わたしは聖書の神、万軍の主ヤハウェである

ヨハネの黙示録は、あなた自身を天地創造の神にするための書です。

全体表示

[ リスト ]

法華を知る者は世法を得可きか





未来に向けての提言


第1章 宗教の違いによる争いの収束に向けて

               1-1 仏法を五重の相対を使って解く

               1-2 聖書とコーラン


第2章 各国の常識を歴史から考察する

               2-1 日本の常識

               2-2 アメリカの常識

               2-3 中国・韓国の常識


第3章 今後の指針

               3-1 各種問題の具体的解消例

               3-2 日蓮教のあるべき姿











第1章 宗教の違いによる争いの収束に向けて


世界中の人々が、いろいろな宗教を信じています。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教、バラモン教など、信じるものは様々です。そして、このような宗教の違いが争いのもととなっているのも確かです。このような争いのもととなるような宗教など禁止してしまえと言う共産主義もあらわれたのですが、今度はその共産主義が争いのもととなっているのも事実です。

このような宗教の差異による争いはなぜ起きるのでしょうか。このような争いをなくす方法はあるのでしょうか。これを知るためには、ユダヤ教の聖典である旧約聖書、キリスト教の聖典である新約聖書、イスラム教の聖典であるコーランなどを知る必要があります。加えて、皆さま方が依経とされている仏典や日蓮如来の御書も知る必要があるのです。

皆さま方は《聖書にこう書いてあるからこれが正しい》《コーランにこのように書いてあるからこうすべきだ》と言われたら、それを正しいとしますか???メッカの方を向いて祈りを捧げますか???一応、話は聞いても、正しいとも思わなければ、その決まりを守ろうともしませんよね。他の教えの信者たちも同じなのです。法華経にこう書いてあるからこうすべきだ・・・・・こんな言い方で彼らを説得できるでしょうか。無理です。






◆◆1-1 仏法を五重の相対を使って解く◆◆



最初に、仏法を日蓮如来の五重の相対を使って解説いたしましょう。これは意外と簡単で、実は西洋哲学でも同じ法理を使います。ただ、西洋哲学では内外相対と大小相対までで、これ以降の相対は出てきません。つまり、アッと言う間に、西洋哲学を超えていきますが入口は同じです。これは、多分、皆様方が立てられているものとはかなり違うと思いますが、おそらく、皆さま方のものでは三証が立てられないでしょう。私のものは、最後の種脱相対だけは理証、現証が立てられませんが、他のものは三証をそろえてあります。




【内外相対】


人は、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触る、の五感により物事を判断していきます。それを意識として統合します。言い換えると、外部の情報を自分の内に取り込むことにより、意識として自己の内で統合するわけです。内外相対とは、この意識として自己の内に取り込む過程を中心にするのが内典であり、情報を情報のまま受け取るのが外典なのです。つまり、一つのものを内典として捉えることも外典として捉えることも可能となるのです。仏教は内典と言われるのは、この情報が人に及ぼす影響を論じているからであり、当然のことながら、仏教の経典を外典に読むことも可能なのです。
たとえば、《姦淫はいけない》と言う法を、外典に読むと《姦淫はいけないと言うのが決まりだから守らなくてはならない》となります。ところが、内典に読むと、《姦淫はいけないと言われたら心がどのように動くのか》が中心となるのです。

心はこのように動きます。

決まりは守らなくてはならない・・・・・天使の声
自分のしたいようにして何が悪い・・・・悪魔のささやき

この二つの思考が葛藤するのです。

それまでの、自分のしたいようにする状態が《畜生界》であり、葛藤する状態は《修羅界》です。つまり、人は《姦淫してはいけない》と言う法により、畜生界から修羅界に引き上げられたと言えるのです。この後、実際に姦淫と言う行為に及ぶか止めるかは、あまり関係なく、この畜生界から修羅界に引き上げられたと言うことが内典では重要なのです。

さて、この姦淫してはいけないと言う戒を徹底的に守るとどうなるのでしょうか。つまり、自分も絶対ダメだと思い、指導者や親や周囲も徹底禁止する状態です。これは、よくミッション系の学生に見られる傾向ですが、よりひどい姦淫をするようになったり、精神を病んだり、他の犯罪に走ったりするようになるのです。これは《姦淫》が自分の本能に根差すものであるため、禁止されれば禁止されるほど、より強い誘惑となっていくからなのです。同じ《姦淫してはならない》と言う法が、今度は人を修羅界から三悪道に導いてしまうのです。これが諸法(この場合は姦淫の禁止)の実相は、本(三悪道)末(修羅界)究竟等(この二つの間に固定されてしまう)と法華経に記されているのです。


