数年前、プーケット補習校で授業をしていたら、中国の話になりました。
「だいたい、中国は・・・」と、最近よくある「中国けしからん」モードで生徒たちの話は進行し、PM2.5に絡んで、「あんな汚い空気の中で、よく生活できるよ」と誰かが喋ったときに、筆者は口を挟みました。

「でも、日本も、何十年か前は同じだったんだよ。光化学スモッグって、聞いたことない?」
案の定、生徒たちは誰も知りません。
「日本版PM2.5みたいなものだったんだけど、先生なんか、光化学スモッグの隙間をぬって、遊んでたんだから」と体験談を語ってやると、生徒たちは、「まっさかァ・・・」と呆れるような目でこちらを見ています。信じていないようですね。

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筆者の地元・杉並区は、「光化学スモッグ発祥の地」と言われ、中学生がバタバタ倒れたことで有名でした。朝から雲ひとつない快晴だったりすると、普通なら爽やかな気持ちで、「今日も、がんばるぞー!」という気になるものですが、あの頃は、そんな日に限って警報が鳴っていましたから、逆に嫌な予感がしたものです。そして予想通り、午後になって、仲間たちとの草野球が盛り上がってくるとチャイム音が響きます。

「ピン・ポン・パン・ポーン・・・・、光化学スモッグ注意報が発令されました。外で遊んでいる子どもたちは、すぐに帰宅してください」
街中に響くような音量で市民に注意を呼びかけたのは、B29の襲来以来じゃないでしょうか。
「仕方ねえなあ・・・・、おーい、帰るぞー!」
ということになり、子どもたちは、一旦家に帰りますが、しばらくして、ほとぼりが冷めると、空き地に、また仲間たちが集まってきます。
「じゃあ、5回裏、1アウト、1、2塁で、バッターは、秋山くんから・・・だったよな」
と試合は再開され、本当にスモッグの切れ目を縫い合わせるように当時の子どもは遊んでいました。

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公害といえば、それまではイタイイタイ病や水俣病が有名で、早い段階から、工業排水が疑われていたものの、原因物質の特定は容易でなく、国も事実上の黙認というか、積極的に究明しようとはしませんでしたから、被害が拡大することになってしまいました。1960年代の半ば頃までは、政府や大企業は、「公害など存在しない・・・」というのが公式な立場だったのです。経済成長を持続させ、日本が一級の工業国にのし上がるためには、工業排水で奇病が発生した、というのは、いかにも不都合だったのでしょう。

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1968年になって、ようやく国は、イタイイタイ病と水俣病の原因物質と企業の因果関係を認め、裁判が始まって、公に公害を話題にすることができるようになり、そこで登場してきたのが、「宇宙猿人ゴリ」(1971年1月スタート)でした。悪役が主役というのも斬新でしたが、公害を真っ向から取り上げて話題になります。

ゴリの地球征服の動機は、「こんな美しい星を汚す人間どもは許せん」という至極真っ当なもので、公害を撒き散らす人間を、公害を使って滅ぼす・・・という戦略も共感を呼びました。

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しかし、スポンサー企業から、公害を主題にすることに対してクレームが付いたようで、番組名も、第2クールの途中から、「宇宙猿人ゴリ対スペクトルマン」へ、そして、第4クールからは、何のひねりもなく、「スペクトルマン」へと変更になって、内容もどんどん軟化し、堕落していきました。

番組内容と企業イメージが重くなる・・・というのが理由だったとは思いますが、企業にとっては、公害で、あんまり騒がれちゃうと、明日はわが身・・・という意識があったのかもしれません。結局、番組は企業の圧力に屈し、ゴリもスペクトルマンに完敗して、放送を終えることになります。あらゆる意味で「ゴリ」は敗れ、公害が、そのまま生き残ったともいえるでしょう。

そんな間隙を突いて公開されたのが、「ゴジラ対へドラ(以下『対ヘドラ』)」(1971年7月公開)でした。2年前(1969年)に、「オール怪獣大進撃(以下「オール怪獣」)」で醜態を曝し、すっかり子どもたちの信用を失った東宝の特撮組は、崖っぷちで踏み止まることになります。

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もしも、ここでしくじっていたら、その後の昭和シリーズはなく、平成シリーズも、どうなっていたかわかりません。久々に作られたのが、ハリウッド版「Godzilla」(1998)だったら、「シン・ゴジラ」も製作されなかった可能性があります。ゴジラを窮地から救ったのが、「対へドラ」でした。

「オール怪獣」同様、予算は最低でしたが、製作側の意気込みが違っていました。後に平成ゴジラ・シリーズで監督を務める川北紘一さんも監督助手で参加し、現場スタッフに、「こうなったら、ヤケクソだ!」といった開き直りがあったのでしょうか。

姑息なやり口で子どもたちを騙し、儲けようとした前作とちがって、たとえ与えられた条件がこの上なく厳しいものであろうとも、知恵を絞って努力すれば、必ず報われる・・・。低予算でも、人間やる気さえあればできるんだ、と勇気を与えてくれたのが、この作品でした。

変てこな音楽と挿入歌、さらに変てこなアニメ、子どもの理解を超越したサイケ、そして極めつけは、空飛ぶゴジラ・・・。まったくもって、「とんでもない!」の連続でしたが、それでも、映画としてのイメージや存在感は、昭和シリーズの中でも、独特の光を放っていたと思います。

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「対ヘドラ」は、山印味噌とタイアップして、プロモーションを展開しました。組んだ相手が味噌の会社というのも時代を感じさせますが、街には、まだ子どもが溢れていましたから、戦略的には大きな意味がありました。子どもたちに味噌汁を作るのも、子どもたちを映画に連れて行くのも、お母さんの仕事だったからです。あの頃は、複数の味噌会社が競うようにテレビCMを流していました。

