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平家物語

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建礼門院右京大夫集

 平家物語の、“もうひとつの灌頂巻”とも言うべき、建礼門院右京大夫集。
 講談社学術文庫に次いで岩波文庫が重版。書店で見つけてしまった。

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 さらにコンパクトで嬉しい。
 来年は、これを持って紅葉の大原参りをしようかな。

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 人心と正面から向かい合うことを避けた平氏のひきこもり政権は、一時、都を福原に移したが、政情不安は却ってひどくなり、富士川での敗走、その責任を不問にした理不尽な閣僚人事、反乱分子である東大寺、興福寺を次々に焼き払うなどの失点を重ねていた。

 上皇はをとゝし法皇の鳥羽殿におしこめられさせ給し御事、去年高倉の討たれさせ給ひし御あり様、宮こうつりとてあさましかりし天下のみだれ、かやうの事ども御心ぐるしうおぼしめされけるより、御悩つかせ給ひて、常はわづらわしう聞えさせ給ひしが、東大寺・興福寺のほろびぬるよしきこしめされて、御悩いよいよおもらせ給ふ。法皇なのめならず御歎き有し程に、同正月十四日、六波羅池殿にて、上皇遂に崩御なりぬ。

 混乱の世を憂いながら高倉上皇は崩御する。

澄憲法印、御葬送に参りあはんと急ぎ山よりくだられけるが、はやむなしきけぶりとならせたまふを身まらせて、

 つねに見し、君が御幸をけふとへばかへらぬたびと聞くぞかなしき

又ある女房、君かくれさせ給ひぬと承はッて、かうぞ思ひつゞけける。

 雲の上に行末とほくみし月のひかりきえぬと聞くぞかなしき

 ここにチョイ役で登場する女房が、建礼門院右京大夫。建礼門院というと、圧倒的に徳子が有名で、平家物語巻第十二の後に続く総集編とも言うべき灌頂巻(かんじょうのまき)は、清盛の次女、建礼門院徳子をフィーチャーしている。その徳子にお仕えしていた侍女のひとりが建礼門院右京大夫だ。

 昨年、寂光院を訪ねて建礼門院徳子の像を見て来た。そこの説明員でさえ、建礼門院右京大夫はあまりご存知無いマイナー知識だった。チョイ役ながら平家物語の中に歌がしっかり登場している建礼門院右京大夫とは・・・。

 彼女の恋人、平資盛は、壇ノ浦の戦いで入水している(巻第十一、能登殿最期)。若くして最愛の人を失った建礼門院右京大夫は、後を追って死ぬこともできず、徳子さまのように出家する決心もつかず、いわば思い切りの悪い、ハンパな、劣等感に苛まれた人生をその後ずっと歩むことになる。それは生きて資盛の後生を弔うという、当時としてはむしろ忍耐力の要る選択、大いなる決断だったのだが。資盛との懐かしい日々の思い出や、亡き後の悲しみを断片的に綴った歌集が建礼門院右京大夫集である。悩める人の、心の歌であり、戦乱によって狂わされた人生を不本意に生きなければならなかった女性による、もうひとつの平家物語と言って良いだろう。わたし的には灌頂巻をしのぐ傑作だと思う。

 情感溢れる美しい歌が多い。学生時代、古文の先生が、この歌集が好きで、試験のたびにこの歌集から出題した。古文は嫌いだったので、問題解説の時間も、源氏物語とか大鏡は何を説明されても頭に入らなかったけれど、この歌集の問題解説だけは感動していた。新潮社だったかの全集本に入っていたのを買って、社会人になっても折にふれて読み返した。昨年、京都大原参りをした時も、行きの新幹線の中で読もうと思いついて、探したら見当たらなかったので、あわてて小学館の新編日本古典文学全集で新調した。しかしデカい、重い。しかも“とはずがたり”とカップリングだ。旅のお供にはちょっと、だった。