よく、犯罪を減らそうと罰則を強化して、その法の強化徹底を図ろうとします。しかし、実際には犯罪者が増え刑務所が不足するだけで、一向に犯罪は減らないと言う状況になるのもこの法理が働くためです。

このように、法を表面的に運用していくのが外典であり、法による人の心の動きを中心に運用していくのが内典なのです。仏教が内典と呼ばれるのは、外典として捉えると意味不明の部分ばかりとなっていくためで、実はこれは聖書も同じなのです。





【大小相対】


 国も宗教組織もまとめるためには《法》が必要となります。そして、法を定めるためには理念が必要となるのです。理念と言うと憲法???・・・・ちょっと、と言うか、かなり役不足で百年ももたないようなものは理念とは呼べないでしょう。
ま、とにかく例を出しましょう。
たとえば、道路交通法には《事故がなるべく起きないように、事故を起こさないように》と言う理念が見えます。個々の法律の条文を細かく覚え、それを完璧に守って事故を起こすよりも、多少、個々の条文は無視しても事故を起こさないようにする方が大切だと言えます。実際に人々は法律の個々の条文なんかは知りませんし、勉強したとしても覚えてもいません。六法全書を丸暗記して生活している人など一人もいないのです。
また、法の結果は個々の条文によるのではなく、その定めた目的に沿ったものとなるのです。もし、国が法を定めるのに、ある特定の会社の利益を出すことを目的とするならば、その会社に利益が集まります。個々の条文が万民の利益の為などのきれいな言葉でまとめられたとしても、結果は、その法を定めた目的にしか沿わないのです。

ならば、大切なのは個々の条文ではなく、法を定める目的となるのです。

一つの法を長く用いると、その法の目的・理念がその国の人々の常識となっていきます。そして、この常識の違いが分断と争いをもたらします。キリスト教徒の常識とイスラム教徒の常識が違うから、『あいつらは正しいことを間違いとするから悪』となるのですが、この常識が、西洋哲学で言う、無意識界の社会一般共通認識なのです。

つまり、法律の個々の条文を人の心の動きに従って定めるのが小乗であり、個々の条文をどのような理念から定めるべきかが大乗なのです。

人は、これをいろいろな理念から定めようとします。《自由が良いだろう》《平等が良いだろう》《平和が良いだろう》このように、いろいろな理念を考えるのですが、絶対とはなりません。すべて制限付きとなるのです。たとえば、自由が絶対理念ならば、自由を禁止するのも自由です。この自由を認めるわけにはいきませんから、制限付きとなるのです。平等が絶対理念ならば、他国の民と自国の民の差を定められなくなります。日本の選挙権を世界中のすべての人々が持つのが平等ですし、日本の生活保護を世界中すべての人々に同様に与えるのが平等です。東京の住人が大阪の選挙権をもたないのは差別となり、結局、平等を規制しなくてはならなくなるのです。平和とは、争いをなくすことです。国会内の論戦も平和に違反する行為ならば、テロリストが銃を乱射していても、そのテロリストに逆らえば平和を乱すことになります。また、家に泥棒が入ったとしてもその泥棒と乱闘してはいけなくなります。もし、これが国同士ならば、このような乱闘は戦争なのですから、家に入ってきた泥棒も撃退してはいけなくなるのです。結局、平和を実現するためには平和自体を規制する必要があるのです。


結局、どうしたらよいのか分からないとなり、《すべてを知るのは、お釈迦様や日蓮さまなのだから、我々は下手な判断を下すべきではない》となっていくのです。このお釈迦様や日蓮様を阿弥陀如来に変えると、阿弥陀経となるのが分かりますでしょうか。さすがに、法を定める絶対理念となると難解になりますが、大乗経とは法を定める理念を何にするかと言うことであり、小乗経がその理念より出てきた個々の条文となるのです。





