地獄に落ちた勇者ども
左翼八十八か所伝説の旅シリーズ 第8回 王子 三派全学連、パンドラおばさん、工場労働者

1967年から68年(昭和42年〜43年)の新左翼各派は、佐藤総理訪米阻止、訪南ベトナム阻止、原子力空母寄港阻止、成田空港建設阻止、米軍ジェット燃料タンク車立川搬入阻止、日大闘争、東大闘争・・・と闘ってきましたが、部分的な戦闘には一部勝利したものの、すべてのターゲットの阻止に失敗し、日大や東大の体質改善もうまくいかずケンカに勝って、勝負に負けたと言えたかもしれません。

そんな中で、唯一成功したのが王子野戦病院開設阻止闘争でした。ベトナム戦争のピークが過ぎ、負傷者が減ったという事情はあったものの、反対運動が始まった翌年の1969年12月に病院は閉鎖され、71年に敷地も返還されて、現在は北区中央公園になっています。沖縄返還フィーバー(72年=昭和47年)の影に隠れ注目されませんでしたが、王子でも、このとき「戦後」が終わりました。左翼史の中でも、運動が実を結んだ珍しい例だったと言えるでしょう。

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当時の面影を残す北区中央公園文化センター

事の発端は、佐世保から原子力空母エンタープライズが出港した2日後にあたる1968年1月24日、使用されず空き家になっていた王子の米軍キャンプ内に野戦病院を開設(埼玉県入間市から米陸軍第7野戦病院の一部を移転)する計画が北区の区議会で発覚したことでした。まさに、ドンピシャのタイミングといってもよく、ジッパチ(羽田闘争1967年10月)以来、押せ押せだった新左翼各派は、これに飛びつき反対運動が始まりました。

1968年の新左翼陣営は、
・日大や東大などの大学紛争
羽田闘争からの流れを受けるベトナム反戦運動
大きな2つの流れがあり、ところどころ合流しながら闘っていました。

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世界中で反戦運動が盛り上がる
フォークソングと反戦は、「抱き合わせ販売」だった

2月20日、北区労連が主催した反対集会に700名の学生が加わり、一部が投石などを行って36名が公務執行妨害の現行犯で逮捕されました。

3月8日、学生約200人が王子キャンプ東側のコンクリート壁を乗り越えてキャンプ内に突入し、別の一団約400名が起こした騒ぎで都電が運行を休止し、機動隊に追われて劣勢になった学生たちが群衆に逃げ込んだため混乱が拡大しました。佐世保でもそうでしたが、とばっちりを受けた市民や報道関係者、野次馬は、ずいぶんいたのではないでしょうか。

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3月8日の王子戦線
1.本隊が王子本町交差点へ進出し、機動隊と激突
2.そのスキに別働隊が東十条駅から南下して背後に回り込み、基地内に侵入
なかなかの頭脳戦です

3月18日、米軍は、野戦病院を突然開院し、これに怒った反対派学生らが投石などを行ったため、157人が逮捕されました。
3月28日、最大の衝突が起こり、三派全学連の軍勢が再びキャンプ内に突入し、159名が逮捕されました。
3月31日には、市内の公園と神社で反対集会が開かれ、主婦や子供、商店会のメンバーらが参加(といっても、300〜500名程度)しています。地味な集まりでしたが、この日のスタイルは、運動の行方を大きく左右したと言えるでしょう。

4月1日、反対派学生約900名が暴徒化し、パトカーに放火したり、交番を襲撃するなどしたため179名が逮捕され、警官、学生など約250名が負傷しました。このとき、巻き添えになった一般人が死亡する事故も起こっています。

4月15日、都民総決起集会が開かれ900名がデモを行いましたが、これに新左翼各派約700名が合流し、投石などを行ったため38名が逮捕され、49名が負傷しました。病院開設に反対しているのに、病院を必要とする怪我人を大量に生み出したのは本末転倒でしたが(一説には延べ1500人負傷)、そういう話を気にしているようでは、一人前の革命家とはいえません(ホントか?)。

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セクトの旗が並び、党派色丸出しだったか、なぜか運動は成功

新左翼の絡んだ運動が、どれもうまくいかなかった原因は多々ありますが、闘争の直接目標の先にあったゴールライン=共産主義革命がどうしてもチラついてしまい、暴力を多用する戦術を採ってしまったことが逆作用していました。

レーニンの著書や毛沢東関連の本(そもそも本人が書いたかどうかも疑わしい)に影響を受けていた新左翼の人たちには、「革命を目指す以上、暴力だ」という基本認識がありました。日本共産党は、いち早く暴力革命を否定し、生き残りには成功しましたが、未だに共産革命は達成されていませんから、あのときの選択が正しかったかどうかは、左翼史的には、評価が分かれるところでしょう。

王子の闘争でも、暴力は肯定され、佐世保のときと同様、一見すれば市民と一体となっての運動が実現したようにも見えましたが、違っていたのは、一般群衆が学生に混じって暴れだしたことと、婦人や子供などが反対運動に参加していたことでした。

50年以上生きていれば、誰しも、それなりの経験や判断基準というものがあると思います。筆者の場合は、眉唾で、かなりインチキ臭いジンクスに頼ったものもあれば、ある程度の確信を持って語れる話もあり、後者で代表的なものが、女が家の外でエプロンを着だしたら、何か嫌な予感がする・・・ことでしょう

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パンドラおばさんの箱を開けてしまった左翼陣営
取り返しのつかないことを・・・

ちょうど時期を同じくして、「あかつき戦闘隊事件(68年3月)というのがありました。
「0戦はやと」(63年〜64年、少年キング)や、「紫電改のタカ」(63年〜65年、少年マガジン)など、1960年代の漫画ブームでは、戦記物は、まだ重要なコンテンツで、週刊少年サンデーが鳴り物入りでスタートさせたのが、「あかつき戦闘隊」でした(68年〜69年)。

連載開始の景気づけとして3月24日号(発売は2週間前)で、読者懸賞を行い、「帝国海軍兵学校制服、ドイツ軍戦車兵ユニフォーム、鉄十字賞が当たるー!」と大々的に煽ったことから騒ぎとなり、このとき初登場したのが、「日本子供を守る会」や、「新日本婦人の会」といった、いかにもなネーミングの団体でした。小学館は、ちゃんとバランスとって、米軍グッズやソ連製ピストルのレプリカなども、下位賞品に含めていましたが(そういう問題じゃない?)、「反戦」で凝り固まった人たちには通用しませんでした。ここで、サンデーの編集長が偉かったのは、平謝りするのではなく、女たちの要求=懸賞中止を突っぱねたことです(素晴らしい!)。https://blogs.yahoo.co.jp/phuchan_n/18528679.html

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帝国陸海軍は偉かった・・・と、この時代までは描かれていたのに、
その後、「犯罪集団」に転落した後、現在では、再評価されている
また、何年かしたら変わるのか?

そして、筆者には、ある疑惑が頭を過ぎります。
3月31日に王子の公園や神社で行われたという小規模の集会に参加していた女性たちは、もしかしたら、あかつき戦闘隊と闘っていたのと、同じ人達なのではないでしょうか・・・(二正面作戦?)。

王子の運動が実を結んだのは、一般の市民が参加したからだという人がいます。確かに、そういう要素はあったかもしれませんが、それだけでは大したことにはならなかったでしょう。小田実さん、開高健さんらに率いられたべ兵連は、「ベトナム侵略戦争をやめろ」と非暴力に徹し、平和的に叫んでいたものの、ほとんど効果はありませんでした。

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反戦を訴える以上、平和的なデモをやるのは当然だが、「つまらなかった」のか、人気は今イチだったようだ

やはり、エプロン姿のおばさんたちが、そこにいたために、何やら、ただならぬ妖気(?)が漂っていたからだと筆者はみています。だからこそ、社会党や共産党、労働組合などの左翼陣営だけでなく、保守系区議たちまでもが、獲物に群がるサメのように集まってきたのでしょう。

若者(=男)が力任せに突っ走る姿は、それなりに見応えがあり、やってる側も自己満足に浸れる一方で、<力には、力を>というやり方では、警察権&軍事力を握る権力側には、とても太刀打ちできません。しかし、女を前面に出せば、法治国家日本では、とりあえずぶん殴り」は回避できますから、弾よけにはなるはずです(最近のヘイトスピーチも、この手を使ってますね)。

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こういう場面を子供に見せるくらいなら、ナチの制服の方がまだマシ?

ところが蓋を開けてみれば、「弾よけ」どころか、本隊である男たちの肉弾攻撃より、はるかに効果的でした。昭和40年代の活動家たちは、さんざん体を張って、痛い思い、悔しい思い、仲間を失う喪失感を、たっぷりと舐め尽くしてきた割には、勝ち取れたものはほとんどなく、個人的な欲望を一切排して、世のため、人のために闘っているはずなのに、世間やマスコミからはクソミソに言われ、犯罪者の汚名まで着せられてしまうのです。

消耗しきった革命家たちの中には、左翼運動に限界を感じ、そろそろ潮時か・・・と、弱気になる人も多かったようで、そんな人にとって、王子でのおばさん戦術は、これだー!と閃くものを感じさせたものと思われます。

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左翼活動家が消耗して転向・・・といえば、だいたい、この人が原因になっていた
赤軍派では、「吉本だけは、読んだらアカン」と禁止令を出した?

