キープ・レフト

命どぅ宝:転載はご自由にどうぞ:頂いたコメンへの返事は、ほとんど出来ませんのでご容赦

全体表示

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全180ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]

イメージ 1
日本のプロレタリア文学の影響を強く受けた
代表的な反戦川柳作家 鶴 彬(つる あきら)。
1909年1月1日-1938年9月14日
 
俳句・川柳で戦争を読む
― 五・七・五で「戦争万歳」も「戦争反対」も読めるのだ! ―
 
先の大戦を経験した者も経験していない世代も、戦争を句にすることはできる。では俳人は戦時にどんな句を詠んだのか?
 
壮行や深雪に犬のみ腰を落とし/世界病むを語りつつ林檎裸となる/親雀仔雀ラジオは軍歌ばかり/雪と影戦は昼も夜も深し/カーキ色の世は過ぎにけり夏の蝶(中村草田男)−−1句め、出征する若者(戦争末期には子供がいる中年まで徴兵)を皆が「池田小作君の武運長久を祈る、万歳万歳!」などと熱狂しているのを、犬だけが雪に腰を落として冷ややかに眺めている。もちろんこの“考える犬”は、ニーチェ学者の草田男である。人間という愚かな生き物は、すぐに軍国・愛国ナショナリズムに洗脳されてしまうが、フェイクな観念などとは縁がないクールな“哲学する犬”は欺されない。 
 
ところが戦後になりこの句は論争を引き起こした−−この句は「戦争を批判的に描いたものではなく、壮行会の華やかさを言祝いだ戦争賛歌の歌だ」と言うのだ。いや保守ウヨではなく、むしろ公認左翼?に近い人たちだ。冷たい雪に腰を落として人間の馬鹿騒ぎを眺めている犬は、何かの象徴性を付与された存在(比喩)ではなく、「単なる点景事物(傍観者)でしかない」というのだ。想像力の乏しい人は字面だけしか見ないから、頭が疲れなくて羨ましい。この句を高く評価する俳人赤城さかえは、非難した彼らを「左翼小児病」(幼稚な表層理解しかできぬ左翼原理主義者)と笑ったが−−
 
出征ぞ子供等犬は歓べり(三橋敏雄)−−これなら文字通りだ。いや、そうでもないか。なぜならオトナも表面上は「✕✕君万歳! 武運長久を祈る」と大喜びの振りをしているが、ホンネは「かわいそうになあ、今度帰ってくるときは白木の箱か」と思っているのだから、喜んでいるのは子供と犬だけ、というのは皮肉とも読めるからだ。
草田男から戦後になって「戦争協力者」呼ばわりされた加藤楸邨はどうか? 大学で国文とドイツ哲学を学び後に教授となった草田男と、地方の高校教師になった朴訥で人情厚い楸邨は、そのまま性格が二人の句柄にも表れているようで興味深い。「鰯雲人に告ぐべきことならず」(代表句のひとつ)もそうだが、楸邨は声高に人を非難したりしない、自己主張も控えめ。喧嘩論争は避けるというか苦手? だからか人気・人望は高く弟子も多い。戦時中には軍人将校の弟子も数多くいた。
 
踏み征くやきらりと春の霜柱/春潮の寒さの果てを征くならむ(加藤楸邨)−−出征した教え子を思いやる優しい視線がある。が、心情や感傷を超え魂の深部を揺さぶるような言葉の強さ、社会や世界にまで届く比喩の深さがない。「火の奥に牡丹崩るるさまを見つ」にしても、防空壕の中から空襲の火の海を詠んだ景というが、確かに美しい花が炎上する、ある意味官能的衝撃であるのは納得だが、それでも画家速水御舟の『炎舞』(火の中に飛び込もうとしているかのような蝶蛾の舞)の凄惨な美に遠く及ばない。弟子たちがいくらこの句を褒め称えても、まったく物足りない。単なるスナップ写真というか、スケッチの域を出ていないように思えるのだ。楸邨という俳人は人事(この世のデキゴト)は詠めても、人間の感情の深奥や魂の叫びや怒りといった激しい情動を詠むのが不得手では? 
 
戦争が始まると「戦死報昆虫の翅高く光り」「つひに戦死一匹の蟻ゆけどゆけど」「蟇誰かものいへ声かぎり」−−こういった句すら軍部から睨まれることとなり、楸邨も国策(軍部の方針)に恭順の意を示さざるをえなくなった。で、敗戦間近の昭和19年7月からひと月余り、陸軍の命令で中国へ従軍取材に行かされる。どうやら「戦争反対!」「我々に表現の自由を!」と声をあげるのは、“誰か”に任せて「身の安全」を優先したようだ。もちろん誰であろうと、それを責めたりはできない。
 
他の俳人と異なり戦争と聞いても興奮しない草田男だが、クールな教授とは思えない激しい句を稀につくっている。「寒夜いま敵都は真昼鬼畜憎し」「小さき寝顔ジンジンと寒気敵憎し」「朝の蜜柑食べ強く産め敵憎し」−−どうしたの草田男先生。妊娠して朝から酸っぱいミカンを食べる妻(草田男は愛妻家だった)に、「鬼畜米英をやっつける強い子を産んでくれ」と頼んでいる。楸邨を「戦争協力者だった」と批判した草田男だが、悪法「治安維持法」に引っかかり特高警察(今の公安警察)の取調べを受けた後で、敗戦の前年(1944=昭和19年)に『文学報国会・俳句部会』幹事の一人(他には松本たかし・大野林火・川柳の川上三太郎ら)になったりしているのだから、楸邨を非難する資格はないとも。
「戦争協力者」というなら、大御所富安風生こそその人と言えるだろう。「国家が危機にあるときは、超然とした世界(俳句?)に立て籠もってなどおられぬ」と公言、「文学報国会・俳句部会」の幹事長に納まった御仁だ。つまりベタに「日本万歳!大東亜戦争万歳!」を叫ぶ、大変分かりやすいお方といえる。『学徒出陣を詠む』にはこんな句が−−         
 
学び舎も戦の庭も菊の雨/明日の日は征くべき灯火親しめり(富安風生)−−例えば草田男だと教え子を送り出す時も「勇気こそ地の塩なれや梅真白」だ。聖書の言葉「地の塩」を引用して「理不尽な軍の命令に反対する勇気を持て!」と学生を励ます。並(フツーで非凡)の愛国者とはオツムが違う?ので「サクラ(桜)」(愛国の象徴)など絶対に比喩に使わない。塩よりも白い梅である。さすが!
 
草田男の「金具冬日に燦と一語や師よさらば」なんて、胸がジーン鼻の奥がツーンとなる。金具というのは軍帽の記章やらベルトのバックルやら剣の柄だろうか、それらに冬の陽が当たってキラキラ輝く。そして学問も将来も夢もすべてを、国家によって無慈悲にも絶たれる教え子の学生は、ただ一言「先生、これでお別れです」と言って戦地へ赴く。師としてはまさに“断腸の思い”だろう。
 
富安風生には他に「筆に生き戦の神に初詣」などという句があるが、おめでたいノーテンキなものだ。自分は弾の飛んでこない安全地帯にいて、神社に戦勝祈願し「愛国者」気分とは−−「神国日本」だの「八紘一宇」だの「五族協和」だの、掛声かけるだけならオツムてんてんの阿呆でもできる。これではそこらの反・知性主義の愚衆と同じではないか。
 
戦捷(戦勝)の春をたたへて雪に詠む(飯田蛇笏)−−この有名な俳人も戦争が始まると、弾圧を受けた「自由律俳句」からコロッと伝統俳句に転向。こういう「保守回帰派」は、あらゆる芸術・文化の分野で頻出し、政府や軍部肝煎りの御用集団組織「大政翼賛会」に吸収されていく。蛇笏も「嗚呼皇国」「皇国聖戦」「皇国戦捷」「皇天皇士」と、皇国オンパレードの短歌を量産した。
●戦争が廊下の奥に立ってゐた(渡辺白泉)−−あまりに有名な時事(戦争)俳句である。季語を使わない「新興俳句」グループの俳人は、「日本の伝統に逆らうアカっぽい連中に違いない」と特高警察や憲兵に眼をつけられ、解散するように弾圧を受けた。実際に廊下の奥に立っていたのは憲兵だった。
●日冴えたりかくて撃つべし米も英も(瀧春一)
冬霧に濡れてぞ祈る勝たせたまへ/重油噴き冬潮に裂け敵の艦(水原秋桜子)−−これらは「真珠湾」攻撃の日のもの。昔「啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々」は、私の好きなベストテンの一句だったが。
馬肉人肉あさる犬らよ枇杷の花(奈良部藤花)−−死んだ兵士の肉は犬が食べてくれる。
幻の砲車を曳いて馬は斃れ(富澤赤黄男)−−戦争で死ぬのは人間だけではない。馬も犬も徴用されて死んで行った。飼い犬が「ワン」と鳴くとすぐに警官が来て、「お国の為に差し出せ」だ。
虫止みぬ敵か味方か伝令か(村田石穂)−−虫が鳴きやんだのは、何者かが近づいてきたからだ。敵か味方か、それとも命令を伝えに来た伝令だろうか。胸が騒ぐ。戦場では虫の音を楽しむ余裕も無い。
萬緑や死は一弾を以って足る(上田五千石)−−人間なんて銃弾一発であっけなく死ぬ。
夕焼に遺書のつたなく死ににけり(佐藤鬼房)−−まだ若い兵士なのか、高い教育など受けられなかった貧しい兵士なのか、拙い遺書を戦友に託して死んでいった。無念だったろうなあ。
てんと虫一兵われの死なざりし(安住敦)−−死ぬのが当たり前、生きてりゃ儲けものだった。
 
十五日 戦争は終わった(作家・中勘助)
●敗戦日空が容れざるものあらず(石田波郷)−−B29の空襲も高射砲の弾丸も飛ばない空は、青く青く澄み渡り、ナニモノも拒まず受け入れて寛容そのもの。平和とはこういう空のことなのだ!
きょうからは空襲もなし夏の雲(?)−−空襲を容易にしないため、「灯火管制」といって外に光が漏れないよう電灯にカバーをかける日々。それもやっと終わり、今夜からは部屋も明るくなるのだ
ああ秋日面に厳し泣くべきものか(荻原井泉水)−−自由律俳句の人だが、「泣くものか」でなく「泣くべきものか」とある。玉音放送を聞いて皇居で土下座して泣く人の写真(ほとんどが捏造されたものと後で判明した)があるが、「負けたのは我々がだらしなかったからだ。陛下に申訳ない」ということらしい。洗脳もここまでくるともう病気だ。「泣くべきものか」は「泣いてたまるか、冗談じゃないぞ」と私は読むことにする。
●降伏のみことのり妻を焼く火いまぞ熾りつ(松尾あつゆき)−−「玉音放送」(正確には『終戦の詔勅』)を聞きながら、被爆して死んだ妻を火葬にしているのだ。なにが「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」だ。原爆落とされて焼け爛れ血へど吐いて死んでいった妻と子を、自分の手で火葬にしている。これ以上何を「耐え忍べ」と言うのだ。責任とるべき者が耐え忍ぶべきではないのか?
敗戦日ただ抱きしめし末っ子よ(園田とく子)−−末っ子は可愛いというが、この句はそれだけではあるまい。兄たちは皆戦死しているのではないか?  残った息子はこの末っ子だけという。
忘れちゃえ赤紙神風草むす屍(池田澄子)−−作者の父親は医者だったが従軍して若死にした。だからこの句は言うまでもなく、「戦争の記憶の風化」を怒り皮肉ったものなのだが、何と草田男の「犬の句論争」と同じくバッシングを受けた。字面しか読めない貧しい想像力の「単細胞平和主義者」たちから、「忘れてしまえとは何だ!」と猛攻撃されたのだ。
八月十五日春画上半の映画ビラ(中村草田男)−−戦後の「敗戦記念日」の風景である。330万人の日本人が死に2000万人以上のアジア人が死んだというのに、早くも「戦争の記憶の風化」か、ピンク映画のビラには春画が描かれている。
 
