キープ・レフト

命どぅ宝:転載はご自由にどうぞ:頂いたコメンへの返事は、ほとんど出来ませんのでご容赦

全体表示

[ リスト ]


イメージ 1
横井庄一さん(1972年2月2日)と小野田寛郎さん(写真右)

小野田少尉・・
敗戦後もジャングルで30年間ゲリラ戦!
― 陸軍「中野学校」(スパイ&ゲリラ養成)の洗脳教育 ―

先週、池上彰のニュースバラエティ番組で「小野田寛郎少尉」を取上げていた。「ひょっとして小野田の“殺人”行為についても触れるかな?」と思っていたのだが、池上彰でもやはりハードルが高かったかソレについては何も言及がなく、最後に締めのコメントで「小野田少尉の罪は問わないことになった」と、曖昧に“罪”とだけ言って終わった。残念・・ここにも忖度が?
 
しかしほぼ同時に放送されたNHKの『アナザー・ストーリー』では、小野田に殺された島民被害者の声も報じられていたのだから、その気があればできたはず。NHKより腰が引けた民放なんて存在価値あるのか? 右翼フジや保守ヨミウリに負けない、強い気概と誇りを見せてくれ!
 
まあ、官邸の圧力で「反アベ番組」が次々に潰されているから、過去の日本軍及び日本軍兵士に対する批判的な内容のものは、右翼からの脅しや嫌がらせもあるし、テレビ局としてはやはり腰が引けるということなのだろう。小野田がフィリピンのルバング島から30年ぶりに生還したときは、マスコミもまるで“英雄”扱いだったし・・
 
[横井庄一伍長の戦争]
 
だが敗戦の事実も知らずに、南の島に取り残され(というより見捨てられ)て“戦い”を続けていたのは、小野田たちだけではなかった。小野田が帰還する2年前には、グアム島に28も潜伏していた横井庄一(階級は伍長)が、28年ぶりに帰国して大ニュースになっていた。
 
しかし横井伍長の場合は、誰も「帝国軍人の鑑」などと褒め称えてはくれなかった。一兵卒とエリート士官の差? それとも「そこら辺のおっさん」みたいな風貌と、飢えた狼のような目をした(この人は必ず人を殺している、と分かる)鬼気迫る形相の差?
 
横井庄一は帰国したとき「恥ずかしながら生きて帰ってまいりました」(正確には「生きながらえておりました」だ)と言ったが、いかにも実直な洋服仕立ての職人らしい雰囲気を失ってはいなかった。それに較べ、陸軍の極秘諜報組織である「中野学校」卒の小野田の、「問答無用」とばかりに敵を容赦なく撃ち殺しそうな顔つき・・島民から逃げ回って生き延びた横井と、「島民も敵」と認識して無惨に殺した非情な「エリート士官」小野田と・・
 
敗戦が濃厚の昭和19年(1944年)3月に、横井は満州からグアムに移される。26歳だった。2万の兵がグアムに送り込まれた。しかしアメリカ軍は早くも7月にグアム島に上陸。横井が所属する第38連隊は、交戦初日に9割が死亡するという大惨敗を喫する。もちろん司令部との交信も断ち切られた。命からがらジャングルに逃げ込んだ横井たちは援軍を待つのだが、そんなもの来るはずもない。日本兵2万人のうち生還者はたったの1305人・・生存率たったの595%がムザムザ殺された。
 
アメリカはこのグアム島を拠点にして、爆撃機B29による日本への空爆を連日強化する。そして飛行場破壊を怖れる米軍は、島に残る「日本軍の残党狩」を執拗に繰り返す。せっかく九死に一生を得たのに、餓えと病(ソテツの毒にやられたり)で自殺自決する者や、原住民に見つかり殺される者も出て、日本軍兵士はますます減って行く。
 
しかし「母一人子一人」のシングルマザーで育った横井は、「何としても母親に会いたい」と強く思っていたから自決などはしない。アメリカ兵が立ち去った場所に出かけて行き、ビスケットや缶詰の残りを貪り食う。ネズミなどはご馳走である。職人で手先の器用な横井は篭を作って、魚やウナギやエビを捕った。カエルやカタツムリやトカゲはココナツミルクで味付けして食べた。
 