そして山印味噌のCMでは、飛行形体のヘドラがゴジラに向かって低空飛行する場面に、「ヤーマちゃーん、ほんやー」と謎の台詞がかぶるもので、その不可解さがインパクトを強化したのか、映画は事前の予想を上回るヒットとなりました。ほぼ同時期に、サントリービールも、史上初の市販生ビール「純生」のCMで、若さだよ、ヤマちゃん」を連発していましていましたから、時代は、ヤマちゃんだったのかもしれませんが、子供心にも、ヤマちゃんって、いったい誰だ?」と思ったものです。

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70年代に入ると、国民の多くが豊かさを実感できるようになり、政治も大企業を優遇して経済成長を優先させる政策から、国民の健康にも配慮するものに変わっていきました。ずっと置き去りにされてきた分野でしたが、生活に余裕が出た分、そういうことも票に影響する、と判断されたのでしょう。

そして、日本各地で発生した様々な公害がどんどん報道されるようになりました。光化学スモッグも、ヘドラを生み出した田子の浦のヘドロも、その現れです。公害に対するイメージも、重大な健康障害を引き起こしたり、多くの人命が失われる・・・といった重々しいものから、ポップな感じに変わっていったように思われます。ですから、堂々と「公害怪獣」などと言えるようになったのでしょう。

ゴジラが「原子怪獣」とすんなり名乗れたのは、「原爆を投下したのはアメリカ。でも、日本が悪いことをしたからだよ」という幼稚園並みの単純な理屈が確立されていたからで、公害の場合は長年、「水俣病の原因はチッソの・・・」とも言えず、日本が経済発展し、豊かになっていく裏での出来事でしたから、事情はかなり異なりました。

「宇宙猿人ゴリ」と「対ヘドラ」は、日本が、国として先進国に追いつけ、追い越せの時代から、個人の幸せが優先される時代に入っていった記念碑的な作品だったのかもしれません。


そして今、経済発展が目覚しい中国とインドに同じような問題が起こっているといいます。まさに、歴史は繰り返す、ですが、自分が通ってきた道を忘れ、それを振り返ることなしに、「ほら、また中国人が・・・」と悪口で終わっているようでは、日本の未来は暗いと思います。反日を逆手にとって、「ご迷惑をおかけした罪滅ぼしに、我々が長年培ってきた公害対策を、(有料で)お教えしますから、有効活用してください」とビジネスで食い込むビッグ・チャンスじゃないでしょうか。

スモッグの隙間をぬって遊んでいた筆者は、そう感じます。

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ゴジラ映画が好きな人なら、みな自分の愛するベスト・オブ・ゴジラ作品があるはずです。

ファンの間で、どの作品が最高かは意見の別れるところですが、最低作品なら、ほぼ一致するのではないでしょうか。2位以下をダントツで引き離し、それ以外の作品に投票した人でさえ、「確かに、あの作品なら仕方ねえ・・・」と納得させてしまえるのが、「オール怪獣大進撃(以下『オール怪獣』)」(昭和44年)でしょう。

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昭和40年代は、怪獣映画のみならず、映画界は洋邦ともに冬の時代で、低予算を強いられた・・・という事情は分かりますが、それは、「オール怪獣」以降に製作された昭和のゴジラ・シリーズでも条件は同じはずです。

この作品の製作には、次のような背景がありました。
・特撮映画の観客動員が年々低下していく中で、最後の集大成と思って作った「怪獣総進撃」(昭和43年)が予想以上にヒットして、もう一本いけるような気がしてしまった・・・、
・しかし、どう頑張ったところで、前作の観客動員には及びそうもない・・・、
・同じくらい儲けようと思ったら、「出」の方を少なくするしかない・・・、
・同時期の東宝は、人員削減で特撮スタッフの多くを解雇しており、充分な人材が残っていない・・・。

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円谷さんも、大阪万博に取られ不在で・・・

そういった諸事情が複雑に絡み合って、前作とは比べようもない小規模な作品になるのは、企画の段階で分かっていたはずなのに、

・英訳すれば、前作とほぼ同じの紛らわしいタイトルを付けて大作のイメージを煽り、
・前作の11大怪獣を上回る、「13大怪獣出演」と嘘の宣伝でそれを補強し、
・実際には、ゴジラ、ミニラ、ガバラ以外の、ほとんどの怪獣の登場シーンが過去作品の使い回しだった・・・・。
リスクは一切とらず、リターンだけは、しっかり確保しようという、いってみれば、「大人の知恵」の集大成のような作品でした。

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「怪獣総進撃」より。この豪華さこそ、「オール怪獣」というものでしょう。

しかし、東宝で働いていた人たちの緊急避難的な事情はわかるとしても、劇場でこの作品を観た子どもたちには、本当に不幸な時間と出来事を作り出してしまったと思います。筆者(当時8歳)も、映画の序盤で異変に気付き、中盤で、「まさかとは思うけど、もしや・・・」と嫌な予感が頭を過ぎりますが、大人たちを信じたい気持ちは捨てられず、終盤に至っても、「いや、最後の最後で、ドッカーンっと、サービスしてくれるんだろう」と、何かにすがるような思いで(?)でスクリーンを追っていましたが、「終」マークが出て、そんな子どもの淡い夢は、木っ端微塵に砕かれてしまいました。映画館を出た後の後味の悪さと怒りの大きさは、未だに忘れられません。

人生には度々、「姑息」という言葉を実感するような場面に出会うことはありますが、わずか8歳で経験した、このときのものほど露骨で醜悪なものは、50数年の人生の中でも、二度と味わうことはありませんでした。

たとえ、期待を裏切るものであったとしても、一生懸命やった結果がそうであったのなら、それは見ている者や周りの人間にも伝わると思います。しかし、この作品に関して言えば、そんなものは微塵も感じられませんでした。

しかし、神様は、ちゃんと見ています。そんな大人たちの目論見は見事に外れ、観客動員は過去最悪で、内容も最低、儲けるどころかドル箱だったゴジラ・シリーズを危うくオジャンにしてしまうところでした。