あ、そう言えばちょいと昔「最近バカが多くて疲れません?」と桃井かおりが軽く挑発?する飲料メーカー(だったと思う)のCMがあったが、自分のことをバカ呼ばわりされたと勘違いしたリテラシー0(ゼロ)の視聴者が、がんがんクレームの電話をかけ“炎上”状態に。そこでこの会社は「最近お利口さんが多くて疲れません?」と直して放映した。実に傑作!  最高に笑えた。聞いている者が本当に利口なら、「お利口さん」と呼ばれたほうがバカにされていることに気づくはずなのだが−−
 
いつまでもいつも八月十五日(綾部仁喜)
●何処にいても今日は八月十五日(渓口さ菜江)−−甲子園球児よ、八月十五日はお盆の日でもあるが、
なにより君たちの祖父祖母・大伯父大伯母たちが戦争で何十万人も死んだ日だ。忘れることなかれ!
動けば寒い(橋本夢道)−−どこが戦争句? 実はこの句、「第四次俳句弾圧」(昭和162月)で特高警察に逮捕され、獄中にいたときの実感の句なのだ。同じく自由律の俳人・尾崎放哉の畢生の名句「咳をしてもひとり」より短く、たったの七音。それでいて尾崎の句に勝るとも劣らない、禅の名僧の箴言のようではないか。様々な読みを呼込む奥深さがある。人口に膾炙する「無礼な妻よ毎日馬鹿げたものを食わしむ」という、逆説“愛妻句”の単純さとは較べものにならない、多様で複雑な解釈が措辞の表現域の下から掘り出せる深度があるのだ。
 
あ、取調べのため赤坂に護送される車内で椿が眼に入ったので、即吟で「赤坂の見附も春の紅椿」と行ったら、同乗していた検事が「あんたもな、そういう句だけつくってれば、ここへ来ることも無かったんだよ」と言ったとか。
 
では川柳。川柳は時事を詠むのに、俳句より適しているといわれてきたが、さてどうだろう。
原爆の屍臭に馴れて米をとぎ(御戸風平)−−どんな悲惨にも人は馴れてしまう。アウシュビッツのような極限の環境でも、人は飯を食い眠り笑うことすらできるようになるのだ。
●血と海のなかで蛆だけ生きている/乾パンをかじり死臭の野に寝る−−(竹永あきら
気取っているうちに戦争が後ろにいるよ(菊地山芋)−−「戦争なんか知らねえや、オレには関係ネエや」と言っているあなた、油断していると気が付いた時は津波同様手遅れですよ。ウソだと思うなら『茶色の朝』を読みましょう。ゾンビ映画やデキの悪いホラー映画よりも、現実の方がどれだけ恐ろしいかよーくわかりますよ。
●たましいがころんと箱に小石でいるよ(徳永義子)−−戦死して戻ってきた骨箱には骨も無く、ただ小石がころんと入っていただけだった。
 
●英霊モ戦犯モイルタイムカプセル(岡崎守)/靖国に誰かが埋めた不発弾(丸山進)/−−「歴史」や「戦争」というタイムカプセルの中には、英霊も戦犯も仲良く詰まっている、ということだろうか?ところでいつも問題になる靖国神社だが、皆さん誤解しているようだが、この神社は“天皇の赤子”として死んだ者だけを祀っているのであり、日本のために死んだ者(例えば西郷隆盛など)を祀っているのではない。テロとクーデターで徳川幕府を打倒した志士が、死んだ仲間を鎮魂するために考え出したのが靖国神社のルーツ(東京招社)である。だから志士に対立した者たちは祀られていない。幕末から明治維新にかけ、菊の御紋の“錦の御旗”を掲げた者と、その同調者だけが祀られているのだ。
 
言ってみれば靖国は皇室御用達(明治政府が決めた)の神社である。それを昭和の軍部が引継ぎ「戦死者御用達」にお色直ししたのだ。だから死を覚悟した兵士たちは、「靖国で逢おう」を合言葉にして玉砕していったのだ。だが敗戦後占領したアメリカの意向もあり、A級戦犯は外されたのだが、78年に松平宮司が厚生省と画策しA級戦犯を合祀してしまった。それ以来昭和天皇ヒロヒトは一度も靖国に参拝せず、もちろん平成天皇も詣らず。今やたかが一宗教法人にすぎないのに、ナニサマか態度のデカいこと!  不敬にも(笑)平成天皇の「慰霊の旅」にケチをつけたりしている。
 
しかし「反戦川柳」なら何といっても鶴彬だろう。教科書にも載っている。第一次大戦の不況下で失業。生活苦のなかで川柳に目覚める。物怖じしないエッジの効いた鋭さは、無銘の名刀のようだ。
タマよけを産めよ殖やせよ勲章やろう(鶴彬)−−男の子を10人産むと勲章が貰えた。
軍神の像の真下の失業者/塹壕で読む妹を売る手紙−−徹底して貧しい者の視線である。
●国掠め盗った国の歴史を復習する大声−−鶴は、日本が植民地にした朝鮮の屈辱にも共感する。
フジヤマとサクラの国の餓死ニュース/屍のゐないニュース映画で勇ましい−−鶴は、政府や軍部のプロパガンダには絶対だまされない、まれに見る情報リテラシーの高い人物だ。高等教育などは受けていないのに、どこで学習したのだろう。むろん天性の才能も備わっていたのだろうが。
万歳とあげて行った手を大陸に置いて来た/手と足をもいだ丸太にして返し−−腕や脚を砲弾や弾丸で吹き飛ばされて、やっと帰国できる。それでも生きているだけ幸せ? そう思うなら両手両脚を失った夫(なぜかいつも軍服)と、その世話をする妻の物語である映画『キャタピラ』を観てくれ。
 
昭和131938)年に「川柳人弾圧」事件が起きる。これは川柳雑誌『三味線草』の主宰である森鶏牛子が、特高警察に密告(タレコミ)したからと言われる。権力に尻尾を振るこの卑劣下劣な男は「鶴のような反戦句は、国民精神総動員の時局にあっては特に監視が必要で、反省無き場合は別な手段が必要」などと誌面で脅迫している。そして軍の尻馬に乗り「川柳は風刺詩ではあるが、決して反逆詩ではない。非愛国的川柳は排斥されるべきである。正しい川柳道を擁護するため、また国家的立場より所信に邁進せんとするものである」と、まるで東条英機演説のモノマネ(二番煎じ)のような高言ぶり。
 
鶴は東京で働いているところを逮捕されたが、獄中で赤痢にかかり豊多摩病院で死んだ。お上の厳重な施設である刑務所で赤痢になるわけがなく、しかも病気になったのは鶴ひとり。毒を盛られたと噂されたが、もちろん国家が犯人だからバレるはずもない。ひどく国家に嫌われ憎まれていということだ。つまり国家の痛い所(隠しておきたい真実)を、鶴がぐりぐりと突いたということだ。病院のベッドに手錠で繋がれたまま、苦しみながら死んでいった。わずか29歳の生涯だった。
 
 「暁を抱いて闇にゐる蕾」という名句は、 金沢歩兵連隊に入営した時に大胆にも「普通選挙か革命か」と言うビラを、同じ新兵の仲間に配ってもらったのがバレ、軍法会議にかけられ大阪衛戍監獄(大阪城のある場所)の獄中の作。厳寒の監獄で一日中壁を向いて座らされ、風呂も水風呂という拷問の日々だが、自分は「暁」(未来)を信じて闇の中に希望(蕾)を持っているということだ。なんという強い心だろう。
 
                                                                                      −−−終−−−

イメージ 1

短歌の神様も、戦争になると愛国の神になる。

(写真上は、大正から昭和前期にかけて活躍した歌人・斎藤茂吉)


短歌で戦争を読む

『昭和万葉集』『兵隊万葉集』なども読んでみよう!


日本人はとにかく周囲の「空気」に過敏だから、多数にすぐ同調したがる。戦前の時代にあっても軍部が様々な分野の「翼賛会」をつくり、新聞もラジオも映画も芸能(お笑いまでも)文学も美術も音楽も、すべてが「戦争へ戦争へ」という空気をつくるよう強制された。戦時中ともなれば、その「同調圧力」はさらに一層強まり、異を唱える者は「非国民・国賊」(このエゲツナイ言葉を乱発したのが、軍部と二人三脚の右翼メディアの『日本新聞』)と罵られ逮捕された。
 
令和騒ぎで大モテの『万葉集』だが、『昭和万葉集』の第六巻は戦争短歌を集めたものだ。また『兵隊万葉集』(早坂隆)という本もある。
すめぐにの大臣東条の強魂をちはやぶる神も嘉しとおぼさむ(斉藤茂吉)−−“短歌の神様”も世界を見る目は盲目らしい。天皇の国の首相になった東条英機の、根拠ゼロのハッタリ(大言壮語)を、この老歌人は頼もしいと喜んでいる。戦前は老いらくの恋に現を抜かし、戦後は山ほど作った「戦争賛美短歌」の反省もせず、敗戦5年後には文化勲章までゲットしている。何とも幸せなお方だ。
兵を送る群衆のなか揉まれ来て兄と最後の手を握り合ふ(内原泰子)−−「出征」が、愛する者との最後の別れになるのだ。「立派に死んでこい」が送り出す側の決まり文句。もちろんタテマエとホンネはちがうのだが。
医となりていまだ習わぬ聴診器背嚢に入れ君は征くなり(作家・倉田百三)−−若者に当時よく読まれた宗教色強い作家だが、戦時には国粋的ナショナリズムに右傾してしまった。こんな歌を詠んでいたとは。人の命を救う医者になったばかりだというのに、死者だらけの戦地に行かねばならぬ皮肉。
ひきよせて寄り添うごとく刺ししかば声も立てなくくずほれて伏す(歌人・宮柊二)−−刺し殺したのは中国人捕虜か、老人か女性か子供か?  宮はトラウマにならなかったのだろうか?
傷つきし友の手当を急ぎ終え血にまみれたる弾を分け合ふ(滝口文吾)
国と国あひ戦ふもこの捕虜にわれ憎しみの心持たなく(田中富雄)−−個人的にはなんの恨みも憎しみもないのに、敵国の人間というだけで殺し合う理不尽。
手榴弾に腹砕かれし敵屍体の血も乾かぬに蠅群れ集ふ(佐藤忠男)−−有名な映画評論家も、こんな戦争体験をしていたのだ。血の匂いをすぐに嗅ぎ分けて蠅が卵を産み付け、生きていても蛆がうごめく。
 
●刀身を洗う将校いま斬りし捕虜を黄河の水に蹴落とす/強姦をせざりし者は並ばされビンタを受けてわが眼鏡飛ぶ(川口常孝)−−「令和」の名づけ親・中西進と同じ万葉学専攻だったが、学徒兵として大陸に。そこで目撃した光景。これも日本軍が行った「三光作戦」のひとつだろうか。中国人を人間とは思わず斬り殺し、女と見れば強姦するのが当然のような空気を創り出すのだ。
教へ子の幾人国に殉じけむわが説く道の成否を思ふ(川見駒太郎)−−国家(政治家・官僚・軍部)はまず教育を利用して子供たちを「愛国者」に仕立て上げる。そしてほとんどの教師が、それに抵抗できずに(または率先して)軍国教育に従うことになる。後で後悔しても、死んだ教え子は戻らない。
世の常の記者の如くになりにしと阿容の記事われは書きつつ(北田寛二)−−軍に批判的な記事など書こうものなら、投獄も覚悟しなければならない。そして新聞紙割当てを減らされ、次には発行禁止だ。
「言論・表現・出版の自由」がいかに大切か、最近はその「自由」も怪しくなってきた。
兄弟を国に捧げて手柄待つ齢老い母よすこやかにあれ(北沢今朝治)−−サイパンで玉砕した兵だ。
「産めよ増やせよ」と女を子供を産む機械として利用し、赤紙一枚で徴兵して戦場に送り込み、見殺しにして玉砕させるか餓死させる。ご立派な国であることよ、日本帝国は。さすが神国!
 
