自然のなかをゆったり散歩と詩と本のはなし

そしてまた季節は移ろい さまざまな想い出だけが通りすぎて行く ・・・

読書雑記

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『白い花散った』  時実新子著  画 奥勝實



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星の路地 猫美しく すり抜けて

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ねむれよい子よ 波は引いたり 返したり

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飛魚の 光のごとく 泣かまほし

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一色に なってしまった なあピエロ

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壁に爪立てて カマキリ ひと休み

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夢二つ三つ四つ 命足りませぬ

                  時実新子著 『白い花散った』 より



 
 『荒地の恋』  ねじめ正一
 
 
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長年連れ添った妻と嫁ぐ日を間近に控えたやさしい娘と就職を控えた大学生の息子のいる普通の家庭を築いていた詩人のオトコが、ある日学生時代からの親友の詩人・田村隆一の妻の明子から家庭内の悩ましい相談を受けているうちに恋に落ちたのです。・・・
 
恋に落ちた詩人のオトコは長年連れ添った妻のつよい嘆願を無視して、娘たちにも理解されないままひとり家をでてゆきます。そして、誰にも知られないひっそりとしたアパートへ引っ越して詩人の親友・田村隆一の妻・明子とくらしはじめたのです。
 
その頃 長年の親友の詩人・田村隆一は、ちょうど若い恋人との出逢いもあって、暗黙のうちに親友の詩人のオトコと妻・明子が同棲はじめたことを別段とがめだてすることもなく、従前同様オトコ同士の友人としての交遊がつづいてゆくのです。
 
しばらくして親友の詩人・田村隆一は若い恋人との関係が破綻してしまいます。すると、詩人・田村隆一は親友の詩人のオトコと同棲している妻・明子に頻繁に電話してきて、家に戻ってきてくれと懇願するのです。やがて明子は仕方なく夫・田村隆一のいる家へもどるのですが、それからも同棲していた詩人のオトコとの関係もつづいてゆくのです。
 
それからしばらくすると、こんどは詩人のオトコに またあらたな恋人との出逢いがあるのですが、詩人のオトコはあらたな恋人とも明子とも親しくつきあってゆくのです。
 
しかし、当然のことながら 大切な家庭を崩壊させた身勝手な詩人のオトコには、償うべき過酷な宿命が待ち受けているのです。・・・・
 
いつの時代にも 許されざる恋の代償は 途方もなく辛酸な事態となることを覚悟しなければならないのでしょうか、・・・・
 
 
 
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 『魔利のひとりごと』  森 茉莉
 
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森茉莉は文豪・森鴎外と二人目の妻・志げの子として生まれました。
 
森家の長女として生まれた茉莉は、鴎外をはじめ非常に多くの人に囲まれかわいがられて育ったそうです。特に鴎外の溺愛ぶりは有名で、彼女は16歳までいつも鴎外の膝の上に座っていたそうです。
 
茉莉は父・鴎外の紹介により16歳のときに仏文学者の山田珠樹と結婚、三年後に一年間渡仏してパリに住みました。しかしこの時期に最愛の父・鴎外が死去されてしまいました。珠樹との間には 二人の息子がいましたが 帰国後 数年ののち 夫の芸者遊びが要因にて茉莉の意志により離婚しました。
 
茉莉はその後 東北帝大教授の佐藤彰の後妻になって仙台に嫁いだのですが、仙台の街と佐藤の連れの娘二人に馴染めず 一年足らずで離縁となりました。
 
その後茉莉はいったん森家に戻った後、世田谷にてひとり暮らしをはじめたのですが、鴎外の著作権が切れて印税収入が入らなくなったため 生活に窮するようになって 文筆活動をはじめたそうです。
 
『魔利のひとりごと』は 森茉莉晩年の作品です。本作品の「時刻(とき)の翼」のなかに茉莉の述懐が記述されています。
 
『私は紅茶を喫んでいた。そうしてふと、「時刻(とき)」が経つ恐ろしい速さに気付いた。・・・・いま私は紅茶をひと口喫んで、紅茶茶碗を唇から離した。そうして紅茶茶碗を受け皿においた。・・・・
 私が紅茶を喫んだ時刻も、また紅茶茶碗を唇から離した時刻も、そのそれぞれの時刻は もう絶対に還ってこない「過去」になったのだ、と。「時刻(とき)」は恐ろしい速さで、飛び去る。「時刻(とき)」はそうやって、無数の小さな断片の形で 「過去」になってしまう。・・・・
 
