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ベトナムにおけるキリスト教の迫害は、十七世紀初めから十九世紀末にかけて行われた。1988年に列聖された百十七人の殉教者の一人であるアンデレ・ジュン・ラクは、1823年に司祭に叙階され、国内各地で牧者として働いたが、1839年に斬首刑に処せられて殉教した。百十七人には、八人の司教、五十人の司祭、五十九人の信徒が含まれている。 (『毎日の読書』より)
第一朗読
ヨハネの黙示
わたし〔ヨハネは、〕天にもうひとつの大きな驚くべきしるしを見た。七人の天使が最後の七つの災いを携えていた。これらの災いで、神の怒りがその極みに達するのである。
わたしはまた、火が混じったガラスの海のようなものを見た。更に、獣に勝ち、その像に勝ち、またその
名の数字に勝った者たちを見た。彼らは、神の竪琴を手にして、このガラスの海の岸にたっていた。彼らは、神の僕モーゼの歌と子羊の歌とをうたった。
「全能者である神、主よ、
あなたの業は偉大で、驚くべきもの。
諸国民の王よ、
あなたの道はただしく、また真実なもの。
主よ、だれがあなたの名を畏れず、
たたえずにおられましょうか。
聖なる方は、あなただけ、
すべての国民が、来て、
あなたの前にひれ伏すでしょう。
あなたの正しい裁きが、
明らかになったからです。」
(神に感謝!!!)
福音朗読 (ルカ21:12−19)
ルカによる福音
〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕
「人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や
牢に引渡し、わたしの名のために王や総督の前
に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証を
する機会となる。だから、前もって弁明の準備を
するまいと心に決めなさい。どんな反対者でも、
対抗も反論もできないような言葉と知恵を、
わたしがあなたがたに授けるからである。あなた
がたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中 には殺された者もいる。また、わたしの名のため に、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、 あなたがたの髪の毛一本も決してなくならない。 忍耐によって、あなた方は命をかち取りなさい。」
(キリストに賛美!!!!)
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「恐れるな。わたしがいる。」のみ言葉を心に
抱いて、勇気を持って、迫害を恐れない心を持って
敵に立ち向かうことの大切さを教えています。畏れ る(字が違いますが)のは神であり、聖書の別の場 所にもある通り、仮にあなたがたの肉が損なわれる ことがあっても、魂にはどうすることもできない人を 恐れるな。このことを思い出しましょう。ただし、あり がたいことに、主なる神のわたしたちに対する配 慮・思いやりを示すように、「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。」と仰ってくださっています。
そして予め準備をする必要はない、と主イエスは
仰っています。「どんな反対者でも、対抗も反論もで きないような言葉と知恵をあなたがたに授けるから である」と約束してくださっている主イエス・キリスト
に信頼を置き、そのときに授けられる言葉を聖霊に
よっても導かれ、支えられ話せばよい、と福音の中
で主イエスは仰っています。とかく人間的な配慮に
心を騒がしていまいがちなわたしたち人間のことを
主はよくご存知なのです。主が造られたのですか ら。「中には殺される者もいる」のみ言葉通り、今日
記念している殉教したベトナムのキリスト信仰者
たちの尊い犠牲を思い、その上に今日のわたした
ちがいる、生きさせていただいている、そのことを思 い、また改めてわたしたちの信仰を死をも厭わない
確固たるものとして再び造り上げてくださるように、
ともに主に願い求めましょう。
「忍耐によって、命をかち取りなさい。」とのみ言葉
通り、迫害の最中にあってもっとも大切なのは、
強き信仰心、堅く立った信仰、殉教をも覚悟した
命がけの信仰、そして忍耐です。忍耐こそがわたし
たちに困難をくぐりぬけさせ、命をもたらしてくれる ことなのです。今一度、わたしたちの信仰が、
殉教・死をも厭わない(主がお望みなら喜んで
殉教する覚悟を定めた)そういう命がけの信仰に
なっているのかどうか、よくよく見返り正しましょう。
死をも恐れぬ信仰こそが、わたしたちの心の中に
光り輝く金もしくはダイヤモンドなのです。この殉教
に対する姿勢こそが、わたしたちの信仰が本物で
あるのかどうかの試金石なのです。このことをどう
か知り、各自の信仰をさらに強固なものにしてくださ い。堅く、大きく、深く、強く。☆
(主の平和教会 司祭 ガブリエル☆☆☆☆☆☆☆)
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毎日のミサ
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福音朗読 (ルカ21:5−11)
ルカによる福音
〔そのとき、] ある人たちが、神殿が見事な石と 奉納物で飾られていることを話していると、イエスは 言われた。「あなたがたはこれらの物に見とれてい るが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ること のない日が来る。」
そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、ではその ことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こる ときには、どんな徴があるのですか。」 イエスは
言われた。「惑わされないように気をつけなさい。
わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれ だ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行って はならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おび えてはならない。こういうことがまず起こるに決まっ ているが、世の終わりはすぐには来ないからであ る。」そして更に、言われた。「民は民に、国は国に 敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、 方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい 徴が天に現れる。」 (キリストに賛美!!!)