敵十機うちの九機を撃墜と言ひしが実は一機さえ無し(石川武美)−−「敵巡洋艦一隻、駆逐艦二隻撃沈!」などとウソばかり。それどころか撃沈されたのは、日本軍の方だったのだ。だから人々はホラ(大風呂敷)吹くことを「大本営発表!」と揶揄した。
豆まきといへど豆無き家の内福は来たらず鬼は追はれず(作家・永井荷風)−−国家国民一丸となって戦争に狂躁する「総力戦」は、あらゆる物資が軍隊優先となるから、当然国民生活のことなど二の次三の次。だから食うモノにも困ることになり、「節分・豆まき」の豆すら無い。なにしろ野菜も肉も卵も米も無くなりスイトンの日々。マッチ一本すら配給となる極貧生活。グルメの東京人・荷風にとっては地獄の日々だったろう。政治に絶望し自分の政治的非力を嘆いて「現代の戯作者」になった。
憶えなきことを迫りて書けと言ふ知らねばわれの体にきくと(小名木綱夫)−−戦時になれば表現一切が取締まりの対象になる。当然短歌・俳句も弾圧された。俳句では「京大俳句会事件」が有名だが、短歌では「短歌評論事件」だ。労働者の実感や政治批判に力点を置くプロレタリア系短歌雑誌だったが、日中戦争が始まると「治安維持法」違反でメンバーが次々逮捕され、拷問(体に聞く)を受ける。戦争とは敵との勇ましい戦闘だけではない。国家(権力)に異議を申立てる自国の民を片っ端から捕まえ、肉体的・精神的に拷問を加え殺すことである。
 
天皇の御楯と誓ふ真心はとどめおかまし命死ぬとも(連合艦隊長官・山本五十六)−−日米開戦には消極的だったのだが、結局「開戦派」に押し切られ、「短期決戦なら一暴れして見せる」と真珠湾攻撃を立案。しかし勝利の美酒に酔えたのはわずか半年ほど、すぐに惨敗に次ぐ惨敗。ミッドウェーで海軍の連合艦隊は壊滅的敗北。暗号など米軍にとっくにバレてるのも知らず、司令官山本の乗っている飛行機は待ち伏せを受け撃墜。天皇を守る楯として戦ったのに何だか哀れお気の毒。それでも、みっともない生き恥さらした東条よりはご立派でした。
●アッツ島に死せる兵らのみ名のなか恩師のそれを見いでし驚き(作家・杉本苑子)−−女学生として雨の神宮球場の「学徒出陣」を涙で見送った杉本だが、なんと守備隊五百余名を見殺しにしたアッツ島の玉砕(銃も弾丸も無くなり素手でアメリカ軍に突撃させられた者も。全滅を玉砕などと美化したのはアッツ島より始まる)兵士の名前のなかに恩師の名を見つけたのだ。野蛮な日本の軍隊は知的なモノに敬意を払う気などさらさら無いから、いやむしろ「反・知性主義」で凝り固まったゲスの集団だから、大学の教授だろうが学者だろうが、二等兵としてビンタの制裁を加えるのだ。おぞましい限りだ。
餓死したる友の袋に一合の米包まれてありたるあはれ/服のまま白骨は寝てゐたりけり流れを呑みてここに果てけむ(森誓夫)−−日本軍部の最大の欠点は「兵站の軽視」である。ばかばか兵士を現地に送り込んで、後は知らんぷり。「食料は現地調達」だから兵隊は盗むしかなくなる。日本の軍票なんか貨幣の価値としてはゼロに近いから、商人も農民ももらいたがらない。そうすると銃を突きつけて強奪する。だから日本軍や日本人への憎悪がどんどん膨らむ。ガダルカナルでは、戦死よりン十倍も餓死で死んだ。白骨の軍服の上に折重なるように白骨の軍服。目を疑うような惨状。その数二万人以上。故に「餓島」と言う。ちなみに米軍兵士で餓死など一人もいない、ゼロだ!
 
神風を翼に享けて必殺のわが体当たりいかで狂はむ(鷲見俊郎)−−特攻兵の短歌だ。ずいぶん威勢が良いが、ホンネかな。特攻が決まった夜には酒と馳走が振舞われるのだが、眼は血走り叫び声をあげ刀を振り回したり柱に切りかかったりする。そして一夜明ければ覚悟(諦念)が決まるのか、憑きものが落ちたようにすっきりした表情になり飛行機に乗込むのだという。特攻ねえ、最低最悪の作戦。参謀たちの無能もここに極まったというべきか。兵士の叛乱が起きなかったのがむしろ不思議。
君のため吾は征くなり南の海に敵撃滅の火と燃えて(山元正巳)−−この人も特攻パイロットである。「海軍神風特別攻撃・敷島隊」の隊長・関行男は自他共に認めるスゴ腕のパイロットだったが、23歳新婚ホヤホヤだというのに特攻を命じられてしまう。さすがに得心が行かない彼は「オレは天皇や国のために死ぬのではない。愛する妻のためだ。それにしてもオレのような飛行機乗りを、こんなふうに殺すようでは日本もおしまいだな」と。
 ところが初めての特攻で関のこの敷島隊五機が、レイテ付近でアメリカの空母を撃沈させた(昭和1910月)ため、大喜びの海軍はすっかり“味を占め”、次々と特攻を繰り出すことになってしまった。何しろ「空母の甲板を使用不能にする」のが目的だったのに、撃沈させてしまったのだから望外の成果ということになる。するとライバルの陸軍も「遅れてならじ」と追従する。しかも初めから「空母撃沈」を目標にするのだが、何を血迷っているのやら。巨大な空母に体当たりしてもよほど運が良くなければ、ただ「床に卵を落とした程度」でしかないのに。しかも敵艦に命中する確率はたった3パーセントしかないのだ。なまじ関の腕が良かったのが仇となり、あたら3000名の少年青年が死んでしまった。
 
国のため重きつとめを果たし得で矢弾尽き果て散るぞ悲しき(栗原中佐)−−硫黄島の死闘は日米双方で何度か映画化されている。最近ではC・イーストウッド監督のものが有名。食料も弾薬も医薬品も無いまま、洞窟に潜んでゲリラ戦を展開するしかないジリ貧の日本軍。傷病兵は足手まといになるから、洞窟を移動するときは手榴弾で自爆させるか、それも無理な者は注射で殺した。一方米軍は栄養たっぷりの食事をし、武器弾薬も充分すぎるほど。戦車もどっさり陸揚げされた。栗原中佐はあらん限りの智恵を働かせ、圧倒的有利な米軍に抵抗を試みたが、“矢折れ弾尽き”てはいかんともし難く全滅。
あ、この栗原中佐の辞世(短歌)だが、受取った大本営は末尾の「散るぞ悲しき」を勝手に「散るぞ口惜し」と改竄して新聞に発表した。なんとも姑息なイヤラシイ手口である。天皇の赤子である皇軍兵士は、「悲しい」などと“泣き言”を口にしてはならないというわけだ。兵隊に飯も食わせず弾も渡さず、最期は空手で「万歳突撃」の玉砕・全滅。自分たちは料亭に行き芸者を侍らせドンチャン騒ぎ。参謀本部で非現実的な「机上の作戦」を捏ね上げ現場に押しつける。これで勝てるわけがない。
空襲の火の海逃れ夜の明を路上に深く児と眠りたり(杉浦よし子)−−ガソリン(日本の空襲に使われた焼夷弾も、ベトナム戦争のナパーム弾もガソリン)をまいて上から火をつけ、住民を無差別に焼き殺すという、何とも残酷無比な作戦を空軍の殺し屋カーチス・ルメイが実施。東京は310日の深夜北風に煽られて火の海地獄となり、下町中心に十万人が焼け死んだ。「日本を石器時代に逆戻りさせてやる」と嘯いたルメイは、その「公約」を果たすべく日本中の都市を80以上も焼き尽くした。
 
後の世は良き民たれと祈りつつ匪賊の首を斬り落としたり(人形富士夫)−−中国人の盗賊を匪賊というが、盗み・放火・殺人・強姦を中国全土で行う日本軍のほうが、何十倍も悪だろう。
銃殺と決めし捕虜兵を立たせたる後ろに光るざくろの朱花(広澤真砂三)−−捕虜を殺すのは国際条約違反のはずだが。
二万余の命たちまち滅びしとわが驚く前の屍の山(三田零人)−−南京虐殺を目撃した兵の歌。
孫文の額を掲げし教室の白壁に貼れる排日ポスター(石田清月)−−侵略者が憎まれるのは当然ではないか。中国人や韓国人が武器を持って日本に侵入してきたことを考えて見よ。
●編みかけのシャツ供えありその夫の戦死知るまで編み急ぎけむ(藤原国子)
「死ニ方用意」と戦艦大和に書かれゐき島山遠く桜けぶりて(歌人・辺見じゅん)−−「島が動いてるようだ」といわれた世界一の巨大戦艦・大和。多くの戦艦を造るため、一体どれだけの資材が投じられたことか。国民は鍋釜から宝石まで寄付させられ、寺は鐘や仏具まで強制没収。とうとう鉄も不足し、内地の訓練では木製の戦車・木製の剣。特攻自爆用の魚雷艇までベニヤ板になるお粗末。それでもまだ降伏しようとしない軍部。ヒトラーと同じく、負けるなら国民すべてを滅ぼすつもりだった。
 もう戦艦の時代ではなく航空機の時代だと分かっていながら、ロシアを破った連合艦隊の“成功体験”が忘れられず、巨大戦艦に頼って「夢よもう一度」。陸軍より海軍は少しはマシで、世界が分かっていると思われていたが、何のことはない五十歩百歩だった。もう敗戦が99.9パーセント確実な昭和201945)年4月、片道燃料で沖縄に「海上特攻」(好きねえ特攻が。これが作戦ならバカでも参謀が務まる)に出かけたが、鹿児島沖で米軍1000機の猛爆を受け撃沈。3000人近くが死亡。愚劣の極み。
 
あなたは勝つものと思っていましたかと老いたる妻のさびしげに言ふ(歌人・土岐善麿)−−男は争いごとを好み勝ち負けにこだわる。スポーツだろうと戦争だろうと同じだ。歌人土岐もナショナリズム=「戦争の空気」に流され、冷静な判断を失い「日本は戦争で負けたことはない」と自惚れた。「神国日本は永遠に不滅」とマジメに信じていたのだ。観念でなく日々の生活の実相実態から状況を把握する女性は、「この戦争はダメだ、負ける」と実感していたのに。
いくさ人おほまつりごとわたくしし国を亡ぼす憎むべきかな(詩人・堀口大学)−−軍人が大事な政治を自分に都合の良いように私物化し、とうとう330万国民を死に追いやり国土を焦土にしてしまった。