最初3人で暮らしていた。ジャングルの奥に行っても米軍がいるので、彼らは穴を掘り地下1.5メートルで暮らした。そのうち意見が対立し、横井だけ独り暮らしを選択。もちろん終戦になりグアムでも「投稿呼びかけ」が何回も行われたのだが、彼らは「敵の罠」と思って出て行かなかった。
 
横井は機まで手造りして、椰子の繊維で糸をつくり上着と半ズボンを織り上げた。井戸や水洗トイレまで造ったというから、何とも素晴らしいサバイバル能力である。小野田は確かに英語をしゃべったり、ゲリラ戦にくわしかったり、武器弾薬の知識も豊富なエリート軍人だったろうが、結局島の村人の食料を奪ったり、大事な財産である牛を殺して肉を手に入れていたのだ。
 
安保闘争さなかの1960年、横井たちとは全く別なところで暮らしていた日本兵二人が発見されて、日本へ帰ってきた。そこでまた捜索隊が派遣されたのだが、三週間たっても見つからず。しかしさすがに彼ら3人も、そろそろ島を脱出して日本に戻ろうと考え始め筏を造ろうとしたのだが、16年も経っているから海岸線もきれいに整地され、道路まで走っている。とても「人目につかずに筏を漕ぎ出す」など無理と分かりガックリ。
 
しかもこの年にグアムを大型台風が襲い、横井の穴も二人の穴も水浸しに。風と水のせいで木の実がすべて無くなってしまい、木の実が無くなると小動物もいなくなり、3人は餓えに悩む日々。木の実が実るまでの一年を、野草だけ食べていた横井。痩せに痩せてパンの実三個が重くて運べない。さすがの横井も死を覚悟したほど。なんとか生き延びて久しぶりに戦友二人の穴を訪れたら、二人は白骨になっていた。餓死したらしい。1964年のことで、日本は東京オリンピックに国中が湧いていた年である。自分も手榴弾で自決しようと思ったが、何とか思いとどまった。
 
1967年にはアメリカのパンナム航空が、東京ーグアム間の定期航路を開設。戦争を忘れてしまったり戦争を知らない日本人観光客が、どっと押しよせるようになった。1972年、横井もすでに57歳。独り暮らしも8年が経過。ある日、偶然ジャングルに狩りに来ていた父子に遭遇し捕まった。28年間のジャングル暮らしが終わった瞬間であった。
 
 19722月、札幌冬季オリンピックが始まる前日に31年ぶりに祖国に戻った横井は、母の墓前で「庄一はお国のために奉公してきたのですから、母さん許して下さい」と泣き崩れた。帰国して半年後に結婚し、新婚旅行ではグアム島に行った。1992年に82歳で死去した。
 
                           [小野田寛郎少尉の論理]
 
敗戦をまったく信じようとせず、異常としか言いようがないほど「命令遂行に拘る」小野田は、ある意味狂人と言って良いだろう。同じく30年近くジャングルに潜んで「投降を拒否」したといっても、横井と小野田では、その意味も目的も“生き延び方”もまったく異なる。
 
小野田が十代で商社勤めしていた頃の同僚によると・・「性格がとにかく頑なで意固地、右を向いてろと言われたら永遠に右を向いてるような男。父親も手を焼いていた」・・そういうキャラの持ち主が、陸軍の極秘特務機関である「中野学校」で、特殊任務遂行のための「洗脳教育」を受けたらどうなるか? 容易に想像がつくというもの。
 
横井と同じく小野田も敗戦確実な昭和19年(1944年)の1231日に、フィリピンのルバング島に赴任を命じられる10月の「レイテ沖海戦」で日本の連合艦隊は壊滅状態。戦艦も戦闘機も何ひとつ残ってない日本軍だが、「負けを認める潔さを知らず、責任を取る勇気も持ち合わせず、ただただムダなプライドだけが肥大している」ため、往生際悪く見苦しくも抵抗を続けるコトを選択。そのため翌昭和20年(1945年)の「マニラ市街戦」で、民間人が数十万人も死ぬことになる。
 