【権実相対】

 
 ここから先は、現代哲学には出てきません。このため、仏法を中心に解説していきましょう。《すべてを知るのは、お釈迦様や日蓮さまなのだから、我々は下手な判断を下すべきではない》のお釈迦様や日蓮様を阿弥陀仏に変えると、《阿弥陀如来はすべてをご存じなのだから、すべてを阿弥陀如来にお任せしよう》となります。《権》とは仮のものを示し、この《阿弥陀如来はすべてをご存じなのだから、すべてを阿弥陀如来にお任せしよう》の仮を払えば実となります。さて、この言葉の仮は何なのでしょうか《阿弥陀如来》が仮なのです。
 もし、これを釈迦如来とか日蓮如来と言う実在のもので示すと、払えなくなってしまいますから、わざわざ阿弥陀如来と言う仮の仏に変えてあるのです。この阿弥陀如来と言う仮を払うと、《絶対のものは何もない》となります。言葉を変えれば、《人が五感で感じるすべてのものは空である》すなわち、般若心経の《色即是空》となっていくのです。《色》とは自己の認識を示し、これを外部の働きかけとしても同じ意味となり、法華経の《一切法即空》が出てくるのです。仏典には、大日如来なども出てきますが、この阿弥陀如来とか大日如来と言う存在が仮(権)であり、その仮(権)を払えば実となるのです。

 《一切法即空》とは、【仏法・世の法律・常識などすべてのものには、善悪もなければ正邪もなく、真理もない】と言うものです。そして、この状態となると菩薩社会と呼ばれる理想社会が出現すると言うのが無量義経なのです。では、なぜ、このような理想社会が出現するのでしょうか。

 人はなぜ《法律ではこのようになっている》《聖典にはこのように記されている》《これは常識だ》などと語るのでしょうか。他の人に納得させたい《本音》があり、その本音を納得させるための手段として聖典などの言葉を引いて《これが正しい》と語るのです。結局、聖典も法律も常識も、その本音を正当化させるための手段、建前でしかないのです。善悪も正邪もその目的《本音》の方にあり、その時に語る仏法・世の法律・常識などは、それを裏付けるための建前に過ぎないのですから《空》となるのです。

 人には、神と悪魔なら神に付きたいと言う本性、天国と地獄なら天国に行きたいと言う本性、善と悪なら善に付きたいと言う本性、正と邪なら正に付きたいと言う本性があるのです(方便品)このため、建前を《一切法即空》と払うと、本音を善としようとするのです。社会全体が本音を善としようとするゆえに、菩薩社会と呼ばれる理想社会が出現すると言うわけです。

《一切法即空》と言う法理も一つの法です。もし、《一切法即空》が真理だとすると、《一切法空》も空となります。これゆえ、《一切法即空》の法理は、唯一《一切法即空》の一切法から除くとなっていくのです。これが、法華経が絶対真理=実経となる所以なのです。

ここには、まだ不確定要素があります。本音の善とは何かと言う問題です。人が善かれと思えば、それで善いのでしょうか。善かれと思って一生懸命やっても、相手の為にはならなかったと言う事例はいくらでもあります。また、善意を悪意で返されることもあります。ここに十界論が入ってきます。

人も、人の言葉も、周りの環境も、相手に対して《法》と言う働きとなります。もし、相手が三悪道にあるのならば、相手を善くするためには戒を示せばよい。相手が修羅界にあるのであれば、人界や天界に至らしめるようにすればよい。六道に迷う者には四諦の法を説き声聞に導き、十二因縁を説き縁覚に導き、六波羅蜜を説き菩薩として行けばよいのです。

人の状態に依って法を説くのが基本なのですが、最初に、人や国などの状態を見極める必要があるのです。この時の考え方が《一切法即空》なのです。人や国は、何か問題を抱えています。そして、その問題を引き起こす《こだわり》がどこかに必ずあるのです。一切法を空と見定めれば、何にこだわっているから問題が起きるのかも分かるのです。

さて、三悪道にある者を修羅とし、修羅を人界天界に導き、六道に迷う者に四諦の法を説き声聞とし、十二因縁を説き縁覚とし、六波羅蜜を説き菩薩とするその人は、いったい何界の人なのでしょうか。声聞でも縁覚でも菩薩でもない。まさにこれが仏界なのです。

ま、ここまでは《語るは易し》で簡単なのですが、《どうしたら、この仏界に至れるのか》となると、その方法がないことまではわかります。なぜならば、もし仏界に至るための法があるならば、仏界よりも更に一段高い境地からしかこの法を示せないのです。仏界よりも高い境地があるとすれば、その人の語る仏界は仏界でなくなってしまうのです。