「東宝チャンピオンまつり(昭和44年〜昭和53年)」も、まったくの同罪です。
「オール怪獣」をメインにしたのが第一回で、毎回、見かけ上は、3本から6本立ての豪華版でしたが、ゴジラ作品以外は、当時放映中のアニメの既に放送済みの回を劇場用に焼き直しただけのものが多く、あんなものが見たくて、子どもたちは、親に頼み込んで劇場まで連れて行ってもらったわけではありません。恐らく、見ていた、ほとんどの子は、こう思っていたでしょう。「このアニメ、早く終わらねえかな・・・」と。

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しかも、「オール怪獣」の3年後、昭和47年の「冬休み、東宝チャンピオンまつり」では、「怪獣総進撃」を改題し、「ゴジラ電撃大作戦」と別作品のように見せかけて公開し、子どもたちを騙しました。何度も見ている作品を、わざわざ劇場まで、お金を払って見に行く人はいません。そんな分かりきった話を、相手が子どもだと、「まあ、こんなもんだろう」と深く考えることなく、堂々と実行できてしまった当時の大人たちを、今さらながら筆者は軽蔑します。

何事もみみっちい平成と違って、昭和はでっかかった、というのが筆者の基本的な考えですが、もちろん例外もありました。その際たるものが、「オール怪獣」と「チャンピオンまつり」だったでしょう。何年か前に、製作者の田中友幸さんのインタビューを、どこかで読みましたが、そこで彼は、こんなことを言っていました。
「『(東宝)チャンピオンまつり』は、やってよかった。当時の子どもたちに、夢を与えられたと思う・・・」

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田中さんは、素晴らしい映画人で、何よりも「ゴジラ」という、かけがえのない大きな功績を残した人です。どの作品も、筆者は、わくわくしながら、その日を待ち、はやる気持ちを抑えつつ劇場に向かい、ドキドキしながらスクリーンに向かい、見終わった後も、大きな満足感を胸に家路に就いて、夜寝床にはいった後も、再び各場面を思い出しながら、深い眠りに落ちていきました。そんな素晴らしいひと時を、何度も与えてくれた田中さんには感謝の気持ちが絶えませんが、だからこそ、「オール怪獣」と「チャンピオンまつり」の「許せなさ感」は、際立っているのかもしれません。与えられた夢は、まさに悪夢だったのです。

大人が考えているほど、子どもはバカではありません。大人以上に鋭い感性でモノの良し悪しを判断し、ごまかしの裏にある魂胆を、ちゃんと見抜いています。
「子供騙し」では、子どもは騙せない、ということを当時の大人たちは悟るべきでした。

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幸い平成の世では、SNSの普及などもあって、あれほどの姑息なやり口を見かけることはなくなりましたが、少年時代に手酷い仕打ち(?)を受けたためか、筆者は、「誇大広告」や「不当表示」への耐性ができたようで、大人になっても、悪徳商法に引っかかるようなことはありませんでした。その意味では、「オール怪獣」も貢献していたのかもしれません。

このブログは、人様が作った作品を悪し様に言うためにやっているのではありませんが、昭和の子どもを代表して、生きている間に、これだけは言っておかないと死んでも死にきれないという止むに止まれぬ事情(ホントか!?)があったことをお許しいただきたいと思います。

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1984年6月、日本最大の暴力団、山口組が分裂しました。
山口組三代目の田岡一雄組長亡き後、空席になっていた四代目を、当時若頭だった竹中正久竹中組組長が襲名すると、これに反対する山本広・山広組組長を中心とするグループは、山口組を脱退し、一和会を結成しました。

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山口組四代目の竹中組長(左)と一和会の山広会長
「あさってのヒロちゃん」と呼ばれ穏健派だったはずが・・・

それに対して山口組は、8月23日、全国の交友団体に義絶状(絶縁状)を回し、これが一和会を大いに刺激して5年にも及ぶ長い抗争の幕が上がりました。絶縁状は、やくざにとっては死活問題で、これを放置すれば、極道として生きていくことはできません。

分裂当初、一和会は、構成員7000人で、山口組の6000人を上回っていましたが、山口組からの切り崩しは激しく、離脱や引退する者が続出して、半年後には、山口組14000名に対し、2800名にまで数を減らしていました。

危機感をもった一和会は、竹中正久組長暗殺を企て、翌1985年1月26日、4名の実行部隊が竹中組長以下3名を、竹中組長の愛人が暮らすマンションのエレベーター前で襲い射殺しました。「ヒットマン」という言葉が公で使用された初のケースだったと思います。

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このとき、山口組の若頭だった中山勝正組長も襲撃にまき込まれ死亡し、山口組は、トップとナンバー2を同時に失うことになりました。本来なら、「勝負あった」というところでしたが、一和会は、2の矢、3の矢を放つことなく、山広会長は、どこかに雲隠れして姿を見せなくなり、反して、山口組は、猛烈な報復攻撃を開始します。

一和会の組長たちは、先代の田岡組長と苦労を共にして山口組を大きくしてきた自負があり、「あんな若造の風下に立てるか」との思いが強く、業界の内外にも名の通った古参メンバーたちが集まっていました。一方の山口組は、まだまだ血気盛んな世代で、抗争で手柄を立てて認められ、「のし上がりたい」という人が多かったのでしょう。「現状維持」を目指した一和会とは、モチベーションが違っていました。

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一和会のナンバー2、加茂田重政理事長と山口組の渡辺芳則若頭(後の五代目)

結局、抗争は山口組の断続的な攻勢と一和会の散発的な反撃というパターンが続いた後、元号が平成に変わった1989年3月、一和会の山本広会長は自身の引退と一和会解散を表明し、戦いは終結しました。

この辺りまでの経緯は、どこででも読めますから、興味のある方は調べてもらえばいいのですが、今回は、このとき活躍した特定の報道機関について書いてみたいと思います。

抗争が始まる前から、実話誌等では、ヤクザ関連のネタや小説が一部の読者から熱狂的な支持を受けていましたが、それを不動にしたのが、この抗争でした。特に駅売りの新聞において、その傾向は顕著で、こういったニュースは、それまで「新大阪」や「内外タイムス」など、あまり聞いたこともないような夕刊紙でしか扱っていませんでしたが、竹中組長射殺事件をきっかけに、日刊スポーツなどメジャーなスポーツ紙でも取り上げるようになりました。