小野田がルバング島に派遣されたのも、フィリピンはもうアメリカ軍に奪取されること火を見るより明らかなのに、マニラ湾の入口に位置するこのルバング島に建設された秘密の飛行場を、「何としても死守せよ」と言うのだ。机上の空論と根性論だけで作戦を立てる参謀本部らしい命令。小野田が島に来てひと月余りの翌1945年(昭和20年)2月にはアメリカ軍が島を攻撃、たった三日で日本軍は全滅。兵の多くは玉砕。そして8月に日本は敗戦。
 
だが、小野田は降伏せずジャングルに潜伏する。この時弱冠22歳。これ以降の29年間、小野田の“お一人様(というより独りよがり)戦争”が続くことになる。とはいえ、森には小野田の他に三人の日本兵が逃げ込んでいた。島田庄一、赤津勇一、小塚金七である。そこで四人は最年少だが士官で少尉の小野田を隊長として、戦闘を続行することを決めた。
 
小野田の「闘う論理」(住民殺害を含む)はこうだ・・この島は日本が占領した土地である。そして我々は、日本軍の再上陸に備えて島を占領せねばならない。だから、我々の領地!に侵入してくる者に対しては、容赦なく攻撃する・・というのだ。何とも恐れ入ったテメエ勝手な理屈だが、この人は「自他を入れ替えてモノゴトを見る」というカント道徳律の初歩さえ学んでいないし、そんなやさしい想像力さえ働かないほど、軍国主義と「中野学校」の教育に洗脳されてしまっていた。
 
[陸軍中野学校の教え]
 
陸軍が極秘に創立した「中野学校」は、文字通り東京の中野駅北口にあった。その設立目的は、諜報・遊撃戦(ゲリラ)・敵撹乱・潜伏・隠密行動といった謀略を任務とする人材の養成であった。そのためか、かの悪名高い『戦陣訓』(絶対に捕虜になるな、いつでも死ぬ覚悟をしておけ)とは真逆の目標が掲げられ叩き込まれた。
 
●たとえ国賊と呼ばれようと生き恥を晒そうとも、絶対に生き延び一人でも多く敵を倒せ。
●玉砕自決は許されない。無駄死せず石に齧り付いても生きて任務を遂行せよ。
●主力部隊が撤退したった一人になっても、残置諜者になり反撃に備えよ。
●万一捕虜になったら、敵の情報を手に入れよ。
といったものだ。つまり「死なずに永遠に戦い続けろ!」という非情な教えだ。
だから小野田は、ルバングの日本軍が全滅しようが玉砕しようが、「自分は絶対に生き延びて一人でゲリラ戦を展開する」しかないのだ。
 
「ゲリラ戦を強化せよ」という命令であるから、任務途中で死ぬわけにはいかない。味方の再上陸を信じて戦い続ける他に選択肢は無い。後日のインタビューで小野田は「私は中野学校の教育を受けた者であるから、決して負けを認めるわけにはいかないのだ」と言った。強情意固地な性格にこの中野学校の非情な教(狂)育がプレスされドッキングした時、若き「小野田寛郎という永続戦闘兵士」が誕生したのだ。洗脳の恐ろしさをまざまざと見る思いがする。
 
[強奪・放火・住民殺害]
 
さてグアム島の横井庄一たちは、島民や米軍に見つからないようにひたすら身を隠し、地下の穴蔵で息を詰めて暮らしていたが、ルパング島の小野田たちはこれとは反対に「積極的ゲリラ戦」とやらを展開。里の住民が、小野田たちの隠れている山に登ってくると「わが領地に侵入した」と言って、報復のため村を襲撃したり火を放ったりした。ヨソの国に頼まれもしないのに土足で上がり込み、モノを盗むは壊すは火を付けるは・・「侵略したのはどっちだ?」と、誰だって言いたくなるだろう。
 
