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               セント・アンドリュース・オールドコース
 
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                ロイヤル・アンド・エンシェント・ゴルフクラブ
          セントアンドリュースはゴルフ発祥の地として、600年の歴史を持つ。
           1754年にSOCIETY OF ST.ANDREWS GOLFERS として発足した
          クラブが、1834年 正式にロイヤル・アンド・エンシェント・ゴルフクラブ
                      と命名され今日に至っています。
 
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         ゴルフの総本山と言われるのは、此処のルール委員会が USGA(全米ゴルフ協会)と
            協力して世界のゴルフルールの決定と管理を行っている事、毎年の
                THE OPEN(全英)の開催地を決定するからでしょう。
             R&Aではイギリス・スコットランド以外 アメリカや日本では,
         BRITISH OPENと呼んでいるが、歴史を見てみると、全英オープンという
           名前の大会は存在しない。 THE OPEN CHAMPIONSHIP であり
           ブリティッシュオープンなどというと、英国内の試合になってしまう。
                  あくまで THE OPENであると言っています。
 
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        THE OPENはアマ・プロ問わず世界中のゴルファーが出場できるチャンスがあり
          その門はゴルファーに開かれているという意味の大会なのだそうです。
 
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            セント・アンドリュースとTHE OPENの歴史は、トム・モリス親子抜きには
           語れない。セント・アンドリュースがゴルフの総本山と評価されているのは
            モリス・ファミリーの功績によるもので、その偉業は今も称えられている。
       1821年 セント・アンドリュースで生まれたトム・モリスはゴルフの先駆者と言われる
            アラン・ロバートソンについて、クラブやボール(1848年に量産できる
             ガッターボールが出るまでは、羽を皮で包んだ手作りボールだった)
           作りを学んだ。その後、第一回のTHE OPENが開催されるブレストウイックに
            移って、12年間グリーンキーパーをしながらゴルフの腕も磨いた。
          THE OPENには第一回から8年の間に、4回優勝 1865年にR&Aに呼ばれ
          オールド・コースの管理を任されるようになり、なかでも18番ホールの改善は
           トム・モリスの最高傑作とされ、今も彼の名前がホールの愛称になっている。
           モリスの息子 ヤング・トム・モリスもゴルフの天才で、1868年弱冠17歳で
            THE OPENで初優勝し、その後4連勝、しかし1875年ゴルフの試合中に
             妻が亡くなると、ゴルフにも意欲がなくなり、その年のクリスマスイブに
                  後を追うように永遠の眠りについてしまったのです。
            その後 父親である トム・モリスのゴルフ人生も変わり、クラブつくりに
               専念しながら、コースの設計・監修を生きがいにしたようです。
            スコットランド・イギリス・アイルランドまでも出かけ、いろいろなコースを
              歩き続けグリーンの質の向上、戦略性を高め、野に咲く花・砂丘・
              吹きすさぶ烈風さえもよき友にして、歩き回ったと言われている。
              自分もゴルフとリンクスを愛したオールド・トムが大好きで、どこかで
                       影響を受けていると思います。

             トム・モリスは87歳で亡くなりましたが、セント・アンドリュースの住民
            の殆どが葬儀に参列し、偉大な業績を称え涙を流したと伝えられています。
             トム・モリスの功績の一つに全てのゴルフ場にある10.8センチの
            ホールサイズ。 これはトム・モリスがセント・アンドリュースの街を歩いていて
              道端に落ちていた水道管の切れ端を見つけ、オールドコースの
            18番に飛んでいき、はめ込んだ時から、世界中のホールサイズが
            現在のものに決まったのです。それまではホールサイズは決まってなく
            コースによって、少しずつ違っていたのです。さらにトム・モリスは
             カップの底を二重構造にして、カキーンという音まで創作したのです。
 