【本迹相対】


《人には、神と悪魔なら神に付きたいと言う本性、天国と地獄なら天国に行きたいと言う本性、善と悪なら善に付きたいと言う本性、正と邪なら正に付きたいと言う本性がある》のは、実際に自分自身に当てはめて考えればわかると思いますが、なぜ、このように考えるのでしょうか。これは、実は《人とは何か》と言う問題と同じなのです。
あなたに奥様がいるとしましょう。もし、その奥さまが浮気をしたならば、あなたはその瞬間その事実が分かるでしょうか。当然、分かりませんよね。これがおかしいことがわかりますか。もし、彼女本人と、あなたが彼女だと認識している彼女が同じならば、あなたは彼女が浮気をした瞬間にそれが分かるはずです。これが、分からないと言うことは、あなたが認識する彼女と、実在する彼女は別ものと言うことになります。いったい、あなたが彼女だと思っているものは何なのでしょうか。これは、外界の情報をもとに、あなたの内側に組み立てた彼女なのです。つまり、その彼女を創りだしているのは実は自分となるのです。このように、あなたはあなたの内側に、すべての自然もすべての人も作り出しており、その自分の内に創りだしたものを、その実物としているのです。これは、あなた自身も同様で、あなたが自分だと思っているものは、自分の内側に自分が置いた自分の分身なのです。
このすべてを創りだしている自分を《大我》、この《大我》が創り出した世界に置いている自分の分身を《小我》と呼びましょう。普段、人はこの小我に意識を置いており、大我があることにも気づきません。でも、ここに示す浮気の例などの、ほんの些細なことでも、そういわれればと気付くのです。あなたが仏を思い浮かべます。その仏もあなたの大我の被造物なのです。天動説、地動説と言いますが、その太陽や地球や星々は実際のものなのでしょうか。いや、あなた自身が自己の内側に創りだしたものでしかないのです。現に、今この瞬間に太陽が爆発したとしても、それを知るのは8分後なのです。この8分間は、実際にはないのにあるとする不可解な時間が存在するのです。つまり、見えると言う縁により太陽を自分の内側の世界に存在させているのです。結局、地動説は計算により地が周っていると自己の内に認識するもの、天動説は見たまんまを自己の内に認識するもの、このプロセスは何も変わりません。ここからいえば、天動説も地動説も目くそ鼻くその世界でしかないのです。
あなたにとって、あなたの《大我》こそすべての創造主、久遠の時すらも自己の内に作り上げているのです。仏を探せば究極的にこの《大我》が仏となり、これが久遠元初自受用報身如来の真実の姿なのです。

小我である人を完成させるプログラムでもかなり大変ですよね。でも、人は誰でも、この小我も森羅万象も自分の内に創りだすためのプログラムを最初から持っているのです。なかなか気づきませんが、これは生まれた時から完成した形でもっているのは間違いありません。コンピューターでこのようなプログラムを組むとすれば、千年かけてもできるかどうかと言う膨大なものなのです。これを胎内にある10か月の間に脳内に組み込むのは不可能としか言えません。可能な考え方としては、このプログラム自体が肉体を得たのが人であると言う考え方があります。すると、人間の本体は久遠元初自受用報身如来のプログラム???と言えるようなものとなり、肉体や小我としての意識体はむしろ付属物となるのです。
これが、法華本門であり、十界論により導き出される仏界が法華迹門となるのです。

さて、《人には、神と悪魔なら神に付きたいと言う本性、天国と地獄なら天国に行きたいと言う本性、善と悪なら善に付きたいと言う本性、正と邪なら正に付きたいと言う本性がある》のはなぜなのでしょうか。神・天国・善・正が最終的な目標としているのは久遠元初自受用報身如来の開眼であり、神・天国・善・正が究極的にすべての人の久遠元初自受用報身如来の開眼と言う方向を向いているので人はこれを好むのです。面白いことに、他の人の久遠元初自受用報身如来を開眼させようとすると、自分自身の久遠元初自受用報身如来が開眼するのです。

 ただ、開眼しなくても、この《大我》が分かれば、このようなことが成り立つことが分かります。他の人に悪い部分があったとすれば、それは自己の大我が投影されているのですから、必ず自分の中に相手の悪い部分と同じものがあるはずなのです。その自分の内側の悪い部分を徹底的に悔い改めれば、何一つ語らなくとも、相手の悪い部分が直るのです。これは、ホ・オポノポノと呼ばれるハワイに伝わる伝統的な方法でこの大我と小我の関係によって、これも説明できるのです。





【種脱相対】


 理論的には、小我を無とすれば大我が表面に出てくることはわかります。でも、小我を0とする方法がどこにもないのです。あることはわかっているし、自分自身も自由に大我に意識を置けるのですが、《どうしたらできるの??》と聞かれると、『方法はない』と言う答えとしかならないのです。