そして多くの人が武装闘争から離脱し、もっと少ないリスクで、大きなリターンを得ようという、左翼版「楽な金儲け」路線に入っていったのではないでしょうか。これなら、「殴られない」「逮捕されない」「(他派から)殺されない」で、日常生活も普通にできて、しかも、部分的に要求は実現しますから、いいことづくめです。このとき「転向」し、市民運動なんかに衣替えしていった人たちは、その後も武闘でしぶとく頑張った人たちを、「まだ、あんなことやってるのかよ・・・」という目で見ていたと思いますし、逆にセクトで闘い続けた活動家は、苦々しい思いで彼らの言動を見つめていたことでしょう。

事件とまったく関連はありませんが、ジッパチの6日前である1967年10月2日から、王子闘争が燃え上がった翌年の3月25日まで(新左翼・激動の7ヶ月と呼ばれる期間と重なります)、フジテレビ系で「怪獣王子」という特撮モノが放映されました。米国進出をも狙った大型企画でしたが、まったく振るわず、NET(現テレ朝)系の「ジャイアントロボ」に視聴率で圧倒され、あえなく2クールで打ち切りとなっています。

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「ネッシー」を無断使用し、プロントザウルスに命名
筆者は、こちらを見ていたが・・・

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なんとなくパンドラおばさんとキャラが被るジャイアントロボに完敗
左翼運動も、恐竜(=男が大暴れ)が廃れ、おばさんの時代に突入した

王子闘争で、もう一つ注目すべきなのは、一般の人たちの参加です。
一応、地元住民ということになっていましたが、商売人や、会社勤めのサラリーマン、ふつうの主婦(普通じゃない主婦が他区から遠征してきた?)などは、あまり参加していなかったのではないでしょうか。

北区の王子や十条といえば、その昔は朝高と帝京が毎日決闘していた(?)ので有名で、杉並や中野で暮らす子供の目には、普通のサラリーマンや主婦がほとんど住んでいないエリアというイメージがありました(凄い偏見だ)。ここで言われるところの「一般の人」とは、旧王子製紙の下請け工場や、荒川の対岸にあるキューポラの街・川口などで働く末端の工員や、日雇労働者などを指していた可能性があります。

そして、この頃から新左翼では、革命の主体となるべきプロレタリアート(一般の労働者)の取り込みは諦めて、日本社会の中で差別を受ける人たち・・・部落民、朝鮮人、沖縄人、アイヌ人、労務者などを焚き付けて、暴動を起こそうという路線に進んでいくわけです。

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王子では、一年365日、こういう場面が繰り返された?

被差別民や、おばさん戦術に頼った時点で、革命の前提条件が整っていない何よりの証拠でしたが、各自、各グループが好き勝手に「国家」や「国家経営」という概念を無視した主張を展開した結果、構成員がいるのかいないのかわからないような弱小グループが乱立し、彼らが事件を乱発したため、左翼陣営は合法組織も含めて、国民からの期待を、どんどん失っていきました。

闘争目的こそ達せられたものの、王子闘争は、革命運動の限界を、はっきりと目に見えるかたちで現した出来事であり、共産主義への幻想は、各地の反対運動の盛り上がりや一時的な興奮の影で、静かに崩れていったのです。



People talking without speaking
みんな、しゃべる気もなく話している
People hearing without listening
聞く気もないのに耳に入れている
People writing songs that voices never share
誰にも詠まれることのない詩を書き続けている
And no one dare disturb the sound of silence
誰もが静寂を受け入れている

But my wards like silent raindrops fell
僕の言葉は静かに雨粒のように堕ちていく・・・
And echoed in the wells of silence
深い井戸の中で静寂がこだまする



左翼に「冬」が忍び寄っていました・・・


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1968年8月26日、日本で再発売
オリコンチャート1位
「サウンド・オブ・サイレンス」より

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昨年12月、入管法が改正されました。
審議時間は、衆院17時間、参院20時間45分で、中身も殆ど決まっておらず、日本の進路を変える重要法案を、こんなに軽く扱って本当にいいんだろうかと大騒ぎした割には、可決後は、ほとんど騒がれませんから、みなさん他人事だと思っているのでしょう。

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衆院通過
各メンバーのアクションと表情が素晴らしい
スロー再生すれば、年配の方は、シャボン玉ホリデーを思い出すはず

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いたたたた・・・、重い、重い、重い・・・、苦しいって・・・
で、参院可決

今回の法案成立は、
・目先の労働力不足の解消
・少子高齢化による長期的な労働力不足の改善
を目的としているようで、すべての業種が対象となっているわけではなく、飲食や介護、建設など、肉体的にキツい、「ブラック」なイメージのある仕事を外国人にやってもらおうということのようです。

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いかにも官僚が作りそうな、ほのぼのとした説明書

人手不足と言いながら、日本には、労働者が余っているといいます。
完全失業者162万人、若年無業者71万人という数字は、これだけ見れば、外国人に頼らずとも、十分やっていけそうな数字ですが、この中には、仕事に就こうと思えばできるけど、様々な理由によって、仕事に就かない人が、ずいぶん含まれているようにも思えます。

その昔、テレビCMに、「ヤリガイくん」というのが出てきました。自分にとって、やり甲斐のある仕事は何だろう、というのが当時の若者たちの共通の悩みで、筆者も例外ではありませんでした。

今なら、どんな職業でも、仕事を任され、責任ある立場で結果を出せれば、それが=やり甲斐があるということだ、と理解していますが、20代の頃は、そうはいきませんでした。職種によって、やる気に差が出ると、信じていたのです。今の若者たちも、あるのか、ないのか、わからない、モヤモヤとした何かを探し求めているのでしょうか。

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ヤリガイくんのいる職場は、やり甲斐がある?
パソコンではなく、タイプを打つヤリガイくんに注目

そういった状況は、筆者が暮らすタイでも同じで、まだ浸透していない介護ビジネスを除く、飲食、建設、農業、漁業などは、ミヤンマー人労働者が頼りとなっており、昨年、軍人首相がミヤンマー人労働者の規制を言い出したときは、国中で大混乱になりました。

タイの若者たちの間では、
・できるだけ給料は多く、
・可能な限り仕事は楽で、
・見た目カッコいい
という職種が好まれており(当たり前?)、これは、世界各国共通しているのかもしれません。

大規模デモが収まらないフランスのマクロン大統領が9月
「どこでも働き口はある、この通りにも、カフェやレストランは、たくさんある、私なら歩くだけで、キミに仕事を見つけることができる」と発言し、有権者の怒りを買ったと伝えられていますが、飲食業を営んでいる人なら、日本でも、タイでも、マクロンさんと同じような思いでいるのではないでしょうか。

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ハンサムなフランスのマクロン大統領
ついつい本音を漏らして、火だるまに

仕事は、いくらでもあり、データ上は、労働者は、余っているはずなのに、どういうわけだか、レストラン業など不人気の業種には、一向に人が集まりません。よほど条件がキツいのか、とも思いましたが、先月帰国した際、駅のホームで拾ってきた求人誌(昔は有料でしたが、今はタダでくれるようで、その辺に落ちてます)を見ると、こうありました。

業種:居酒屋
年収例:店長(子1人) 月給37万円+手当・賞与 年収560万
週休2日制

筆者が日本にいたときから、この手の求人広告は、水増し条件が普通でしたから、額面どおりには受け取れませんが、7掛けとしても、タイで働く筆者の目からは、かなり魅力的な条件に見えてしまいます。

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複数誌が駅構内の目立たない場所に無造作に置かれている

人が集まらないなら、もっと給与を上げればいいという話もあります。しかし、経営者の立場でいえば、どれだけ働けるか、さっぱり分からない新人に高給を与えれば、これまで働いてくれた古い社員の給与は、それよりさらに増やさないことには、申し訳が立ちません。そして、わずかな初任給の上昇が、人件費全体を、大幅に押し上げることになり、その上昇分は簡単には、販売価格に転嫁できませんから、利益の圧縮を生むことになるはずです。

しかも、新入社員の給与を、2〜3割上げた程度では、人手不足は解消されないでしょう(倍額?)。これまでオフィスワークしていた人が、「失業したんで、今度は漁業をやります」とは、絶対にならないからです。入管法の改正は、人件費を上げることなく実現できる、手っ取り早い労働力の確保という見方は、確かに正しいのですが、人件費を上げようが、上げまいが、人材難が解消しない業種は、間違いなく存在していると思います。

人口構造の変化によって、総人口は、あまり変わっていない一方で、生産年齢人口(15歳〜64歳)が占める比率が下がっている(=じいさんは死なず、赤ちゃんは生まれず)ため、失業率は、1980年代以来の2%台有効求人倍率1.6求職者1名に対し、求人が1.6)も、バブル以来だといいます。

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数字上は、日本が右肩上がりにあった高度成長期以来の高水準だ