休戦の午後に戦死の兵一人楡の大樹の下べにて焼く(高橋房雄)/天皇の「玉音放送」があった815日の未明にも、埼玉県熊谷市は大規模な空襲があったし(作家の森村誠一は九死に一生を得る)、午後になっても東京の奥多摩になぜか爆弾が落とされた。

心なき風な吹きこそ沈みたるこころの塵のたつぞ悲しき(木村久夫)−−B級戦犯としてシンガポールで死刑判決。軍部と東条への批判を自分の哲学書の余白に書き記し、絞首台に登っていった。無念だったろうな。「重く沈んだ心の塵(慚愧や後悔や怒りや未練やらのドロドロ)を、無情な風よ、巻き起こしてくれるな」と詠う。古典の短歌のような姿の良い一首。多くの教養人が戦争で死んだ。
直接は戦争せざりし国民とはにかみながら一生終えんか(大下一真)−−作者は戦争を全く知らない若い世代だろう。戦争を知らぬままキミが一生を終えられることを心から願うが、若い世代の支持が圧倒的に高いアベ政権では危ういぞ。『教育基本法改悪』に『安保(戦争)法制』に『共謀罪新設』(名前は違ってるが中身は治安維持法そのものだ)。そしていよいよ『憲法改悪』だ。大丈夫か?  平和も民主主義も普段から眼と耳を研ぎ澄まして、警戒を怠らぬことが絶対に必要だ。
 
                                                      −−−続く−−−      

 イメージ 1
「吉永小百合・村治佳織 チャリティ朗読コンサート
2019―第五福竜丸を想って―」(2019年8月6日、三重県)・写真上/
渡辺美佐子の原爆朗読劇は今夏、34年の歴史に幕を下ろした。

広島の原爆資料館が大幅にリニュー
アルされた。来年は敗戦75年!
8月くらいは戦争について考えてくれ!―
 
815日は何の日?」と聞かれ、「えー? ナンかありましたっけ。あ、お盆だ、お盆ですよね」と答えた、パープリンの甲子園球児がいたが−−今ではこれが若者の常識か?  これでは86日も9日も「何が起きた日」か知らないのでは、と心配になってくる。頼むから、8月くらいは「戦争」のことを考えてくれ給え、若者よ。
 
[原爆をうたった詩]
 
「原爆詩の朗読」といえば女優・吉永小百合だが、特に毎回必ず読む栗原貞子の『生ましめんかな−原子爆弾秘話−』は、あまりに有名だ−−被爆した負傷者が逃げ込んだビルの地下室。血と膿の匂いが充満する中で若い女性が産気づく。この地獄の奈落の真っ暗がりでどうするのだ?その時「私は産婆です。私が産ませましょう」と言って、呻いていた重傷の女性が名乗り出る。そして無事赤ん坊を産ませて、自分は死んだ−−「生ましめんかな/生ましめんかな/己が命捨つとも」という最後の詩句が、読む者の胸に突き刺さる。この地下室は広島市千田町の郵便局のことだ。
 
吉永小百合だけでなく、やはり女優の渡辺美佐子も自分が主催する『原爆朗読劇−夏の雲は忘れない』で、必ず読む詩がある。小学校5年生・来栖雄くんのものだ。
板と板の中に/はさまっている弟/うなっている/弟はぼくに/水、水といった
ぼくは/くずれている家の中に/入るのはいやといった
弟はだまって/そのまま死んでいった/あのとき ぼくは/水をくんでやればよかった
 
胸を掻きむしりたくなる詩だ。雄くんはずーっと「弟を見殺しにした」という、自責の念に苛なまれながら生きていくことになるのだ。何一つ悪いコトしていないのに。弟を殺したのは戦争であり原爆であり、殺した責任は国(国家)にあるのに−−
 
もちろん教科書にも載っている峠三吉『原爆詩集』の序の
ちちをかえせ ははをかえせ/としよりをかえせ/こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる/にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり/くずれぬへいわを/へいわをかえせ 
という痛切な叫びは、一度読んだら決して忘れることなどできない“血を吐く”言葉だ。
 
広島で被爆した大平数子の『慟哭』は長い詩だが、その最終15連は
●子供たちよ/あなたは知っているでしょう/正義ということを/正義とは/剣をぬくことではないことを//正義とは/“あい”だということを/正義とは/母さんを悲しまないさないことだということを/みんな/母さんの子だから/子どもたちよ/あなたは知っているでしょう
とはいえ、俳優三国連太郎の母のように、自分の息子が兵役忌避で満州に逃げようとしたのを、軍に密告して逮捕させたような“軍国の母”もいるから、母子の「愛」(とその自覚)だけで戦争は止められない。やはり戦争に駆り立てる「国家と国民のナショナリズム」に歯止めを掛ける装置が必要だ。
 
トルコの詩人ナーズム・ヒクメットの『死んだ女の子』も、映画やアニメによく登場する。
開けてちょうだい たたくのはわたし/あっちの戸 こっちの戸 わたしはたたくの/こわがらないで 見えないわたしを/だれにも見えない死んだ女の子を//わたしは死んだの あのヒロシマで/あのヒロシマで 十年前に/あのときも七ついまでも七つ/死んだ子は決して大きくならないの
(第1,第2連)
 
もちろん「ヒロシマ」は、一般市民を原爆という大量破壊兵器で抹殺虐殺した「戦争犯罪」なのだが、残念ながら世界の世論はアメリカに甘く日本には厳しい。なぜか? 日本も戦争中に一般人を数多く殺戮しているからだ。中国で、フィリピンで、インドネシアで、シンガポールで。だから日本に原爆が落とされたと聞いたアジアの人々は、「ざまあ見ろ」とは思ったろうが「気の毒になあ」とは思わなかった。そのためにヒロシマは、アウシュビッツのような「民族大悲劇」のイコンになり損ねたのだ。広島を一方的な「被害者」感情だけで詠むことの危うさを、栗原貞子はこう書く−−
 
<ヒロシマ>というとき/<ああ ヒロシマ>と/やさしく答えてくれるだろうか/<ヒロシマ>といえば<パール・ハーバー>/<ヒロシマ>といえば<南京虐殺>/<ヒロシマ>といえば 女や子供を/壕の中にとじこめ/ガソリンをかけて焼いたマニラの火刑/<ヒロシマ>といえば/血と炎のこだまが 返って来るのだ    (『ヒロシマというとき』第1連)
 
おっと、原爆で死んだのは日本人だけではない。捕虜の米兵も死んだし、大量の兵を大陸に送り込んで労働力が足りなくなり、半島の植民地から徴用で連れてこられた朝鮮の人たちも被爆して死んだ。
在日の女性詩人李美人(イ・ミジャ)は、静かに怒りをぶつける。
 
植民地の故国から徴用で/イ・ヨンスさんは日本に引っぱってこられた/山口県の雀田炭鉱で働き 一日二円/一九四三年 軍用で広島に移されて/防空壕を堀り 石炭を運んだ/ある朝「ピカ」がきた//平和公園のかたすみにひっそり立つ/朝鮮人被爆者のための慰霊碑/そこにイ・ヨンスンはいない/祖国を追われたあげく 原爆の刻印を押された/恨はいまも辺りをさまよっている
  (『蓮の花』第2連第5連)
 
広島の「リトル・ボーイ」(少年)はウラン型原爆だが、長崎の「ファット・マン」(でぶ)はプルトニウム型であった。広島は86日午前815分、長崎は89日午前112分・・
かあちゃん・・・/わたしゃほんと ひどかば見たっとですばい。浦上川にかかっとる橋、梁橋でなあ、ああた、まあだ二歳くらいの男の子の、死んどるとは。ギョッとしたですよ、ゾッとしたですよ。もう豚のごと膨れて、こまか子の、たったひとりでなあ。(中原澄子『かあちゃん』)
 
6000度という信じられないような高温(人はたった45度の風呂にさえ熱すぎて入れないのに)と、木さえなぎ倒す爆風と、人間の体のあらゆる細胞を破壊させる放射線のために、内と外から灼きつくされ爛れ尽くされてしまった被爆者は、真っ黒になって雑巾以下のボロボロの服を纏い、血だらけの皮膚が灼けただれて指先から垂れ下がり、或る者は眼窩から脱落した眼球を掌に乗せて、泣きながらふらふらと歩いていたが、皆口々に「水を下さい、水を下さい」と懇願した。
 
だが「水をやるとすぐ死ぬ」と、どこかの医者だか軍人だかが言ったとかで、苦しむ人に誰も水を与えようとしなかった。何とも無責任な話だ。福島原発がメルト・ダウンした時も放射線の専門家と称する山下ナニガシが「何も心配ないですから、お母さんたちは安心して子供たちを外で遊ばせてやって下さい。マスクもいりません」と、トンデモナイ発言をして多くの子供を被爆させた。子供たちに今甲状腺癌が多発している。だがこの男、母親から「人殺し!」と罵られているが、何も罪を咎められず相変わらず大学の教授を務めている。
 
水ヲ クダサイ/光ヲ クダサイ/声ヲ/言葉ヲ クダサイ/黙ッテ死ンデイッタ人タチガ/鎮カニ 眠ルタメニ//<クダサイ>/朝ノ夜明ケニ向ケテ/腕をノバシ/光ヲ クダサイ/人間ガ 人間トシテ 生キテユクタメニ/声ヲ/言葉ヲ/ソシテ/命ヲ クダサイ ト/シンジツ 叫ボウ/今生キテイル人々ヨ   (日高てる『水ヲ クダサイ』第1連、第4)
 
[原爆を詠った短歌・俳句]
 
士官として南洋トラック諸島で戦争を経験した俳人の金子兜太(故人)は、1958年(昭和33年)から日銀の長崎支店に勤務していたが、その折に作った句という。
●湾曲し火傷し爆心地のマラソン
●何処か扉がはためくケロイドの港
 
原爆資料館には「建物疎開」(空襲による延焼を防ぐため家を倒す作業。人が住んでいる家を壊さなきゃならないなんて、もう完全に負け戦だろうに、それでも降伏しない無能日本軍)に駆り出された生徒たち(今の中学生高校生)の、血に塗れたシャツやブラウスが展示されているが、86日のその朝も夏休みもなく作業に出て行く我が子に、いつものように粥を食べさせて送り出したのだが。
原爆で死すとも知らず其の朝餉麦粥食ませ出動させし吾娘(岡本良)
●昨日今日明日を信じて疑わぬ生徒にヒロシマ・ナガサキを説く(星野さいくる)−−戦争も原爆もピンと来ないらしい生徒たちに、「きみたち、よく聞きなさい。明日も生きていられるという保証はどこにもないのだぞ」と、教師として言い聞かせるのだが。
 
妻と0歳と4歳と13歳の子供を被爆死で失った松尾あつゆきは、水を欲しがる子のために水を探し、死んだ妻を荼毘に付すための薪を地獄の街に探すのだ。
あわれ七ヶ月の花びらのような骨かな
すべなし地に置けば子に群がる蠅
●炎天 妻に火をつけて水をのむ
●こときれし子をそばに木も家もなく明けゆく
●子の欲しがりし水を噴水として見る
なにもかもなくした手に四枚の爆死証明
 
原爆(ヒロシマ&ナガサキ)は余りに重い題材だが、それでも文芸に関わる者ならば避けて通れないはず。死者に黙祷を献げ、そして言葉によって、無念非業の最期を遂げた者たちの死に意味を与える義務があるだろう。
 