食料はどうしたかというと、横井たちのように様々に工夫したり智恵を出して乗り切ろうとせずに、住民のコメを奪ったり貴重な財産である牛を殺して燻製にした。文字通り山賊である。それだけでも重大な犯罪だが、椰子の実を採ろうと木に登っていた、何の罪も無い村人を撃ち殺したりしている。「戦争だから」などという言い訳は通用しない。民間人を殺すことはどんな戦争でも許されてはいない。だから空爆はいつでもどこでも非難されるのだ。
 
終戦以降、小野田ら日本兵によって殺された住人は30人近い。負傷者は100人以上。だから今でも遺族は小野田たちを恨んでいる。「父は小野田に膝を打ち抜かれ、出血多量で病院に運ばれる途中で死んだ」・・こんな被害者が村にはゾロゾロいた。村の住民に大きな被害が出るに及んで、警察も軍も看過するわけにも行かず山狩りを行うが、そこは諜報養成「中野学校」卒の小野田だ。隠れ家の山の洞窟はそう簡単には発見されない。
 
小野田と銃撃戦を交えた警察官は言う・・「小野田は英雄なのかね、それとも犯罪者なのかね」と。叔父を殺された女性は「彼は日本ではヒーローかもしれないけど、島民にとっては殺したいほど憎い人間なのよ」と。だからはるか後に小野田が投降し、山を下りてセレモニーに参加すると聞いた村人は「待伏せをして彼に復讐する計画を立てた」のだが、「小野田を決して傷つけてはならない」という大統領命令が出て、軍と警察が彼をがっちりガードしたため、暗殺計画は未遂に終わった。皮肉なことに軍事独裁者のマルコスが、小野田の命を救ったのだ。
 
[フィリピンの反日感情]
 
1950年に、小野田ら4人のうちの1人赤津一等兵が投降し日本に送還されたから大騒ぎに。赤津の話により、小野田ら残留日本兵の氏名が家族にも知れた。小野田の兄(弟とは異なり温和な性格で医者である)は「弟を探しに行きたい」とフィリピン政府に入国を願い出たが、「日本兵救出隊の安全を保証できない」と拒否された。それほどフィリピンの反日感情は強かったのだ。まだマニラ湾には日本の軍艦の残骸が、あちらにもこちらに顔を覗かせている有様だったし・・
 
51年の「サンフランシスコ講和会議」で、アメリカのダレス特使は「日本に莫大な賠償を突きつけると、ドイツのようにまた軍事大国化に走る危険がある」と各国を説得したのだが、アジア諸国は猛反発。「我々が許しと友情の手を差し伸べるまえに、日本は心からの謝罪と悔恨を表し、生まれ変わった証拠を示せ」と主張。特にフィリピンは強固だった。ロムロ外務大臣は「日本が我々に与えた傷は、どんな黄金をもってしても元に戻せるものではない」と言い切った。
 
そこで日本はアジア各国と個別に話し合うことになる。侵略したり植民地にした国々(中国・朝鮮・台湾・シンガポール・フィリピン・インドネシア・ベトナム・南洋諸島などなど)と、以後何十年もかけて困難な交渉を続けなくてはならなくなった。まさに「戦争を始めるのは簡単だが終わらせるのは難しい。そして戦後処理はさらに難しい」を、いやというほど味合わされることになる。
 
さて小野田・・軍国主義と「中野学校イズム」に完全にマインド・コントロールされてしまったこの「戦う狂気」は、独りよがりの戦闘を止める気がまったくない。「相手がこっちを殺そうとするから、こっちも積極的にやった」などと嘯く。自分が勝手に村に入り込んで牛を殺しコメを盗んでおいて、警察や村人が自衛のために発砲すると逆ギレするのだ。そして道路工事の飯場にいきなり姿を現し、子供がいるというのに銃を発砲して労務者を殺したりする。これが中野学校で教わった「ゲリラ戦」ということらしいが、やっていることは「殺人」である。
 