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特に、東スポの変わりようは劇的でした。東スポといえば、それまでは創刊以来、ずっとプロレスを一面で扱ってきましたが、80年代に入り、娯楽が増え、読者のニーズが多様化してきた時期と重なっていたこともあり、プロレスに代わる題材を模索していたのでしょう。そんなとき、タイムリーに勃発したのが山一抗争でした。プロレス・ファンと、ヤクザ・ファン(?)は、層がかぶるのか、書く方も、読む方も、特に混乱することなく、この路線転換は成功したと思います。時期を同じくして、日刊スポーツは、逆にプロレス報道に力を入れるようになり、両紙は、プロレス&ヤクザを売り物にしていくことになりました。

暴力団の抗争ですから、どこかで、誰かが死んでいるわけですが、作る側も、読む側も、記事の裏側で人命が失われていることなど、まったく気にしていなかったと思います。現実社会で日々進行している事態でありながら、何か別世界の話のような感覚で、このニュースに接していました。

抗争がヒートアップしていた時期は、襲撃事件が起こっているのに誰も死なず、ケガ人だけだったりすると、読者は落胆して、「なんだ・・、ヤクザのくせに、やる気は、あるのか?」と憤り、3人も死んだりすると、「きた、きた、きた、キター!さあ、どうでるんだ、一和会!?」と次なる展開に胸をときめかせて(?)いたものです。命の尊さを微塵も感じることなく、一般人が、ヤクザ顔負けの残酷な視線で抗争を追っていました。中には、「行け、行け、ぶっ殺せ!」等と殺人教唆一歩手前の見出しを付けた夕刊紙もあって、そんな新聞が堂々と街中で売られ、何の問題にもならなかった時代でした。

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明らかな殺人、残虐行為であったのに、被害者も、加害者も、どちらもヤクザでしたから、妙な安があったのも事実ですドラマや映画、小説は、所詮作り物ですし、かといって、実際に起きた一般の殺人事件では、惨たらしくて、楽しむどころではありません。平和な世の中で、そんなモヤモヤ感を吹き飛ばしてくれたのが、抗争関連のニュースだったのです。その昔、映画といえば西部劇や戦争モノで、どちらも派手に人を殺すのが最大の見所でしたが、それを現実社会で見せてくれたともいえるでしょう。

西部劇に、ビリー・ザ・キッドや、ワイアット・アープなど実在したスターがいたように、ヤクザ抗争にもスターはいました。竹中組長暗殺の実行犯リーダーだった長野修一同心会々長とメンバー3名、彼らを指揮した後藤栄治山広組若頭等は、その代表格であり、中でも、企画総指揮(?)を請け負った石川裕雄(やすお=読み方は、一部で議論になりました)一和会常任理事は、ヤクザ抗争界(?)のスーパースターだったといえるでしょう。

実話誌は、毎号のように竹中組長襲撃時の裏話や石川容疑者の過去のエピソード等を紹介し、彼の経歴や思想、人となりが読者の知れるところとなっていましたが、最新情報と称して、「石川(容疑者)、○○で潜伏か!?」の見出しと共に、「『これは、竹中を殺った縁起のいい銃じゃ・・・』と行きつけのスナックで女の子たちに語っていた・・・」などの証言が、まことしやかに掲載されていたものです。メジャー誌と比べ、経費も少ない同誌が警察も掴んでいないような情報を、どこから入手していたのかはわかりませんが、怪しげな極秘情報が頻繁に見られました。


また週刊実話では、当時、同時進行ルポ(?)を掲載していましたが、どうでもいいような「お詫び&訂正記事」が、よく載っていたものです。
「先週号で、『見張り役の○○組員』と報じましたが、○○組員は、襲撃に参加していました。関係者に多大なご迷惑をおかけしたことをお詫びすると同時に、訂正させていただきます。誠に失礼いたしました・・・」と、これ以上ない丁重な文面でした。

ご迷惑もなにも、襲撃に参加していたのに、見張り役扱いされれば、法的には、かなり罪が軽くなって、本人には有利になるはずですが、それは、「カタギ」の人の論理のようです。同誌は、関係者の間では、「極道界の朝日ジャーナル」とも呼ばれていた(?)ようで、毎週発売日を心待ちにしていた組員が大勢いましたから、そこで「見張り役(つまり、格下)」扱いされれば、やくざとしての面子がたちません。恐らく、編集部には激烈な抗議電話がかかってきたのでしょう。3大新聞とその系列のテレビ局が、メディアの頂点にいるとすれば、その対極にあったのが、これら、「社会の末端情報関連報道企業&ライター」でした。

石川容疑者は、事件から1年半後の1986年7月、福岡県のゴルフ場で逮捕され、無期懲役の判決を受けて現在も服役中です。事件は既に風化しており、山口組の幹部や組員たちから命を狙われることもなく、彼は、業界のレジェンドとして、所内でも、「顔」になっているといいます。同じ旭川刑務所に服役中の山口組系の組員たちからも慕われている(?)ようで、「石川先輩とは、一緒にバトミントンさせてもうた」という証言まで残っています。「親(自分の親分)の親(山口組の現組長)の親(同前組長)の親(故竹中組長)の仇」というより、「筋を通した極道の鏡」として、後輩たちの尊敬を集めているのでしょう。

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逮捕、連行される石川容疑者

一方、もう一人のスター、後藤栄治容疑者は、全国指名手配されたまま現在も逃亡中で、生死すら定かではありません。もしも消されていたのなら、それを誇示するために、山口組側から情報がリークされるはずですから、病死していなければ、まだ、どこかで健在ではないでしょうか。