六日午前八時ぞ蝉よ鳴きやむな(詩人、アーサー・ビナード)
原爆を落とした邦と受けた州どちらもわれの学びの血肉(デーモン閣下)−−悪魔?のメイクアップでお馴染みのデーモンだが、彼はアメリカと広島で小学校に通った経験をもつ。
一瞬で死の街となりしヒロシマのあの日を語る被爆三輪車(小島京秋)−−原爆資料館に展示されている有名なあの三輪車だろう。黒焦げの弁当箱の豆ご飯も恐ろしいが、父が愛する我が子に買い与えた小さな小さな三輪車は、見ているうちに悲しみが怒りに変わっていく。
原爆の骨なき墓を洗ひけり(西津正子)−−一瞬に溶けてしまった体は骨の欠片もないのだ。
被爆手帖ついに手にせず羽化すすむ/被爆せし身にて戦前戦後なし(相原左義長)−−19歳の時広島で被爆。戦後506070年経っても、まだ原爆症に悩み苦しみ死んでいく人がいるのだ。
広島や卵食う時口ひらく(俳人、西東三鬼)−−別に卵でなくてもモノを食べる時は口を開けるのだが、原爆が落とされた広島で卵(茹で卵だろう)を剥いて食べるという行為が、特別ナマナマシク感じられるのはなぜだろう? つるっとしたあの白い茹で卵の肌が、被爆前の乙女の肌などを想起させるからか? 戦争と軍に反対して特高に追われ東京から神戸に逃げた三鬼だが、けっこう女好きだったからなあ、広島でも(笑)。
千羽鶴目なし口なし原爆忌(小笠原信)−−広島の慰霊碑に献げられた千羽鶴に放火したバカモノ(少年)がいたが、平和教育に反発でも感じていたのだろうか?死者は見ることも語ることもできない、だからこそ生き残った者がその無念を語り継ぐ責任があるのだが。
夏の死の一行のためわたくしは凍った音符を器に鳴らす(藤木清子)
ノーモアヒロシマ一匹のミズスマシ(俳人、石寒太)
「核兵器は廃絶のみに意味あり」と世界の為政者心して聞け(飯島和子)−−原爆を落としたアメリカからオバマ大統領が広島を訪れた時がチャンスだったのに、無能にして右翼のアベは、国連の「核兵器禁止条約」に署名批准する絶好の機会を逃したのに、緩んだ顔をさらにヘラヘラ緩ませノータリンのお追従笑いを浮かべて、原爆ドームを背景にツーショットに収まったりしていた。度し難い無能ぶりである。
 
                                                                            −−−続く−−−

イメージ 1
横井庄一さん(1972年2月2日)と小野田寛郎さん(写真右)

小野田少尉・・
敗戦後もジャングルで30年間ゲリラ戦!
― 陸軍「中野学校」(スパイ&ゲリラ養成)の洗脳教育 ―

先週、池上彰のニュースバラエティ番組で「小野田寛郎少尉」を取上げていた。「ひょっとして小野田の“殺人”行為についても触れるかな?」と思っていたのだが、池上彰でもやはりハードルが高かったかソレについては何も言及がなく、最後に締めのコメントで「小野田少尉の罪は問わないことになった」と、曖昧に“罪”とだけ言って終わった。残念・・ここにも忖度が?
 
しかしほぼ同時に放送されたNHKの『アナザー・ストーリー』では、小野田に殺された島民被害者の声も報じられていたのだから、その気があればできたはず。NHKより腰が引けた民放なんて存在価値あるのか? 右翼フジや保守ヨミウリに負けない、強い気概と誇りを見せてくれ!
 
まあ、官邸の圧力で「反アベ番組」が次々に潰されているから、過去の日本軍及び日本軍兵士に対する批判的な内容のものは、右翼からの脅しや嫌がらせもあるし、テレビ局としてはやはり腰が引けるということなのだろう。小野田がフィリピンのルバング島から30年ぶりに生還したときは、マスコミもまるで“英雄”扱いだったし・・
 
[横井庄一伍長の戦争]
 
だが敗戦の事実も知らずに、南の島に取り残され(というより見捨てられ)て“戦い”を続けていたのは、小野田たちだけではなかった。小野田が帰還する2年前には、グアム島に28も潜伏していた横井庄一(階級は伍長)が、28年ぶりに帰国して大ニュースになっていた。
 
しかし横井伍長の場合は、誰も「帝国軍人の鑑」などと褒め称えてはくれなかった。一兵卒とエリート士官の差? それとも「そこら辺のおっさん」みたいな風貌と、飢えた狼のような目をした(この人は必ず人を殺している、と分かる)鬼気迫る形相の差?
 
横井庄一は帰国したとき「恥ずかしながら生きて帰ってまいりました」(正確には「生きながらえておりました」だ)と言ったが、いかにも実直な洋服仕立ての職人らしい雰囲気を失ってはいなかった。それに較べ、陸軍の極秘諜報組織である「中野学校」卒の小野田の、「問答無用」とばかりに敵を容赦なく撃ち殺しそうな顔つき・・島民から逃げ回って生き延びた横井と、「島民も敵」と認識して無惨に殺した非情な「エリート士官」小野田と・・
 
敗戦が濃厚の昭和19年(1944年)3月に、横井は満州からグアムに移される。26歳だった。2万の兵がグアムに送り込まれた。しかしアメリカ軍は早くも7月にグアム島に上陸。横井が所属する第38連隊は、交戦初日に9割が死亡するという大惨敗を喫する。もちろん司令部との交信も断ち切られた。命からがらジャングルに逃げ込んだ横井たちは援軍を待つのだが、そんなもの来るはずもない。日本兵2万人のうち生還者はたったの1305人・・生存率たったの595%がムザムザ殺された。
 
アメリカはこのグアム島を拠点にして、爆撃機B29による日本への空爆を連日強化する。そして飛行場破壊を怖れる米軍は、島に残る「日本軍の残党狩」を執拗に繰り返す。せっかく九死に一生を得たのに、餓えと病(ソテツの毒にやられたり)で自殺自決する者や、原住民に見つかり殺される者も出て、日本軍兵士はますます減って行く。
 
しかし「母一人子一人」のシングルマザーで育った横井は、「何としても母親に会いたい」と強く思っていたから自決などはしない。アメリカ兵が立ち去った場所に出かけて行き、ビスケットや缶詰の残りを貪り食う。ネズミなどはご馳走である。職人で手先の器用な横井は篭を作って、魚やウナギやエビを捕った。カエルやカタツムリやトカゲはココナツミルクで味付けして食べた。
 
最初3人で暮らしていた。ジャングルの奥に行っても米軍がいるので、彼らは穴を掘り地下1.5メートルで暮らした。そのうち意見が対立し、横井だけ独り暮らしを選択。もちろん終戦になりグアムでも「投稿呼びかけ」が何回も行われたのだが、彼らは「敵の罠」と思って出て行かなかった。
 
横井は機まで手造りして、椰子の繊維で糸をつくり上着と半ズボンを織り上げた。井戸や水洗トイレまで造ったというから、何とも素晴らしいサバイバル能力である。小野田は確かに英語をしゃべったり、ゲリラ戦にくわしかったり、武器弾薬の知識も豊富なエリート軍人だったろうが、結局島の村人の食料を奪ったり、大事な財産である牛を殺して肉を手に入れていたのだ。
 
安保闘争さなかの1960年、横井たちとは全く別なところで暮らしていた日本兵二人が発見されて、日本へ帰ってきた。そこでまた捜索隊が派遣されたのだが、三週間たっても見つからず。しかしさすがに彼ら3人も、そろそろ島を脱出して日本に戻ろうと考え始め筏を造ろうとしたのだが、16年も経っているから海岸線もきれいに整地され、道路まで走っている。とても「人目につかずに筏を漕ぎ出す」など無理と分かりガックリ。
 
しかもこの年にグアムを大型台風が襲い、横井の穴も二人の穴も水浸しに。風と水のせいで木の実がすべて無くなってしまい、木の実が無くなると小動物もいなくなり、3人は餓えに悩む日々。木の実が実るまでの一年を、野草だけ食べていた横井。痩せに痩せてパンの実三個が重くて運べない。さすがの横井も死を覚悟したほど。なんとか生き延びて久しぶりに戦友二人の穴を訪れたら、二人は白骨になっていた。餓死したらしい。1964年のことで、日本は東京オリンピックに国中が湧いていた年である。自分も手榴弾で自決しようと思ったが、何とか思いとどまった。
 
1967年にはアメリカのパンナム航空が、東京ーグアム間の定期航路を開設。戦争を忘れてしまったり戦争を知らない日本人観光客が、どっと押しよせるようになった。1972年、横井もすでに57歳。独り暮らしも8年が経過。ある日、偶然ジャングルに狩りに来ていた父子に遭遇し捕まった。28年間のジャングル暮らしが終わった瞬間であった。
 
 19722月、札幌冬季オリンピックが始まる前日に31年ぶりに祖国に戻った横井は、母の墓前で「庄一はお国のために奉公してきたのですから、母さん許して下さい」と泣き崩れた。帰国して半年後に結婚し、新婚旅行ではグアム島に行った。1992年に82歳で死去した。
 
                           [小野田寛郎少尉の論理]
 
敗戦をまったく信じようとせず、異常としか言いようがないほど「命令遂行に拘る」小野田は、ある意味狂人と言って良いだろう。同じく30年近くジャングルに潜んで「投降を拒否」したといっても、横井と小野田では、その意味も目的も“生き延び方”もまったく異なる。
 
小野田が十代で商社勤めしていた頃の同僚によると・・「性格がとにかく頑なで意固地、右を向いてろと言われたら永遠に右を向いてるような男。父親も手を焼いていた」・・そういうキャラの持ち主が、陸軍の極秘特務機関である「中野学校」で、特殊任務遂行のための「洗脳教育」を受けたらどうなるか? 容易に想像がつくというもの。
 
横井と同じく小野田も敗戦確実な昭和19年(1944年)の1231日に、フィリピンのルバング島に赴任を命じられる10月の「レイテ沖海戦」で日本の連合艦隊は壊滅状態。戦艦も戦闘機も何ひとつ残ってない日本軍だが、「負けを認める潔さを知らず、責任を取る勇気も持ち合わせず、ただただムダなプライドだけが肥大している」ため、往生際悪く見苦しくも抵抗を続けるコトを選択。そのため翌昭和20年(1945年)の「マニラ市街戦」で、民間人が数十万人も死ぬことになる。
 
小野田がルバング島に派遣されたのも、フィリピンはもうアメリカ軍に奪取されること火を見るより明らかなのに、マニラ湾の入口に位置するこのルバング島に建設された秘密の飛行場を、「何としても死守せよ」と言うのだ。机上の空論と根性論だけで作戦を立てる参謀本部らしい命令。小野田が島に来てひと月余りの翌1945年(昭和20年)2月にはアメリカ軍が島を攻撃、たった三日で日本軍は全滅。兵の多くは玉砕。そして8月に日本は敗戦。
 
だが、小野田は降伏せずジャングルに潜伏する。この時弱冠22歳。これ以降の29年間、小野田の“お一人様(というより独りよがり)戦争”が続くことになる。とはいえ、森には小野田の他に三人の日本兵が逃げ込んでいた。島田庄一、赤津勇一、小塚金七である。そこで四人は最年少だが士官で少尉の小野田を隊長として、戦闘を続行することを決めた。
 
小野田の「闘う論理」(住民殺害を含む)はこうだ・・この島は日本が占領した土地である。そして我々は、日本軍の再上陸に備えて島を占領せねばならない。だから、我々の領地!に侵入してくる者に対しては、容赦なく攻撃する・・というのだ。何とも恐れ入ったテメエ勝手な理屈だが、この人は「自他を入れ替えてモノゴトを見る」というカント道徳律の初歩さえ学んでいないし、そんなやさしい想像力さえ働かないほど、軍国主義と「中野学校」の教育に洗脳されてしまっていた。
 