『魔利のひとりごと』には、森茉莉ならではの のびのびとした感性と
幻想的で優雅な世界が表現されていて、佐野洋子の耽美的な絵と
ともに楽しむことができます。
 
森茉莉は代表作の 『父の帽子』 『恋人たちの森』 『甘い蜜の部屋』など、独特の感性と耽美的な文体にて綴るエッセイストとして 多くの読者に支持され 晩年まで活躍されました。
 
 
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  『回想の太宰治』  津島 美知子
 
 
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太宰治(本名・津島修治)は1909年(明治42年)に青森県北津軽郡金木村(現・五所川原市)の県下有数の大地主の家に生まれました。
 
父親の源右衛門は豪農・松木家からの婿養子ですが、金木村の発展のために火力発電所を設けて金木に電灯がつくようにしたり、個人的だった金木銀行を株式会社にしたりと事業家としても大変有能でした。また源右衛門は県会議員・衆議院議員・多額納税による貴族院議員をつとめた地元の名士であり、地元の人々からは「金木の殿さま」と、呼ばれていたそうです。
 
津島家の娘であった修治の母親・夕子(たね)は、源右衛門とのあいだに11人もの子どもを生んだのですが、病弱だったため、修治は乳母らによって育てられたそうです。
 
修治は1916年に、金木第一尋常小学校に入学、さらに1923年に青森県立青森高等学校に入学したのですが、その入学直前の3月に偉大な父・源右衛門が53歳の若さで逝去されてしまったのです。以後津島家では実質の長兄・文治が当主となり、修治の父親代わりになったのです。
 
修治は17歳頃から文学にめざめて同人誌等に発表するようになり、弘前高等学校時代には左翼運動にも傾倒、当時流行のプロレタリ文学の同人誌に作品を寄稿していたのですが、自らの生家が大地主の家柄だったこともあってまわりの人々の貧富落差や階級社会に悩み、1929年12月にカルモチン自殺を図ったのです。
 
その後 1930年に弘前高等学校を卒業して、東京帝国大学文学部仏文学科に入学したのですが、修治は高水準の講義にまったくついてゆけず、次第に学校へは行かずに、実家からの仕送りにて豪奢な生活・デカダンスを送りながら、大学留年を繰り返した末、授業料も使ってしまい 除籍処分されてしまったのです。
 
また大学の講義にほとんど出席しなかった修治は、次第に小説家をめざすようになり、井伏鱒二に弟子入りして、さまざまな作品を発表するようになったそうです。そしてこの頃から本名の津島修治にかわって太宰治を名のるようになったそうです。
 
しかし、時折極端な自己嫌悪に陥る太宰は 在学中にカフェの女給で人妻でもある田部シメ子と出会い、鎌倉・腰越の海にて入水自殺を図ったのです。だがこの時はシメ子だけが死亡して、太宰は生き残ったのです。
 
その後 太宰治は各雑誌に多くの作品を発表するようになり、第一回の芥川賞の候補になったのですが、最終的に落選してしまいました。そして1935年ころからはパビナール中毒が進行して治療に専念しました。(パビナールは麻薬鎮痛剤の一種、太宰は急性虫垂炎と腹膜炎を併発した時に使用して以来依存症が進行して、一日に50本も打つようになったため、武蔵野病院の麻薬中毒救護所に入院した。)
 
当時太宰は内縁の妻・小山初代と同棲していたのですが、武蔵野病院退院後には、初代と一緒に暮らしていては小説が書けないと言って熱海の旅館に滞在して原稿を書いていたのです。しかし太宰はその後も熱海の旅館に居続け、初代が帰りの旅費の費用にと太宰におくったお金でも飲み歩いたり,芸妓を呼んでだりして蕩尽してしまったのです。そのうえ太宰を迎えにきた壇一雄を人質にして置き去りにするなどまわりの人々に大迷惑をかけたのです。
 
