アンダマンナイト

南の島から言わせてもらおう
森友・加計問題に隠れて、あまり目立ちませんが、とんでもなさでいえば、こちらの方がはるかに上回っているでしょう。自衛隊の日報問題です。

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昨年5月、南スーダンから撤退したPKO部隊

こちらも、あった話を「ない」ということにして嘘をつき、その嘘を隠すために、また嘘をつき、という構図は同じですが、森友も、加計も、火元は安倍さんですから、彼が政治責任をとり、再発防止のための法案を整備すれば、とりあえず一件落着という体裁だけは整います。しかし、そう簡単にはいかないのがPKOの日報問題でしょう。

2016年7月10〜11日の南スーダンの首都ジュバの状況は、
・自衛隊の宿営地(UNトンピン)を挟むように陣取った南スーダンの政府軍と反政府軍との間で銃撃戦が始まる
・戦闘から逃れようとした避難民がPKO部隊の宿営地UNハウスに逃げ込み、反政府軍がそれに攻撃をしかけ、中国兵2名が死亡
UNトンピンにも避難民が群がり、それを受け入れたルワンダ軍に反政府軍が砲撃
・やはり銃撃を受けたバングラデシュ軍(自衛隊のすぐ隣)が応戦して交戦状態に突入
・遂には自衛隊も、警備を担当する隊員に、「身を護るために必要なら、撃て」と指示を出した。

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2000人の避難民を受け入れた中国軍の宿営地が攻撃を受け、死者を出した

PKO部隊派遣の前提が大きく崩れているだけでなく、自衛隊が創設以来初めて武器を実戦使用するかどうかの瀬戸際でしたから、もしも本当に日報を破棄していたら別の意味で大問題です。そんな見え透いた嘘を平気でつける神経を疑うと同時に、隠蔽は、南スーダンだけでなくイラクでも行われていましたから、一内閣だけの問題とは言えず、誰が総理になっても普通に行われていた可能性があります。政治家の責任というより、もっと根が深く、しかも放っておくと、いつか福島原発のような大問題に発展する可能性もありますから、ここは要注意でしょう。

1993年には、日本初のPKO活動であるカンボジアで、2名の尊い命が失われました。

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貧乏くじを引いた小野寺防衛大臣
単にシビリアン・コントロールの問題なのか、それとも、もっと複雑なものが裏にあるのか・・・

湾岸戦争(1990年8月ー91年)で、「日本は、お金だけだして血を流そうとしない、けしからん」国際社会から非難を浴びて、その後、国際貢献という言葉が流行語のようになりました。そして、時の日本政府と自民党(小沢一郎幹事長)は、「憲法があるので、武力行使はできないが、国連の平和維持活動になら貢献できる」ということで、PKO法案の制定を目指すことになります。

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一・一ライン(小沢氏&市川雄一公明党書記長)は、1993年の政権交代も主導

PKO法案の5原則は、簡単に纏めると以下の通りです。
・紛争当事者間で停戦合意していること
・当事者がPKOと日本の参加に合意していること
・中立的立場を厳守する
・上記の条件が満たされない場合は撤収できること
・武器の使用は必要最小限のものにすること

公明、民社両党が自民党に協力したため、法案の可決は決定的となり、ここで出てきたのが、今でも語り草となっている牛歩戦術でした。当時の左翼陣営は崩壊一歩手前という状況で、保守も、右も、押せ押せムードの中、筆者(当時30歳くらい)も、「そうだ、国際貢献だ。日本だけ何もやらんのでは、世界に顔向けできん。社共の連中は、いったい何を考えているんだー」と、憤っていたわけですが、今にして思えば、「国際社会」といっても、騒いでいたのはアメリカ(の一部)くらいで、別に日本が参加しようがしまいが、それで主要関係国から経済制裁されるなどのデメリットは何もなかったでしょう。

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1992年6月、PKO法案可決
1議案の採決で、13時間、11時間と費やし、壇上で背伸びの運動をする議員も、ここからさらに、数十分粘った?