[陸軍中野学校の教え]
 
陸軍が極秘に創立した「中野学校」は、文字通り東京の中野駅北口にあった。その設立目的は、諜報・遊撃戦(ゲリラ)・敵撹乱・潜伏・隠密行動といった謀略を任務とする人材の養成であった。そのためか、かの悪名高い『戦陣訓』(絶対に捕虜になるな、いつでも死ぬ覚悟をしておけ)とは真逆の目標が掲げられ叩き込まれた。
 
●たとえ国賊と呼ばれようと生き恥を晒そうとも、絶対に生き延び一人でも多く敵を倒せ。
●玉砕自決は許されない。無駄死せず石に齧り付いても生きて任務を遂行せよ。
●主力部隊が撤退したった一人になっても、残置諜者になり反撃に備えよ。
●万一捕虜になったら、敵の情報を手に入れよ。
といったものだ。つまり「死なずに永遠に戦い続けろ!」という非情な教えだ。
だから小野田は、ルバングの日本軍が全滅しようが玉砕しようが、「自分は絶対に生き延びて一人でゲリラ戦を展開する」しかないのだ。
 
「ゲリラ戦を強化せよ」という命令であるから、任務途中で死ぬわけにはいかない。味方の再上陸を信じて戦い続ける他に選択肢は無い。後日のインタビューで小野田は「私は中野学校の教育を受けた者であるから、決して負けを認めるわけにはいかないのだ」と言った。強情意固地な性格にこの中野学校の非情な教(狂)育がプレスされドッキングした時、若き「小野田寛郎という永続戦闘兵士」が誕生したのだ。洗脳の恐ろしさをまざまざと見る思いがする。
 
[強奪・放火・住民殺害]
 
さてグアム島の横井庄一たちは、島民や米軍に見つからないようにひたすら身を隠し、地下の穴蔵で息を詰めて暮らしていたが、ルパング島の小野田たちはこれとは反対に「積極的ゲリラ戦」とやらを展開。里の住民が、小野田たちの隠れている山に登ってくると「わが領地に侵入した」と言って、報復のため村を襲撃したり火を放ったりした。ヨソの国に頼まれもしないのに土足で上がり込み、モノを盗むは壊すは火を付けるは・・「侵略したのはどっちだ?」と、誰だって言いたくなるだろう。
 
食料はどうしたかというと、横井たちのように様々に工夫したり智恵を出して乗り切ろうとせずに、住民のコメを奪ったり貴重な財産である牛を殺して燻製にした。文字通り山賊である。それだけでも重大な犯罪だが、椰子の実を採ろうと木に登っていた、何の罪も無い村人を撃ち殺したりしている。「戦争だから」などという言い訳は通用しない。民間人を殺すことはどんな戦争でも許されてはいない。だから空爆はいつでもどこでも非難されるのだ。
 
終戦以降、小野田ら日本兵によって殺された住人は30人近い。負傷者は100人以上。だから今でも遺族は小野田たちを恨んでいる。「父は小野田に膝を打ち抜かれ、出血多量で病院に運ばれる途中で死んだ」・・こんな被害者が村にはゾロゾロいた。村の住民に大きな被害が出るに及んで、警察も軍も看過するわけにも行かず山狩りを行うが、そこは諜報養成「中野学校」卒の小野田だ。隠れ家の山の洞窟はそう簡単には発見されない。
 
小野田と銃撃戦を交えた警察官は言う・・「小野田は英雄なのかね、それとも犯罪者なのかね」と。叔父を殺された女性は「彼は日本ではヒーローかもしれないけど、島民にとっては殺したいほど憎い人間なのよ」と。だからはるか後に小野田が投降し、山を下りてセレモニーに参加すると聞いた村人は「待伏せをして彼に復讐する計画を立てた」のだが、「小野田を決して傷つけてはならない」という大統領命令が出て、軍と警察が彼をがっちりガードしたため、暗殺計画は未遂に終わった。皮肉なことに軍事独裁者のマルコスが、小野田の命を救ったのだ。
 
[フィリピンの反日感情]
 
1950年に、小野田ら4人のうちの1人赤津一等兵が投降し日本に送還されたから大騒ぎに。赤津の話により、小野田ら残留日本兵の氏名が家族にも知れた。小野田の兄(弟とは異なり温和な性格で医者である)は「弟を探しに行きたい」とフィリピン政府に入国を願い出たが、「日本兵救出隊の安全を保証できない」と拒否された。それほどフィリピンの反日感情は強かったのだ。まだマニラ湾には日本の軍艦の残骸が、あちらにもこちらに顔を覗かせている有様だったし・・
 
51年の「サンフランシスコ講和会議」で、アメリカのダレス特使は「日本に莫大な賠償を突きつけると、ドイツのようにまた軍事大国化に走る危険がある」と各国を説得したのだが、アジア諸国は猛反発。「我々が許しと友情の手を差し伸べるまえに、日本は心からの謝罪と悔恨を表し、生まれ変わった証拠を示せ」と主張。特にフィリピンは強固だった。ロムロ外務大臣は「日本が我々に与えた傷は、どんな黄金をもってしても元に戻せるものではない」と言い切った。
 
そこで日本はアジア各国と個別に話し合うことになる。侵略したり植民地にした国々(中国・朝鮮・台湾・シンガポール・フィリピン・インドネシア・ベトナム・南洋諸島などなど)と、以後何十年もかけて困難な交渉を続けなくてはならなくなった。まさに「戦争を始めるのは簡単だが終わらせるのは難しい。そして戦後処理はさらに難しい」を、いやというほど味合わされることになる。
 
さて小野田・・軍国主義と「中野学校イズム」に完全にマインド・コントロールされてしまったこの「戦う狂気」は、独りよがりの戦闘を止める気がまったくない。「相手がこっちを殺そうとするから、こっちも積極的にやった」などと嘯く。自分が勝手に村に入り込んで牛を殺しコメを盗んでおいて、警察や村人が自衛のために発砲すると逆ギレするのだ。そして道路工事の飯場にいきなり姿を現し、子供がいるというのに銃を発砲して労務者を殺したりする。これが中野学校で教わった「ゲリラ戦」ということらしいが、やっていることは「殺人」である。
 
島民の憎悪も国民の怒りも沸騰するから、当然フィリピン警察も「日本兵狩り」に力を入れる。その結果、警察との銃撃戦で島田伍長が死亡。41歳だった。小野田と出会わなければ、でなければ赤津のようにこの“狂人”と縁を切っていれば、生きて国に帰れたものを。フィリピン政府は「警察が小野田らを逮捕に行くが、場合によっては射殺することもある」と、日本の外務省に連絡を入れた。さあ日本側は困った。マスゴミも騒ぎだし、59年に国会で『救出決議案』が可決・・残留日本兵の救出?は国家が保証すべき、というのだ。
 
このようにフィリピンの反日感情はとてつもなく強かったのだが、何しろ世界情勢は「冷戦」が熱くなるばかり。一日も早くアジアに「反共防波堤(韓国・日本・フィリピン)」を築きたいアメリカは、フィリピン説得に乗り出す。その結果、フィリピンで戦争犯罪を行ったBC級戦犯100余人が、大統領恩赦で罪を許され日本に帰国できた。キリノ大統領は妻と我が子3人を日本軍に殺されているのだが・・「友人となるべき日本人に憎悪の念を残さないため」決心した、と。
 
56年には「日比賠償協定」が締結された。80億ドル要求されたのに日本は5億ドル!に値切った。しかも被害者に補償金は支払われず、ホテルや橋や鉄道や発電所といったインフラに使われたから、日本のゼネコンが大儲けしただけだった。インドネシアでもまったく同様なことが起こった。ジャカルタホテルなどは場違い(失礼)なほど巨大で立派だが、請負った大成建設が儲けただけだ。日本兵に殺されたインドネシア人には、まったく縁の無い豪華ホテル建設だ。
 
 ドタバタしたあげくに5910月「残留日本兵救出派遣団」が出発。投降呼びかけのビラが飛行機でジャングルに撒かれた。小野田はこのビラを読んだのだが「敵の謀略戦のひとつ」と無視。
なぜなら小野田自身が中野学校で、「伝単」(偽の情報を書いたビラ)の書き方や撒く方法を教わっていたからだ。「これもどうせニセモノ」というわけだ。
 
拡声器で兄が「寛郎ちゃん、聞いていますか。戦争は終わって日本は繁栄してますよ。一緒に日本に帰りましょう」と呼びかけたが、聞く耳を失った石のごとき頑なな心には肉親の言葉も届かず。半年も捜索したが発見できず。むなしく帰国することになった。厚生省は「もう二人は死んでるのだろう」と・・小野田と小塚の実家にはそれぞれ知事から『死亡通知書』が届いた。
 
しかしルバング島では被害が続いていた。海岸を歩いていた者が日本兵に撃たれて死んだのだ。フィリピン警察は「小野田の写真を送れ」と日本外務省に頼んだのだが、「一度打ち切って結論がでたものを、また生きていると認めたりしたら収拾がつかなくなる」と、いかにもの役人論理(面子と体面と保身と責任逃れ)で拒否した。
 
1965年にマルコス(妻があの悪名高きイメルダ)が大統領になると、外国資本の力で開発を進めたい彼は、日本の技術力がどうしても必要なので反日感情を抑えにかかる。南北2000キロに亘る日比友好道路の建設が69年から始まるが、これはフィリピン初の「円借款事業」だった。こうして日本とフィリピンの距離は縮まり親密になっていく。
 
アメリカ一辺倒だったフィリピン国内に、憧れの的だった安くて質の良いメイド・イン・ジャパンの製品が広まって行き、反日感情も少しずつ薄らいでいく。日本製品を輸入すると儲かるので、商社などは「残留日本兵」の話題は商売の邪魔。中には「残留日本兵なんて作り話じゃないか」などと事実を否定する新聞(『デイリー・ミラー』)まで現れる始末。どこの国でも同じですなあ。
 
ルバング島でも開発計画が持上がるが、小野田らの「残留日本兵」がネックとなり、日本企業がすんなり進出できる環境ではない。そのため、道路建設案も学校建設案も中止となった。殺された者が何十人もいる島の住民の「反日感情」は、経済発展という「甘い蜜」でも溶けたりはしなかった。小野田らの山賊行為(自称では「戦争」)がなければ、島の中央に幹線道路ができ、新しく50ヘクタールの農地が開発されたのに・・島の発展を阻害した小野田の狂気は、何とも言いようが無い害悪だった。
 
[外交問題になった小野田らの犯罪]
 
1972年に戦友小塚が警官に撃たれて死亡し、文字通り「一人の戦争」をせざるをえなくなった小野田だが、ジャングル生活も27年。そろそろ年齢も50に近づきつつある。洗脳された狂人であっても、孤独はつらかったはず。上官の谷口少佐は「決して玉砕するな。3年でも5年でも頑張れ。必ず迎えに来るから」と言ったがもちろん空手形の口先だけ。特攻兵を送り出すときに上官が「俺たちもすぐ後に続くから」と言うのと同じ。こういうことを言うやつに限ってさっさと転向する。
 
一方日本では「残留日本兵は生きていた。小塚一等兵が撃たれて死亡」と報じられ、またもや大騒ぎ。役人・官僚は「有ったことを無かったことにし、無かったことを有ったことにする」のは得意だが、さすがにこの事件はスルーすることはできない。またもや「救出隊派遣を!」となったのだが難問が・・コトがコトだけに厄介な外交問題になっており、折角の「日比友好」に水を差すことになりかねない。
 
●小野田が殺害される恐れ 
●島民から日本政府へ「損害賠償請求」が起こされる恐れ、があるのだ。
そこで卜部大使はマルコス大統領に会い、「小野田の行為が罪に問われないようお力添えを」と頼み込んだ。官房が「小野田の身柄は、そのまま日本に引き渡す」と言ってくれ、大統領も「小野田の救出確保に、国を挙げて協力する」と約束してくれた。
 
かくて日本・フィリピン両政府の肝煎りで大規模な捜索が10月に開始された。日本政府は一億円の大金を注ぎ込んで、大捜索隊を結成。厚生省の役人・警察・和歌山県人会・山岳協会・通訳、そして「中野学校」同窓生まで。税金使って「人殺しの山賊」狩りだ。マルコスは島民や警察が報復しないよう空軍に捜索の指揮を執らせ、「小野田を必ず生きたまま確保せよ」と厳命が下された。フィリピン側からも300人という多数が捜索に参加した。
 
小野田は姉の「寛郎ちゃん、寛郎ちゃん」と呼ぶ声や、兄の「軍人なら軍人らしくしろ」という声も海岸近くで三日ほど聞いていたが、「自分にはこの戦闘を止める理由が無い」と投降を拒否。完全に病気である。この年も半年近く捜索したがムダに終わった。小野田は隠れるのが天才的に上手い?
 