『方法がないのなら自分はそれだと思い込んでしまえ』

唯一可能性があるのは、最初から思い込んでしまうことぐらいです。つまり、《自分は久遠元初自受用報身如来であるとし、一切法即空を心がけて、なおかつ謙虚に他の人の久遠元初自受用報身如来としての姿を開眼させようとする》ならば、開眼するかもしれません。この、唯一可能性があるもの追求していけば、御本尊と言う形になるのではないかと予想はできますが、どうしてあのような形となるのかの理由が分からない。また、実際に何百万と言う人がその御本尊に対して南無妙法蓮華経と唱えているのは知っていますが、現証はと言えば悲惨な状態。ほとんどの者が、そのはるか前で躓いてしまう。もっとも、それを躓かせるものを置いているのですから躓くのも当たり前と言えば当たり前です。《寺に来い》《会合に参加せよ》《折伏せよ》《平和》・・・・まあ、よくもこれだけ空としなくてはならないものを並べたこと・・・・これで自身の仏性を現せ・・・・まぁ、無理でしょ。

 種脱相対については、御本尊の姿が聖書の中の聖書と呼ばれるヨハネの黙示録にも記されていますから、この相対があることも分かり、それが御本尊と言う形となることも分かるのですが、私に分るのはここまでで、理証も立てられなければ、現証も立てられません。












◆◆1-2聖書とコーラン◆◆



 聖書には旧約聖書と新約聖書の区別があります。そして、旧約聖書の重要な部分が律法、新約聖書の重要な部分が福音とされています。この律法と福音と言う区分が示されているのはコーランで、律法を中心にしているのがユダヤ教、福音を中心にしているのがキリスト教、コーランを中心にしているのがイスラム教となります。しかし、残念ながら、今のユダヤ教も、キリスト教も、イスラム教も聖書やコーランの意味が解っていません。
最初に五重の相対を出したのは、そのままの区分が律法・福音・コーランにも当てはまるためです。







【律法】


律法を中心に用いるのはユダヤ教徒です。そして、彼らは《神が示した律法を人が守る》と考えています。実はここに大きな間違いがあるのです。神が示し、それを人が守ることにより律法が成就完成するならば、律法を示した神と、それを成就完成させる人が同列となることなのです。聖書では神と人は、創造主と被造物と言う関係で、決定的な位の差があるため、どんなに頑張っても人は神と同列の位置には立てないのです。
これは、どういうことを言っているのかと言えば、同列とは、律法を守る人に対して、神は手出ししないと言う意味であり、位が違うとは、人が律法を守ろうが破ろうが、神は自分の思いに従って懲罰を与えたり祝福を与えたりすることを示します。
そして、聖書の中では《人殺しをするな》と命じておきながら人殺しをした者をほめたたえたり、《姦淫するな》と命じておきながら、姦淫の中の姦淫である近親相姦を犯した者に祝福を与え、近親相姦により生まれた子供にも祝福を与えたりします。また、何かと難癖つけて滅ぼします。神は律法を守ったから祝福、破ったから懲罰ではないのです。律法とは一切関係なく、まさに気まぐれで滅ぼしたり、祝福したりするのです。人々は、祝福されるパターン、懲罰を受けるパターンの共通点は何であるのかを研究したりしていますが無意味です。
まず、最初に律法は誰に対して示されているのかの判断を間違えています。過去の聖書の登場人物に対してではなく、聖書を読むその人自身に示されているのです。次に、律法を聞くと人は三悪道から葛藤の修羅界に瞬間に導かれます。人が守る破るはその後の話なのです。人の中で善と悪が葛藤するわけですが、善側が強くなりすぎてもまた三悪道に戻ってしまいます。どうしても、人の心は善側に振れやすくなるために、葛藤に長く留めるためには、悪側にも援軍を送っておく必要があるのです。これが人殺しの話とか近親相姦の話なのです。
聖書には、もう一つ真理が示されています。人は自分の欲望《悪》と神の命令《善》の両方を、両方とも叶えようと考えるのです。これがサタンの知恵と呼ばれるものなのですが、遵法の心がこのように各種の知恵を人に与えると言っているのです。これが良い方に働いた状態が日本が得意な改良とか改善であり、悪い方に働いたのが法と犯罪のいたちごっこ状態となるのです。これは、仏典にもあるのかもしれませんが、わたしにはその経典が見つけられません。