一和会側にとっては、そして、ヤクザ抗争ファン(?)にとっても、石川さんと並んで最大の功労者のはずですが、巷伝えられる評価は芳しくありません。原因は、事件後に出した山口組への「詫び状」にあります。

後藤容疑者は、二代目山広組の若頭を務める一方で、自身が率いる後藤組の組長でしたが事件後、山口組に腹心の吉田若頭を拉致されてしまい、「吉田を助けたかったら、引退せいや」という山口組の脅迫に屈する形で、詫び状を提出し、兵庫県警に組の解散と自身の引退を伝えました。これが、ヤクザ界でいうところの「男を下げる」形となって、低い評価に甘んじているものと思われます。

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サラリーマンとしても通用しそうな後藤容疑者の正装姿

しかし、実態がはっきりしない石川さんの悟道連合会と違って、山広組は、業界内では名が通っており、会社で例えれば、一部上場企業ともいえますから、一匹狼のようなイメージのあった石川さんとは、自ずと立場は異なるでしょう。

企業犯罪などのケースでは、部下を裏切って自分だけ助かろうとする上司が多い中で、たとえ男を下げることになったとしても、自分に付いてきてくれた者を何が何でも守る、という姿勢は、任侠界のみならず、一般の社会でも、人として立派な行為だと思われます。

部下の危機を知った後藤容疑者は、山本広会長宅、一和会本部、二代目山広組本部に電話を入れ、救援を求めましたが、いずれも、「責任者が不在」等の理由で連絡が取れなかったといいます。こんなところにも、抗争で一和会が惨敗した原因が見て取れますが、「見放された」と感じた後藤容疑者は、断腸の思いで山口組に詫び状を郵送したのではないでしょうか。後藤さんを見ていると、組織の非情さや上に立つ者の保身と、自身の部下に対する責任との板ばさみに苦しむ中間管理職の悲哀が痛いほど感じられます。

捜査当局は、国外逃亡の可能性もあるとして、在外の大使館等に指名手配のポスターを貼っており、筆者もバンコクの日本大使館領事部で、後藤容疑者を手配するポスターを見かけたことがあります。肩書き(?)は、「暴力団組長を射殺した犯人」でした。

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遺族の方々の無念は未だに癒えていないかもしれませんが、後藤さんにとって、30年以上の逃亡生活は、逮捕されたり、報復で惨殺されたりする以上の苦しみがあったと思います。残り少なくなった人生ですが、最後の花道として、自首されて、抗争の発端から射殺事件までの詳しい経緯、部下や親分たちへの思い、そして、ヤクザの世界で生きる・・・、生きようとしている若い人たちのために、今の偽らざる心境を記しておいていただきたと思います。

そして、記事で抗争を煽り、稼いでいた報道機関なら、採算を度外視してでも、それを掲載してもらいたいと思います。また、当時、抗争関連の記事を読んで盛り上がっていた人たちは、立ち読みやネット検索でタダ読みしようなどと思わず、昭和の時代はそうだったように、ちゃんとお金を払って購入し、読んでいただきたいと思います。

それが抗争で死んでいった人たちへの最低限の礼儀ではないでしょうか。

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フライデー襲撃事件から30年が経過しました。

1986年12月9日午前3時ごろ、愛人の専門学校生Aさん(当時21歳)への行き過ぎた取材に腹を立てたビートたけしさんは、たけし軍団のメンバー11名と共謀して、文京区音羽の講談社本館、フライデー編集部に殴り込みをかけました。

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たけしさんは襲撃前、軍団メンバーに、「手を出すな」と言った・・・とも伝えられていますが、それは恐らく真実ではないでしょう。たけしさんら12名は、4人ずつ、3台のタクシーに分乗して目的地に向かいましたから、後に、たけしさんが自署で記したように、「一発殴って終わりにして、編集部員も含めてみんなで飲みに行くつもりだった」のなら、本人は、弟子の運転で愛車のポルシェ(当時)に乗っていったでしょう。暴力事件に発展し、全員逮捕されるのを見越していたからこそ、タクシーで行ったのではないでしょうか。

事件は、赤坂や六本木ではなく、文京区という清楚なイメージのある地域で起こりました。襲撃前に、たけしさんがお酒を飲んでいた場所がどこなのかはわかりませんが、タクシーでの移動には、それなりに時間がかかったと思います。車窓から見える風景が、だんだん静かに、暗くなっていく中で、ふと冷静になり、「やっぱり、やめよう。オイ、ねえちゃんのとこに行くぞ。(札束を弟子たちに握らせながら)お前らは、これやるから、どっかで飲んでけ」となっても不思議ではありません。

しかし、当時は携帯電話の普及前でしたから、出発地点で別れてしまえば、「なんか、やべーなぁ・・・」と頭を過ぎり、思い止まろうとしても、それを仲間に伝える術はありません。現場に着いてしまった後で、「やっぱり、やめた」では、相手の講談社側はもちろんのこと、味方の軍団メンバーからも、「師匠も、意外と意気地がないんだな・・・」と軽く見られてしまいます。酒の勢いもあってメンバーに召集をかけ、車に乗り込んではみたものの、たけしさんは、道中ずっと気が重かったのではないでしょうか。

軍団は、まだまだ独り立ちには及ばず、参謀格(後のダンカンやガダルカナル・タカ)も育っていませんでしたから、「殿、やめましょう」と進言できる人がおらず、本来なら、その役は一番弟子である、そのまんま東さんが務めねばならないのですが、当人の性格もさることながら、当時の圧倒的な立場の差がそれを阻んでいました。

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軍団単独での番組も始まって、東さん以外のメンバーも襲撃には消極的だったでしょうから、たけしさんは、ずいぶん罪作りなことをしましたが、無名時代から大いに彼を評価していた横山やすしさんも、師匠が私生活上の問題に弟子を巻き込んだ点を指摘して、「抗議なら、ひとりで行けばええんや」と語っていました。