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注意すべきことを先にお話します。ひとつは、見え
る、人の手によって建てられた神殿が崩れるときが
来るとしても、わたしたちには、見えない神殿、
すなわち聖霊の神殿である、この私たち自身、わた したちのからだがあります。わたしたちのからだに
神の霊・聖霊が働いていて、呼び集められた人の
集まりである神の家・教会は永遠に続く、ということ
です。このような見える神殿と見えない(神様が
つくってくださった神殿)神殿との対比を心にとめま しょう。さて、ここでは、人の手で建てられた見える
神殿についてです。
すでに、この福音に描かれている終末期が来て います。例えば、いろいろな方法で癒しを行ったり、
予言をしたり、キリストの名を名乗る者が大勢現れ たり、人々を偽りが含んだ教義とともに、カリスマ (日本人が通常使う意味において。本来の意味は
神からの賜物という意味です)によって惹きつけよ うとする、そういったことが既に起きているからであ る。誰々の生まれ変わりだとか言う宗教(カルト)の
例を皆さんもひとつは知っていますよね。
戦争とか暴動もしかり。民は民に: 例えばチベッ
ト人と中国人との争いがあげられます。国は国に 敵対:例えばイラン・イラク戦争がありましたね。
チリ地震など大きな地震も既にありました。方々 に飢饉や疫病(たとえば、ウィルスにみんな神経 質になってマスクをしたり、手を消毒したりしてい ますよね。)もうこれらのことは起きたのです。
そして大切なことは、主イエスが言われた「世の 終わりはすぐには来ないからである」。 これら
の予兆が来ても、世の終わりまではまだ時があり ます。キリストの千年王国がまずやって来る訳で す。キリストの千年王国が来て、その実質的内容 を伴わせ深め高めていくプロセスのなかを、この終 末期のなかを、王であるキリストの発露、主の栄光 を現しながら、キリスト者であるわたしたちは、
キリストの使徒職、祭司職、王職に与りながら、
キリストのからだである教会の働きとして、世に
対して主キリストの愛による支配の働きの一翼を
担わせていただきながら、キリスト千年王国の
完成を目指すのです。現代の世界における、
さまざまな課題・困難に直面して、それを主キリス
トに従い、キリストに倣いて思い、言葉にし、愛の
行い・キリストのみ業を現し、主キリストの栄光、
主の栄光(御父・御子・聖霊)を現していくのが、
この終末期におけるわたしたちキリスト者の
主要なる務めなのです。この務めを、主に忠実に
従順に、なおかつ勇気を持って大胆に果たして
行こうではありませんか?もはや今までの時代と
異なります。主キリストの正義が通る時代になっ
ているのです。何故なら、地上はもはや完全に
御父の支配下におかれ、個人個人の内側には
まだまだキリストに反する誘惑が働くものの、
キリストの永遠の支配に移行している人々:神の
子も増えているのです。ですから、この地球上の
現実は、わたしたちキリスト者が優柔不断に
譲ってしまわないかぎり、勇気をもってキリストの
正義に立てば、それが護られるし、また支えられ
現実となっていくのです。神に感謝!!!