島民の憎悪も国民の怒りも沸騰するから、当然フィリピン警察も「日本兵狩り」に力を入れる。その結果、警察との銃撃戦で島田伍長が死亡。41歳だった。小野田と出会わなければ、でなければ赤津のようにこの“狂人”と縁を切っていれば、生きて国に帰れたものを。フィリピン政府は「警察が小野田らを逮捕に行くが、場合によっては射殺することもある」と、日本の外務省に連絡を入れた。さあ日本側は困った。マスゴミも騒ぎだし、59年に国会で『救出決議案』が可決・・残留日本兵の救出?は国家が保証すべき、というのだ。
 
このようにフィリピンの反日感情はとてつもなく強かったのだが、何しろ世界情勢は「冷戦」が熱くなるばかり。一日も早くアジアに「反共防波堤(韓国・日本・フィリピン)」を築きたいアメリカは、フィリピン説得に乗り出す。その結果、フィリピンで戦争犯罪を行ったBC級戦犯100余人が、大統領恩赦で罪を許され日本に帰国できた。キリノ大統領は妻と我が子3人を日本軍に殺されているのだが・・「友人となるべき日本人に憎悪の念を残さないため」決心した、と。
 
56年には「日比賠償協定」が締結された。80億ドル要求されたのに日本は5億ドル!に値切った。しかも被害者に補償金は支払われず、ホテルや橋や鉄道や発電所といったインフラに使われたから、日本のゼネコンが大儲けしただけだった。インドネシアでもまったく同様なことが起こった。ジャカルタホテルなどは場違い(失礼)なほど巨大で立派だが、請負った大成建設が儲けただけだ。日本兵に殺されたインドネシア人には、まったく縁の無い豪華ホテル建設だ。
 
 ドタバタしたあげくに5910月「残留日本兵救出派遣団」が出発。投降呼びかけのビラが飛行機でジャングルに撒かれた。小野田はこのビラを読んだのだが「敵の謀略戦のひとつ」と無視。
なぜなら小野田自身が中野学校で、「伝単」(偽の情報を書いたビラ)の書き方や撒く方法を教わっていたからだ。「これもどうせニセモノ」というわけだ。
 
拡声器で兄が「寛郎ちゃん、聞いていますか。戦争は終わって日本は繁栄してますよ。一緒に日本に帰りましょう」と呼びかけたが、聞く耳を失った石のごとき頑なな心には肉親の言葉も届かず。半年も捜索したが発見できず。むなしく帰国することになった。厚生省は「もう二人は死んでるのだろう」と・・小野田と小塚の実家にはそれぞれ知事から『死亡通知書』が届いた。
 
しかしルバング島では被害が続いていた。海岸を歩いていた者が日本兵に撃たれて死んだのだ。フィリピン警察は「小野田の写真を送れ」と日本外務省に頼んだのだが、「一度打ち切って結論がでたものを、また生きていると認めたりしたら収拾がつかなくなる」と、いかにもの役人論理(面子と体面と保身と責任逃れ)で拒否した。
 
1965年にマルコス(妻があの悪名高きイメルダ)が大統領になると、外国資本の力で開発を進めたい彼は、日本の技術力がどうしても必要なので反日感情を抑えにかかる。南北2000キロに亘る日比友好道路の建設が69年から始まるが、これはフィリピン初の「円借款事業」だった。こうして日本とフィリピンの距離は縮まり親密になっていく。
 
アメリカ一辺倒だったフィリピン国内に、憧れの的だった安くて質の良いメイド・イン・ジャパンの製品が広まって行き、反日感情も少しずつ薄らいでいく。日本製品を輸入すると儲かるので、商社などは「残留日本兵」の話題は商売の邪魔。中には「残留日本兵なんて作り話じゃないか」などと事実を否定する新聞(『デイリー・ミラー』)まで現れる始末。どこの国でも同じですなあ。
 
ルバング島でも開発計画が持上がるが、小野田らの「残留日本兵」がネックとなり、日本企業がすんなり進出できる環境ではない。そのため、道路建設案も学校建設案も中止となった。殺された者が何十人もいる島の住民の「反日感情」は、経済発展という「甘い蜜」でも溶けたりはしなかった。小野田らの山賊行為(自称では「戦争」)がなければ、島の中央に幹線道路ができ、新しく50ヘクタールの農地が開発されたのに・・島の発展を阻害した小野田の狂気は、何とも言いようが無い害悪だった。
 