卜部大使は「島民全体の福祉のために、何とかすべきである」と日本外務省に伝えたが、大平大臣は「見舞金という形なら払えるが、人的物的補償ということにすると問題が生じる」と。「日本は個人に対しては戦後賠償を行わない」と決めていたからだ。だから大平は「無償援助にしてくれ」と言ったのだ。卜部は「国全体でなく、島民に直接恩恵が及ぶプロジェクトが望ましい」とのべ、港湾の改善、ビゴ川流域の灌漑、島内交通の整備など具体的な例を挙げたのだが・・
 
外務省の「被害金額算定」がおぞましい。人種差別意識が露骨なのだ。小野田らが殺したのは30人と言われているが「では一人いくらにすべきか?」・・日本赤軍がこの年1972年の5月にイスラエルのテルアビブ空港で、銃を乱射し24人を殺した時は一人当たり6万ドルだったが、フィリピン人だからというのでほぼ半額、30人で100万ドルと計算した。これがいわゆる「見舞金」で、日本が赤恥をかくことになるお金だ。しかしマルコス大統領はこれを承諾した。
                     
[小野田の投降]
 
さて膠着した状況を変えるのは偶然か意外行動だが、小野田の意固地な心を変えたのも一人の青年の素っ頓狂な行為だった。小野田に興味を持った青年鈴木紀夫(25歳)が、742月にルバング島にやってきたのだ。「日本人が一人で探せば、警戒を緩めて姿を現すのでは」と考えたのだ。で、山に入りテントを張って待っていると、三日ほど経って小野田が現れた。
 
鈴木が「小野田中尉殿でありますか、私は鈴木であります」と、できそこないの軍人口調で話しかけると「お前のことはこの三日間ずっと見張ってきた。軍人じゃないな。軍人は決してサンダルは履かない。靴下を履いてるところをみると村人でもないな。お前は何者だ? 一人のようだがここで何をしている?」と聞いてきた。鈴木が「私は日本から来た旅行者です。戦争はもうとっくに終わっております。陛下も国民もあなたのことを心配してます。私と一緒に日本に帰りませんか?」と言うと、小野田は「ヤアヤア」と意味不明な言葉を漏らした。
 
この物怖じしない若者に気を許したのか小野田は自分の写真を撮らせ、さらに鈴木に「命より大事な銃」を持たせてツーショットまで撮らせた。そして鈴木は小野田から「命令が解除されれば投降する」という言質まで取ったのだ。大手柄だった。大喜びの若者は日本に帰ると、すぐにこのことを日本政府に伝えた。228日には小野田の写真が新聞に公表された。
 
310日鈴木がテントを張っていた所に小野田の上官だった谷口(元)少佐が来て、陸軍大将山下泰文の「大命ニ依リ−−第十四方面軍ニ対スル作戦任務ヲ解除セラル」という『尚武集団命令』を読み上げ、やっと小野田は武装解除し投降した。島民が見守る中、小野田はヘリコプターでマニラに運ばれた。マルコス大統領は政治的配慮から小野田をマラカニアン宮殿に招き、「天皇と祖国のために忠実に戦った模範的兵士」と讃え恩赦を与えることにした。
 
「すべての違法行為を許す」と大統領マルコスが恩赦を与えることにより、小野田は殺人・強盗・放火などの「犯罪者」(戦犯)から「英雄」(皇軍兵士の鑑)にロンダリングされた。独裁者マルコスの真意は「小野田のように命令には絶対的に従え。国民は黙って国の言うことに従えば良い」ということだったのだ。卜部大使いわく「フィリピン側の配慮によって、小野田少尉の“叙事詩”は美しい“叙情詩”となった」・・言い得て妙なるかな(笑)。
 
しかし二週間後の327日、日本政府は「恩赦の御礼=殺された島民の遺族へのお見舞金」として三億円をマルコス大統領に手渡すため、自民党総務会長の鈴木善幸を特使としてマニラに派遣したのだが、予想外のデキゴトが起こった。その「見舞金贈呈式」で鈴木善幸が差出したカネを、事前には承諾していたマルコスが受取りを拒否したのだ。「小野田を許したのは純粋な気持ちからだ。それをカネという価値と結びつけるのは望ましくない」とエエ格好しいをした。なぜか?
 
「小野田への恩赦は、日本の援助欲しさにやったもの」という、日本の新聞や週刊誌の記事に激怒していた(男は、痛い所を突かれるとキレる)からだ。さらにこの三億円の用途について、ルバング島の遺族の要求に加え、あちらからもこちらからも口出しをされウンザリしていたのも事実。それにこの見舞金を受け取ったら、「私の家族も日本兵に殺された、盗まれた、放火された」と、国中から被害者が叫び出すに決まっている。
 
一方見舞金を差し出した鈴木善幸は、大恥を掻かされて顔面がみるみる紅潮。それでも必死に「大統領お気持ちはよく分かりますが、日本国民の気持ちも理解していただきたい」と説得。後で卜部大使を呼びつけ「こんな恥を掻かされるなら、式典などやるべきじゃなかった」と怒鳴りつけた。かくて三億円の見舞金は宙に浮いた格好に・・
 
翌日卜部はマルコスと会談し「このカネは政府ではなく民間に寄付することとし、これをもとに日本とフィリピンの民間が基金を設立して運営する」ことで合意した。こうして生まれたのが「比日友好協会」である。日本の大学に留学生を送ったりしている。だが、殺された島民の遺族には1ペソも支払われず、ただの「殺され損」のままである。
 
当時の財務大臣セサル・ピラタはこう言った「許そう、しかし忘れない」と。フィリピン人は今でも、この言葉に込められた思いをずっと抱いている。
 
[帰国そしてそれ以後の小野田]
 
312日、小野田(51)が羽田についた時のフィーバーぶりは、ビートルズ来日を思い出すほどだった。両親が出迎えていたが、母親タマエは「永い間ご苦労でございました。エライ有り難うございました」と息子に御礼を言っている。さすが「軍国の母」というべきか?母校和歌山の小学校の同級生が掲げた横断幕には「小野田君 祝ご帰還!」などと書いてある。
 
鈴木善幸は迎えに来ていたが、首相の田中角栄は「戦友の墓参りがあるから」と姿を現さず。国民の視線と人気を何より気にする政治家が、こんな絶好の“晴舞台”を見逃すわけがない。これは明らかに角栄の「反・小野田感情」を示すものだ。戦場の経験があり、軍隊の不条理と非道をたっぷり知らされた角栄にしてみれば、洗脳されて「戦闘ロボット」化し民間人を何人も殺したような小野田を、手を差し伸べながらにこやかに出迎えるなんて、到底できないことだったろう。
 
マスゴミの取材も小野田同様異常で、靖国神社へ行こうが皇居を遙拝しようが、どこへ行ってもゾロゾロついてくる。小野田が実家の和歌山に滞在すると、ヘリが6機も飛び家の前にプレハブの小屋が建ち出店まで。だが小野田が神社に詣った時“事件”が起きる。小野田に同行した者が「参拝する前にこちらでお祓いを」と言ったところ、いきなりキレて「私は穢れてなどいない!」と怒鳴り興奮状態。小野田の身内に不幸があったから「お祓いを」と言っただけなのだが、「人を殺してきたから穢れている、と言うのだな」と誤解したらしい。
 
週刊誌も「小野田少尉の“英雄部分”の光と影」「幻想の英雄 小野田少尉」と、ルバング島の村民殺害を書き立てる・・こういったあれやこれらが重なり、小野田は1年ほど日本にいただけで逃げるように親類がいるブラジルへ移住してしまった。本人は「平和に酔いしれている日本の雰囲気がいたたまれない」「私は“戦う”という職を失った。今の日本には私が入り込む隙間など無い」と。まだ洗脳の呪縛が解けない彼は、「中野軍国イズム」と「高度経済成長イズム」とのギャップの大きさに戸惑い、自分の居場所を見つけられず苛立ちを募らせていたのだ。
 
ブラジルでは牧場を経営して平和に穏やかに暮らし、顔つきも“鬼殺し”の物騒な形相から人並みの好好爺に変身。おしゃべりで優しい人物に生まれ変わった。やっと洗脳(マインド・コントロール)の呪縛から解放されたのだ。後には1年の半分は日本に帰ってきて、福島で子供相手の「自然塾」を開いた。自然の中でサバイバルする術を教えるのは、まさに天職と言えよう。さらに田中角栄のように「絶対に戦争をしてはいけない、平和が一番」と教えてくれればねえ(笑)。
 
 965月、小野田は22年ぶりにルバング島を訪れ、空軍の護衛付きで和やかに笑みを浮かべながら村村を回った。そして住民が見守るなか2万ドルを寄付したが、父親を小野田に殺されたベルナルド・カルロスは、「小野田が来ることには絶対に反対だ」と言った。父親が殺され一家は貧困に喘ぎ、学校にも満足に行けなかったのだから、恨みが溶けないのは無理もない。しかし老いたカルロスは今はこう言う・・もう小野田を赦そうと思う。そして小野田に復讐しようと考えた自分も、神に赦しを乞いたい、と。
 
小野田は今から5年前の2014年に91歳で死んだ。小野田ら残留日本兵のせいで開発ができなかったルバング島では、今は小野田らの隠れ住んでいた洞窟などが観光スポットになり、物好きな?観光客がけっこう訪れるという。
 
                                                              −−−完−−−

'19 参院選の総括

イメージ 1
イメージ 2
インターネット上でも「まるでネトウヨ」「カルト的だ」
などと評されている。

“維新”より“新選組”に期待しよう!!
― 2019年、参院選を振り返る ―
 
アベという人は口とは違い、よほど気が小さいのか臆病なのか“打たれ弱い”のか、今回の参院選でも遊説先を公表しない「ステルス作戦」で、聴衆の批判や抗議から逃げ回っていた。それでもアベ嫌いの批判勢力は日本各地に山ほどいるから、どこへ行っても「アベ辞めろ!」「戦闘機より年金を!」「ネトウヨ総理は即刻辞任!」「嘘つき総理!」「トランプからも蚊帳の外!」と、キツイ野次とプラカードの洗礼を浴びた。
 
札幌では、信じられないことだがアベを野次った男性が警官に排除(特別公務員職権濫用罪は10年以下の懲役または禁固という重罪だ)されるという事態まで・・・。選挙戦最終日の720日の秋葉原駅前は異常な厳戒態勢で、選挙カーの周りを柵で囲い自民党関係者のみの“サクラ”で固め警官まで出動。これが「言論の自由」を憲法で定めた民主主義国家の首相がやることか? 「批判を力で押さえつける」なら、キムの北朝鮮や習近平の中国となんら変わりがない。
 
「れいわ新選組」代表の山本太郎などは、「クソ左翼は死ね!」とヘイトまがいの野次を浴びせられても、排除を要請するどころか「今、死ねと野次を戴きありがとうございます。しかし、私は死ぬわけにはいきません。死にたくなるような世の中を、変えるために立候補しているんです。どんな人でも生きられる、そういう世の中にしたいのです」と切り返した。見事なものだ。アベさん、太郎の爪の垢でも煎じて飲んだらどうだ?
 