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          ところで皆さん、ボビー・ジョーンズは知っていると思いますが、彼は1902年
            アトランタで生まれ、1971年 69歳でこの世を去った歴史に残る
           アマチュアゴルファーです。そのマナーのいいプレーに球聖といわれ
           生涯アマチュアを貫いた人です。1930年に世界4大タイトル全米アマ・
           全英アマ・全米オープン・THE OPENに優勝して年間グランドスラムを
           達成しました。現在はマスターズ・全米オープン・THE OPEN・全米プロ
            の四大大会ですが、ジャック・二クラウス・タイガーウッズも一年間で
            四大大会全てに優勝はしていない偉大な記録を打ち立てたゴルファー
            です。
             1921年 初めてセント・アンドリュースでTHE OPENに出場した
             ジョーンズは「初めてコースに出たときは、イギリスの友人達が、
              どうしてこのコースを誇らしげに語るのか、理解できなかった。
              フラットで此処がゴルフ発祥の地とは、とても思えなかった」と
                              語った。
              「初日、2ラウンドはいけるかなと思った」が、翌日様子は一変
               海から吹きつける烈風に翻弄されダブルボギー・ボギーと
             大叩き、11番,パー3のヒル・バンカーに打ち込み、砂が何回か
              舞ったが、バンカーからは出なかった。キレたジョーンズは
             ボールをピックアップして、スコアカードを引きちぎり、棄権して
             しまった。19歳のジョーンズは自己コントロールが出来ずに
                  忘れられない屈辱を味わったのである。
            しかし1926年 ロイヤル・リサム・セント・アンズでTHE OPENに
            初優勝すると、翌年のセント・アンドリュースでもタイトルを防衛
          しかもそれまでのスコアを塗り替えるコースレコードで、当時としては
           驚異的なスコアだった。ジョーンズはオールド・コースで勝つために
              芸術的なアプローチショットを完成させピッチ アンド ランは
              スコットランドのギャラリーを釘付けにしたようです。優勝後
          「オールドコースで優勝できたことは大変な栄誉です。このトロフィーを
           スコットランドから持ち出すつもりは無く、たくさんの栄誉を頂いた
         R & A に保管していただきたい」と語り、このスピーチで観衆の気持ちを
                     しっかり掴んだようです。
          1958年 セント・アンドリュース市がベンジャミン・フランクリンに次いで
          アメリカ人として二人目の名誉市民の栄誉をジョーンズに申し出てた。
          数々の功績と祝辞、特にオールドコースでの記録ずくめが語られた後、
      いよいよ司祭長が、厳粛に向かい合い「私達、セント・アンドリュースの市民は皆、
           貴方を尊敬し名誉に思っています。今こそこの街の名誉市民に
                    なっていただきたい。」と告げると
           ジョーンズは感激し、ただ頷き「もし死ぬ前にもう一度プレーするなら
           オールドコースであり、安らぎを得たい場所が何処かと聞かれれば
           セント・アンドリュースと答えるでしょう。最後に私から全てを奪っても
              此処の思い出がある限り、人生は燦然と輝いているでしょう。
             私はこの街の人々と、街の全てを心から愛してやみません。」
          心のこもった挨拶と人懐っこい笑顔に会場は水を打ったような静寂に
                           包まれていた。
           その時 突然歌声が始まる。*心から親しんだ友人に別れを告げる*
            時に歌う哀愁に満ちたスコットランド民謡で、歌声は会場をおおい、
            彼らが尊敬し愛した人を送り出した。このとき不治の病に侵され
            車椅子に乗り、満足に歩けなかったジョーンズが強く立ち上がると
              涙をぬぐわずに、自力で歩いて去っていったようです。
          この後ジョーンズが、セント・アンドリュースを再び訪れることは無かった
            この13年後1971年12月18日 オールドコースでプレーしていた
          ゴルファーはプレーを止めることになった。R & A クラブハウスに半旗が
           掲げられ、ジョーンズがこの世を去ったことが告げられたからである。
           黙祷する住民達は涙を流し、「R & Aメンバー、セント・アンドリュースの
           住民は、アマチュアとして彼ほどの偉業を達成した人物を知らない。
          さらに、オーガスタでマスターズという世界最高峰のトーナメントを始めた
           ボビー・ジョーンズをスコットランド人は尊敬し、今でも愛している」と、
                      いまだに語り継いでいる。
           古くはセント・アンドリュースを管理したトム・モリス(THE OPEN通算4勝)
           年間グランド・スラムを達成したボビー・ジョーンズ(THE OPEN通算3勝)
            歴代メジャー最多勝、帝王ジャック・二クラウス(THE OPEN通算3勝)
             そして二クラウスを追従するタイガーウッズ(THE OPEN通算3勝)
          皆、それぞれ名プレーヤーとして歴史に残る活躍をセント・アンドリュースで
          遂げてきた。このゴルフ発祥の地は、これからも数多くの名勝負が繰り広げ
          られるでしょう。 ( 終 )
 