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カンボジアで内戦を終わらせる前に、国会が内戦状態に・・・。後の総理・菅直人さんも、大暴れだ
「離せ」「ダメですよ・・」「邪魔するな」「だから、ダメなんですよ」「ふざけるな」「やめてください」・・・声が聞こえてきそうな一枚

大騒ぎの末に、なんとか成立したPKO法案の下、日本の軍隊が戦後初めて海外に派遣されたのがカンボジアでした。カンボジアは、大虐殺を行ったとされるポル・ポト政権崩壊(1979年1月)後、ベトナムの支援を受けるヘン・サムリン政権と、中国寄りのポル・ポト派(クメール・ルージュら、反ベトナム3派による内戦が長く続いて、国内は疲弊し、1989年のベトナム軍撤退、1991年1月のパリ和平協定を経て、1992年から国際連合カンボジア暫定統治機構(UNTAC=アンタック)による統治が行われていました。そして、翌年に実施予定の民主選挙を控えた1992年9月、自衛隊のカンボジア派遣が実現したわけです。

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映画「キリング・フィールド」で有名な虐殺だが、実態、詳細は、分からないことが多いようだ

筆者も、世界に貢献する平和国家・日本の輝ける第一歩となる初のPKO活動に昂ぶっていたのか、生まれたばかりの赤ちゃんと嫁さんを放り出して(?)、カンボジアに向かいました。

バンコクで格安航空券を購入し、首都プノンペンに飛んで空港でVISAを取り、安宿に向かうと、そこには、7、8人の日本人が滞在していました。ほとんどの人がアンコール・ワット目的のようで、このあとシェムリアップに移動するといいます。プノンペンに限れば、街の様子は落ち着いており、戦の傷跡もほとんど感じられませんでした。

筆者は、観光地には興味がありませんでしたから、自衛隊の駐屯地であるタケオ(プノンペンの南約60キロ)を目指しましたが、やはり気になったのは、ポル・ポト派の動向です。ポル・ポト派は勢力が衰えたとはいえ、知名度(=悪名)は抜群でしたから、観光客からも恐れていましたが、プノンペンで外人相手に稼いでいる人たちにとっては、必要不可欠な存在だったようです。街中で、ちょっとした尋ねごとをすると、必ずポル・ポトの名が出てきました。

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首相時代のポル・ポト氏
原始共産主義(!)の実現を目指した

タケオに行きたい? 危ない。ポルポトの残党がウジャウジャいるぞ。オレがガイドしてやる」
「市場で買い物する? それも危ない。去年、ポルポトがバンバンやった(銃乱射のこと)。オレが(有料で)買ってきてやる」
「人気のレストランに行く? やめとけ。先週ポルポトが、メシ食ってたぞ(ウソつけ!)。オレがいいレストランを紹介してやる」
「そんなとこで、ウ○コしてたら、ポルポトに見つかって死刑だ(これも、絶対にウソだ!)。うちのトイレを500リエルで使わせてやる。タイの金なら、20バーツだ」

商売人たちは、二言目にはポル・ポトで、いたる所でダシに使われていまたが、当の本人は、5年後の1998年4月に、グループ内で裁判にかけられ、ほぼ同時期に死亡しています。プノンペンでアコギな商売をしていた人たちは、きっと、「惜しい人を亡くした・・・」と悔やんだことでしょう


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裁判を受ける晩年のポル・ポト

街でオンボロバイクを借りて(確かタイバーツで一日200バーツ程度=当時のカンボジア経済は、タイ経済とリンクしていたようです)、ところどころ、爆撃、砲撃でできた大穴を迂回しつつ、荒れ地に目を向けると、ガイコツ・マークに「DANGER」と書かれた地雷原注意の立て看板が目に入ります。そんな国道2号線をガタガタ揺られること約3時間、ようやくタケオの街に辿りつきました。  

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プノンペンから離れると、到るところに、この立て看板が・・・

街中の道路に、英語で標示が出ていましたから(UNTACの人たちが迷わないよう配慮)、すんなり自衛隊宿営地にたどり着きましたが、入り口の前まで来て重大なことに気付きました。
「そうか・・・、自衛隊も、軍隊だったんだ・・・」

「自衛隊」「軍隊」などと活字で書くだけなら何ともありませんが、バーンと目の前に現れると、なかなか威圧感があります。いってみれば、暗い夜道で、アンドレ・ザ・ジャイアントとすれ違ったときの感覚でしょうか。

入り口には門番というか、ちゃんと衛兵がいて立哨警備し、銃も携行していました。以前、訪れた東ベルリンの東ドイツ兵(恐かったなあ・・・)ほどではありませんが、それでも、近寄りがたい雰囲気は十分すぎるほど漂っています。そのへんの兄ちゃんが、いきなり訪ねていって、入れてくれそうなムードは皆無といってもよく、このまま立ち去ろうかとも思いましたが、せっかく地雷原を突破して(?)、ここまで来たわけですから、ダメ元で聞いてみました。