普通なら、人手不足によって低下する本来の供給能力(潜在GDP)が、総需要(名目GDP=こちらは今のところ変化なし)を下回ることで、インフレギャップが生まれ、実質賃金が上昇し、それによって、さらに需要が増え、デフレ脱却→インフレターゲット2%達成どころか、空前の好景気が訪れて、めでたしめでたし・・・というのが、リフレ派経済学者&安倍・黒田日銀タッグのシナリオでした。

理論上は、確かにそうで、正社員の有効求人倍率も、史上初めて(!)、1.0に近づいているといいますから、非正規雇用によるワーキングプアの問題も、これで一気に解決する見通しが立ちます。

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インフレか、デフレかは、総需要と供給能力のバランスで決まり、
(総需要)ー(本来の供給能力)が、プラスになればインフレになるはずなのだが・・・

ところが、有効求人倍率がどんどん上がっている一方で、大卒の求人倍率は、それほど上がっていません。2018年は、1.88(前年の1.78から、わずか0.10ポイント増)で、これは、バブル崩壊時(1991年)の2.86はもちろん、リーマンショック前(2008年)の2.14にも及びません

さらに、従業員規模別に分けて見れば、日本が直面している問題がくっきりと浮かび上がってきます。
・300人未満の中小企業では、9.91で、前年から、3.46ポイントの大幅増となっている反面、
・5000人以上の大企業では、0.37で、前年の0.39から0.02ポイント減っています。そして、両者の差は、拡大傾向にあるのが、はっきりと見て取れます。

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大企業の求人倍率は横ばい、中小企業では激変しているのが、はっきりと認められる
求人倍率が上がった、下がったは、要するに中小企業の雇用情勢と連動しているのだ

つまり、有効求人倍率が上昇しているといっても、それは、中小企業の人手不足によって、嵩上げされているだけで、大企業の管理職、役員、経営者の候補となるような人材は、それほど必要とされているわけではありません。

そして、中小企業だけでなく、誰も見向きもしない業種や職種、あるいは、機械や管理者の指示通りに動いてくれる末端労働者の求人倍率も、急上昇しているはずで、もともと不人気だった仕事は、ますます不人気となって、どうしようもなくなりつつあるのではないでしょうか。

帰国の度に感じますが、ここ数年の、日本の低価格、高品質は驚異的だと思います。
こんなに美味しいものが、たったの100円でいいんだろうか、ああ日本人に生まれてよかった・・・そう感じる一方で、その裏には、なにか相当な無理があるような気もしてくるわけです。アベノミクスが始まって6年経過しましたが、生産年齢人口がどんどん減少しているのに、まったくインフレになっていないのは、何が原因なのでしょうか。

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買える限りの国債や上場投資信託を買い続けても、一向に市場に金は回らず、日銀の黒田総裁もお手上げだ

大企業の経営者たちが人に投資せず、ITテクノロジーを重視してコストダウンに励む中で、これまで人間がやってきた仕事を機械がやってしまうため、物価も賃金も上昇しないと推定されますが、欧米は、それでも2%程度のインフレ下にあります。なぜ日本だけそうならないのでしょうか? やはり、じいさんばっかりで金を使わないからでしょうか?

長い海外暮らしで浦島太郎状態の筆者には、未だに、いい物は高いのが当たり前という意識があります。物価が安く、賃金は低く、品質もいいというのは、常識的に考えれば異常であり、それを実現するために社員や下請け、生産者に、かなり大きな負担をかけている・・・つまり、供給能力が低下していないインフレギャップが生まれていない・・・数の不足を兵の気合で補うという帝国陸海軍以来の悪しき伝統が今でも根強く残っているのでは・・・そういった疑いを濃厚に感じます。

経済学者や評論家は、このことを、ほとんど無視しているようで、移民を受け入れれば、品質が低下するから問題だ等と指摘する人もいますが、筆者に言わせれば、安かろう、悪かろう、いい物は高いという感覚を日本人が失ってしまったことこそが、デフレ脱却を妨げている最大要因であり、それが雇用問題にも悪影響を与えていると思えるわけです。

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死ぬほど美味い(?)「ふんわり生どら焼きは」、大台の200円超えだが、はたして、この流れが続くのか・・・

来年の統一地方選挙や参院選を控え、人手不足に悩む中小企業対策をバーンと、ぶっ放して大勝利へ・・・、そんな皮算用を安倍さんや自民党首脳が考えているのは間違いありませんが、上記のような状況を改善できる目処が、まるで立たないからこそ、外国人に頼るしかないという判断なのでしょう。

ですから、日本が外国人労働者を受け入れる事に対して、筆者は反対しません。
問題は、労働環境です。タイでも、ミヤンマー人労働者は、劣悪な職場環境と待遇に苦しめられている場合があり、警察などの弾圧も熾烈ですから、あれと同じ状況が日本で生まれるようなら、後々まで禍根を残すことになるでしょう。

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タイ警察に摘発されるミヤンマー人労働者
タイ人には優しい警察も、相手がミヤンマー人だと遠慮なしだ

入管法改正の審議の中で、法務省が公表せず、野党議員が手書きで写してきた調査資料によると、2015年からの3年間で、69名外国人技能実習生が死亡しており、内訳は、事件、事故、心臓疾患、凍死、溺死、自殺だそうです。実習生と言うからには、20代の人がほとんどと思われ、この年令では、よっぽどのことがない限り死んだりしません。

しかも、凍死?溺死?
仕事中、ついうっかり日本アルプスに迷い込んだとか、川向の社員寮まで、泳いで渡ろうとして溺れたとかが原因として考えられますが(ホントか?)、たった3年で、なんと、7人も溺れているのは、本当に偶然なんでしょうか・・・(言うこと聞かないので、後ろから首根っこ抑えて、ブクブクぶくぶく・・・まっ、まさか・・・?)。

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遺体発見現場は、日本アルプスか、それとも、ヒマラヤか・・・
外国人労働者の職場環境は問題が多く、一時期は、「奴隷労働」とまで言われていた

最低賃金以下で働かされていた例も、公表された22件に対し、野党側の調査では、1927人もいます。重要法案を審議するための資料なのに、省庁が都合のいい部分だけ切り取って、勝手にデータを改竄していては、森友問題と同じで、これでは、安倍さんの政策を支持する人たちからも、最後は匙を投げられてしまうのではないでしょうか。

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失踪者の7割が最低賃金以下の低賃金を理由に挙げているという

とは言いながら、外国人と一緒に働くという経験は、そこにいる人たちの人生を豊かにするであろうことは間違いありません。一昔前までのタイの労働者は、ブラブラ、ダラダラ、やたらと長い拘束時間の中で、とりあえず、そこにいます的な雰囲気で働いていましたが、そういった状況から当店が、なんとか一歩踏み出せたのは、ミヤンマー人たちのお陰でした。

故郷での結婚を理由に昨年のお正月に退職した青年には、12年にも渡って働いてもらい、筆者の片腕ともいうべき存在でしたから、タイ人に適用される法定額以上の退職金を手渡し、送別会を開いて、みんなで盛大に送り出しました。もちろん人間ですから、ズルいところや欠点もありましたが、そんなものは、彼の功績の前では、取るに足らないものといえます。

彼の他にも、ミヤンマー人労働者たちは、筆者に、諦めず努力することの大切さ、仕事がうまく進んでいるときの充実感、そして何より、働くことの楽しさを与えてくれたように思います。当店が、社内共産主義に移行した(はあ?)最大要因は、彼らミヤンマー人にあり、筆者は、彼らに大変な恩義を感じるとともに、彼らと一緒に働くことが、いつしか生き甲斐になっていました。ですから、これから外国人労働者を受け入れようと考えている経営者の方がいるのなら、ミヤンマー人は、お薦めします。きっと彼らは、みなさんが忘れかけていた大切なものを、気づかせてくれることでしょう。

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実習制度は、タイ、中国、ベトナム、インドネシア、フィリピン、カンボジア、ミヤンマーと、もう一カ国(未定)が対象です
管理職、経営者になる人も出てくるのでは

筆者がプーケットに来て、一番変わったと思うのは、職業に対しての偏見がなくなったことです(因みに、当地で飲食業をやれば、人種への偏見もなくなります)。金を稼がないことには生きていけない、という感覚は、海外暮らしをしている人なら似たり寄ったりだと思われますが、同じことが海外から日本を目指す人たちにもいえるのではないでしょうか。

プーケットでタイ人の男性と結婚し暮らしていた日本人女性が家族で帰国を決意した場合、日本人である奥さんより、タイ人の旦那さんの方が早く仕事が見つかり、しかもギャラもいいといいます。給与額の大小を優先し、その他の条件には目をつぶっているからでしょう。プーケットにいた頃は、なんとなくブラブラしているように見えたタイ人男性が俄然やる気を出して(ヤリガイくんに取り憑かれた?)、「大丈夫、ボクが働くから、シンパイしないで」なんて言っているということです(そのやる気を、どうしてプーケットにいるとき出さなかったんだ、◯◯◯さん!)。