正に、そのとおりなんですが、たけしさんの愛すべきところは、そういう男らしくない点や、指摘されては困るような話について、事件後の釈明会見で問われると、あっさり、「一人で行くのは、おっかなかった・・・」と認めてしまったことです。そう言われてしまえば、取材する側も、それ以上聞きようもなく、批判的な立場にいた人も、「・・・正直なんだな」と感じて、必要以上に悪い印象は持たないでしょう。最近は、「溝に落ちた有名人は徹底的に叩け!」が合言葉になっている感すらありますが、昭和の報道界は、「引き際」がわかっていたのかもしれません。


そうはいっても、本人や所属事務所、彼らの番組を放映していたテレビ局が、なあなあで済ませて、早期決着を図ろうとしていたのは、残された会見映像を見ても明らかで、それには、さすがに各方面から批判の声が上がり、軌道修正せざるを得なくなりました。右翼団体等からも、相当な嫌がらせを受けたようで、結局、判決が下りるまで8ヶ月間の謹慎、芸能活動自粛ということになりました。どうしてここで右翼が出てきたのかはわかりませんが、事務所が対応できず、たけしさんは、自分で話をつけたということです。

注目すべきなのは、たけしさんが犯行を思い立った直接のきっかけが、女房、子どもの為・・・ではなく、若い愛人のためだったことです。伏線として、娘さんが志望校の面接に向かう途中を写真に撮られ、学校側から、「そんなことでは、入学させられない」と注意された事実はあったようですが(公判での、たけしさんの証言より)、今なら、「愛人・・・」という時点で、報道陣に囲まれ、強引な取材に遭うのは、相手の女の子ではなく、たけしさん本人だったでしょう。

そもそも真夜中に、大手出版社に大人数で押しかけ、すんなり入館できたことが、まず不思議です。殴りこみですから、ある程度いきりたって、目も、それなりに血走っていたのではないでしょうか。一見して、異様な雰囲気はあったと思います。浅間山荘事件(1972年)や三菱重工ビル爆破事件(1974年)は既に起こっていましたが、80年代は景気がよかったこともあって、まだまだ平和な時代でした。

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残念だったのは、写真週刊誌の編集部なのに、深夜でカメラマンがいないという事情は分かるにしても、誰一人としてカメラを持っておらず、一枚の写真も写していなかったことです。報道に携わる者として、あってはならない不祥事でした。すぐに警察を呼ぶなど言語道断で、カメラマンが到着するまで時間を稼ぎ、乱闘を引き伸ばそうとは思わなかったのでしょうか。事件の7年後にドーハの悲劇が起こりますが、日本人は緊迫した場面で、のらりくらりとかわすテクニックを持ち合わせてはいないようです。

事件後の記者会見で、「言論の自由への挑戦・・・」等と、評論家みたいなことを言っている暇があるのなら、なぜ一枚の写真が取れなかったのか・・・・。数ヶ月間引っぱれる特大のネタを目の前にしていながら、どうして、みすみす、やり過ごしてしまったのか・・・。なぜ、自分たちの職務や商業目的を忘れ、「ただの被害者」になろうと思ってしまったのか・・・。後に、「不肖・宮嶋シリーズ」で名を成す報道カメラマン、宮嶋茂樹さんは、当時、フライデーに所属していたそうですが、もしかしたら、この事件と編集部の失態がヒントになって、写真集「死んでもないのに、カメラを離してしまいました」が生まれたのかもしれません。

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フライデーは、たけしさんの愛人に怪我を負わせるくらい、しつっこい取材活動を行っていたのですから、たけしさんから恫喝電話がかかってきたのなら、「待ってました!」と喰らいついて、「来るなら、来い」と誘い出し、万全の取材・撮影体制を整えた上で、襲撃に来たところを、バシャバシャバシャ・・・っと一斉射撃ならぬ、一斉連写で返り討ちにして、「たけしさん、警察は呼びませんけど、民事で争ってもらいます。んでもって、その様子をうち(講談社)の独占でやらせてください。手記も、どうですか。我々も、大いに反省しましたんで、今後は愛人報道を自粛させて頂きます。お互い賢くなって、大いに儲けましょうよ」、それくらい言えなかったのでしょうか・・・?

逆に今は、素人が、いつでも、どこでも、動画が撮れる時代です。写真なら、ごまかしの効く場面でも、動画では、そうもいきません。弟子が必死の形相で殴りかかっている横で、緊張した表情の師匠が、ぼさーっと突っ立っているような画面なら、まだ救いがありますが、もしもテレビでは決して見せられないような凄まじい形相で、人格を疑われるような危ない単語を連発して指揮を執っているような場面だったりしたら、芸人生命を奪われることになったのではないでしょうか。

結局、フライデーは、被害者であるにも関わらず、なんら同情されることなく、むしろ顰蹙を買って、この事件以降、発行部数が徐々に降下していきました。一方のたけしさんは、この事件を肥やしにしたかのように、復帰後も精力的に活動の幅を広げ、今では、芸人やタレントの枠を大きく超えて、日本を代表する文化人、言論人といった評価を受けるまでになりました。

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しかし、そんな、たけしさんも、その後の世の中の趨勢を、ずいぶん甘く見ていたようで、筑紫哲也さんとのインタビューでは、こんなことを言っていました。
「これはね、何年かたったら実に間抜けなお笑いの事件になってると思うよ」
「20年もたったら、こんなことが何で事件になるんだっていう感じだな」
「おれと講談社、両方とも笑われるっていうか、それと同時に、その当時の日本というものが、すごい笑われると思うけどな」
しかし、事件から30年経って改めて感じるのは、たけしさんが考えていたのとは、まったく逆の方向に世の中が動いているような気がすることです。

・人気芸人が大手出版社を真夜中に襲い集団暴行
・動機は、(妻ではなく)愛人への強引な取材
・大ニュースになりながらも、半年後に執行猶予付き判決を受け、あっさり芸能界復帰
・その後も、どんどんポジションを高め、ついには日本を代表するビッグに

