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被災地の皆さんの無事と安全を心からお祈り申し上げます。

夏京都2010

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 本を読んでいたら、懐かしい風景に再会してしまった。

 夏京都入門 金戒光明寺 見るということ
 http://blogs.yahoo.co.jp/pensee823/27142281.html
の記事の最初の写真とそっくりの光景が、スケッチされていた。

寿岳章子・浜田重隆(絵)/京都 まちなかの暮らし(角川文庫)

 ちょうど89ページの図だ。少しアングルが違うけれど、その図に近い写真も撮っていた。

イメージ 1


 ちょうど南禅寺から永観堂に向かう途中だ。町中の水路と緑の風景が京都らしく感じたので思わずカメラを向けた。東京にも同じような風景はありそうな気がするけれど、琵琶湖疏水の近くということもあり、京都的感傷にひたっていたのかもしれない。ふつうの町の風景だけれど、同じ風景を何かしら特別な思いで見ていた人が他にもいたことが何となく嬉しい。

 このあたりは道幅が狭くて、わりと頻繁に車が通る。どのアングルから撮ろうか、などと夢中になっていると危険だ。撮影をしていたら、正面の坂の奥のほうをスポーツウエア姿の中学生だか高校生だかが何人も連れだって歩いていた。たぶん午前中の練習が終わって、昼食に出かけるのだろう。その様子が、この本のスケッチにそっくりで、見事な絵だと思った。


 それから、同じ記事に書いた金戒光明寺は、“そうだ、京都行こう”の今年秋のキャンペーンでフィーチャーされている場所だ。そういえば、キャンペーンに関係あるのか知らないけれど、境内では盛んに工事していたのを思い出す。御影堂の縁側に座りながら、あちらこちらで工事していて、鬱陶しいなあ、と思いながら眺めていたっけ。

 京都はこれから紅葉の季節。

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 テレビを見ていたら、“西田尚美の京都学”をやっていた。

 京都の特徴のひとつ。バス停で整列しない。

 理由は、整列していなくても、自分より先に来て並んでいた人の顔を、みんなが覚えているから。


 なるほど。たしかにそういう考え方もあるかもしれない。


 しかし、こういう考え方もあるぞ。

 私も夏京都では、できる限りバスを使って移動した。最初、たしかに驚いたのは、東京と違ってバス待ちのために整列する気配が無いことだった。とくに街なかの小さなバス停ほどその傾向があって、停留所の周囲に人が思い思いにたむろしている感じなのだ。それで、自分の目当てのバスが来ると、集まった人の群れの中からパラパラと人が飛び出して我さきにバスに乗り込む。バカがつくほど人が良い私は、地元民と思われる元気なシルバーボーイ、シルバーガールに割り込まれてしまって1台見送るハメになった。熱いさ中に、さらに1本のバス待ちはキツかった。

 汗を拭きながらバスを待つ間、思ったのだが、この人たちは、自分より前に来た人を覚えていて、その順番通りに乗ろうなんて気持ちは、おそらくナイ、ということ。京都のバス通りにはいろいろな方向に行くバスが併走していて、どれも同じバス停に来て止まる。だから最前列に並んでいても、目の前に来たバスに必ずしも乗るとは限らない。列の途中からサッサと飛び出して、目的のバスにササッと乗るほうが、バスの乗客にも、バス待ちの人にも早くて良いのだ。バス停を取り囲むように人々が集まるのも、バス停を中心に誰もが最短距離の位置をキープできるからだろう。待ち行列を作って整然とバスに乗っているのは、行き先別に乗り場が分かれているJR京都駅前と、比叡山のバスターミナルくらいだと思う。

 東京で、お行儀良くバス待ちの列に並ぶことに慣れていると、京都ではなかなかバスに乗れない。かもしれない。

 南禅寺は見どころがたくさんある場所で、かねてから行きたかった水路閣でかなり時間を費やしてしまい、さらに南禅院庭園が美しく、ここでも思いのほかのんびりしてしまった。

 
イメージ 1

 永観堂に向かう途中、道ばたの小さな流れから水の音がして、とても心地良い。琵琶湖疏水の一部だと思う。今回、予期せぬ脚の故障で、楽しみにしていた蹴上インクラインの散策は断念した。

 庭の景観がとても美しい永観堂で、ご本尊の見返り阿弥陀を拝見する。顔だけ振り返っている、愛嬌たっぷりのお姿だ。阿弥陀様は、普通、誰に対しても正対されるだろうから、顔だけ相手に向けるというものぐさな所作は本来お取りにならないとは思うけれど、それをやっているところがなんともお茶目だ。この姿勢で「永観おそし」とか言われたら「ムッ、カツク…」となるところだけれど、さすがに相手が阿弥陀様では、それはあり得ないなあ。