同じ給料でも、「たった一万円か・・・」と思われるのと、「一万円もくれるのか・・・」とでは、モチベーションが違います。後者の意識でバリバリ働いてくれる人には、国籍に関係なく、もっと給料を上げてあげたいと考えるのが真っ当な経営者ですし、たった一人の外国人社長に何十億も、掠め取られているのなら、日本人も含めて、末端の労働者にも公平に分配するというのが、昭和の社会主義的日本型資本主義でした。

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2億じゃないです、20億でーす、200億でも、カマイマセーン!
こういうのは、昭和にはいなかった
義理と人情の柵でコストカットができず、悩み抜いた昔の経営者たちのギャラは、3000万円程度だったのだ
しかも、物価は今より高かった

<変わらずに生きるためには、変わらねばならない>
今こそ、この言葉の意味を考えるべきときなのかもしれません。

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地獄に落ちた勇者ども
左翼八十八か所伝説の旅シリーズ 第7回 神田 秋田明大他、日大全共闘

神田カルチェラタン闘争(1968年6月21日)があった頃、同じ神田で日大闘争が始まりました。闘争目的がはっきりしなかった前者に比べ、こちらには、ちゃんとした大義名分があり、大いに盛り上がって、日本の学生運動史上に残る名場面を残しています。

だいたいの経緯は以下の通りです。

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日大闘争初期の風景
党派の旗もなく、学生服を着ている人もいて、真面目な抗議集会という雰囲気です
このスタイルを、最後まで貫くべきだった

1968年、
1月、理工学部教授の裏口入学あっせん謝礼に関する脱税事件が明るみに出る。
3月、東京国税局が行っていた使途不明金に関する調査の途中で、経済学部会計課長が失踪、理工学部会計徴収主任が自殺。
5月、東京国税局は、22億円(34億説あり)の使途不明金の存在を公表。研究費、研修費の名目で教職員にヤミ給与が与えられていたことが発覚し、それに加え、教授陣や教育施設の貧弱さ、学生集会の禁止、ビラや掲示の許可制、自治会活動の右翼&体育会系学生による圧殺などに不満を持った学生たちが怒りの声を上げました。

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カルチェラタン闘争の明大を挟むように理工学部、法学部、経済学部が点在
神田川を渡って北上すると東大がある

なんせ、当時の22億円です。同年12月に起こった三億円事件では、ニュースを聞いた、ほとんどの国民は、3億という数字にピンときませんでしたから、22億というのは、いかに、とんでもない額だったのかは、想像に難くありません。

5月20日ごろから、学科やサークル単位だった学生たちの会合が、次第に学部単位の抗議集会に発展し、5月23日、神田三崎町の経済学部一号館前に集まった約2000人の学生が初めてのデモを行います。200mデモと伝えられる伝説的なデモでしたが、移動距離は、600m以上あったそうで、何が200mなのか謎が残りました。
5月25日、神田三崎町の白山通りで5000人のデモが行われています。学生たちの政治意識は高く、彼らの純粋さと情熱が輝いていた時代でもありました。

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芸能人も、スポーツ選手も来ないのに、これだけ人が集まった

5月27日、学生たちの総決起集会が開かれ、
・全理事総退陣
・経理の全面公開
・集会の自由の承認
・不当処分の白紙撤回
・検閲制度廃止
のスローガンが採択され、日大全共闘が結成されました。議長には、経済学部4年の秋田明大さんが就任しました。

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アジる秋田さん
この頃になると、学生服を着る人はおらず、全員メット着用が義務付けられた?

6月11日 学生集会に大学側が雇ったとされる右翼&体育会系学生(?)が乱入し、200名が負傷しました。大学側は、この日以外にも、謝礼金を支払って傭兵を雇い、力による制圧を繰り返しますが、そういった文化が、その後の運動部中心の体質を生み出すことになりました。大学側には、学校運営で頼りになるのは、理屈より体力という風土が培われていったものと思われます。これ以降、学生たちは、バリケード、ゲバ棒、ヘルメットで武装するようになりました。

この辺までは、学生側に理があり、彼らに大きな瑕疵はなかったと思われます。ところが・・・、
9月4日未明、流れを変える悲劇が起こりました。経済学部校舎の4階から投げ捨てられた16キロのコンクリート片の直撃を受け、機動隊員が殉職しました。警察に犠牲者が出たのは、このときが最初で、警官たちは憤慨し、「もう手加減しない」という空気が漲ったといいます。学生たちへの国民からの支持も、徐々に失われていったのではないでしょうか。

9月30日、大学側は、大衆団交に応じ、日大講堂(旧国技館)で35000人(場外2万人を含む)を集めて行われました。余談ですが、同じ年の1月に、誕生したばかりの国際プロレスが、ここで事実上の旗揚げ興行を行い、TBS系で全国生中継される中、エース候補のグレート草津がルー・テーズのバックドロップで失神KO負けする大ハプニングがありました(ブック破り?)。散々なスタートを切った国際プロレスは、13年後にあえなく消滅しています。結果論ですが、この時の草津選手の姿は、日大全共闘のその後を暗示していたように思います。

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一夜にしてスターになるはずが・・・
大どんでん返し、その1

団交には、古田会頭以下、全理事が出席し、翌日午前3時まで12時間続けたれたそうで、大学側は、とうとう学生たちの要求を受け入れ、確認書に署名しました。大歓声が沸き起こり、勝利に酔った学生たちは、紙吹雪を舞い散らせました。ところが・・・

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1万数千人に吊るし上げられた古田会頭ら理事会だったが・・・
大どんでん返し、その2

10月1日、佐藤栄作総理が、「この大衆団交は集団暴力であり、許せない」と発言し、これを受けて、大学側は確認書を白紙撤回してしまいます。そして、
10月5日、秋田名大議長など8名に、公安条例違反、公務執行妨害で逮捕状が出されました。

勝ったと思った戦いが突然、暗転した原因は、もちろん国家権力が介入してきたからですが、そういった事態を誘発する伏線はできていたと思われます。

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当時のメンバーたちの証言がまとめられた「叛逆のバリケード」

・機動隊に死者を出した
前年の羽田闘争の頃までは、警察側と学生たちとの間には、かなりの「実力差」があり、機動隊も余裕を持って、デモをさばいていたと思われますが、学生たちがゲバ棒と投石で向かってきたため、多数の負傷者を出してしまい、手加減している場合ではなくなったのでしょう。おそらく、制裁に近い取締りや、警官による暴力行為が行われていたのは間違いないものと思われます。

学生たちの投石で窮地に陥った機動隊は、それをやめさせようと、捕まえた学生を盾にして、前面に立たせました。まさしく、「人間の盾」です。それでも、殺すのは論外でした。16キロのコンクリート片を4階から落としたのが、もし本当なら、明らかな殺人行為です。警察だけでなく、新聞などの論調も、「いくらなんでも・・・」という雰囲気になってきたのは間違いないでしょう。

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本当に盾にされている・・・
痛いやら、恥ずかしいやら

・大衆団交の是非
大衆団交といえば聞こえはいいですが、佐藤総理ならずとも、あれでは吊し上げに近く、強制したのは、誰の目にも明らかでした。もっと地味なやり方をしないと、一般の人たち・・・、特に当時の大人たちの支持は得られなかったでしょう。負けた側にもメンツはあり、いかなる場合にも年長者には、それなりの敬意を払うというのが日本の文化だと思います。

政治家は、風に敏感ですから、佐藤総理の発言は、そういう空気を鋭く感じとったものだったのではないでしょうか。相手は、全員じいさんです。長時間缶詰めにしての体力勝負では、死者が出たかもしれません。実際、突き上げられた古田会頭は、2年後に肺がんで他界してますから、このときの心労は、やはり大きかったと思われます。

大勢で少数を取り囲んでは、タイマン張るのが怖かったと見られてしまいますし、こちらが少人数では分が悪いと考えたなら、助っ人に腕の立つ用心棒(弁護士)を連れていけばよかったと思います。昭和40年代は圧倒的に左翼が強かった時代ですから、大物弁護士がいくらでも助けてくれたでしょう。最高学府なんですから、言論と頭脳で勝負すべきでした。

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このメンバー+用心棒で団体交渉すべきだったのでは

・運動がセクトに乗っ取られた
写真でも解るように、初期の頃は、党派色は、ほとんど感じられず、純粋に学生たちの憤りが原動力になっていましたが、混乱に乗じて暴動を起こそうとした新左翼各派が、主導権を握ろうと、過激さを競い合ったため、死者を出すなどの不幸な事態を招いたと筆者は見ています。当時のニュース映像が残っており、おそらく、NHKのニュースセンターかと思われますが、ネトウヨから「反日」と批判される同局ですら、非常に冷ややかな論調でした。https://www.youtube.com/watch?v=aaBNI9Hs_xI&t=163s

結局の所、この闘争で、学生側の要求が認められたのか、無視されたのかは、詳しく書かれた資料が見つけられず、詳細は分かりません。しかし、最近のパワハラ問題等を見る限り、あまり変わっていないように感じますから、学生側のスローガンは、ほとんど実現しなかったのではないでしょうか。