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自衛隊は、主に国道や橋の補修を受け持った

「あのう・・・、日本から、見学に来た日本人ですけど、あのう・・・見学させてもらえませんでしょうか・・・、日本人です、はい」と、聞かれてもいないのに、やたら「日本人」であることを強調し、説明すると、兵隊さんは、内線電話で確認をとって、中に入れてくれました。嬉しかったのは勿論でしたが、今考えると、あんなに簡単に入れちゃって大丈夫なんでしょうか。

中に入ると、将校さん(確か、一等陸尉=大尉、階級が上の人が出てきて恐縮しました)が現れ、「ジャーナリストの方ですか?」と聞かれたので、「まあ、そんなものです」と嘘を付き、その場を取り繕いました。「ただのヤジ馬です」とは、とても言えなかったからです。筆者が訪れた数日前に、数名の記者や森田健作参議院議員(当時)も来ていたということでした。

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白地にUNの文字が鮮やかなPKO部隊の車両
道路に穴・・・というより、ゴジラに引っかかれた(?)ような大きな裂け目がところどころに・・・

兵たちが寝る大テント、将校が寝るプレハブ=将校さんの自室を見学。大尉クラスだと、二人一部屋でした・・・)、娯楽室、食堂と通され、売店で記念に、UNTACのネーム入りTシャツを購入して、基地を離れました。みなさん親切で、とても良い印象を持っただけでなく、日本の自衛隊が、世界平和のために活躍している・・・、そう思うと誇らしい気持ちにもなりました。

ところが・・・
その僅か1ヶ月半後の4月8日、カンボジア北部(プノンペンから見て、タケオの真逆に位置)のコンポントム州で、国連ボランティアの中田厚仁さんが何者かに襲われ死亡し、その翌月の5月4日には、文民警察官の高田晴行さんが北西部のバンテイメンチェイ州で襲撃され死亡しました。やはり、PKO部隊が必要ということは、それ相応に危険があるわけで、筆者も、もっとパリッとした身なりだったら、危なかったかもしれません。海外では、「貧乏くさい格好に限る」と改めて感じました。 

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殺された中田さん。小学校時代、4年間、ポーランドで暮らしたという

日本政府がかなり根回ししたためか、自衛隊の担当地区は、本当に長閑で恵まれていたと思います。しかし、状況というのは固定されることなく、常に変化し得るものですから、それに対応できる体制が、はたして作られていたのか・・・。散々大騒ぎして送り出した自衛隊とPKO要員でしから、任務終了までは、何が何でも留まるべし・・・という意識はなかったのか・・・。振り返ってみれば、様々な問題が浮かび上がってきます。

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高田さんの遺体を運ぶ文民警察隊とオランダ軍兵士

一応、PKO法案の建前としては、ガイドラインを決めて、それに沿って自衛隊の派遣が決定され、もしも前提が崩れたら撤退することになっているはずです。しかし、本音では、日本を普通の国にする、普通に軍隊を持ち、軍が国際協力(=という名のアメリカ追従・同調)して海外で戦闘行為に参加できる状況を早く作りたい・・・、そのための準備としてのPKO活動で、当分の間は、平和国家・日本の平和的な部隊が平和活動を行うことで実績を重ね、国民の理解を深めていきたいのではないでしょうか。

そして、それは、一部政治家の持論や主義主張というよりは、防衛省や自衛隊創設以来の悲願だったと思われます。敗戦によって両手両足を奪われた日本に、昔のような栄光を取り戻したい・・・が本音なのでしょう。

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1950年警察予備隊、1952年保安隊を経て、1954年7月1日自衛隊創設

しかし、南スーダンの自衛隊員たちは突然、思いもかけず、「死」を意識させられたためなのか、
「PKOは、安全な任務だと思っていたが・・・」
「積極的に他の国のために血を流す必要はあるのか」
「外国を守ることが自衛権の範囲なのか、専守防衛ではなかったのか・・・」
といった意見が多かったようです。侵略者から家族や友人、同胞を護るためなら、いくらでも命をかけるが、いい加減な連中が主導する、いい加減な話のために死ぬなんて、まっぴらごめんだ、ということなんでしょう。

