|
南禅寺は見どころがたくさんある場所で、かねてから行きたかった水路閣でかなり時間を費やしてしまい、さらに南禅院庭園が美しく、ここでも思いのほかのんびりしてしまった。
永観堂に向かう途中、道ばたの小さな流れから水の音がして、とても心地良い。琵琶湖疏水の一部だと思う。今回、予期せぬ脚の故障で、楽しみにしていた蹴上インクラインの散策は断念した。
庭の景観がとても美しい永観堂で、ご本尊の見返り阿弥陀を拝見する。顔だけ振り返っている、愛嬌たっぷりのお姿だ。阿弥陀様は、普通、誰に対しても正対されるだろうから、顔だけ相手に向けるというものぐさな所作は本来お取りにならないとは思うけれど、それをやっているところがなんともお茶目だ。この姿勢で「永観おそし」とか言われたら「ムッ、カツク…」となるところだけれど、さすがに相手が阿弥陀様では、それはあり得ないなあ。
永観堂内は撮影禁止なので、見ることに集中できる。それも良いな、と思った。これを言ってはおしまいだけれど、絵葉書よりうまく撮影することは不可能だし、それならあとで絵葉書買えば良い、という話も、無いわけではない。
ここは庭園がとても美しいので、あらためてまた訪ねてみたい場所だ。
痛めた脚をかばいながら歩いていたら、別の脚も疲れてしまった。ちょうど通りかかったタクシーを拾って金戒光明寺へ向かう。タクシーの運転手が気をきかせてくれて三門前で降ろしてくれた。三門まで行ければ御影堂は近い。
ここも大きなお堂だ。中に入ると薄暗くて、安置されている仏像はあまりよく見えない。歩き疲れて畳敷きの広間に座り込んでしまった。せっかく法然や親鸞の足跡を辿ろうと京都に来たのに、脚を痛めて思うように動かず、予定していた真如堂、安楽寺、法然院は断念せざるを得ない。これ以上、歩くと東京で仕事に戻れない。無念に思いながら、目を閉じて大広間で休んだ。
静かにしていると、汗が少しひいてラクになる。残っている予定を全部諦めたら気分もラクになった。ここにずっと座っていても良いのだ。こういう京都旅行も、ありだよな。中学生の時、修学旅行で京都に来て、庭園が見えるお寺の縁側で1日ずっとボーッとしていたことがある。最初はクダラナイ冗談をかけあっていたけれど、そのうち飽きて、お互いに何も言葉をかけることなく、その場に座ったまま、居ついてしまった。何も起きない、何もやらない、ただ過ぎるだけの時間。その時のことを覚えていて、あのお寺はどこだったか、今でも探している。
食べるでもなく、見るでもなく、ただ黙って座るだけの京都。それが自分にとっての京都の原点かもしれない。そんなことなら、何も京都でなくてもできるだろう、と思うけれど。
そして、どれほど経過したか知らないけれど、再び目を開けて驚いた。薄暗いはずのお堂の中が、まるで光が射したように明るく、はっきりと見えるのだ。天井が開いて、空から光が射し込んでいるのかと思ったほどだ。
お堂の中の薄暗さは、外から入って来たばかりの人の目では暗過ぎるのだろう。よく見るためには、目が慣れること、気持ちが落ち着くことが必要なのだ。さらに言うと、“見える”とは目で見ることだけを言うのではないかもしれない。前の日に比叡山の根本中堂で見た、暗い内陣で祈祷をしたり、花をお供えしたりという日常の作業を滞りなくこなす僧たちは、日々の修行と身体の動作を通じて、周囲の空間を感覚で身につけている。ちょうど、住み慣れた自分の部屋のライトのスイッチなら暗闇でも間違い無く押せるように。だから内陣に居た僧たちは、外陣から見ている観光客よりもはるかに明確に暗い内陣が見えている。内陣の僧たちには、内陣は十分に明るい場所なのだ。
そのように考えると、お寺めぐりの楽しみは、ひとつでも多くの場所を見てまわる楽しみとはまた別に、見えて来るまでその場に座り込む、という楽しみもあるのだろう。暗さに眼を慣らし、気持ちを整えて、初めて見えて来るもの。それはカメラでは撮影できないものだから、撮影禁止などと敢えて言われるまでもないのかもしれない。
大広間を出て、御影堂の縁側に腰かけながら、また長い時間を過ごした。御影堂の陰に守られながら過ごす時間はとても楽しい。
金戒光明時を出て、歩き、平安神宮の裏手、丸太町通りに辿り着いたところでタクシーを拾って、京都タワーへ戻る。疲れた。京都で最後の宇治金時を味わう。しみる。こうして夏京都入門が終わった。
2010年8月14日
|