 最近、この歌集が講談社学術文庫として一巻本でリリースされた。この本が昨年、出ていたらなあ、と思いつつ買った。またいつか大原参りをしようかな。

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 平家物語の描写の中で、なんと言っても印象的なのが戦闘シーンの描写である。

 興福寺へと逃げのびる途中、あまりの疲労から宇治、平等院で休息を取る高倉の宮。平家軍の追撃は緩まず、二万八千騎の軍勢が宇治橋のたもとに押し寄せる。

 高倉の宮は平等院に入る直前、宇治橋の橋板を抜いてあったのだが、

先陣が、「橋をひいたぞ、あやまちすな。橋をひいたぞ、あやまちすな」とどよみけれども、後陣はこれを聞きつけず、われさきにとすゝむほどに、先陣二百騎、おしおとされ、水におぼれて流れけり。

いまや先陣を争う気勢の中で、「橋板が抜かれているぞ、気をつけろ」の声も、かき消されてしまったのか、軍勢は橋板の無い橋めがけて殺到し、勢いで押し出された二百騎が川中へ落ちて行く。

 シーンは変わって、開戦の合図となる“矢合わせ”へ。このシーンもじっくり読むと、後に続く激戦の結末を暗示させる記述が忍ばせてあって、もの哀しい。

橋の両方のうめにうッ立ッって矢合わす。宮御方には、大矢の俊長、五智院の但馬、渡辺の省・授・続の源太が射ける矢ぞ、鎧もかけず、楯もたまらず通りける。源三位入道は、長絹の鎧直垂に、しながはをどしの鎧也。其の日を最後とや思はれけん、わざと甲は着給はず。嫡子伊豆守仲綱は、赤地の錦の直垂に、黒糸威の鎧也。弓をつようひかんとて、これも甲は着ざりけり。

宇治橋の両側から両軍が鏑矢を打ち合う。高倉の宮の射手が打つ矢は、鎧もこれを食い止めることができず、楯さえも貫通するほどの威力ある矢であった。源三位入道、伊豆守仲綱とも、甲は着けていない。この日が最期だと覚悟して戦いに臨んでいるからだ、と書いてあるが、続く“宮御最期”で二人とも戦闘中に命を落とす。そのことを踏まえて、この一節を読み返すと、自らの死期を悟った武士たちの覚悟、一閃の矢に乗せた命の重さ、輝きを思いやらずにはいられない。

 そうかと思うと、五智院の但馬が大長刀の鞘をはずして、単独で橋の上に進み出る。これを討とうとして平家の腕利きの射手が矢を次々に射るのだが、

但馬すこしもさわがず、あがる矢をばついくゞり、さがる矢をばをどりこえ、向ッってくるをば、長刀できッって落とす。かたきもみかたも見物す。それよりしてこそ、矢ぎりの但馬とは言はれけれ。

但馬は少しもあわてず、高めの矢をかいくぐり、低めの矢は飛び越え、正面に来た矢は長刀で切って落とす。その光景を敵も見方も見物する、って、なんと呑気な戦闘なんだ!と思ってしまう。武人の記録なので、優れた武芸を披露した武士は、やはり印象的で、記録に留めたかったのだろう。

 そして、いよいよ私の大好きな場面。

 堂衆のなかに、筒井の浄妙明秀は、かちの直垂に、黒皮威の鎧着て、五枚甲の緒をしめ、黒漆の太刀をはき、二十四さいたるくろぼろの矢おひ、塗籠藤の弓に、このむ白柄の大長刀とりそろへ、橋のうへにぞすゝんだる。大音声をあげて名のりけるは、「日ごろはおとにもききつらむ、いまは目にも見給へ。三井寺にはそのかくれなし、堂衆のなかに、筒井の浄妙明秀といふ、一人当千の兵物ぞや。われと思はむ人々はよりあへや、見参せむ」とて