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サラゼンが圧倒的な強さでオープンを制したのには、もうひとつ理由があった。
サラゼンはバンカーショットが苦手で、砂に入ると恐怖心を抱くくらいだった
(パイロットが飛行機を離陸させる時、後部は下がったまま飛び立っていく。
その原理で、ソールから打ち込んでフェースが上がれば球は自然に高く上がる)
と考え試作が始まった。サラゼンの二ブリックは広いソールが付いて外形が変わり
フェースは大胆に削り込まれた。底に鉛がつき、やけに重たいクラブに変形してしまった
凄い数の試打と加工のあと、サラゼンがサンド・アイアンと命名した。
ソールが広くロフトが平坦な形状のクラブが完成する。
砂の下をくぐり抜けたソールが見事なまでにボールを天に向かって浮かせるクラブ
クラブだ。現在ゴルファーが愛用するサンドウェッジは、こうしてサラゼンの
家の裏にある小さな工房で誕生し、1932年のプリンスズでデビューしたのだ。

(私はサンド・アイアンをオープンに持ち込んだ。対戦相手はまだ薄いニブリックを
使っていたからこの新兵器の敵ではなかった。でもR&Aが使用禁止を言い出す恐れがあったので
試合中はこそこそ使い、昼間はコートに隠して運び、夜は盗まれないように抱いて寝た)
と苦労話をよくしている。そしてサラゼンにオープン最小スコアをもたらした
このサンド・アイアン第一号は、プリンスズのクラブハウスに今も飾られている。

サラゼンが最後に目指したメジャーはマスターズだ。ライバルで親友のボビー・ジョーンズ
が生涯の夢をかけたオーガスタ・ナショナルは新しいメジャーの大会として
世界の注目を集めていた。(アリスタ・マッケンジー博士が精魂を傾けたこのコースは
4日間、完璧なプレーをした者だけが勝者になれる)との評価を受けた難易度の高い
レイアウトで、サラゼンはこんなに美しく飾られたコースを見たことはなかった。

1935年 マスターズ最終日のリーダー、クレーグ・ウッドはすでにホールアウト
彼の三打差のリードは誰かが奇跡を起こさない限り優勝したも同然だった。
サラゼンは15番ホールにいた。ティーショットは完璧。 ライは僅かに沈んでいたが
サラゼンはいつも大事な時に勝利を呼び込んでくれる愛用のブラッシーで、225ヤードの
第二打を叩きつけるように打った。強い球は池を越えグリーンの右側に着地すると
左にキック、そのままカップに吸い込まれてしまった。
これがゴルフの歴史に残るマスターズでのダブルイーグルだ。この一打で一気に三打差を
縮めたサラゼンは翌日の36ホールのプレーオフでウッドを一蹴する。
このマスターズの優勝で33歳のサラゼンは世界初の生涯グランドスラマーの
名誉と偉業を達成したのだ。

マスターズ、試合前の恒例儀式となった名誉スターターとして、バイロン・ネルソン
サム・スニードを従えてドライバーを打つ、ニッカー・ポッカ スタイルの
ジーン・サラゼンの姿を覚えている人もいると思う。8000試合をこなした
サラゼンにとってゴルフは生涯の友達だった。97歳で逝くまでサラゼンは
(ヘーゲンは4000試合しかプレーしていない。私の半分だよ)と
得意そうに話していたという。