【福音】


 福音とは、新約聖書と呼ばれるイエス・キリストの言動を示します。イエス・キリストは律法が内典であることを知り、内典としての成就・完成を示した人なのです。いろいろなところで一生懸命語っているのですが、おそらく聞いた方が理解できていない。結局、《神は愛である。これを信じなさい》となっているのです。
 道理としては、大小相対と全く同じです。『律法の目的は生きている人をより良い状態とすることだから、あなた自身が、自分自身が良くなるように、他の人々を良くするようにして行けば、律法の目的を守ったこととなる。だからこのようにして律法を守りなさい。』と言うことなのです。

 福音を実行するとは、法を定める時、運用する時の心構えをただすと言うこととなります。法は定める者、運用する者の目的により結果が変わります。そして、その心は法を示されるすべての人に伝播していくのです。たとえば、為政者が自分の利益の為に法を定めれば、その国の人は『偉くなれば、下々の者たちから奪い取るのは義である』と考えるようになります。これは偉い者=奪い取る者となり、《奪い取る力のある者こそ義》とその国ではなるのです。特定の金持ちの利益を増やすために法を定めれば、保護すべき者=金持ち=だまし取る者となり、金融犯罪を奨励していることとなるのです。
 これは日本の企業が良く知っています。会社の利益の為に社員を働かせると、一時的には良くても、やがて、この会社は傾いて行ってしまいます。では社員の利益の為に社員は働くかと言えば、楽をして儲けようとなり詐欺のようになっていきます。これも傾いて行くのが目に見えています。このため、会社は利用者の益を中心に考えるのです。公共利益の為に会社は存在するとするのです。ところが国となると、自国の利益、国民の益などと変な考え方となります。企業なら最初は上手くいっても先細りとなりやがて倒産となります。国も企業と同じで、すべての人々の為に何ができるのかと言う考え方をすべきなのです。

キリスト教を標榜する国はたくさんあり福音を礼賛しますが、実際に福音を使うべきところで使っている国はほとんどないようです。






【コーラン】


 コーランはイスラム教の経典ですが、実は聖書の続きなのです。当然、律法や福音よりも高度で難解です。意味が全く分からないようで、完全に使い方を間違えています。
 たとえば、コーランには確かに豚を食べてはならないと記されています。しかし、アッラーは物事を譬えで示されるとも記されているのです。つまり、この豚は何かを譬えているのかもしれないのです。しかし、コーランの解釈はアッラーの神権とされ、人には許されていないのです。
 たとえば、コーランには確かにメッカ巡礼が定められています。しかし、現在あるメッカは、コーランの記述をもとに人が定めたものなのです。当然、コーランの記述を人が勝手に解釈することは許されませんから、これはアッラーの神権を足蹴りにする行為となります。
 このほかにも、男女や酒などの数々の決まりも、実際の男女や酒なのかは不明です。このように、コーランに従って何かを定めようとするとことごとくアッラーの神権に捕まってしまい、人は何一つ定めることが出来なくなるのです。《一切法を定めることが出来るのはアッラーのみ》となります。

 聖書の神の名はヤハウェでこれは絶対名なのです。コーランの神の名はアッラーですが、アッラーは日本語の《神》程度の意味なので、これを外すことが出来るのです。コーランからアッラーを外すと《一切法即空》となり、無量義経と同種の経典であることが分かるのです。ただし、コーランには六波羅蜜が示されていますが、仏典では涅槃経となるのかな。近いことは確かですが、完全に一致しているわけではありません。

繰り返しになりますが、《一切法即空》とは、人はある物事を他人に納得させる目的があり、経典の言葉や、法律、常識などを語るのです。このような経典、法律、常識などは《空》に過ぎない。善悪、正邪、真理は人が他の人に認めさせたい目的(本音)の方にあると言うことなのです。名目として並べる経典、法律、常識などが空となれば、人は本性として善・正・真理に付きたいと言う心を持つから、この目的自体を善・正・真理とするゆえに理想社会が出現すると言う理屈なのですが、ここまでは簡単には到達できません。
このため、彼らは、『定めることが出来ないのならば定める人を決めて、その人が定めたことを守ればよい。』としたわけです。これがイスラム教のカリフであり、歴代のカリフが定めてきたものがイスラム法なのです。