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見るからに体育会系の田中現理事長

佐藤発言の3週間後となる10月21日の国際反戦デーから、翌1969年1月の東大安田講堂攻防戦へと続く流れの中で、「日大の体質改善」という本来の目的が、学生たちにとっては、徐々にどうでもいいことになっていった可能性があります(日大全共闘は、10.21には不参加)。粘り強く交渉すれば、勝ち取れたはずの要求は、暴力を伴う短期決着を目指したために、すべて台無しになっただけでなく、理解者・同調者からの信用を失くして離反され、自らも指名手配される身となってしまいました。

それでも、この闘争には、数々のドラマがありました。
一般的には、「東大・日大紛争」などと一括りにされ、しかも、「東大」が「日大」より、常に先に置かれていますが、実体は、「日大・東大」だったんじゃないかという説もあります。「日大」がなければ、安田講堂攻防戦も起こらなかった可能性があり、東大や京大が、バリケードの構築や戦術など、日大に指導を仰いだ・・・というのは、帝国大学以来、後にも先にも、このときだけだったでしょう。日本の学歴社会の頂点にある両校が、偏差値では、はるか下位にあるポン大(日大の蔑称)を積極的に評価した画期的な出来事でした。

日大紛争が未だ決着を見ない11月22日、東大紛争は、いよいよ風雲急を告げ、バリケード封鎖中の安田講堂前で、全共闘の連帯を目指す決起集会が開かれました。

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東大・安田講堂前に集結した学生たち

以下、史実を忠実に再現しつつも、ところどころ筆者の勝手な思い込みを織り交ぜ、描写します。

カーン、カーン、カーン、カーン・・・、
夕刻になり、遅れてやってきた日大勢の到着を知ると、すでに入場していた他校の学生たちは、ゲバ棒でコンクリの地面を叩いて、彼らを迎えようとしていました。しかし、ぎっしりと埋め尽くされ、立錐の余地もない校内には、日大生が入る場所など、どこにもありません。

と、その時でした。名もなき若者が一人歩み出て、
「日大全共闘ですー、機動隊を蹴散らすのに時間がかかってしまい、遅れて申し訳ありませーん・・・、みなさんと一緒に闘いにきましたー、我々の誇りと、怒りを、この角材に込めてきましたーっ


若者が角材を高くかざすと、場内を埋め尽くした2万の学生たちは、サーッと二手に分かれ、日大生たちの前で広がっていきます。神が彼らに与えた場所・・・そんな雰囲気だったでしょう。
https://www.youtube.com/watch?v=oipEFaBDHRw&t=967s(16分ごろから関係者の証言)

ゴォーン・・・・という地響きのようなざわめきが起こり、ゆっくりと彼らは、群衆に向かって歩み出し、その中心に、どっかりと陣取りました。

ポン大生とバカにされてきた彼ら日大生が、全国学生の頂点に立った瞬間でした・・・。

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東大生も、全国学生も、畏敬の念を込めて彼らを迎え入れた・・・

明けて迎えた1969年のお正月、日大では、新年祝賀の初デモが行われ、校舎には日の丸が靡いていました。「日本」大学なんですから、当たり前といえば当たり前ですが、当時の学生運動では、日本の文化伝統を重んじる行為は、タブーでした。日大の学生は、インター(ナショナル)を歌うべきところでも、歌詞を知っている人がおらず、校歌を歌っていたといいます。彼らは、彼らなりの方法で、日本と母校を愛していたのでしょう。

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ピンクがイメージカラー?
これが栄光の日大旗だ

もっと、この感性を大切にしてほしかったですし、もしも、そうであったのなら、日本の左翼も一皮むけて、今こんなことになっていなかったかもしれません。

大学紛争を描いた青春映画の名作に、「いちご白書」(1970年)という作品があります。日大紛争や東大紛争がなくても、もちろん、この映画は作られましたが、この作品をモチーフにした、「『いちご白書』をもう一度」は、日大がなければ、作られなかったかもしれません。荒井由実さんからは、東大というイメージは湧き難く、この作品の舞台となった大学は、おそらく、日大や中大、明治などがイメージされていたのではないでしょうか。

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60年代後半から70年代前半は、ニューシネマと呼ばれる作品群が人気を博した

映画「いちご白書」では、主人公たちは、警官隊に蹂躙され、だからこそ美しく、感動的なラストでした。1970年6月15日の公開で、もしも、もっと早く日本で封切られていれば、日大も、東大も、あんな失敗は起こらなかったでしょう。機動隊を殲滅しようというのでは、青春映画ではなく、サスペンスになってしまいますし、結果として、1972年には、サイコ・ホラーになってしまいました。

昭和の終わり頃から、勝利のみに価値があるという風潮が生まれましたが、敗者に心を寄せ、その姿に涙してきたのが日本人だと思います。
美しく負ける・・・を、今一度とり戻すことはできないものでしょうか・・・。




雨に破れかけた街角のポスターに

過ぎ去った昔が鮮やかに蘇る・・・

1975年8月1日リリース、「いちご白書をもう一度」より




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日大闘争よ、永遠に・・・

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地獄に落ちた勇者ども
左翼八十八か所伝説の旅シリーズ 第6回 お茶ノ水  村田能則、重信房子、樫村くん(?)他、社学同と、名もなき学生、おじさんたち

フランスで起こった燃料税反対デモは、「新税導入を6ヶ月延期する」との政府発表を受けても、収まる兆しがありません。

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凱旋門をバックに燃え盛る炎

これだけ大規模なデモが起こったのは、50年ぶりと報道されていますが、ふり返ってみるに、

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昨年5月のメーデーで、警官が火だるま
ひどいことするなあ・・・

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一昨年も、労働法改正反対で火炎瓶と催涙弾が飛び交い・・・

要するに、毎年やってるんでしょう。
1960年代の後半ならともかく、21世紀にもなって、暴力デモが頻発するのは先進国ではフランスだけで、彼らには、パリの芸術的、文化的な表情以外に、もう一つの顔があることが分かります。

1968年5月3日、フランス・パリ・カルチェラタンにあるパリ大学ソルボンヌ校で、ベトナム反戦運動に端を発した学生集会が開かれ、大学側は、警官隊を導入し、500名以上の逮捕者を出しました。翌日、これに対する抗議集会が開かれ、1万5千人に膨れ上がったデモ隊と警官隊が衝突し、400名上の逮捕者と、学生800人以上、警官300人以上が負傷しました。その後も、抗議集会と衝突が繰り返され、労働者もデモに加わり、5月13日、カルチェラタンは解放区となって、5月24日には、フランス労働者の半数にあたる1000万人(!)がストに突入しました。

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このときも、投石が武器だったが、ゲバ棒とゲバヘルは、見られず
こん棒や鉄パイプを手にしたら、平和日本以外では、射殺対象になるのだろう

日本では、5月革命とも呼ばれるこの騒動は、実際には、「革命」ではなく、共産化を目指していたわけでもありませんでした。フランス共産党(親ソ連)と、運動のリーダーだった人たち(反ソ)は、反りが合わず、お互いを非難し合っていたといいます。世界的に学生運動が激化した時期でしたから、もやもやとした漠然とした不満がデモに繋がっていったのかもしれません。

事態を重く見たドゴール大統領は、国民議会を解散し、6月23日と30日に選挙が行われ、ドゴール派は圧勝、共産党と左翼連合は完敗したため事態は収拾されました。文句があるなら、「占拠」ではなく、「選挙」でかかってこい、いつでも勝負してやるぞ、というところは、世界に先駆けて近代国家を打ち立てたフランスの面目躍如で、暴力を民主主義で封じた、と言えるんじゃないでしょうか。

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ヒトラー?
じゃなくて、ドゴールさんです。 でも似てるなあ・・・

この騒乱を受けて、我が日本が誇る(?)社学同ブントの学生組織=後に赤軍派を派生)の村田能則委員長(早大)は、「神田を日本のカルチェラタンにせよ」との号令を発します。パリの様子をテレビで見て興奮し、同じことをやりたくなったのでしょう。言った本人も、聞いていた人達も、深刻さのまるでない軽いノリだったようで、「やったら、なんとかなるって」という、行き当たりばったりの企画でした。

6月21日、決行の日。
明大8号館に集結した社学同の明大生数十名が午後5時を合図に入り口内部に積んでいた長椅子や長机を一斉に運び出し、樫村くんらの活躍で、校舎正面の明大前通りを封鎖しました。(樫村くんって、いったい誰だ?https://blogs.yahoo.co.jp/meidai1970/34496749.html

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終わった後、机、イスは、誰が元の場所に戻したんでしょうか

突然行く手を阻まれた通行車両は、激しくクラクションを鳴らしますが(当たり前ですね)、それを学生たちは、脇を通るマロニエ通りへ迂回させようと誘導し、言うことを聞かない車は・・・、

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こういうことになったようです
この損害は、補償されたのか、泣き寝入りか?