 いよっ、待ってましたッ、大統領ッ!黒づくめのフル装備に白い大長刀、シブ過ぎです。三井寺にお勤めしている下っ端のクソ坊主ながら、強いこと強いこと、

 二十四さいたる矢を、さしつめひきつめさんざんに射る。やにはに十二人射殺して、十一人に手おほせたれば、えびらに一ぞ残ッたる。弓をばからとなげすてえびらもといてすててンげり。つらぬきぬいではだしになり、橋のゆきげたを、さらさらとはしりわたる。人はおそれてわたらねども、浄妙房が心地には、一条二条の大路とこそふるまうたれ。

えびらに差した24本の矢を、弓にさしてはひき、次々に速射する。たちまち12人を射殺して、11人にケガを負わせて、残った矢1本。そこで弓を“ばから”と投げ捨てる、“ばから”が無造作に投げ捨てた感じで絶妙な音感だ。“すててンげり”のンも、戦闘シーンになると頻出する言い回しである。本来は“捨ててけり”だが、勇ましい戦闘シーンで気持ちが乗って来るのか、思わず“ン”が入ってリズムを取るのだろう。

“つらぬきぬいではだしになり、橋のゆきげたを、さらさらとはしりわたる”。“さらさらと”。上体のバランスを保ったまま、縦に渡した細い橋桁の上、一気に走り抜けていく、その白い足元の映像が目に浮かぶ。

長刀で向かう敵五人をなぎふせ、六人にあたるかたきにあうて、長刀なかよりうち折ッて捨ててンげり。その後、太刀を抜いて戦ふに、敵は大勢也、くもで・かくなわ・十文字・とンばうがへり、八方すかさずきッたりけり。やにはに八人きりふせ、九人にあたるかたきが甲の鉢に、あまりにつよううちあてて、めぬきのもとよりちやうとをれ、くッっとぬけて、河へざぶと入にけり。たのむところは腰刀、ひとへに死なんとぞ狂いける。

弓→長刀→太刀→腰刀、あらゆる武器を総動員して、敵を倒しまくる。しかも、“あたり”が強いのか、戦闘中に武器が壊れている。そのような事態をあらかじめ計算に入れているのか、平然と武器を変更して戦闘を続行する。前の記述で、箙の矢を1本残して弓矢を捨てたのも、戦闘の流れに合わせて武器を変更するためだったのか?戦闘にかなり手馴れた様子である。

浄妙房はうはう帰ッて、平等院の門のまへなる芝のうへに物ぐぬぎすて、鎧に立ッたる矢めをかぞへたりければ六十三、うらかく矢五所、されども大事の手ならねば、ところどころに灸治して、かしらからげ浄衣着て、弓うちきり杖につき、ひらあしだはき、阿弥陀仏申して、奈良の方へぞまかりける。

 死に物狂いで戦った浄妙房はどうしたのかというと、平等院の門の前の芝生で武具を脱ぎ捨てているところ。鎧に立った矢の跡を数えてみると63箇所、そのうち、裏抜けしているのが5箇所。たいした傷ではなかったので、灸を据えて応急処置した後、頭を布で包んで白い僧衣を着て、弓を折って杖にして、歯の低い下駄を履いて、阿弥陀仏を唱えて、奈良の方角へ去っていった。

 さんざん闘ったあと、身だしなみを整え、何事も無かったかのように去って行く。

 カッコ良過ぎ。

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 福原に遷都した平家一族は、その後、夢見が悪く、不安に苛まれ、妖怪と遭遇することも多くなった。