 永観堂内は撮影禁止なので、見ることに集中できる。それも良いな、と思った。これを言ってはおしまいだけれど、絵葉書よりうまく撮影することは不可能だし、それならあとで絵葉書買えば良い、という話も、無いわけではない。

 ここは庭園がとても美しいので、あらためてまた訪ねてみたい場所だ。


 痛めた脚をかばいながら歩いていたら、別の脚も疲れてしまった。ちょうど通りかかったタクシーを拾って金戒光明寺へ向かう。タクシーの運転手が気をきかせてくれて三門前で降ろしてくれた。三門まで行ければ御影堂は近い。


イメージ 2

金戒光明寺 御影堂

 ここも大きなお堂だ。中に入ると薄暗くて、安置されている仏像はあまりよく見えない。歩き疲れて畳敷きの広間に座り込んでしまった。せっかく法然や親鸞の足跡を辿ろうと京都に来たのに、脚を痛めて思うように動かず、予定していた真如堂、安楽寺、法然院は断念せざるを得ない。これ以上、歩くと東京で仕事に戻れない。無念に思いながら、目を閉じて大広間で休んだ。

 静かにしていると、汗が少しひいてラクになる。残っている予定を全部諦めたら気分もラクになった。ここにずっと座っていても良いのだ。こういう京都旅行も、ありだよな。中学生の時、修学旅行で京都に来て、庭園が見えるお寺の縁側で1日ずっとボーッとしていたことがある。最初はクダラナイ冗談をかけあっていたけれど、そのうち飽きて、お互いに何も言葉をかけることなく、その場に座ったまま、居ついてしまった。何も起きない、何もやらない、ただ過ぎるだけの時間。その時のことを覚えていて、あのお寺はどこだったか、今でも探している。

 食べるでもなく、見るでもなく、ただ黙って座るだけの京都。それが自分にとっての京都の原点かもしれない。そんなことなら、何も京都でなくてもできるだろう、と思うけれど。

 そして、どれほど経過したか知らないけれど、再び目を開けて驚いた。薄暗いはずのお堂の中が、まるで光が射したように明るく、はっきりと見えるのだ。天井が開いて、空から光が射し込んでいるのかと思ったほどだ。

 お堂の中の薄暗さは、外から入って来たばかりの人の目では暗過ぎるのだろう。よく見るためには、目が慣れること、気持ちが落ち着くことが必要なのだ。さらに言うと、“見える”とは目で見ることだけを言うのではないかもしれない。前の日に比叡山の根本中堂で見た、暗い内陣で祈祷をしたり、花をお供えしたりという日常の作業を滞りなくこなす僧たちは、日々の修行と身体の動作を通じて、周囲の空間を感覚で身につけている。ちょうど、住み慣れた自分の部屋のライトのスイッチなら暗闇でも間違い無く押せるように。だから内陣に居た僧たちは、外陣から見ている観光客よりもはるかに明確に暗い内陣が見えている。内陣の僧たちには、内陣は十分に明るい場所なのだ。

 そのように考えると、お寺めぐりの楽しみは、ひとつでも多くの場所を見てまわる楽しみとはまた別に、見えて来るまでその場に座り込む、という楽しみもあるのだろう。暗さに眼を慣らし、気持ちを整えて、初めて見えて来るもの。それはカメラでは撮影できないものだから、撮影禁止などと敢えて言われるまでもないのかもしれない。


 大広間を出て、御影堂の縁側に腰かけながら、また長い時間を過ごした。御影堂の陰に守られながら過ごす時間はとても楽しい。


 金戒光明時を出て、歩き、平安神宮の裏手、丸太町通りに辿り着いたところでタクシーを拾って、京都タワーへ戻る。疲れた。京都で最後の宇治金時を味わう。しみる。こうして夏京都入門が終わった。


2010年8月14日

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 水路閣は橋脚の間の円弧のつらなりがリズミックでとても美しいと思う。他の方のブログなどで拝見して、是非一度訪ねてみたいと思っていた。


イメージ 1

建造物の地肌に長い年月を感じる。


イメージ 2

アーチの下。縮小画像が無限に続く、鏡の国に迷い込んでしまったような錯覚を覚える。


イメージ 3

青もみじが美しい。


南禅寺 水路閣
2010年8月14日

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夏京都入門 水路閣

イメージ 1


南禅寺 水路閣
2010年8月14日

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