[外交問題になった小野田らの犯罪]
 
1972年に戦友小塚が警官に撃たれて死亡し、文字通り「一人の戦争」をせざるをえなくなった小野田だが、ジャングル生活も27年。そろそろ年齢も50に近づきつつある。洗脳された狂人であっても、孤独はつらかったはず。上官の谷口少佐は「決して玉砕するな。3年でも5年でも頑張れ。必ず迎えに来るから」と言ったがもちろん空手形の口先だけ。特攻兵を送り出すときに上官が「俺たちもすぐ後に続くから」と言うのと同じ。こういうことを言うやつに限ってさっさと転向する。
 
一方日本では「残留日本兵は生きていた。小塚一等兵が撃たれて死亡」と報じられ、またもや大騒ぎ。役人・官僚は「有ったことを無かったことにし、無かったことを有ったことにする」のは得意だが、さすがにこの事件はスルーすることはできない。またもや「救出隊派遣を!」となったのだが難問が・・コトがコトだけに厄介な外交問題になっており、折角の「日比友好」に水を差すことになりかねない。
 
●小野田が殺害される恐れ 
●島民から日本政府へ「損害賠償請求」が起こされる恐れ、があるのだ。
そこで卜部大使はマルコス大統領に会い、「小野田の行為が罪に問われないようお力添えを」と頼み込んだ。官房が「小野田の身柄は、そのまま日本に引き渡す」と言ってくれ、大統領も「小野田の救出確保に、国を挙げて協力する」と約束してくれた。
 
かくて日本・フィリピン両政府の肝煎りで大規模な捜索が10月に開始された。日本政府は一億円の大金を注ぎ込んで、大捜索隊を結成。厚生省の役人・警察・和歌山県人会・山岳協会・通訳、そして「中野学校」同窓生まで。税金使って「人殺しの山賊」狩りだ。マルコスは島民や警察が報復しないよう空軍に捜索の指揮を執らせ、「小野田を必ず生きたまま確保せよ」と厳命が下された。フィリピン側からも300人という多数が捜索に参加した。
 
小野田は姉の「寛郎ちゃん、寛郎ちゃん」と呼ぶ声や、兄の「軍人なら軍人らしくしろ」という声も海岸近くで三日ほど聞いていたが、「自分にはこの戦闘を止める理由が無い」と投降を拒否。完全に病気である。この年も半年近く捜索したがムダに終わった。小野田は隠れるのが天才的に上手い?
 
卜部大使は「島民全体の福祉のために、何とかすべきである」と日本外務省に伝えたが、大平大臣は「見舞金という形なら払えるが、人的物的補償ということにすると問題が生じる」と。「日本は個人に対しては戦後賠償を行わない」と決めていたからだ。だから大平は「無償援助にしてくれ」と言ったのだ。卜部は「国全体でなく、島民に直接恩恵が及ぶプロジェクトが望ましい」とのべ、港湾の改善、ビゴ川流域の灌漑、島内交通の整備など具体的な例を挙げたのだが・・
 
外務省の「被害金額算定」がおぞましい。人種差別意識が露骨なのだ。小野田らが殺したのは30人と言われているが「では一人いくらにすべきか?」・・日本赤軍がこの年1972年の5月にイスラエルのテルアビブ空港で、銃を乱射し24人を殺した時は一人当たり6万ドルだったが、フィリピン人だからというのでほぼ半額、30人で100万ドルと計算した。これがいわゆる「見舞金」で、日本が赤恥をかくことになるお金だ。しかしマルコス大統領はこれを承諾した。
                     
[小野田の投降]
 
さて膠着した状況を変えるのは偶然か意外行動だが、小野田の意固地な心を変えたのも一人の青年の素っ頓狂な行為だった。小野田に興味を持った青年鈴木紀夫(25歳)が、742月にルバング島にやってきたのだ。「日本人が一人で探せば、警戒を緩めて姿を現すのでは」と考えたのだ。で、山に入りテントを張って待っていると、三日ほど経って小野田が現れた。
 