ここに、中大中庭で集会中の約4000人(主催者発表、毎日新聞の記事では500人だそうです)が合流し、「占領地」を南北に拡大していきました。最終的に、北は御茶ノ水駅の手前まで、南は駿河台下の交差点までを「解放区」にしたといます。明大と当時の中大(今は山奥に移設)は、場所が近く、偏差値も近かったので、仲が良かったのでしょう。

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中大での集会から明大前に移動

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ここを封鎖?
そりゃ無茶だ・・・

騒ぎが大きくなってくると、待ってましたとばかりに、学生たちだけでなく、勤め帰りのおじさんや野次馬たちが次々と合流してきました。当時は、火事とデモが飯より好きな固定ファンが大勢いたものと思われます。政治運動と言うより、欧米(当時は、ほとんどの日本人が、欧米が上で、日本は下と、考えていたはず)からやってきた最新流行の風俗や娯楽に近い感覚があったんじゃないでしょうか。

「開放区」では、あちこちで集会が開かれたり、フォークソングを歌う人がいたり(昭和40年代だなあ・・・)と、若者たちは、ひとときの開放感を味わいました。

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どうせやるなら、こういう感じでやってほしかった・・・
地元の伝統行事・神田祭

当時の御茶ノ水界隈は、レンガや敷石で造られた歩道がとってもオシャレだったといいます。部分的にパリのカルチェラタンのような雰囲気もあったのかもしれません。しかし、その美しい歩道を、学生たちが破壊して、砕いた石片で機動隊を攻撃したため、当局側は、再発防止のためコンクリートで固めてしまい、結果どこにでもある平凡な街並みに変わってしまいました。学生運動の弊害が思わぬところでも現れていたようです。

みんなでお祭り気分を味わって、8時半過ぎに、社学同は撤収し、おじさん、野次馬は、まだ残っていたようでしたが、バリケードは機動隊によって、あっさり撤去され、一件落着となりました。

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こんなとこに付けやがって、ちゃんと片付けていってくれないと
・・・という声が聞こえてきそうな一枚

この事件は、タイムリーではありましたが必然性がゼロだったため、後に赤軍派が企てた数々の襲撃計画と同様、中途半端な結果に終わりました。神田なのに、「なんでカルチェラタンなの?」というこじつけ的なネーミング、「アジア太平洋閣僚会議に外務大臣が出席するのは、日本のアジア再侵略への一歩だ」という言い分は、言いがかりに近く、無理やり感あり過ぎて、他の党派からは、あまり相手にされなかったといいます。「1968年の出来事」等を検索しても記述されておらず、一般的にも、左翼史的にも、あまり評価されたとは言えない闘争でした。

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特に何をやるでもなし、ブラブラしている人が多かった?

それでも、参加した人たちは、大いに楽しんだようです。通行車両や地元の人たちに大変な迷惑はかけましたが、大した衝突は起こらず、投石を受けた機動隊はともかく、学生側には、ほとんど怪我人も出なかったようですから、晴れやかな気持ちで家路につけたのではないでしょうか。この頃までは、地方出身の下宿生だけでなく、親と一緒に暮らす東京の学生たちも、大勢参加していたのでしょう。

街のいたるところで、「帰ってきたヨッパライ」が流れていた年で、作風は、当時の学生たちの常套句だった、「ナンセンス」そのものでした。ガリガリ、ゴリゴリとした活動に片足を突っ込んでいた学生運動を、斜め後ろから冷やかしているような曲だったかもしれません。

283万枚の大ヒット
シラケ時代の始まりを予感させる空気に、新左翼各派は、もっと敏感であるべきだった・・・

ジッパチの羽田闘争(1967年10月8日)以来、新左翼運動は、どんどん殺伐としてきましたから、久しぶりに明るい運動(?)を組織できて、カルチェラタン闘争の中心にいた人たちには、高揚感が見られたものと思われます。

後に日本赤軍の首領となる重信房子さん(明大)は、
「私達は、達成感で意気揚々でした。当時はこういう楽しい開放感と、一つの戦術の小さな勝利感と、人々との連帯感が、学生運動の拡大をつくりだしていったと思います。公正・正義を求める闘い、その一員として参加できることが喜びであり、闘争は楽しいと実感していた時代です。(あの頃は)様々な野党勢力と共闘しながら戦おうとする謙虚さがありました」
と回想しており、これは当時の学生としては、ごく普通の感覚だったんじゃないでしょうか。

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重信さんと、親友の遠山美枝子さんは、青春の真っ只中にいた
輝ける明日が待っているはずだった・・・
広島カープ初優勝(1975年)までは、赤ヘルといえば、社学同=ブント=赤軍派だったのだ

そんな雰囲気だった社学同でしたが、日大闘争10.21国際反戦デー(これが凄かったようです)、そして、学生運動における天王山とも言われた東大安田講堂攻防戦へと続く流れの中で、どんどん過激化していき、その後も数度あった神田解放区では、内戦もどきの暴力行為が横行するようになっていきました。https://www.youtube.com/watch?v=SkwKdFnzdos

当時、運動に参加していた人たちは、機動隊側の暴行をやり玉に挙げて非難していますが、残された映像を見る限り、たとえ当局の暴行を受けたのが事実としても、あれでは、「正当防衛」で片付けられてしまいます。安田講堂事件(1969年1月)に呼応して行われた神田闘争では、カルチェラタン闘争のときの、「軽いノリ」は無くなり、暴徒と化した集団が暴れまわっている・・・、一般の目には、そうとしか映らなかったでしょう。

同年夏には、社学同の母体であった第二次ブント(共産主義者同盟)が分裂して赤軍派が誕生し、大菩薩峠事件よど号乗っ取り事件へと突き進み(1969〜70年)、大量逮捕されるなど大弾圧を受けた結果、組織は崩壊寸前となって、最後は連合赤軍事件で自滅しました(1972年)。

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はつらつとしていた頃の社学同
重信さん(手前)の姿も見える

・神田カルチェラタン闘争の明るさと開放感
・連合赤軍事件の暗さと閉鎖性、陰険さ
は、まさに対照的で、いくら指導者が違う人だといっても、それだけでは説明がつきません。

第二次ブントは、
・一応、最低限の常識はあるように見えた関東系
・イケイケ、ぶっ殺しの関西系
に大別され(?)、連合赤軍の指導者・森恒夫氏(大阪市立大)は、関西系で、カルチェラタン闘争には参加していませんでしたが、この頃は物静かで、凶悪なところはまるでなかったといいます。その彼がトップに立ったことで、どうしてああなってしまったのか・・・。

一般の人たちが左翼を恐れるのは、まさにその部分で、誰かがこの問題について、はっきりとしたケリをつけ、誰にでも解る内容で総括しておくべきでしょう。筆者は、森氏の遺書を読みましたが、あのような難解な理屈では、誰も理解できないと思います。

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理屈を捏ね始めると止まらないのが赤軍派だった
人里離れた山奥で、その芸風を爆発させてしまった森氏
なぜ、街でやらない?

話は、突然変わって先月帰国した時の話です。
この歳になって、しみじみ感じますが、親不孝のツケは必ず回ってきます。フラフラと腰が座らず、危うく捜索願いを出されそうになるなど、母に心配ばかりさせていた筆者も、とうとうバチが当たったのか、この6年間は、親の世話に追われっぱなしで、プライベートの飲み会など、ほとんど参加できなくなってしまいました(バチっていうのは、当たるんですよ・・・、ホントですよー)。

85歳になる母を運動させようと、帰国の度に、一緒にあちこち出歩くのが東京での日課になっているわけです。

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こんな感じ?
笹川良一さんを意識して(?)、最近は訓示で「親孝行」を連発する筆者
どうも人間は、年をとると「いい人」になりたがるようだ

先月は、昭和公園と明治神宮に出かけたところ、足掛け2日、連続6本の電車で、母は、一度も座れませんでしたシルバーシートであろうと、なかろうと、座っている人たちは、まったく席を譲る気はないようです。日本や、日本人がダメになった、なんて言いません。6年前、父が認知症になったときも、父を連れ立って、いろいろ出かけましたが、こんな経験は一度もしませんでした。シルバーシートでなくても、誰とはなしに席を譲ってくれたもので、高校生の男の子、ちょっと怖そうな兄ちゃん、サラリーマン、おじさん、おっさん、かなりの爺さん・・・逆に席を譲られてもおかしくない年齢の人まで譲ってくれました。

ところが、女性は、そうではないようです。特に、相手が女だと、ほとんど譲る気はないようです。平気な顔して座っている人が実に多く、少女から、おばさんまで、ほぼ例外なしです。相手を気遣って年寄り扱いせず、あえて席を譲らないのだ・・・というこじつけ的な解説をネットで見ましたが、筆者には、とてもそんな風には見えませんでした。

電車を降りると、前の車両が目に入ります。
バーン・・・・、「女性専用車」・・・(絶句)。
あんな人たちを、どうして優遇せねばならないのか正直そう思いました。

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女性専用車導入を求める女性議員団(2005年)
弱い者をいたわる前に、自分を、いたわってほしいという時代・・・?

そして、筆者は決意しました。
東京中の、じいちゃん、バアちゃんを糾合し、一斉蜂起して、女性専用車を占拠しようと・・・(ホントか?)、年寄りだけの「解放車両」を作らねばならん!

