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戦中派の記録(67)神風 「神風」という名称には色々な事実や思い出が残っている。 一番古いのは、やはり弘安4年(1281年)の元寇のときだろう。 元寇の際、二度にわたって大風が吹き、元の大軍が退散したことによって、戦前の神国思想から、この台風は神風であった、という観念が一般化した。 明治維新ごろの、熊本の神風連(しんぷうれん)の名前も懐かしい。 熊本藩の士族・大田黒伴雄ら、国粋主義者の「神風連」190名が、明治9年熊本鎮台を襲い、鎮台司令官種田政明ら多くの兵士を殺害し、彼ら自身もほとんど戦死したり自刃して果てた。【神風連の乱】 この神風連は極端な敬神派、国粋派で、電線の下を通るときは、身が汚れると称して、頭のちょんまげの上に扇子をかざして通ったという。 電線といえば、このとき殺害された種田司令官と居合わせた種田の愛妾「小勝」は、電信局まで走り、東京の父に電報を打った。 「ダンナはイケナイワタシハテキズ」 ついで、記憶に残るのは、昭和12年4月、朝日新聞社の国産機「神風号」による東京・ロンドン間の連絡飛行・新記録の樹立である。所要時間94時間17分56秒は、当時の航空技術水準から見て、世界に誇るものであった。帰国後の飯沼正明飛行士、塚越賢爾機関士、両氏は各地の歓迎会にひっぱりだこであった。 また、相撲解説者の「神風」正一氏は、昭和8年度の朝日新聞社の健康優良児で、「準優良児」に選ばれており、その縁で、昭和12年「二所の関部屋」に入門したさい、この飛行機の「神風」という四股名を名乗った。(*昭和14年には、東大航空研究所のいわゆる「航研機」が周回長距離飛行の世界新記録(11651km)を打ち立てるなど、当時の日本の航空機技術は世界でも秀でたものであった。) もっとも印象深いのは、日本海軍の「神風特攻隊」である。 サイパン陥落後、日本海軍は「神風隊・しんぷうたい」を組織し、昭和19年10月、レイテ沖海戦に出撃させたが、同月25日のスルアン島沖の体当たり攻撃がそのさきがけとなった。 ちなみに、特攻機による戦死者は海軍が2,527名、陸軍が1,388名と記録されている。 提供 紫蘭 氏
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