鈴木が「小野田中尉殿でありますか、私は鈴木であります」と、できそこないの軍人口調で話しかけると「お前のことはこの三日間ずっと見張ってきた。軍人じゃないな。軍人は決してサンダルは履かない。靴下を履いてるところをみると村人でもないな。お前は何者だ? 一人のようだがここで何をしている?」と聞いてきた。鈴木が「私は日本から来た旅行者です。戦争はもうとっくに終わっております。陛下も国民もあなたのことを心配してます。私と一緒に日本に帰りませんか?」と言うと、小野田は「ヤアヤア」と意味不明な言葉を漏らした。
 
この物怖じしない若者に気を許したのか小野田は自分の写真を撮らせ、さらに鈴木に「命より大事な銃」を持たせてツーショットまで撮らせた。そして鈴木は小野田から「命令が解除されれば投降する」という言質まで取ったのだ。大手柄だった。大喜びの若者は日本に帰ると、すぐにこのことを日本政府に伝えた。228日には小野田の写真が新聞に公表された。
 
310日鈴木がテントを張っていた所に小野田の上官だった谷口(元)少佐が来て、陸軍大将山下泰文の「大命ニ依リ−−第十四方面軍ニ対スル作戦任務ヲ解除セラル」という『尚武集団命令』を読み上げ、やっと小野田は武装解除し投降した。島民が見守る中、小野田はヘリコプターでマニラに運ばれた。マルコス大統領は政治的配慮から小野田をマラカニアン宮殿に招き、「天皇と祖国のために忠実に戦った模範的兵士」と讃え恩赦を与えることにした。
 
「すべての違法行為を許す」と大統領マルコスが恩赦を与えることにより、小野田は殺人・強盗・放火などの「犯罪者」(戦犯)から「英雄」(皇軍兵士の鑑)にロンダリングされた。独裁者マルコスの真意は「小野田のように命令には絶対的に従え。国民は黙って国の言うことに従えば良い」ということだったのだ。卜部大使いわく「フィリピン側の配慮によって、小野田少尉の“叙事詩”は美しい“叙情詩”となった」・・言い得て妙なるかな(笑)。
 
しかし二週間後の327日、日本政府は「恩赦の御礼=殺された島民の遺族へのお見舞金」として三億円をマルコス大統領に手渡すため、自民党総務会長の鈴木善幸を特使としてマニラに派遣したのだが、予想外のデキゴトが起こった。その「見舞金贈呈式」で鈴木善幸が差出したカネを、事前には承諾していたマルコスが受取りを拒否したのだ。「小野田を許したのは純粋な気持ちからだ。それをカネという価値と結びつけるのは望ましくない」とエエ格好しいをした。なぜか?
 
「小野田への恩赦は、日本の援助欲しさにやったもの」という、日本の新聞や週刊誌の記事に激怒していた(男は、痛い所を突かれるとキレる)からだ。さらにこの三億円の用途について、ルバング島の遺族の要求に加え、あちらからもこちらからも口出しをされウンザリしていたのも事実。それにこの見舞金を受け取ったら、「私の家族も日本兵に殺された、盗まれた、放火された」と、国中から被害者が叫び出すに決まっている。
 
一方見舞金を差し出した鈴木善幸は、大恥を掻かされて顔面がみるみる紅潮。それでも必死に「大統領お気持ちはよく分かりますが、日本国民の気持ちも理解していただきたい」と説得。後で卜部大使を呼びつけ「こんな恥を掻かされるなら、式典などやるべきじゃなかった」と怒鳴りつけた。かくて三億円の見舞金は宙に浮いた格好に・・
 
翌日卜部はマルコスと会談し「このカネは政府ではなく民間に寄付することとし、これをもとに日本とフィリピンの民間が基金を設立して運営する」ことで合意した。こうして生まれたのが「比日友好協会」である。日本の大学に留学生を送ったりしている。だが、殺された島民の遺族には1ペソも支払われず、ただの「殺され損」のままである。
 