     (終わり)

ps 下の二枚のカラー写真は、オーガスタの10番と13番です

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1928年 (THE OPEN)再挑戦の時、サラゼンとヘーゲンは同じ船で大西洋を
渡っていた。(オープンには絶対に勝ちたい)というサラゼンにヘーゲンは、
(お前は勝てない。だが俺ならお前を勝たせてやれる)意味が分からないサラゼンに
ヘーゲンはウインクする。(俺のキャディーを貸してあげよう。彼がいれば優勝する)
ドーバー海峡に近いサンドイッチに着くとサラゼンは早速スキップ・ダニエルスに会いに行った
ダニエルスは60歳を越した老キャディーで嵐にもまれた漁師のような風貌と着古した服は
垢で真っ黒だった。サラゼンの打つ球を見てダニエルスは(こんな球を打てるのはヘーゲンさん
しかいない。)と喜んだ。しかしこのローヤル・セント・ジョージスのオープンで優勝したのは
ヘーゲン、サラゼンは二打差の2位と善戦した。分かれる時ダニエルスは(もう一度一緒に
闘えますか?サー?俺が死ぬ前に貴方にオープンを勝たせたい。)
4年後の1932年サラゼンはロンドンに着くと、地元のコースで67を出す。英国での
ベストスコアーだった。若いキャディーは(この調子ならオープンに勝てます。私を一緒に
回らせてください。)ダニエルスのことは頭にあったが、(今の調子ならキャディーが誰でも
負けない)とサラゼンは彼を雇うことに決めた。

ローヤル・セント・ジョージスに隣接するオープン会場のプリンスズ・ゴルフクラブに着いた時
サラゼンを迎えたのはダニエルスだった。彼は以前より年寄りに見え口調もスローで
目も良く見えないようだった。(貴方のバッグはどこ?)と尋ねるダニエルスにサラゼンは返答に
困った。(ダン、私のクラブは君には重すぎる。病気と聞いていたし、若いキャディーを雇った)
言葉が終わらないうちにダンは(分かりました。サー 貴方がそう思うならそれが正しい。)
彼の言葉には威厳すら感じられ、サラゼンはそれ以上何もいえなかった。サラゼンは
(オープンに勝つために正しい選択が必要だから私情を交えてはいけない)と自分に
言い聞かせるが、この時点では自分の犯したミスに気づいていなかった。
若いキャディーとの練習ラウンドは最悪だった。意思の疎通ができないのだ。優勝候補筆頭の
サラゼンは誰の目にも惨めなゴルフをしていた。サラゼンはギャラリーにダニエルスがいるのを
知ったが、目があうと視線をそらせた。(私はますます惨めになった)そして試合二日前の夜
サラゼンは地元の名士 イニス・カー卿の訪問を受ける。(私はメッセージを持ってきた)
英国貴族の格式と威厳に満ちた声だった。(君の友人達はダニエルスが勝利を呼び込めることを
知っている。皆 貴方が優勝して欲しいのだ。)サラゼンは(私も同じことを考えていました。
ダニエルスが唯一の解決策だということを)
翌朝 7時にダニエルスはホテルの前で待っていた。握手をしただけで二人の友情は戻り、
コースに着くと地元の人たちが暖かく迎えてくれた。(ありがとう サラゼンさん今日のダニエルスは
10歳も若く見える)キャディーマスターのサムは殆ど泣き声でサラゼンに感謝した。

ぴったり息の合った二人に怖いものはなかった。(1928年よりボールは真っ直ぐ、距離も出たし
バンカーショットは見違えるようだ)とダニエルスが驚いた様に、サラゼンの進撃は初日から始まり
4アンダー70でトップだった。翌日にはコースレコードタイも記録 でもこの試合の圧巻は
最終ラウンド、8番ホールだった。ダニエルスが笑いながら(もう一度やろうか?)聞いた私は
リッジのバンカーを越え打っていくブラインドの2打には大きなリスクが潜んでいるのを知っていたので
慎重にクラブを選択していた。風を読むとダニエルスはスプーンを引き出した。私はブラッシーを
考えていたが、黙ってダニエルスに応じる。コンパクトに打った球はリッジの空間を飛び越すのを
見た時安堵の空気を吸い込んだ。ダニエルスが(サー この試合で最高の球だ)
リッジを上るとボールがピンそば3メートルにあった。息を整え記憶に残るイーグルパットを
決めた。この8番では午前中のラウンドにもイーグルを決めていたから、サラゼンはオープン最終日の
午前と午後同じホールでイーグルをやってのけたのだ。