福島で遊説している時はネトウヨ風の男に「原発廃止なんて言うから風評被害が止まらないんだ」と野次が飛んだが、「福島で起こったことは事実であって、放射能被害も風評ではなく実害なのです」と反論。どこかの首相のように「こんな人たちに、負けられないんです」などと、自分への批判に正面から答えず「相手を敵と見なす」幼稚なアベとは、一線を画す姿勢を見せた。
 
太郎は50分間で4人の質問に丁寧に答え、このやりとりを動画サイトYouTubeにアップした。それに引換え、柵で選挙カーの周りをガードして自分の支持者だけに囲まれ演説。そしてヤジを飛ばした聴衆を警官に排除させる恥ずかしいクズ・・民主主義国家とは思えないこんな人物が首相とはねえ。トランプと良いアベといい、こういう下卑た人物が大衆の支持を受ける「反・知性主義」が世界を席巻している。
 
[れいわ新選組ブーム?]
 
「れいわ新選組」・・・なんというネーミングだ、ナニコレ?と思ったが、どうやら「日本維新の会」が名とは裏腹に、「維新」とは真逆の「保守体制の補完勢力」に成り下がっていることへの皮肉・揶揄らしい。維新は初めて東京と神奈川で議席を獲得したが、北方領土で暴言を吐き「乱心」したバカ議員やら、差別やヘイト丸だしの議員やらがウヨウヨいる政党だ。アベより右の極極右翼政党に、何を期待して一票を投じたのだろう?
 
まあ「日本維新の会」は、アベ同様日本最大の右翼組織「日本会議」のメンバーがほとんどだから、彼らの「維新」とは「憲法改悪」をして「戦争のできる国」にすることを指すのだろう。それならというわけで、山本太郎は「維新派」(当時の法律からするとテロリスト)の対抗勢力である「新選組」(幕府体制の維持のためにつくられた殺し専門の「特別機動隊」)にしたとのこと。うーん、やはりあまり感心しない名付けだけど(笑)。
 
選挙戦が終わった日の午後8時段階でのYouTubeの再生回数は、一位が「NHKから国民を守る党」の300万回、二位が「れいわ新選組」の50万回、三位が自民の15万回・・ちなみに「日本維新の会」はわずかに0.26万回・・となっている。ネットのサイト視聴者も右と左に分かれる傾向があるから、NHKから国民・・」(N国)が既存保守政党に不満な者や、「オモシロガリ」屋の票をゲットしたとすれば、「れいわ新選組」はやはり既存の野党に飽き足りない、政治的にマジメ?な若者たちの共感を呼んだということか。
 
N国」が「NHKのスクランブル化」(NHKを視聴しない者は受信料を払わなくても良い)という、たったひとつの公約「ワン・イシュウ」を訴えるのに較べ、「れいわ新選組」の公約はマジメそのもの。
■消費税廃止(据え置きではなく0にする)
■最低賃金を1500円にする
■奨学金に徳政令適用(つまり借りている奨学金を返さなくてもよい)
■公務員を増やす(介護職員や保育士を公務員にする)
■辺野古新基地建設中止
■原発即時禁止
 
これを見ると、徹底した「弱者目線の政治」と言えよう。低所得者に厳しい増税となる「消費税」を廃止してゼロにする。「働けど働けどわが暮らし楽にならざり」(啄木)の非正規労働者の救済。利子つき奨学金を返済するために就職後も苦しむ若者たちを「借金地獄」から解放する。低賃金で責任ばかり重い「保育・介護」従業員を公務員にすることで、人員を確保し仕事の質も向上する。税金2兆円!を“ドブに捨てる”辺野古基地新設は中止。人命より利益優先の電力会社が恥知らずにも進める「原発再稼働」だが、無くてもやっていけることが証明されているのだから、原発は即時禁止(廃炉)にする・・良いねえ大賛成!
 
この公約実施で困るのは利権で食っている族議員と経団連(大企業)とゼネコンだけで、貧乏な大衆は大助かりのはずだ。財源? 所得税の累進率を高くし(所得の高い者は沢山払ってもらう)、消費税の代わりに物品税復活(贅沢品には高い税金)、大企業が得する法人税優遇廃止、富裕税復活(資産格差を是正するためにも必要)などなど・・智恵をだせばいくらでも。もちろんタックス・ヘイブン(税逃れ)も厳しく取り立てる。
 
太郎の演説に賛同する若者(二十歳代三十歳代)の意見を聞くと・・・「就職氷河期の世代は、今も本当に苦しい生活を強いられているから」「子供を連れて原発避難してる友人は、まだフクシマに戻れないでいる」「輸出大企業は消費税で儲けているけど、それはオカシイ」と、なかなかリテラシーの高いところを見せる。きっとネトウヨとはオツムの中身が違うのだろう。
 
「れいわ新選組」は当然ながら選挙資金も満足に無いので、ネットでカンパ(クラウド・ファンディングである)を呼びかけた。フトコロ寂しいけど「貧者の一灯」と1000円、太郎のためだからと「清水の舞台から飛び降りる」つもりで一万円・・・こうして最終的に一万五千人から4億円が集まった・・・ちなみに参院選で10人の候補者を擁立するには3億円必要。とにかく「れいわ新選組」は「諸派」扱いだから、マスコミは全く取上げないのだ。だからネットで呼びかけるしか方法がないのだ。
 

選挙の結果は比例で二人が当選した。ALSで全身が動かない元ギタリストの舩後靖彦氏(61)と、脳性麻痺の木村英子さんだ。国会の議場も、重度身体障害者のことを考慮しなくてはならなくなるだろう。比例順位三位の太郎は残念ながら落選したが、衆院選で立候補すれば当選はマチガイないのでは。太郎の「選挙戦の熱気」に憧れてか、さっそく落ち目の「国民民主党」が太郎に秋波を送っているが、アベと“同じ穴のムジナ”が多い国民民主党と共同戦線など、どう考えてもアリエナイ選択のはず。公約からすると立憲よりもさらに左派の社民か共産に近いが、単独で頑張ることが生き残る道なのは太郎も十分知っているはず。

 
[卑劣アベ自民のトンデモ本の中身]
 
今回の参院選のネガティブ・キャンペーンの白眉?はこれ・・自民党衆参両議員全員!に25部ずつ配られた“選挙資料”と称するトンデモ本だ。『フェイク情報が蝕む ニッポントンデモ野党とメディアの非常識』という。もうタイトルからして胡散臭さ100パだが、中味もタイトルに負けず劣らず百田尚樹風に「事実歪曲」されまくっていて笑える。何しろ「私は保守の人間だ」と言い切っている立憲の党首枝野を、「辺野古基地反対の理屈が、過激派の核マルとそっくり」とか・・・枝野も革マルも「冗談も休み休み言え」と言いたくなるだろうな(笑)。
 
●「アベノミクス効果無し」はフェイク・・・なのだそうだ。「勤労統計不正」が事実だからと言って、GDPの数値まで誤魔化してると考えるのはマチガイ、とのこと。
●「朝日新聞のステルス阿倍批判」・・・「おごり昂ぶる朝日新聞こそフェイクの元凶」だとかで、よほど朝日が気にくわないらしい。色メガネを外してフツーに読めば、「毎日」や「東京」のほうが「朝日」よりずっと反・安倍なのに、「朝日憎し」で頭に血が昇っているから滑稽なほど敵視している。だから「ハンセン病家族への国家賠償裁判」の控訴で、わざと朝日だけにガセを掴ませて「誤報」させたわけだ。ガキの「嫌がらせ」か!
 
野党攻撃は党首の似顔絵に最も露骨に表現されていて、立憲の枝野なんかヒドイ顔だ。目は虚ろで涎を垂らしているから、どう見ても痴呆としか思えない。超難関の司法試験に受かった弁護士なのに、なんともハヤ・・。国民民主の玉木は人相悪いせいか顔にシャドウを掛けられ、目つきの悪い「振り込め詐欺」の親玉みたい。共産党の志位は犬の顔で牙を剥いて吠えついている顔だ。そして阿倍だけは、実物とは似ても似つかない「爽やかな二枚目俳優」みたいに描かれているのがご愛敬。記事は下らない与太ばかりだが、この似顔絵は悪意に満ちていて傑作!だ。ぜひ作者を教えてもらいたい。
 
この「怪文書」の版元はテラス・プレスというネットの「ニュースサイト」で、ちょうど参院選1年前の去年7月からオープン。これまでに150本の「アベよいしょ記事」を連載しているが、今度の冊子はこの記事の抜粋である。記事に筆者名はなく編集部の名だけ。ステルス記者だ。アベと同じく「批判されるのが怖い・嫌い」なのか、「お前こそフェイクじゃないか、エビデンスを示して見ろ」と迫られると困るのか、ネトウヨ集う掲示板の「名無しさん」みたいである。「批判や訂正は一切受付けません」というわけだ。このサイト、広告も何もない。
 
内容はネトウヨと大同小異とはいえ文章から判断するとプロのお仕事だから、きっとウヨ系マスコミ人あたりのOBが複数で、お金を戴いて書いてるサイトだろうと推測できる。自分の主張に合う「都合の良い情報」だけを切り貼りして「アベよいしょ記事」を書くのだ。堕落ジャーナリストの見本? 権力に迎合するクズはどの分野にもどの業種にもワンサといる。
 
大政党の自民党ともあろうものが、何でこんないかがわしい「氏素性も分からぬサイト」記事を冊子にして配ったのか? わざわざ添付文書まで付けて・・・このたびの参院戦に向けた演説用資料としてご活用下さい・・・だと。自民党本部はこのトンデモぶりを高く評価していて「大手の大新聞の社説やコラムと同じように、説得力ある内容だったから」と言っている。あらまあ、大新聞の社説やコラムって、このテラス・プレスと似たりよったり
ということかい? まあ産経・読売なら確かに「似たりよったり」だけどねえ(笑)。
 
もらった自民党議員も困惑していて「四、五ページ読みましたがとても活用できる内容ではありません。贔屓の引き倒しも良いところです。扱いに困ります」・・・で、議員会館のゴミ箱はこの「トンデモ本」で溢れかえったとか。さもありなん。アベのライバル(といってもこちらも「日本会議」のメンバー)石破も「いつから自民党はこんなに下品になったのか」と、怒り心頭に発する様子だったらしいが、政党だろうが会社だろうが労組だろうが、上品が下品に勝った例などあったろうか?
           
このテラス・プレスという正体不明のサイトについての詳細は極秘のようで、自民党と非常に親しい記者にも「それだけは勘弁して」といって、教えてくれないとのこと。もちろん本部も「ノー・コメント」を押し通している。
                                                                                      
                                                                                −−了−−

全180ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事