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『美を求める心』 小林秀雄の<美の世界>
小林秀雄は昭和初期から約半世紀にわたり わが国の文学・音楽・美術等を通して 『人生、いかに生きるべきか』 を問い続けた 近代批評を代表する人であり 近代批評の創始者ともいわれています。
小林秀雄は 生きてゆくうえで最大のしあわせは本当に感動する<美>との出会いであると述べています。そして 本当に感動する<美>に出会った際には 沈黙の力に堪えるこころが必要であると語っています。
『本当に感動する<美>には、人を沈黙させる力があるのです。これが
<美>の持つ根本の力であり、根本の性質です。絵や音楽が本当にわかるということは、こういう沈黙の力に堪える経験をよく味わうことに他なりません。』
もっとも 文学や音楽や美術に限らず、本当に感動する<美>に出会った場合にはど んな言葉でも形容できず 沈黙するようにもおもいます。・・・・
清水達三 作品
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読書の魅力
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<近代文学界の傑人 森鴎外の遺言>
明治から大正期の日本の揺動期に陸軍軍医総監として医学界の近代化に多大の貢献をはたした官界の要人・森鴎外は また近代文学界の傑出した偉人でもありました。
鴎外は大正11年4月から体調が勝れず 6月からは役所を欠勤しましたが 自身の病状処方にあたっては 医薬に頼らず 一切の治療を拒否して 信頼する博士の尿や痰の検査のみ許し あとは脈を取るだけでした。
鴎外の病いの主因は左肺結核と云われ 軍医総監・医務局長を歴任した鴎外はこのことを知っていたそうです。
同年7月6日、森鴎外は自身の終焉間近に際して 親友の賀古鶴所に筆記をたのみ 遺言を実行するにあたっての自身の所信を述べられました。
「死は 一切を打ち切る重大事件なり 奈何なる官憲 威力と雖(いえど)も此れに反抗する事を得すと信す」 と述べ、つぎに遺言の主旨を
「余は 石見人森林太郎として死せんと欲す 宮内省陸軍皆縁故あれども生死の別るる瞬間 あらゆる外形的取扱いを辞す 森林太郎として死せんとす」 と述べられました。
そして遺言の実行にあたっての具体的な指示として
「墓は森林太郎墓の外 一字も彫る可らず」
「宮内省陸軍の栄典は 絶対に取りやめを請う」
「何人の容喙(ようかい)をも許さず」 *(容喙ーくちばしを容れること)
と結んでいます。
鴎外は死に臨んで 己を石見(旧 島根県西部の地名)の人と自己規定したうえで、父祖の地の石見へ 一私人として帰ることを宣言したのです。
鴎外は終焉に際して 自らの強固な意志を遺言されたのです。そのため遺族は三鷹・禅林寺にある墓から分骨するかたちで 津和野の覚皇山・永明寺の森家の墓所にある父・森静雄の墓の隣に埋葬されたのです。
近代文学界の傑人・森鴎外は 終焉に際して 自らの強固な意志を貫かれ 逝去後に故郷 津和野に帰られて 念願の切望どおりに一私人として静かに永眠されたのです。・・・・
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『雛がたり』 泉鏡花の幻視の世界
「私はね、心に一つ秘密がある。・・・」 (外科室より)
明治時代後半から大正時代そして昭和初期にかけて独自の幻想的な文章にて活躍された泉鏡花の作品は、谷崎潤一郎や芥川龍之介・佐藤春夫など多くの文壇仲間からも高い評価を得ていました。
〜美と幻影の魔術師〜 と、称された泉鏡花は 妖艶の世界や幽玄の世界・人間の心に潜む闇の世界を冷徹にみつめながら書き続けました。
泉鏡花は幼少時に金沢の茶屋街近くに住んでいたこともあって、家の前の遊び場の前の通りでは 黄昏時になると着飾った芸妓さんが行き交う、
<逢魔が時>の妖しい世界に魅せられていたそうです。
鏡花の『雛がたり』 は、鏡花の大好きだった母親のおもいでを綴った小作品です。鏡花が幼少の頃、鏡花の母親は毎年三月の雛の節句をとてもたのしみにしていて、いつも自分の雛人形を慈しんでいたそうです。
ところが大好きだった母親が亡くなられてしばらくしてから 鏡花の近所で大火事があったそうです。その際自宅の道具類をあちこちに運んだそうですが、鎮火した後に 道具類をもどして点検したら 母親の慈しんでいた雛人形がどこにも見あたらずに 行方知れずになったそうです。
鏡花はそのとき、「母親の雛人形は きっと 唐草蒔絵の牛車に乗って 大火災から逃れたに違いない。」 と、おもわれたそうです。
その大火災から十数年後の春先、鏡花は所要にて静岡を訪れた際のことです。案内された老舗餅屋の奥座敷に入ると なんとその奥座敷の飾り棚には 金沢にて行方知れずになった母親の慈しんでいた雛人形かとおもわれる雛人形が飾ってあったそうです。