最後の9ホールを残してサラゼンはこの試合ではじめてのピンチを迎えていた。
10番に続き、15、16番で連続ボギー。サラゼンはこの試合で初めて弱気になったが
ダニエルスの知恵がサラゼンに勇気を与えた(貴方はもうチャンピオンなんだ。 最後の2ホールは
誇り高いプレーをしよう。サー)(この場に一番ふさわしい言葉だった。襟を正すと、17番をパー
オープン最終ホールパー5をブラッシーでグリーンに乗せるとバーディーで締めくくった。)
サラゼンのオープン初優勝は初日からトップを走る完全優勝だった。 しかも1927年に
ボビー・ジョーンズがセント・アンドリュースで記録した285を破る283で新記録を樹立したのだ。
(ダニエルスとの別れでは涙を隠せなかった)サラゼンは多くの謝礼金と自分が好んで着た
ポロのコートを与えた。しかし来年もセントアンドリュースで会おうとの約束は守れなかった。
試合の後、数ヵ月後イギリスの友人から手紙が届く。ダニエルスは君からもらったポロを
毎日着ていた。パブに行っても決して脱がず君達がいかにオープンを闘ったかを、語り続けた。
でも残念だがスキップ・ダニエルスは短い闘病の後、逝ってしまった。(ダニエルスが亡くなったと
聞いた時、私は誰よりも深い悲しみを味わっていた。)とサラゼンは書いている。

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1923年 全米プロの決勝戦で二人の戦いは予想通り熾烈だった。
後半の6番で諍いが起こる。サラゼンの2打は窪みの中の枯葉の上だった
オフィシャルの許可を得てボールの周りの葉を取り除いて構えると、
ヘーゲンが来て叫んだ(ヘイ キッド ハザード内で葉っぱを動かしたり、
クラブをグラウンド出来ない事くらい知っているはずだ。)
オフィシャルが説明して終わったが、集中力は乱れショットをミス 
そのホールは負けた。7番ホールに向かう途中でサラゼンはヘーゲンに強く言った
(このホールがとれて良かったですね。でも今晩貴方の自慢話なんて絶対に聞きたくない)
サラゼンの毅然とした言葉にヘーゲンは何も言い返せなかった。
若いサラゼンはいつの間にか舌戦でも強くなっていた。

サラゼンが2打差のリードで迎えた35ホール パー5。ヘーゲンの第2打は鋭くフック
してOB。(これで勝てると思った)とサラゼン(しかしヘーゲンの第4打は低く唸りをあげて
私の横を通り抜けるとピンから7メートルに着地、パーパットは真ん中に入った。)
怪物ヘーゲンは250ヤードを2打で終えたのだ。
度肝を抜かれたサラゼンはこのホール、ショックを受けボギー。(勝つはずのホールを
ヘーゲンにとられた。これこそ彼がマッチプレイの鬼と呼ばれるゆえんだ。)とサラゼンは
改めて思った。 そして最終36ホール目、ヘーゲンはピンから5メートル、サラゼンは
エプロンから2メートルに寄せる。(ヘーゲンのパットは全くの方向が外れで、私はまた
勝てると思った。)ところがヘーゲンのボールはサラゼンのボールの前に止まって
スタイミー。当時のルールはボールをマークさせなかったから、サラゼンはカップに向かって
パットすることができなかった。(ヘーゲンがまた魔術を使った。私は再びボギーになり
試合は土壇場でオール・スクエアになった)サラゼンはわざとスタイミーにしたなと
詰め寄ったが、ヘーゲンはニヤリとしただけで言葉を発しなかった。
サドンデス・プレーオフ、38ホール目、ヘーゲンは左ドッグレッグに沿って完璧な
ティーショット好位置につけた。焦ったサラゼンはティーショットをフックさせ、ボールは
林を越えるとガシャッと嫌な音を立てた。オービーを覚悟したサラゼンがヘーゲンを見ると
チャンス到来とばかりに、ニックネーム サー・ウォルターの由来となった顎を心持ちあげ
胸を張った貫禄の姿勢で悠々とフェアウエーを歩いて行った。