「実に間抜けな・・・」どころか、平成の世では、けっして許されることのない不祥事とその顛末は、当時を知らない若い人たちが驚愕するような内容ばかりで、「両方とも笑われる・・・」というよりも、「うーん・・・」と考え込ませてしまうような出来事でした。これだけの事実の上に、現在のたけしさんの地位がありますから、昭和という時代の寛容さ、大きさを、改めて感じますが、どうも、それだけでもないように思えます。

この項を書こうと、いろいろ調べているうちに、おかしなことに気付きました。
まず、ネット上で検索できる画像、映像が極端に少ないと思います。この事件は、芸能ニュースのレベルをはるかに超えて、社会問題にもなっていましたから、暴行現場の写真がないとしても、それ以外の写真や映像は、山のように残っていてしかるべきですが、他のニュースでは、簡単に見つけられる翌日のスポーツ紙の一面写真等が、どこにも見当たりません。当時の雰囲気を窺い知れるニュース映像やワイドショーの場面などの「一級資料」も、ことごとく削除されてしまったのか、まったく見当たらず、まるで、後年書かれた文章(2級資料)でしか読めない「歴史上の出来事」のような雰囲気さえ漂っています。


見れるのは、事件後の釈明記者会見ですが、そこに寄せられているコメントが、すべて、「かっこいい」「筋が通っている」「まさに男」・・・等々と、たけしさんを称賛する内容オンリーです。どんな素晴らしい政策を行っても、10%程度の反対票は確実に存在するのが健全な民主主義社会の常識だそうで、実際、日本共産党の議席数の推移にも、それは表れていますが、ネット上に浮かび上がるフライデー襲撃事件に関する、たけしさんへの評価は、まるで北朝鮮の人民投票並みの一糸乱れぬ様相を呈しています。

ネット・ユーザーの意見がたまたま一致しているのか、炎上を恐れて、本音を書けないのか、それとも、別の理由があるのか・・・。
事件後、右翼団体から、執拗な嫌がらせを受けた、たけしさんですが、相手の団体は、今、何をやっているのでしょうか・・・。

大手メディアに頼らずとも、個人が自分の意見や考えを発信できるSNSは、時として、世論に大きな影響を与えますが、過去の問題や人々の関心が薄いトピックスでは、時間、手間、金をかければ、ある程度の「操作」が可能なのかもしれません。

ネット情報には、そういった裏事情も含まれている・・・と頭に置きながら、記事を読んでいく必要があるんじゃないでしょうか。

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かつての相棒きよしさんと一緒にいるときの表情が一番穏やかで素敵です。

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スポーツに限らず、ビッグ・ビジネスを目指すなら、ニューヨークを押さえねばならず、ニューヨークを制した者が全米を制し、いずれは、世界を制覇することになりますが、プロレス界では、長い間そうなりませんでした。中心は、常にセントルイスだったのです。

セントルイスに本部のあったNWAは、日本のプロレス・ファンには大組織と見られていましたが、元々は、アメリカ中西部のローカル・プロモーターたちが、大都市のプロモーターに対抗する必要上、徒党を組んだのが始まりだったようです。

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闇カルテルで、何度かやり玉に挙がったように、自分たちのテリトリーへ、商売敵が入り込んでこないように団結していた性格が強く、業界全体のさらなる発展を積極的に推し進めていくような組織ではありませんでした。一応、本部があり、役員がいて、世界王者を認定していましたが、その他の部分では、各会員の裁量に任されていましたから、地方分権だった江戸時代の政治形態に近かったように思います。

ニューヨーク地区はNWAには加盟していましたが、大会場であるMSGの観客を満足させるには、NWAで主流の、ちまちまとしたテクニックの応酬では難しかったようで、世界王者のルー・テーズがニューヨークに遠征してきたときも、アントニオ・ロッカやバディ・ロジャース以外のレスラーと対戦する場合は、セミファイナルで戦うことになりました。レスリング技術は稚拙でも、見た目派手で客が呼べるロジャースやロッカが常に重用されていたのです。

ニューヨークが、それほどNWAを必要としていなかったこともありますが、ニューヨークやシカゴ、ロサンゼルスといった大都市のプロモーターたちは、NWAの内部では、一時期を除けば、ずっと反主流的な扱いを受けていました。それでも、ニューヨークのボスだったビンス・マクマホン氏(悪のオーナーのお父さん。昭和のプロレス・ファンは、息子には、jr.を付けるは、他のマーケットに進出してテリトリーを拡大しようとはしませんでしたし、他団体の侵略を何度か受けましたが、いずれも撃退して、自分の縄張りを守りきっています。80年代に入るまでのプロレス界は、各地のプロモーターが自分の城に篭って、侵略せず、させず・・・と太平の世に浸っていました。

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しかし、そんな平和な日々が終わりを迎えるときがプロレス界にもやってきます。
1982年、父からWWF(1979年にWWWFから改名し、後にWWE)の親会社であるキャピトル・レスリング・コーポレーションの株式を買い取ったビンス・マクマホン・ジュニアは、AWA(NWAに次ぐ第2勢力)からハルク・ホーガンを引き抜くや、1984年、アメリカ全土への侵攻を開始しました。

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WWFの全米進行作戦が始まった当時、ほとんどのプロレス・ファンや関係者は、それまでのプロレス界の秩序を崩壊させるほどの大事に至るとは考えていませんでした。WWFが・・・のプロモーションを買収した」「WWFが・・・選手と契約した」「WWFが・・・で興行を打った」と単発的に入ってくるニュースの関連性に気付いた人は、少なかったと思います。「全米侵攻作戦」は、単語としては認知されつつありましたが、それと個々のニュースが一体であったとは、なかなかイメージできませんでした。

