まじめに考えるヒント 身近な哲学入門

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理性の自律と決定論において、武田一博氏は次のように締め括っている。
 
今日に至るまで哲学は(1部を例外として)決定論や心の唯物論的理解を、自由意志と和解・調停できない議論として、厳しく退けてきた。その結果が、存在論的二元論に落ち込むことでしかなかった。しかし二元論は結局、意志と行為との関係を説明できない。非物質的存在(意志)が物質的存在(身体)に作用することは、原理的に不可能だからだ。したがって、我々は精神的なものをもはや単に観念的存在として見るのではなく、身体と結びついた脳と言う物質系の産物として見なければならない。今日の発達した脳科学は、そのことを日増しに詳細に解明しつつある。実際我々の意識は(本文で触れたように)脳で生じている過程(それもごく1部)を遅れて自覚的に気づいているに過ぎない。人間の脳の主体は意識や意志ではなく、自己の脳なのである。
 
だがこのように人間を理解するからといって、、それは人間の自由を否定するものでもなく、世界をすべてあらかじめ出来上がったものとみなすことでもない。そうではなく、かえって自由の意義を正しく認識することを可能にするものである。というのもわれわれが自己を意識し自己の行為に関し自己が主体であり、自己に責任があるという自覚は紛れもない事実であるが、その事実は主観的にではなく、客観的に、すなわち進化論的社会的に意味のあることだからである。つまり、動物と違って人間にはより良い方向に行為を選択することによって絵、生存確率を個人的社会的に高めることに成功し得るからである。ただ、それにはいつも成功するとは限らず、また恣意的に「なんでもあり(anything goes)と言うわけにはいかないのであるが。しかし、それだからこそいっそう科学的合理的に理性の客観的判断が重要となるのである。そうした理性に我々の本能的欲求や傾向性をうまく制御させるなら、人間の自由も、それらを制度的に保証する社会も、より良いものにすることが可能となるだろう。
 
 
「我々は精神的なものをもはや単に観念的存在として見るのではなく、身体と結びついた脳と言う物質系の産物として見なければならない」というのは、その通りである。
 
「我々の意識は脳で生じている過程(それもごく1部)を遅れて自覚的に気づいているに過ぎない。人間の脳の主体は意識や意志ではなく、自己の脳なのである。」というのは、リベットの実験を踏まえての主張と思われるが、主体は脳ではなく、意識や意志でなければ自由意志と調和したことにならないのではないだろうか。
 
精神的なものは単なる観念的存在ではないから、相互作用が可能なはずである。武田氏の主張は、精神的なものから物質である脳への反作用を認めていない。上部構造が下部構造に制約されながらも、下部構造に働きかけることがあるように、精神が脳に制約されながらも、物質である脳及び肉体に働きかけることを認めてこそ、両者を正しくとらえることになるのではないのだろうか。精神と物質(脳)の関係を正しくとらえていれば、「主体が脳である」という主張は出てこないのではないだろうか。

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