サラゼンのボールは深いラフに沈んでいたが、林の間には十分な空間があった。
彼は二ブリック(7番アイアン)を振りぬく。ボールはデッドにピンを捕らえカップから
70センチに止まった。この逆転のショットはヘーゲンの得意技だったが、ここでは
サラゼンが決めた。(これこそウォルターをやっつける作戦だった。ショックを受けた
ウォルターは頭を振り、体が震えているのが分かった。)ヘーゲンのピッチショットは
グリーン脇のバンカーに、バンカーショットがカップをなめてエッジに止まった時
サラゼンは全米プロ チャンピオンの座を守っていた。
(とうとうマッチプレーでヘーゲンを破って真のチャンピオンになった)と感慨に浸っていた。
試合後のロッカールームでヘーゲンは(運のいいショットを随分見てきたが、お前ほどの
奴はいない。38ホール目の第1打は絶対にオービーだ。ここにはイタリア人が腐るほど
住んでいるから、その一人がボールをコースに投げ込んだに違いない。)とサラゼンに
文句をつけた。サラゼンは黙ってロッカールームを出た。これほど落ち込んだヘーゲンを
見るに忍びなかったからだ。  サラゼンとヘーゲンはライバルだったが、親友でもあった。
サラゼンはプロの地位と賞金を高めるために、一人で戦ったヘーゲンを尊敬し、後進の
プロ達にいつも言っていた。(君達が賞金を手にした時は、必ずヘーゲンさんに感謝を
忘れないように)。ヘーゲンもまた自分そっくりの生い立ちと、明るいが激しい気性の
サラゼンに目をかけ、負けた時には怒りまくったが、試合が終わると弟のように可愛がった。

翌1923年ニューヨークのベルハム・カントリークラブで開催された 全米プロ選手権は
試合前から熱気にあふれ、同大会4連勝を含むヘーゲンと前年の全米オープン、全米プロ
二冠王、サラゼンが真のチャンピオンの座をかけて対決した。
しかし同年のサラゼンはスランプで全英では予選落ち、だらしのない全米チャンピオンと
言われ、全米オープンではボビージョーンズに14打差もつけられて敗れていた。
サラゼンは不調だったが、マッチプレー4戦目で勝利、調子を上げて勝ち進んできた。
彼はファイナルの相手がヘーゲンと知ると、前年のブロンド事件を思い出し
気を引き締めた。
サラゼンは当時マッチプレーだった全米プロを制覇したが、マッチプレイに関して
驚異的な勝率のヘーゲンが出ていなかったので、(ヘーゲンに勝たなければ全米プロの
勝者ではない)と新聞に書かれた。それならヘーゲンに挑戦するとサラゼンは宣言、
THE WORLD’S GOLFCHAMPIONSHIPと銘打って一騎打ちを設定した。
全英オープンタイトル保持のヘーゲンと、全米二冠王サラゼンのチャンピオン対決に
アメリカ中が盛り上がった。
2試合、72ホールマッチ。一試合目のオークモントではヘーゲンが圧勝。
翌日のニューヨークは大雨で、ウエストチェスターカントリークラブにいるサラゼン宛に
小包が届きカードに(私はクラブでお会いしたブロンドといえば思い出してくれる?
今日はあなたの試合を見に来ました。でも私を探さないで、闘いに集中してください
これは幸運のネクタイですから試合でつけてください。)と書かれていた。
そのネクタイは雨にぬれて白いシャツにオレンジ色のシミをつけたが、サラゼンは
*幸運のネクタイ*をずっとしたままでいた。ヘーゲンがニタッと笑いサラゼンに言った
(ヘイ キッド しゃれたネクタイをしているな?誰にもらった? なに友達から・・・・・
クラブのブロンドからの贈り物じゃないのか?)私はウオルターの悪名高い悪戯に
早く気がつくべきだった。午前中はギャラリーの中のブロンド探しに夢中で、
試合に集中していなかった。まんまとヘーゲンのトリックにはまっていたのだ。
それでも午前の18ホールでサラゼンは2アップ。最終ラウンドは一進一退だったが
(ブロンドのお返しに最後の7ホールでイーグル、バーディーを二つとって)
決着をつけた。祝勝の夕食会をキャンセルしたサラゼンは、夜明けに盲腸で入院。
彼はブロンドと体調不良の二つのハンディを背負って闘い、そして勝った。
だが THE WORLD’S GOLF CHAMPIONSHIP 対戦は1勝1敗で決着はつかなかった

(続く)

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