当時、日本に3つもあったプロレス週刊誌は、どこもこのニュースを追っていませんでした。プロレス・マスコミの関心は、もっぱらタイガーマスクの引退や新日クーデター事件、UWF、世紀末マネージャーの大暴れなどに集中し、今にして思えば、そのすべてがプロレス史の大きな流れの中では、あまり意味のないものでしたが、アメリカで起こっていた大異変、大変革の核心部分であるビンス・マクマホン・ジュニアの野望と、そのとてつもない大きさを、理解していた編集者やライターは皆無だったでしょう。スキャンダラスな見出しと記事で、部数を伸ばすことだけを念頭に置いたような誌面作りをしていました。ですから、かなり気合の入ったファンでも、全米侵攻作戦の詳しい緯や全容を知る人は少なかったと思います。

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筆者も同様で、個人的にプロレスから関心が遠のきつつあった時期だったこともありますが、リアル・タイムで事態が進行していたときは、まったく気付かず、ずいぶん経ってから、「そういえば、NWAのタイトル・・・どうなった?」と思い出したような有様で、恐らく、多くのファンが、これと似たようなレベルだったのではないでしょうか。

そして、いよいよWWFの勢いが鮮明になってきた頃には、NWAも、AWAも、事実上、消滅していました。権威とみられていた両団体ですが、ごく短期間で、成すすべもなく崩壊していたのです。AWAは、WWFに買収され、ボスのバーン・ガニアは自己破産申請し、NWAのプロモーターたちは、オフィスを畳んで引退するか、WWFに身売りしました。ただ一人、ノースカロライナのプロモーターだったジム・クロケット・ジュニアだけがWCWを起こして対抗しようとしましたが、すぐに力尽き、巨大資本に飲み込まれていきました。

プロレス界の江戸幕府崩壊→維新政府樹立といったところでしたが、事態の進行中は、ほとんど注目されなかったのは、WWFの指揮官であるビンス・マクマホン・ジュニアが当時のプロレス・ファンから侮られていたのが理由ではないかと筆者は考えています。

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1990年代に入るまでは、WWFの中継を日本で見ることはできませんでしたが、マクマホン・ジュニアは社長になる前からプロレス雑誌には頻繁に登場していました。リング・アナ姿や実況席での様子がよく紹介されていましたが、写真から受けた彼の印象を一言で表現すれば、ダメなボンボン・・・だったような気がします。父のマクマホン氏と比べると、いかにも頼りなく、仕事もできないのに親の威光で現場に入り込んで、レスラーたちの足を引っぱる、不肖の二代目といったイメージでした。タイプとしては、北朝鮮の金正日に近いものがあったと思います。

プロレス・ファンは、自分の努力で這い上がってきたきたレスラーには熱い声援を送りますが(長州力や天龍)、誰かのプッシュで上にいる選手(ジャンボやスペース・ローン・ウルフ時代の武藤など)を気嫌いする風潮があります。そして、マクマホン・ジュニアは、まさに、そういうキャラでした。ですから、彼が指揮を執るWWFの拡大に、ファンは、「きっと、うまくいかないだろう・・・・」「いや、うまくいくはずがない」「絶対に、うまくいかすわけにはいかない・・・・」と思っていたのではないでしょうか。

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しかし、そんなイメージからは想像もできないほど、マクマホン・ジュニアは有能で大胆でした。昭和のプロレス・ファンが想像もできないような斬新なアイデアで勝負し、次々に結果を残していきました。そして、あっという間にお父さんから買い取った会社を、数倍、数十倍と大きくして、借入金も返し終え、押しも押されぬ大経営者と呼ばれるようになりました。醜いアヒルの子は、立派に成長し、見違えるほど美しい白鳥に育っていたのです。

全米侵攻作戦を語るとき、忘れてはならないのが、あれが単に、セントルイスから常に反主流的な扱いを受けていたマクマホン・ファミリーの親子3代に渡った鬱憤の復讐劇であるとか、他のテリトリーを分捕って、自分の縄張りを大きくした、といった次元に止まらず、それまで、程度の低い連中しか見ない下劣な八百長ショーという社会的評価に甘んじていたプロレス(特にアメリカ)・・・、大資本家が決して手を出そうとはしなかった、効率が悪く、世間体も悪い、場末のビジネスと思われていたプロレスを、押しも押されぬ一級のエンターテインメントに仕立て直し、巨大ビジネスに生まれかわらせたのが、マクマホン・ジュニアだったということです。

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そして、もう1点、忘れてはならないのが、WWEは、自分たちの試合が、筋書きのあるドラマである、という事実を、カミング・アウトしてしまったことです。鉄人と呼ばれたルー・テーズがデビューした1930年代には、既にプロレス界では、ほとんどリアル・ファイトは行われていませんでしたが、それを口外することは、業界最大のタブーでした。誰もが感づいていたことでしたが、外部の者には、レスラーも、関係者も、「真剣勝負だ」と言い張っていたのです。そうしないと、プロレスが滅びてしまうと、皆が信じていました(ルー・テーズ談)。ところが、WWEは、あっさりと、それを認め、会社の定款にも、堂々と書かれているといいます。そして、潰れるどころか、ますます盛況で、勢いが衰える気配はありません。

マクマホン・ジュニアは、髪切りマッチに破れて、つるっ禿げにされ、ピストルで脅されて、チビってしまったり、大の字、流血当たり前、自身の不倫だけでなく、家族の揉め事、不祥事、性癖など、全公開した挙句、過去のビジネス上の失敗(実話=フットボール・リーグ結成等)まで、すべて曝け出して会社を大きくしてきました。ここまで体を張れるCEOは、世界広しといえども、彼以外には、一人もいないでしょう。

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昨年の大統領選では、トランプ氏が勝利しましたが、プロレス界の法則=髪切りマッチで破れた方が人気は上・・・でいくと、マクマホン・ジュニアは、ドナルド・トランプ氏より格上ということになります。トランプ氏がどこかでしくじれば、4年後に共和党から出馬・・・、うまくやっているようなら、8年待つか、あっと驚く民主党からの立候補で大統領を目指すのではないか・・・・と筆者は密かに期待していますがどうなるでしょうか。

プーチンさんとの異種格闘技戦で勝った方が日本を取る・・・そんな日がやってくるかもしれません。

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どうする、ニッポン!?

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