ふたたび自己嫌悪に陥った太宰は1937年に内縁の妻の小山初代とまたもやカルモチン自殺を図りました。この事件は未遂となったものの、太宰の父親がわりの兄・文治や本家の人々は太宰の度々の事件により 多大の迷惑を被り、本家からは勘当扱いとなりました。そして未遂事件をおこした内縁の妻・初代とは離別したのです。
 
その後しばらく謹慎していた太宰は小説家の師・井伏鱒二の招きにより1938年に山梨県御坂峠にある天下茶屋を訪れて、三か月ほど静養をかねて逗留しました。この時期に太宰は知人の紹介により石原美知子と見合いをしたのです。
 
石原美知子の父親は山梨県甲府市出身の学者で中学校の校長をしていましたが、美知子が女学校在学中に亡くなっています。父親を亡くした美知子は女学校卒業後、東京高等師範学校(現・お茶の水女子大)を卒業され、地元山梨県の女学校にて地理・歴史を教えるかたわら、寮の舎監を兼任していたそうです。
 
ちょうどその当時に天下茶屋に滞在していた太宰治との見合い話がもちこまれたのです。それまで美知子は あまり太宰治を知らなかったのですが、見合いがあってからは太宰治の過去の不始末を知る親戚から 猛反対されたそうです。
 
それでも美知子は見合いの話があってから、太宰治の作品を読みはじめて、作家としての太宰治の才能に眩惑されるようになり、やがて太宰治の小説家の師・井伏鱒二の仲人により結婚されたそうです。
 
太宰治は美知子との結婚により当初甲府市御崎町の新居に移り、次に北多摩郡三鷹村に転居されました。そして太宰は美知子とのあいだに長女・園子、長男・正樹にめぐまれ、精神的にも安定してきて創作活動も軌道にのり、「富嶽百景」「走れメロス」「津軽」「お伽草紙」などを次々と発表して流行作家へと駆けあがっていったそうです。
 
やがて戦局が逼迫するに及んで、太宰一家は1945年4月に甲府の石原家へ疎開され、7月には甲府の石原家も全焼したため、妻子を連れてかろうじて津軽の太宰の生家へたどりつき、長期の疎開生活をされたのです。
 
この津軽への疎開期間は1946年の11月まで約1年4ケ月に及んだのですが、戦争末期から戦後にかけて時代の変遷期に生家の事業は次第に陰りをみせはじめていたため、愛着のある大豪邸の維持が困難になりつつあることを知ったのです。そして生家の事業が傾いていった責任の一旦は太宰自身の放蕩とも関連あることを知り、太宰は衝撃をうけながら妻子とともに三鷹の自宅に戻ったそうです。
 
太宰はその後、神奈川県下曾我に在住する熱心な読者・太田静子と知り合い、1947年春には伊豆三津浜に滞在しながら没落華族を描いた長編小説「斜陽」を書きはじめたのです。太宰はその間に美知子とのあいだに次女・里子(後の作家・津島佑子)が誕生。また「斜陽」を書き終えたその年の暮れには太田静子との間に女児・太田治子が誕生したのです。
 
そして翌1948年の3月から5月にかけて、「人間失格」を執筆され、朝日新聞には連載小説「グッド・バイ」を書いていたのですが、そうしたさなかの 6月13日に玉川上水にて山崎富栄と入水自殺を図ったのです。太宰の遺書には「小説を書くのが嫌になった」旨が記載されていましたが、この入水事件はさまざまな憶測を生み、富栄による無理心中説や狂言心中失敗説など社会の大きな関心事となりました。
 
この間、妻・美知子は周りからの非難に曝され、狂騒的なマスコミ攻勢をうけるなど さまざまな誹謗中傷を受けたのですが、その間美知子は子供たちとともにじっと耐えていたそうです。
 
太宰と美知子のあいだに生まれた長男・正樹は1960年に肺炎にて死去(享年15歳)されました。そして長女・園子は本家の養女となって津島家を継ぎ、大蔵官僚の上野雄二を婿に迎えました。やがて雄二は津島家の地盤を背景として衆議院議員となり、長男の淳も衆議院議員となりました。
 