つまり、イスラム法とはコーランとアッラー、そしてムハンマドをも足蹴りにしてきたあかしと言えるのです。でも、現実には、イスラム社会はこのイスラム法によりまわっています。このため、イスラム法を悪と断罪してしまうと、イスラム社会そのものが大混乱に陥るのです。この対策も簡単で、イスラム法を一切法即空の一切法の一つとしてしまえばよい。つまり、善でも悪でもなく、『人々の為に』と言う本音を持ちイスラム法を使うのなら何も問題はない。コーランの空は広く、イスラム法を内に入れても空は空のままなのです。


 また、コーランには、
『より高度な教えを間違えて用いる者は、低い教えを間違えて教える者の下と定められる』
と言う規定が示されています。ここから、次のような順位が出てきます。


第一位 コーランを正しく用いるイスラム教徒

第二位 福音を正しく用いるキリスト教徒

第三位 律法を正しく用いるユダヤ教徒

第四位 律法を間違えて用いるユダヤ教徒

第五位 福音を間違えて用いるキリスト教徒

第六位 コーランを間違えて用いるイスラム教徒


現在は、コーランを正しく用いるイスラム教徒も、福音を正しく用いるキリスト教徒も、律法を正しく用いるユダヤ教徒も存在しませんから、現在の第一位は、立法を間違えて用いるユダヤ教徒となります。現実社会を見ると、アメリカのFRBはユダヤ資本で、確かにユダヤが世界の思惑を支配していると言えます。これに対して、異を唱えたのがナチスドイツと言えますが極悪人の犯罪者として裁かれてしまいました。第五位が第四位に挑戦状を叩き付けたわけですが、このように簡単に退けられてしまうのです。ナチスは悪と言いますが、ナチスの極悪の象徴であるアウシュビッツでのユダヤ人の生存率と、アメリカ大陸でのアメリカインディアンの生存率はほとんど変わらない。広大なアメリカ大陸をアウシュビッツとしてきたのがキリスト教徒なのですが、こちらはさほど問題とはならないのに、ナチスが問題となるのは、この順位によると考えられます。

これらの現実の状況から見ると、この順位は絶対であり、順位が下の者は上の者の思惑に最終的に逆らえないのではないかと考えられます。これは五重の相対から考えるとわかります。
ただ、内典であると言う条件は付きますが、小乗教が影響を与えるのは個々の人の意識です。これに対して大乗教は社会の常識を作ってしまいます。常識の定着は、個々の意識を一定の枠にはめてしまうので、良い枠にはめれば小乗教を使うよりも良くなりますが、悪く低い枠にはめると、小乗教を使うよりも悪くなるのです。
権実相対はもっと極端に出ます。《実》を間違えると誰も判断が出来なくなってしまうのです。権であれば、経典に書いてあることを正しいとすることにより、《これは間違っているのではないか》と言う判断が可能となるのです。ところが実を間違えて、たとえば《平和》としたとすると、相手が殴り掛かってきたときに殴り返してよいのか。武器を持って襲ってくる相手に、武器を使ってよいのか。誹謗中傷してくる相手にどの程度まで応戦してよいのかが、さっぱり分からなくなるのです。これが分かっているのは唯一人となり、何もかにもその人の意向を聞かないと判断できなくなると言う事態に陥るのです。上の人しか判断できないから、と全員が判断から逃げるために、その上の者が聖典の言葉により判断したものが絶対的な判断として扱われるのです。ここで、平和を例に挙げているのは、実際に創価学会がそのようになっているのではないかと予測できるからで、皆さま方の一番身近な例となると考えられるからです。
これは、わたし自身が見たわけでもなければ、そのようになっていると感じたわけでもありませんが、これは、ほぼ必然で起こることなので、おそらく創価学会の現状はこのようになっているでしょう。そして、これと同じことがイスラム教徒の中でも起こっている。指導者も実際にはこれが正しいとは思っていないのですが、なぜこのようになるのかもわからないし、そこから抜け出す道も分からないのです。これらのために、この順位が確定してしまうのです。
そして、この順位から考えると、今日のISILのような運動は、イスラム教徒の思惑では起こせないのです。必ず、キリスト教徒、またはキリスト教徒を実質的に支配しているユダヤの思惑があると言えるのです。









【ヨハネの黙示録】


 聖書側で、仏典の妙法蓮華経に相当するのが《ヨハネの黙示録》と言う書です。コーランの真意までを瞬間に見破るものがあったとしても、このヨハネの黙示録は何が書いてあるのか分からない格段に難解な書なのです。
 ハルマゲドンの戦い、666の獣などは、このヨハネの黙示録に記されていることなのですが、実はこのヨハネの黙示録にはあなた方が御本尊と呼ぶものも記されており、むしろ、これがヨハネの黙示録の中心となり、いろいろな言葉がその周囲を形作っていると言う構造となっているのです。