当時の財務大臣セサル・ピラタはこう言った「許そう、しかし忘れない」と。フィリピン人は今でも、この言葉に込められた思いをずっと抱いている。
 
[帰国そしてそれ以後の小野田]
 
312日、小野田(51)が羽田についた時のフィーバーぶりは、ビートルズ来日を思い出すほどだった。両親が出迎えていたが、母親タマエは「永い間ご苦労でございました。エライ有り難うございました」と息子に御礼を言っている。さすが「軍国の母」というべきか?母校和歌山の小学校の同級生が掲げた横断幕には「小野田君 祝ご帰還!」などと書いてある。
 
鈴木善幸は迎えに来ていたが、首相の田中角栄は「戦友の墓参りがあるから」と姿を現さず。国民の視線と人気を何より気にする政治家が、こんな絶好の“晴舞台”を見逃すわけがない。これは明らかに角栄の「反・小野田感情」を示すものだ。戦場の経験があり、軍隊の不条理と非道をたっぷり知らされた角栄にしてみれば、洗脳されて「戦闘ロボット」化し民間人を何人も殺したような小野田を、手を差し伸べながらにこやかに出迎えるなんて、到底できないことだったろう。
 
マスゴミの取材も小野田同様異常で、靖国神社へ行こうが皇居を遙拝しようが、どこへ行ってもゾロゾロついてくる。小野田が実家の和歌山に滞在すると、ヘリが6機も飛び家の前にプレハブの小屋が建ち出店まで。だが小野田が神社に詣った時“事件”が起きる。小野田に同行した者が「参拝する前にこちらでお祓いを」と言ったところ、いきなりキレて「私は穢れてなどいない!」と怒鳴り興奮状態。小野田の身内に不幸があったから「お祓いを」と言っただけなのだが、「人を殺してきたから穢れている、と言うのだな」と誤解したらしい。
 
週刊誌も「小野田少尉の“英雄部分”の光と影」「幻想の英雄 小野田少尉」と、ルバング島の村民殺害を書き立てる・・こういったあれやこれらが重なり、小野田は1年ほど日本にいただけで逃げるように親類がいるブラジルへ移住してしまった。本人は「平和に酔いしれている日本の雰囲気がいたたまれない」「私は“戦う”という職を失った。今の日本には私が入り込む隙間など無い」と。まだ洗脳の呪縛が解けない彼は、「中野軍国イズム」と「高度経済成長イズム」とのギャップの大きさに戸惑い、自分の居場所を見つけられず苛立ちを募らせていたのだ。
 
ブラジルでは牧場を経営して平和に穏やかに暮らし、顔つきも“鬼殺し”の物騒な形相から人並みの好好爺に変身。おしゃべりで優しい人物に生まれ変わった。やっと洗脳(マインド・コントロール)の呪縛から解放されたのだ。後には1年の半分は日本に帰ってきて、福島で子供相手の「自然塾」を開いた。自然の中でサバイバルする術を教えるのは、まさに天職と言えよう。さらに田中角栄のように「絶対に戦争をしてはいけない、平和が一番」と教えてくれればねえ(笑)。
 
 965月、小野田は22年ぶりにルバング島を訪れ、空軍の護衛付きで和やかに笑みを浮かべながら村村を回った。そして住民が見守るなか2万ドルを寄付したが、父親を小野田に殺されたベルナルド・カルロスは、「小野田が来ることには絶対に反対だ」と言った。父親が殺され一家は貧困に喘ぎ、学校にも満足に行けなかったのだから、恨みが溶けないのは無理もない。しかし老いたカルロスは今はこう言う・・もう小野田を赦そうと思う。そして小野田に復讐しようと考えた自分も、神に赦しを乞いたい、と。
 
小野田は今から5年前の2014年に91歳で死んだ。小野田ら残留日本兵のせいで開発ができなかったルバング島では、今は小野田らの隠れ住んでいた洞窟などが観光スポットになり、物好きな?観光客がけっこう訪れるという。
 
                                                              −−−完−−−


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事