 又あるあした、入道相国帳台より出でて、つま戸をおしひらき、坪のうちを見給へば、死人のしゃれかうべどもが、いくらといふかずも知らず、庭にみちみちて、うへになりしたになり、ころびあひころびのき、はしなるはなかへまろびいり、中なるははしへ出づ。おびたゝしうからめきあひければ、入道相国、「人やある、人やある」と召されけれども、をりふし人も参らず。かくしておほくのどくろどもが、ひとつにかたまりあひ、つぼのうちにはゞかるほどになッて、たかさは十四五丈もあるらんとおぼゆる山のごとくになりにけり。かの一つの大がしらに、生きたる人のまなこの様に、大のまなこどもが、千万出で来て、入道相国をちやうどにらまへて、まだたいもせず。入道すこしもさわがずはたとにらまへて、しばらく立たれたり。かの大がしら余につよくにらまれたてまつり、霜露なンどの日にあたッて消ゆるやうに、跡かたもなくなりにけり。

 “坪”とは中庭で、その周囲を建物が巡っている。その形から壺庭とも言う。それほど大きなスペースではなく、採光のための空間で、植物や石などを置いて、自然を身近に楽しむ場所でもある(このあたりの知識はNHK“美の壺”から)。その手狭な空間に、髑髏が無数に湧いて、うじゃうじゃと蠢く描写が見事だ。“うへになりしたになり、ころびあひころびのき、はしなるはなかへまろびいり、中なるははしへ出づ。”と髑髏の配列が上下左右に複雑に入れ替わる様子、それらがボールのようにコロコロと転がりあう様子が活写されている。平家物語は、同じような表現の並列、反復が見事で、それが心地よい言葉のリズムも作っている。とんでもない状況が、リズムにのってさらさらと読めてしまい、強烈な印象になる。

 視覚的な描写にとどまらず、おびただしく“からめきあひければ”と、カラッぽの髑髏と髑髏とがそこらじゅうでぶつかり合い、カラカラと乾いた音を立てているのが、今にも聴こえてきそうだ。

 平家物語の日本語の描写力に感心する。

 本来なら丁寧に取り扱うべき髑髏が、あたかもピンポン玉か何かのように無機的に扱われているのも、かえって気味が悪い。

 髑髏の妖怪を睨みつけるだけで退散させる入道相国(平清盛)の勢いは相変わらず凄まじい。いっぽう、次々続く凶事に陰陽師が下した解釈は、“おもき御つゝしみ”、すなわち、十分に身を慎まれたほうがよろしいですよ、であった。

 妖怪の描写は事実なのだろうか。すでに平家一門に対する世間一般の風あたりの悪さが“気配”として十分に感じられる季節だったのであろう。物語の作者は、その“気配”を入道相国の身辺に妖怪として出現させてみた。すると入道相国は、あろうことか、その妖怪を睨み返して退散させてしまった。入道相国は民意を考慮しない傲慢な権力者へと変貌しており、平家一門の権勢が空転を始めていることを、物語は暗示しているのだろう。

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 このところ、日本画を見る機会が多くなり、日本の歴史も勉強しなければ、と古典も読んでいます。今、読んでいるのは平家物語。巻数も岩波文庫で出ているのは4巻あって、最初の1巻だけでも読めたらいいな、と読み始めました。

 学生時代、古文の授業で習った“名場面集”も良かったけれど、最初から順番に読み進めることで、平家物語の記述の面白さにあらためて気づきます。

 たとえば巻第四、宮御最期(みやのごさいご)。

 平家の横暴にたまりかねて、高倉の宮のもと挙兵した源氏の軍が平等院で平家の軍勢と激突する場面。宇治橋の激闘で形勢は平家に不利と見えた。到着した平家の援軍が次々に急流を渡ろうとする。

 足利忠綱が率いた300騎は見事な采配により全騎が渡河に成功する。

 ところが、この後に続いた知盛の軍勢がいけなかった。

 これを見て大将軍左兵衛督知盛、「わたせやわたせ」と下知せられければ、二万八千余騎、みなうちいれてわたしけり。馬や人にせかれて、さばかり早き宇治河の水はかみにぞたゝへたる。おのづからもはづるゝ水には、なにもたまらず流れけり。雑人どもは馬のした手にとりつきわたりければ、膝よりかみをばぬらさぬ物もおほかりけり。いかゞしたりけん、伊賀・伊勢両国の官兵、馬筏おしやぶられ、水におぼれて六百余騎ぞ流れける。