神田カルチェラタン闘争に参加した人は、生きていれば、70歳ちょっとの年齢に差し掛かっていると思います。もう4〜5年経てば、相当ヨボヨボしてくるでしょう。

なら、彼らに頼るしかありません。
今一度、立ち上がり、最後の力を振り絞って(?)、このような如何ともし難い風潮に対して、示しをつけてほしいものです。こっちは年寄りなんですから、警察だろうと、機動隊だろうと、絶対に歯向かっては来ないでしょう。ゲバ棒も、投石も必要ないと思います。

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ハロウィーン当日に決行し、嫌がらせだ
解放区の元祖、「神田」の実力を見せてやろう

家に帰ったら、電話帳で社学同の電話番号をしらべて(?)、さっそく行動開始だー、と思ったそのときでした。
「座りますか?」
年の頃なら30前くらい、スーツの似合う、仕事ができそうな女性が席を立ち、母に勧めてくれました。

天使に見えました。美しいとか、きれいとか、そんな次元を、はるかに超えて、彼女が放つ輝きに思わず涙が流れそうになりました。電話番号を聞き出して、息子の嫁にしようかと思ったくらいです(息子はいませんが・・・)。

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日本も、まだまだ捨てたもんじゃねえぜー!

直前まで、武装蜂起に失敗したら作戦変更で、女性たちが母と同じ年齢になるまで、このままの日本を続けさせて、必ずや、同じ思いをさせてやろうそう思っていたわけですが、ふと冷静になって考えてみるに、自分自身は、はたしてどうだったのだろうかというのが気になりました。

今の日本社会は、連綿と連なる伝統や風土の中で築き上げられたものですから、席を譲らないという行為も、最近になって急に現れた現象ではなさそうです。

もしかしたら、母も若い頃、席を譲らなかったバチが当たっているのか、筆者自身も、昔はそれほど意識しませんでしたから、席を譲っていなかった可能性は濃厚で、因果応報なのかもしれません。

反省すべきは、自分自身だったのでしょうか・・・

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どこから見ても、いい人には見えなかったが、言ってることは正しかった笹川会長
毎日しつっこいくらい流れたCMだったが、笹川さんの「教え」が、あまり生かされていないようだ
右翼でも、左翼でもいい、日本を正してくれー

ワッショイ・バージョン

高見山と山本直純さんが、どうして参加しているのかは永遠の謎だ・・・
日〜土まで完唱しよう!



人の振り見て、我が振り直せ
まずは自分が反省しよう
一日一善

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あれから、50年・・・

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中国の大手通信機器メーカー、ファーウェイ孟晩舟最高財務責任者(CFO)がアメリカ当局の要請によりカナダで逮捕されました。表向きイラン制裁違反に関しての虚偽報告云々とされていますが、裏に米中の覇権争いがあるのは間違いなく、今後が大いに注目されています。

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両親が離婚し、ずっと母方の姓を名乗っていたため、任会長の娘とは、気づかれなったという
一般社員からスタートし、コピー取りなど雑用もやったそうで、謙虚で同僚たちと同じ目線で働いてきた、との評価がある
本当なら、ナッツ姫の真逆だ

中国を代表する通信機器会社ファーウェイは、一言で言えば、「凄い会社」のようです。
1987年の設立で、電話交換機の輸入販売会社としてスタートしましたが、自社開発するようになって事業を拡大していきました。現在スマホのシェアは、サムスンに次いで世界2位(3位はアップル)、年間売上10兆円で、世界170カ国に18万人の社員がおり、日本法人ファーウェイ・ジャパンは従業員1000人で、中国企業として初めて経団連に加入しました。

18万中、8万人が研究開発担当で、売上高の15%にあたる1兆4800億円が研究開発費だということです(凄い!)。2017年年の国際特許出願件数4024件は、世界1で、因みに2位には、やはり中国のZTEが2965件で付けています。

社内には、ファーウェイ基本法(?)というのがあるらしく、そこには、こうあるそうです。
「景気がよく、業績が好調なときは、地域、業界で最高の待遇を保証する」
経営状態がいいだけでなく、先行投資や会社のポリシーも、申し分なく、まさに中国のリーディングカンパニーといえるでしょう。

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ディズニーランドじゃありません、ファーウェイの社屋です

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給与も中国最高レベル(初任給30万円、平均年収1170万円)で、
社員の平均年齢は、30歳だということです

しかし、労働時間は長く、週6日労働で、平均すると一日4時間の残業があるといいます。その昔、リクルートが日本を代表するベンチャー企業と言われた頃(1980年代)、やはり初任給が高く、労働時間は長かったものの、若い社員たちは、それを苦にすることなく、エネルギッシュに働いている・・・当時は、そう伝えられていました。あれからどうなったか、今みなさん、どう考えているか、どなたか、ぜひ追跡調査していただきたいものです。

ファーウェイで問題となっているのは、会長の任正非氏が人民解放軍出身で、中国政府と一心同体ではないかという疑いを持たれていることです。しかし、そんなことは昨日今日わかった話ではありませんから、超優良企業が中国政府と一体となって、いよいよ世界の覇権を奪おうとしている・・・そこに、アメリカの懸念があるのでしょう。このままでは、負ける・・・という強い危機感の現れだと思われます。

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隣に習近平さんがいるせいか、なんとなく、「いい人」っぽく見える任会長
共に毛沢東を崇拝しているという

米中戦争の焦点となっているのが、次世代通信技術5Gを巡る主導権争いだというのは、広く知られるところです。
4Gの100倍のスピードがあり、1000倍の容量という5Gが実用化されれば、IOT用のネットワークが構築可能身の回りのあらゆる物がインターネットに繋がる)となり、特に自動運転遠隔医療といったハイテク分野の中心産業に応用できると言われています。ここを抑えた国が、世界の覇権を握るのは間違いなく、だからこそ米中両国は、国家の威信をかけた闘いに挑んでいるわけです。

因みに中国は、この戦いを、「電戦」よ呼んでおり、「天戦」(宇宙戦争)と共に、「絶対に負けない」と宣言していますから、通信技術というよりは、最新兵器の開発競争とみた方が分かりやすいかもしれません。

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「夢の架け橋」のようなイメージ操作が行われているが、筆者は騙されない
ソロバン、電卓、辞書、辞典、電話帳、自分の頭を使います
どうせ、先は長くないし・・・

ここ数ヶ月は、特にヒートアップしてきており、
3月、米国政府は、ブロードコム(米国企業だが、本社はシンガポール)による米国半導体大手クアルコムの買収にストップをかけました。理由は、中国に近いとされるブロードコムがクアルコムの研究開発費をカットすれば、ファーウェイが有利になるというもので、クアルコムは、ファーウェイ最大のライバルと目されています。

4月、米国政府は、イラン制裁違反を理由に中国通信大手のZTEに米企業との取引を禁止し、同社は、生産ラインが停止するなど大きな損失を出しました。米国は、罰金と経営陣の刷新を要求、これをZTEが飲んだため、取引禁止は解除されました。

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ファーウェイとZTEは、ライバル関係にある
相手への制裁を喜んでいたら、今度は自分もやられた?

7月、クアルコムによるオランダの車載半導体大手NXPセミコンダクターズの買収計画に中国政府が横槍を入れ阻止しました。こちらも5G絡みです。

同月、ファーウェイは、新たに特許を一つ取得したといい、これは5Gに不可欠な技術で将来の安定したロイヤリティ収入競争力の確保をもたらすと見られています。因みに、この技術を開発したのはトルコ人科学者だそうで、アメリカも、中国も、今や世界選抜チームと化しているのでしょう。

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ビットコインなどに応用されているブロックチェーン技術を利用した2P2コンテンツの配信ネットワークに
検証機能を追加する特許を取得
中国勢は、近未来を見据えて着々と特許を押さえている

面白いのは、米半導体大手のインテルや米通信機器大手のシスコシステムズなどのIT企業は、トランプ政権による対中追加関税が5Gネットワーク構築に必要なルーターやスイッチなどの製品コストを引き上げ、5Gでの米国リードを脅しかねないと警告していることです。米中が共倒れして、他国に美味しいところを持って行かれる心配をしているのかもしれません。

来年の10月か、11月に行われる予定の世界無線通信会議(5Gの基準が決まる予定)が決戦と言われており、より多くの特許を持つファーウェイが一歩リードしているという見方が強い中で、一発逆転を狙ったのが今回の逮捕劇だったのでしょうか。因みに3Gは、ヨーロッパが、4Gは、アメリカが支配していたといい、勝敗のポイントは、どのような技術が標準規格に設定され、各国がその使用にロイヤリティやライセンス料を支払うかにかかっているということです。

5Gは、4Gと比べ、はるかに多くの基地局が必要になるといわれています。
基地局とは、ビルや鉄塔の上に立っている電波を出す装置で、携帯電話の通信は、まずここと繋がって、中のパケット交換機を通り、インターネット接続する仕組みになっています。先日起こったソフトバンクの大規模障害も、基地局で使われていた機器(エリクソン製)のトラブルが原因とされています。

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富士山と基地局
絵になるような、ならないような・・・

2015年以降、中国は、基地局を35万基も造ったのに対し、アメリカは、3万基に留まっており、1万人あたりの数でも、中国14.1基に対し、アメリカは、4.7基で、こちらも中国がリードしています。そして、ファーウェイは、基地局の分野で業界1位のシェアを誇っていますから、そういう意味でも、アメリカは、ここを叩きたかったのでしょう。

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こうしてみると、アメリカ企業がまったくない
これでは司令部や整備工場のない戦闘機部隊といえまいか・・・
アメリカにとって致命的とも思えるが、日本が絡めるとすれば、ここ?