美知子の次女・里子は津島佑子として小説家となり、太田静子との間の娘の太田治子も小説家となりました。
 
太宰治の妻・美知子は太宰が亡くなった後、太宰の墓を守りながら おりにふれ 太宰との出逢いや太宰と津軽の生家へ行った際の出来事、太宰の生家にかかわった人々の事、太宰から直接聞いた津島家のことなどを書きためていったそうです。
 
太宰治は津軽のふるさとや大地主だった津島家のこと、自己嫌悪に陥る自身のことを題材とした作品が数多くあったため、太宰の読者は太宰の創作による本の内容をすべて真実のこととしてうけとめられていたそうです。しかし美知子が知った実際の津軽のことや津島家のことは本の中では誇張されたものが多かったそうです。このため美知子は実際に太宰や津島家のひとびとから直接聞いたことを書きとめていたのです。
 
そして太宰治が亡くなってから 30年が経った1978年に出版社の勧めにより『回想の太宰治』を発刊されたのです。さらに20年後の1996年、太宰治の没後50周年忌を前に、出版社より再版の申し出をうけて、増補改訂版を発刊されたのですが、美知子は発刊の間際に他界されました。享年85歳でした。
 
美知子にとって太宰との結婚生活はまさに波乱万丈の歳月だったのですが、学者の家に生まれ育った美知子は 津軽の県下有数の大地主の家に生まれたばかりに、ときどき自己嫌悪に陥る津島修司に真の人間的魅力をもったのです。
 
太宰と出逢ってからの美知子は稀有の才能をもって生まれてきた太宰治の創作活動を手助けするために 宿命的ないばらの道を歩みつづけたのです。そして美知子は 山崎富栄と入水自殺を図った太宰没後も毅然として文豪・太宰治の妻でありつづけたのです。・・・・
 
 
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 『ロマンス』・・・井上ひさしの悲喜劇の世界
 
 
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井上ひさし作『ロマンス』の初演は2007年8月から9月まで世田谷のパブリックシアターにて上演されました。配役は大竹しのぶ、松たか子、段田安則、生瀬勝久等魅力ある芸達者により演じられました。
 
劇作家・井上ひさしの脚本を読むと彼はほぼすべての作品において実在した著名人を主人公として綿密に構成されています。
 
『ロマンス』の舞台は『桜の園』や『三人姉妹』の作家チェーホフの少年時代から晩年までチェーホフと親しい家族や友人との会話形式にて進行されている稀にみる斬新な演劇です。
 
劇作家・井上ひさしは『ロマンス』の舞台を通じて、チェーホフのほとんどの作品は人生の哀感を綴った悲喜劇であり、井上ひさし自身の最も共感する人物として描かれています。
 
『ロマンス』の舞台で 大作家トルストイがチェーホフを見舞いに訪れた際に、苦痛を訴えるチェーホフに対して、苦痛を和らげる心得を伝える場面があります。
 
・指にトゲが刺さったら「よかった、これが目じゃなくて」とおもうこと。
・泥棒に入られて金を盗られたら、「よかった、命まで盗られずにすん で」とおもうこと。
・なにかの理由で警察に連れて行かれることになったら、「よかった、 連れて行かれる先が死刑台でなくて」とおもうこと。
・恋人にふれたら「よかった、女性が彼女一人じゃなくて」とおもうこと
 ・・・・・・等、おもいかた次第で苦痛が和らぐとか・・・・
 
井上ひさしは遅筆で有名でした。『ロマンス』の戯曲が書き上がったのは初日の直前でした。このため俳優さんはとても苦労なさっているのですが、開演すると各方面から高い評価がされました。
 
井上ひさしの作品が遅筆になるのは、実在した主人公の内面に肉薄されるほどに、それぞれの登場人物の哀歓を正面からうけとめているからなのでしょう。
 
井上ひさし作『ロマンス』の世界は 登場人物同士のユーモアあふれる会話を通じて「一度きりの人生なんだから、前向きに生きてゆこう」とする悲喜劇であり、とても味わい深い作品です。
 
 
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