この難解さは、実はヨハネの黙示録自体の働きにあります。実は、ヨハネの黙示録は人の本性を写す鏡の働きをするのです。人は、その意味を知ろうとヨハネの黙示録を見ます。すると、そこに映し出されるのは自分の本性なのです。
自分がどのように振る舞っても、その結果は自分の本性に従った結果となります。その結果と自分がヨハネの黙示録を見たときに見たものが同じとなりますから、《これは恐ろしい書だ》となるのです。百万人いれば、百万通りの解釈が存在しそのいずれもが当たっているとなるのです。現在は、ある特定の人が解釈し、その解釈を他の人が信じると言う形となっていますから、この働きは姿を消しているのです。


私も最初からこの事を知ったわけではありません。律法や福音の意味程度なら、聖書を一読した程度でも簡単にわかったのですが、ヨハネの黙示録の意味は全く分からなかった。
そこで、私はヨハネの黙示録に『意味を教えよ。』と言ったのです。すると、何も語らないはずのヨハネの黙示録がこのように語ったのです。「お前が裁きの地獄にサタンとして永遠に入ると言うのなら教えよう。」私は瞬間悩みました。なぜなら、《自分の命ぐらいなら仕方ないな》と思っていたからです。ところが対価として求められたのが、自分の唯一の希望だったからです。《やるべきことをすれば天国が私を待っている》と考えたわけです。それを捨てるなら教えようと言われたわけです。それでも『ま、仕方ないか』と了解したのです。

わたしは裁きの地獄に入ったはずでした。しかし、そこはとても気持ちの良い空間だったのです。そればかりではありません。私はそこでサタンを捕まえたヒーローとして扱われました。意味が全く解りませんでした。やがて、『イエス・キリストを探しなさい』と言われ、イエス・キリストを探すと何と、イエス・キリストもそこにいたのです。そして『ここが天国だ』と言われ、裁きの地獄と天国が同じものであることを知ったのです。
《裁きの地獄と天国が同じ》これがヨハネの黙示録の意味なのかと思った途端、「これも一つの意味ですが、本当の意味は別にあります。それを知るためには、この下に虚無の獄と言う本当の獄があります。そこに入ってあなた自身の命で封印しなくてはなりません。どうされますか。」と聞かれたのです。私はそれを了承し、その虚無の獄の中で天地創造を行い、元の世と同じような世界を創り、そこに自分の分身を置いて、その分身の中に入ったのです。このようにして、ヨハネの黙示録の意味を、身を以て教わったのです。

天国と地獄は、霊界の構造に起因します。霊界は一つの大きな太陽と、九層の地でできています。この九層の地に対して、上から、菩薩界、縁覚界、声聞界、天界、人界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界と言う名前を付けているのが法華経の十界です。そして、仏界に相当するのが霊界の太陽なのです。生きている人は生者の世界におり、死ぬと霊界に行くのですが、完全に霊界に踏み込むと、もはや生き返ることはできなくなります。生者の世界から霊界への一方通行となっているのです。霊界の地にはこのような妨げはありません。このため、九層の地の中で自分が一番心地よい場所を探してそこに終の住まいを定めるのですが、面白いことに霊界の太陽に通じる道が地獄の底にあるのです。問題なのが、死者が生者となれないように、霊界の太陽に一度踏み込むと霊界には戻れないのです。霊界の太陽に相応しいものにとっては、決して出されることがない究極の天国となるのですが、相応しくない者にとっては、焼かれ続けても逃げることが出来ない究極の裁きの地獄となるのです。これが、天国と裁きの地獄が同じと言うことなのです。このように、一端入るともう逃れようがなくなるので、その入り口には裁きの場が設けられているのです。閻魔王に散々脅されて、罪一等を減じられて、ようやく霊界に戻ることを許されるのですが、この目的は、相応しくない者が入ると焼かれ続けても、霊界の太陽には、霊界への出口がないからなのです。ところが、霊界の太陽から生者の世界には行けるので、ヨハネの黙示録には守ることが出来ない戒が示され、これを守らない者は裁きの地獄に落とされると書いてあるのです。これは《天国に入るための予行演習》なのです。

この記事に

閉じる コメント(0)

コメント投稿

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

名前パスワードブログ
絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
投稿

開く トラックバック(0)


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事