アメリカは、ファーウェイを、世界市場から締め出そうとしています。
事件発覚前の11月、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドは、安全保障上の懸念を理由に、5Gモバイルネットワークのインフラ機器調達からファーウェイを除外しました。イギリスの大手通信会社も、これに追随する見通しで、日本政府も、今回の事件を受けて、ファーウェイと、ZTEの製品を政府調達から排除することを決定しています。

ソフトバンクは、4Gで採用したファーウェイとZTEを、5Gでは採用しないと決定し、既に使われている機器に関しても、漸次交換していく予定だといいます。「本当は、技術、価格、サービスとも優良なファーウェイを使い続けたかった」とのことですが、後になって日本政府から排除命令が出ると、大きなダメージを受けることになりますから、苦渋の選択だったのでしょう。NETドコモや、KDDIは、しばらく状況を見守っていくという態度のようです。

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検査の結果、「余計なもの」が見つかったとしつつも、「余計なもの」の画像はなし
なぜ、物証を示せない?
この手法は、様々な事件で使われるので要注意だ

5Gでは、今のところ、アメリカに従うと見られるオーストラリア、ニュージーランド、イギリス日本おそらくカナダも加わるのではと言われています)も、ファーウェイ製品全般を排除ということなら、足並みが揃うかどうかは定かではなく、一方で中国は、アフリカ、アジアで確実に地盤を固めつつあります。

キャスティングボードを握ると見られる独仏は、5G技術はともかく、しばらくの間は、どっちつかずの煮え切らない態度で、事実上ファーウェイ製品を黙認するのではないかと筆者は見ています。ファーウェイを切れば、それは=中国を切ることになり、これまでの対中関係を考えれば、とてもそこまでは踏み切れないでしょう。

1978年、ソ連のアフガン侵攻を受け、アメリカは、同盟国にモスクワ五輪(1980年)をボイコットするよう呼びかけました。敗戦国の日本や西ドイツは、アメリカに同調しましたが、イギリスやフランスなどの主要国は、口先だけソ連を非難し、開会式と入場行進だけ欠席した後、何食わぬ顔で競技には参加していました(名目ボイコット?)。パリ協定などにも、似たような動きが見られますから(口だけで、やらない)、同じ手口で、のらりくらりとアメリカの要求に応じるフリだけするではないでしょうか。

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涙ながらに参加を訴えるレスリングの高田裕司選手は、「自分のことしか考えないのか」とバッシングされた
Wikipediaでは、彼の涙が共感を呼んだとありますが、それは事実とは違うと思います
この問題以外でも、日本はアメリカの要求には犬のように忠実でしたが、それがまったく評価されていないような・・・

いずれは5Gで、アメリカを選ぶのか、中国製を使用するか・・・という踏み絵世界各国、各企業が踏まされる日がくると予想されています。国際ルールを守らない中国、そして、「正義」とか、「世界の警察」といった仮面をかなぐり捨てて、自国さえよければいいと公言するアメリカ、他国にとっては、どちらの国を採用しても情報は筒抜けになり、社会システム全体をコントロールされてしまう恐れもありますから、言わば、スリがいいか、空き巣を選ぶべきか、詐欺師の方がマシか、といった判断に近いかもしれません。

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見れば見るほど、両者とも信用できない
アメリカは、韓国同様、国際約束を守らない無法ぶり(パリ協定、TPP離脱)なのに、日本は、こちらには文句を言わない

覇権がかかっていますから、アメリカが中国の、中国がアメリカのシステムを採用するわけにはいかず、EUも安全保障等を考慮すれば、多少機能で劣っても、第3の候補フランスが主導するTarbo2.0を採用する可能性が高いと思います。そして、当分の間は、アメリカ、EU、中国が、それぞれブロックを形成して、最後の勝負は「価格」と「性能」のバランスということになりますが、そうなると5G技術の開発、基地局、産業への応用と、バラバラにやっているアメリカは、いかにも分が悪い、というのが筆者の見立てですが、どうなるでしょうか。

そして、一時的な後退はあっても、ファーウェイの優位は揺るがないのでは、と筆者はみています。米中とも、5G開発を戦争と考えており、単なる経済問題なら、儲からないから止めます、で終わりますが、この分野では、そうはいきません。世界経済は、お互いに深くコミットしていますから、中国製品の排除は、その国の経済にも大きな打撃を与え、やっていけない企業も多々出るものと思われます。共産党一党独裁の中国と違って、民主主義国では、そういった人たちの声も無視できず、排除を徹底することはできないのではないでしょうか。

一方で中国は、国内に10億人の市場を持っていますから、苦しい時期があったとしても、最悪そこで頑張ればいいわけで、アフリカやアジアなどで、中国寄りの姿勢を見せる国も多いようですから、国際競争力は衰えない可能性があります。ファーウェイは、通信機器販売、基地局、技術開発とすべて自社でできるのが、他社にはない強みで、彼らの製品が日本でも売れるのは、単に「安い」だけでなく、物がいいからだと見られています。

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ファーウェイの新機種nova3
安い、速い(5G)、うまい(性能)で、スマホ業界の吉野家と言えるだろう(ホントか?)
部品の半分は日本製で、ファーウェイが売れれば、売れるほど、日本企業も儲かる仕組みになっている。

アメリカは、本気で中国相手に勝負をかける気だったなら、なぜTPPから離脱したのでしょうか(本気で勝負する気がない?)。あんなものがなくても、中国包囲網くらい作れる、との判断なのかもしれませんが、今のアメリカに、それだけの影響力が残っているかは疑わしいですし、10年後、20年後は、言わずもがなだと思います。またロシアも、アメリカ、中国、EUの、どこの5Gを選ぶつもりなのでしょう。結果的に、選んだ先のブロックに、取り込まれてしまう可能性が大きいと思います。

それにしても、日本勢の影の薄さは悲しいばかりです。
ちょっと前まで、「技術の東芝」など、テクノロジーなら日本と、少なくとも日本人は信じていましたが、今や誰も、日本企業が米中を出し抜いて5G制覇・・・そんなこと考えていません。他方で、エリクソン(スウェーデン)やノキア(フィンランド)など、小国の企業も頑張っていますから、要は、発想とやる気の問題だと思います。

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ちょっと前まで、携帯といえば、ノキアだったなあ・・・
筆者は、米中とも信用していませんが、フィンランドなら信用できる(人種差別?)

中国は、AIでも先行しているといいます。5GとAIを連動させて経済で世界を制し、同時に社会主義体制を揺るぎないものにしようとする中国に対し、資本主義国では、GAFAなどによる寡占化が進みつつあり、世界的に格差は広がる一方です。

両者の争いは、アメリカか、中国か、というよりも、最終的には、社会主義か、超巨大IT企業か・・・つまり、平等ではあるが自由のない社会を選ぶか、自由はあるが格差のある社会を選ぶのか、という究極の選択が待っているようにも思います。そして、どちらを選んだとしても、もはや完全なプライベートなど、なくなるのではないでしょうか。

人の動きも、金の動きも、プライベートも、全部丸裸にされ、どこで、誰が、誰と、何したか、すべて把握されてしまう高性能の5Gなど、もしかしたら、意外とニーズは薄いのかもしれません(不倫できないじゃないかー)。多少手間ヒマかかろうと、人間なら、秘密にしておきたいことってあると思います(エロ本買えないじゃないかー)。

他方、日本には、桜田義孝五輪担当相がいます。

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言い間違いは、誰にでもある
そういう細かいところを、やたら突っ込むのが平成の文化だ
あー、いやだ、いやだ

パソコンを使ったことがないというだけで野党から能力不適格者扱いされて、袋叩きにあいましたが、そもそも、コンピューターに頼っているから、情報が簡単に盗まれるわけで、本当に大事なものなら、手書きと口頭伝達です(昭和方式)。昔は、情報盗むのも大変で、産業スパイを雇ったり、秘密文書盗んだりで、大事な書類には、マル秘なんて書いてありました。

だいたい専門知識云々といっても、今いる国会議員の中で、サイバーセキュリティーの基礎知識がある人は、いったい何人いるんでしょう。逆に、下手に知識があって、あれこれ知ったかぶりされても、部下の人たちは大変です。

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そう言われても・・・
筆者も、30年以上、レンポウだと思っていました

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この肉厚を見よ!
厚切りレンポー?
これこそ、昭和のパワーなのだ

「判断力は、私は抜群だと思っております。能力に疑いは持っておりません」
そう言い切る桜田大臣とともに、5Gどころか、1〜4までGを、すべて拒絶して、昭和に戻るというのはどうでしょう(ポケベル?)。

温昭拒新
昭和を温め、新しきを拒む、これこそが、最高のサイバーセキュリティなのだー!

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汗だくになって、可愛そうじゃないかー!
筆者は、断固支持するが、スマホを使っているという一点は、気に入らない

中国政府は、5Gサービスの商用化を2020年までに予定しているということです。

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