その際 鏡花には 柳の樹下に敷かれた緋毛氈が火のようにもおもわれ、雛の牛車が軋る音がいつまでも耳に響いたそうです。・・・・
・・・・幾歳月の時を経て 雛の節句は遠い日のおもいで ・・・雛祭りの宵には 行方知れずになった雛の牛車の軋る音が響くかも ・・・・
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< 『よいかげん』 の匙かげん > ・・・ 河合隼雄の言葉
佐野洋子の対談集 『ほんとのこと言えば?』 に収録された臨床心理学者・河合隼雄氏との対談のなかに < 『よいかげん』 の匙かげん >について記述されています。
河合隼雄氏によると 「この世には完璧な人間というのはいないわけで、ウソがない、百パーセント本音で生きていくというわけにはいかない。」
そうです。
そこで人間は ある程度ウソをついて生きているが、人それぞれの個性や気質によって ウソの多い人と少ない人がいるそうです。そのある程度のウソには <よいかげんの匙かげん>があるそうです。
<よいかげんの匙かげん>の「ある程度のウソ」は、社会一般的には「常識」とか「モラル」とかいわれて 日常生活の会話のなかでも 多くの人が無意識に使っているそうです。
でも、倫理観の旺盛の方は <ある程度のウソ>である「常識」を容認することができないため、まわりの人と衝突することが多いそうです。・・・
<よいかげんの匙かげん>・・・文字で書くのは簡単ですが、情報過多の現代社会、まわりに迷惑かけない 「ある程度のウソ」 については時と場合によっては やむを得ないかもしれません。・・・
でも、もし相手の方が倫理観の旺盛な方でしたら <よいかげんの匙かげん>を充分に考慮して くれぐれも慎重に ・・・・・。
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『死んだら何を書いてもいいわ』
−母・萩原葉子との186日ー 萩原朔美
父親が偉大な作家の娘さんのなかには、生涯結婚されずに父親同様に作家になられたり あるいは結婚しても家庭生活がうまくいかずに離婚された方もかなりいらっしゃいます。
森鴎外の長女の森茉莉をはじめ 幸田露伴の次女・幸田文や室生犀星の一人娘の室生朝子、太宰治の次女の津島佑子や太宰治と太田静子のあいだに生まれた太田治子等々・・・
詩人・萩原朔太郎の長女として生まれた萩原葉子は 彼女が8歳の時に両親が離婚され、前橋の祖母(朔太郎の母)宅に預けられて育ちました。やがて父親の朔太郎が50代にて亡くなったこともあって、いつまでも権勢を振るう強情な祖母の圧迫により 萩原葉子の娘時代は毎日がきわめて辛酸な生活だったそうです。
やがて萩原葉子は結婚され、息子(萩原朔美)を生みましたが 彼女もまた自分のよりどころであるべき家庭生活が次第にうまくいかなくなって 息子を連れて離婚されてしまいます。
偉大な作家や詩人を父親に持った娘さんの多くは、小さい時から自宅を訪れる人々から 父親の偉業を聞かされつづけながら育ってゆくため、父親の偉大なイメージが理想化して膨らんでしまうそうです。
その結果、彼女たちが普通の男性と結婚されて 普通の家庭生活をおくるようになると、知らず知らずのうちに結婚した自分の夫と、偉大なイメージの父親とを比較してしまって、何かあるごとに凡庸な夫との家庭生活になじめなくなるとか、・・・
離婚後の萩原葉子は文筆活動をはじめるとともに、洋裁や英文タイピスト等により生計の安定をはかりながら、北海道に住んでいた実母の老後をみながらダンスを習いはじめたそうです。
萩原葉子は幼児期から成人になるまで とても辛酸な環境のなかで過ごしたこともあって、かなりな引っ込み思案だったそうです。その彼女が離婚の後 文筆活動のかたわらダンスを習いはじめてからは見違えるように社交的とかわっていかれたそうです。
萩原葉子は60代に入ってから いちだんとダンスに熱中されるようになり、62歳の時にはダンススタジオつきの家を新築して連日ダンスの稽古をつづけられたそうです。そして彼女はかなり高齢になられてからも舞台のうえでフラメンコやデュエットダンスを披露され、 80歳になっても踊っていたそうです。
偉大な作家や詩人を父親にもつ子どもたちは、作家を志すと当然のように出版社から赤裸々な私生活を題材にして書くように勧められます。萩原葉子も『父・萩原朔太郎』をはじめ、萩原家に関する人々の私生活を題材とした小説を書きのこしました。
晩年、萩原葉子はひとり息子の萩原朔美が いつかきっと自分のことを書くことが念頭にあったため、息子に対しては 『死んだら何を書いてもいいわ』と、言い残していたそうです。・・・・
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