕生することとなってくるのだ。

 フーコーは言説そのものを権力として考えていて、言説の中にある知識を人々が取得し、取得した知識に基づいて判断し、考え、行動するということそのものが権力のひとつの作用であると考えている。

 つまり、自分でははっきりと意識していなくとも、ある特定の対象に対する言説が社会に広まることによって、人々はその言葉を知り、それに沿った形で生活を行うことによって、あるカテゴリーを規定して、同時にそれを現実的に形成していくことになっている。

 こうした考えに基づいて考えてみると、「差別問題」とかを考える際の一つの視点になるように思われる。

 差別問題に関しては、しばしば、抑圧され、解放される側と権力の二項対立図式によって描かれることが多い。そこでは、抑圧されている側は権力によって服従させられている存在であり、服従状態を脱し、主体性を取り戻すことが解放へとつながって行くという論理で展開され、実際に行動しているケースが多い。

 しかし、フーコーの権力論を用いて考えれば、言説に対して語ることによって言説そのものを再生産させ、言説を構成する社会も再構築していくものであり、その場合は被差別者が主体性を取り戻すという図式は成り立たなくなってくる。つまり、「主体」や「解放」という言葉自体が言説である以上、被差別者が求める「解放」や「自由」は言説に従属することでしかその意味をもたないことになり、言説による抑圧状態から脱して自由な状態になることはできないということになる。

 フーコーの権力に関する議論も批判やその他様々な展開がなされていて、必ずしも絶対的に有効なものではないかもしれないが、「権力」を見る際のひとつの大きな視点となることは間違いないと思う。

〜〜〜〜メモ〜〜〜〜
P.S.最近フーコーを読み返す機会があり、上の文章をちょっと書いてみました。まだフーコーが何を言っているのか、はっきり理解できてないなぁ〜という実感。きっと、とらえ間違いもあるんだろうなぁ・・・と。
 あと、文中で「差別問題」を挙げたけど、私としては「ちびくろサンボ」とかの議論かまず、頭に浮ンだから書いてみたのもありますね。きっと、権力論と差別問題はいろんなとこで議論されているんだろうけど、またどんなお話がされているのかチェックしておかなきゃ!
 
 
 
 
 

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 前のページ | 次のページ ]


.

ブログバナー

ぼんば〜
ぼんば〜
男性 / A型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

過去の記事一覧

検索 検索

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事