 宇治川の急流に足をとられて、600騎以上が流されてしまう。忠綱の軍と違って統制が取れてない。しかも、あとに続く記述はほとんどお笑いで、

萌黄・火威・赤威、いろいろの鎧のうきぬ沈みぬゆられけるは、神はび山の紅葉葉の、嶺の嵐にさそはれて、竜田河の秋の暮、Iゐせきにかゝッてゆられけるを、

色とりどりの鎧を着た武者が川でプカプカ浮いてる様を、紅葉のようだ、などと風流にあしらった挙句、この光景を目のあたりにした源仲綱は、思わず一句、ものしてしまうのである。

伊豆守見たまひて、

伊勢武者はみなひをどしのよろひ着て宇治のあじろにかゝりぬるかな

訳すと“伊勢武者って、かわってるよねー。わざわざ緋威の鎧を着込んで、小魚みたく宇治の網にかかっちゃってさー、溺れてる場合じゃないだろー”って、歌を詠んでる場合かーっ!まじめにやれーッ!おかし過ぎ。

 のどかな光景は、ここで一転、血なまぐさい戦闘シーンに急転する。齢77歳の老将頼政は高倉の宮を逃すため、防ぎ矢を打つ際に致命傷を負う。心静かに自害しようと退避する頼政をかばうため、防戦に入った兼綱は、顔を射抜かれて馬から引き落とされたところを大勢の平家の武者に囲まれて絶命。さきほど呑気に伊勢武者の歌を詠んでいた仲綱も傷だらけになった挙句、自害。他にも数々の源氏の武者がさんざんに戦った後、次々に絶命して行く。頼政も、たしなみの歌を詠んだ後、自害する。

 読みながら、哀しくなる凄惨なシーンが続いたあと、

円満院の大輔源覚、いまは宮もはるかにのびさせ給ひぬらんとや思ひけん、大太刀・大長刀左右にもって、敵の中うち破り、宇治川へとんでいり、物の具一つもすてず、水の底をくゞッて向への岸にわたりつき、たかきところにのぼりあがり、大音声をあげて、「いかに平家の君達、これまでは御大事かよう」とて、三井寺へこそかへりけれ。

 三井寺の坊主は強いのだ。フル装備のまま敵陣を破って、そのまま川を渡り、また高い場所にのぼってわざわざ大声で「おまえら、ここまで来れねーだろ」と叫んで余裕をかますのである。哀しかった場面が急にカラッと明るくなる。

 ところがこの混乱の裏、高倉の宮の足取りを読み切っていた人物が居た。

 飛弾守景家は、ふる兵物にてありければ、このまぎれに宮は南都へやさきだゝせ給ふらんとて、いくさをばせず、其勢五百余騎、鞭あぶみをあはせて追ッかけたてまつる。・・・案のことく宮は卅騎ばかりで落ちさせ給ひけるを、光明山の鳥居のへにて追ッつきたてまつり、雨の降るように射まゐらせければ、いづれが矢とはおぼえねど、宮の左の御そば腹に矢一すぢ立ちければ、御馬より落させ給ひて、御頸とらせさせ給ひけり

 戦闘に加勢せず、あくまで高倉の宮の消息を追いかけていた景家が、矢を雨のように浴びせて高倉の宮を討ち取ってしまうのである。宮を警護すべく、付き従っていた6人の猛者たちも、その場で討ち死にする。

 逃げ延びてくるはずの高倉の宮を迎えるため、南都は興福寺から出発した軍勢は7000人ほど。あと5キロちょっとで高倉の宮と合流できたはずなのに。無念!

 笑わせたり、泣かせたり、平家物語は感情の振幅がかなり激しい。

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