どうかわたしたちがこの務めを、すべてをご存知
の全知全能である御父のご計画の通りに、信仰
に堅く立ち、勇気を持って、希望・愛を行いを通し
て隣人に与えることを通して、地上にキリストの
千年王国を迎える準備をしていきましょう。
主キリストとともに。アーメン。
(主の平和教会 司祭 ガブリエル☆☆☆♪)
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11月22日(月)聖セシリアおとめ殉教者
わたしたちに大いなる救いが与えられるのに、多くの殉教者たちの犠牲が過去に伴っていることを私たちは忘れてはならない。大きな救いが与えられていることをもっと感謝するように致しましょう。多くの殉教者の血に清められてわたしたちに大いなる救いがもたらされているのです。すべての人に永遠の命が与えられ、すべての人が神の僕、神の子として、ひとつの神の民として地上に生かされている”終わりの時代””終末期”である現在も、このことを思い返して、その尊い信仰をほめたたえ、救ってくださった主に感謝致しましょう。
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第一朗読 (ヨハネの黙示録14:1−3,4b−5)
わたし{ヨハネ}が見ていると、見よ子羊がシオンの山に立っており、子羊と共に十四万四千人の者たちがいて、その額には子羊の名と、子羊の父の名とが記されていた。わたしは、大水のとどろくような音、また激しい雷のような音が天から響くのを聞いた。私が聞いたその音は、琴を弾く者たちが竪琴を弾いているようであった。彼らは、玉座の前、また四つの生き物と長老たちの前で、新しい歌のたぐいをうたった。この歌は、地上から贖われた十四万四千人の者たちのほかは、覚えることができなかった。この者たちは、子羊の行くところへは、どこへでも従って行く。この者たちは、神と子羊に献げられる初穂として、人々の中から贖われた者たちで、その口には偽りがなく、とがめられるところのないもの達である。
(神に感謝!!!)
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福音朗読 (ルカ21:1−4)
ルカによる福音
{そのとき、}イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」
(キリストに賛美!!!)
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主イエス・キリストさまは公正な方、真理であられる方であり、貧しい人を憐れまれる方であります。わたしたちの心の中をすべてお見通しです。ですから隠しだてはできません。「隠れたもので表に出されないものはなく、・・・」との聖書の言葉通り。このやもめは、神に信頼を置き、神に拠り頼む生き方をしています。先のこと、将来のことに関して神に全幅の信頼を置いて、信じているのです。これに対して金持ちたちはどうでしょうか?有り余る中、そのお金をいつ使おうか?いつ何をしようか?ときっと思い煩っていることでしょう。あるいは、献金をするときに計算をしている人もいるかも知れません。しかし、未来は神の御手の中にあります。こういう計算・計らいは意味がある行為、真実の行為なのでしょうか? いくら人間の智恵で計らったところで、神の恵み、神の救い、神の裁き、神の御手は人の創造を超えて働きます。明日命が与えられるか、それも神の御手の中にあります。この真実を知れば、正しい生き方・本来あるべき生き方が見えてくるでしょう。目の前に与えられる機会を主のためにどう活かすか、一生懸命熱い愛の志を持って取り組めば、きっと未来は開けるでしょう。お金は神に仕えるためにのみ用いてこそ、愛の実りのために活かすことができるのです。決して富に仕えてはなりません。「明日を思い煩うな」という聖書のみ言葉もあります。神を信じ、神に仕えるために必要とされていることにお金を用いる生活こそ、本来の生き方なのです。
(主の平和教会 司祭 ガブリエル☆☆☆♪)
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福音朗読 (ルカ14:1−6)
自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だから といって、すぐに引き上げてやらない息子がいる
だろうか
ルカによる福音
安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。そのとき、イエスの前に水腫を患っている人がいた。そこで、イエスは律法の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」彼らは黙っていた。すると、イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった。そして、言われた。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だから といって、すぐに引き上げてやらない息子がいるだろうか。」彼らは、これに対して答えることができなかった。
☆☆☆ キリストに賛美 ☆☆☆
(「毎日のミサ10月号」カトリック中央協議会発行、 より転載)
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福音朗読 (ルカ6:12−19)
その中から十二人を選んで使徒と名付けられた
ルカによる福音
そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。それは、イエスがペトロと名付けられたシモン、その兄弟アンデレ、そして、ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、熱心党と呼ばれたシモン、ヤコブの子ユダ、それに後に裏切り者となったイスカリオテのユダである。
イエスは彼らと一緒に山を下りて、平らなところにお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。群集は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。
☆☆☆ キリストに賛美 ☆☆☆
(「毎日のミサ10月号」カトリック中央協議会発行、 より転載)
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