一方、大本営(市ヶ谷の人たち)や一部の政治家、それに筆者のようなヤジ馬は、
「なに言ってるんだ、国際貢献だよ、キミ」
「今こそ、自衛隊の実力を世界に見せるチャンスじゃないか」
「こんなことで弱音を吐いてどうするんだ」
と、ブラック企業の経営者のようなことを言ってるんじゃないでしょうか。

このままでは、どんどん任務が拡大されて、PKO部隊が危険な目に遭う確率&頻度は大きくなり、国民の知らない間に、さらに事態が拡大し、深刻になっていく・・・、大戦末期の帝国陸海軍(特に海軍)は、勝利を目指すよりも、不都合な事実を隠蔽することだけに血道を上げ、嘘を隠すために、別の嘘をついて・・・何だか、どこかで聞いたことのあるような話になっていきました。

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連合艦隊の総力を結集して(?)、図上演習(シュミレーション)の判定結果を改ざんし、作戦を強行した挙げ句に大敗・・・ 
その現実を受け入れたくないので、都合のいいデータ&報告を採用して、大勝利と発表

そもそもPKOは、ついこの間まで殺し合いが行われていた地域に乗り込むのですから、参加部隊は常に危険にされされるわけですが、日本は勿論のこと、諸外国・・・、特に、そういったことに関しては、きっちりと議論し、結論を出していそうなヨーロッパ諸国も、確たる方針は定まっていないようです。その時々の状況を見て判断し、これまで、どうにか凌いできましたが、それが決定的に破綻したのが、1995年7月に起こったスレブレニツァの虐殺でした。

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(1992年から95年)は、1995年1月1日から4ヶ月間の停戦が合意がされましたが、戦闘が再開される可能性は高かったわけです。そこに、なぜ平和維持を目的とするPKO部隊がいたのかはよくわかりませんが、セルビア人勢力に、多くの住民とともに包囲されたオランダ軍兵士200名のPKO部隊を中心とした国連軍は、十分な装備がなかったこともあって撤退を決定し、その結果、8000名ともいわれる住民が虐殺されました

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見渡す限りの犠牲者は、維持すべき平和が存在しなかったことを物語る・・・

この事件で世界中から非難を受けたオランダ政府とオランダ軍は、現在も危険を犯しつつPKOに参加していますが、可能な限り情報を開示して、国民に判断を委ねる方針をとっています。責任を国民に押し付け、いざというときに政治家たちが逃げを打てるようにしている、という見方もできるかもしれませんが、できるだけ国民に気付かれないように、不毛な努力を重ねる日本国政府(そんなもん、他の国の部隊もいるんですから、すぐバレるでしょうとは、正反対の対応です。

いかなる犠牲を払っても、任された仕事は最後までやり遂げ、「世界中の人々が平和に、安全に暮らせるよう貢献したい。そのためのPKO活動なのだ」と覚悟を決めて参加するなら、文句のつけようがなく、素晴らしいことだと思いますが、「非戦闘地域にだけ送ります」「安全なんですから」「国際貢献ですよ」」と言っておいて法案を通し、その後は、ズルズルの運用で成り行きにまかせ、「たぶん、大丈夫だろう」といったやり方だと、いつかきっと、中田さんや高田さんの悲劇は繰り返されることになるでしょう。

日本の防衛に専念するのか、他国の平和維持に積極的に関与していくのか・・・。
映画「仁義なき闘い」では、広島のヤクザ抗争で神戸から助っ人に来た明石組(山口組がモデル)の若頭に、「あんた、それでも極道か、それとも、タクシー屋のおっちゃんか?」と煮え切らない態度を厳しく糾弾された地元の親分が、「どちらかいうたらのう、わしゃあ、もう事業に専念したいんじゃ(=ヤクザも、殺し合いも、イヤだという意味)」と漏らして、周りのヤクザ仲間を呆れさせる場面がありましたが、今にして思えば、あれも一つの見識だったんじゃないでしょうか。

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腰抜け扱いされた打本組長(加藤武さん=右)だが、意外と、正論だったのかもしれない

三島由紀夫さんは、日本の防衛や国内の治安維持、災害対策を行う自衛隊とは別に、「国連との協力において、海外での治安維持およびその他の活動を任務とする国連警察軍を編成する」という憲法改正案を考えていました。「安全な地域にだけ、自衛隊を派遣します」などと、簡単に崩れてしまうような前提で、見え透いた嘘を重ねるくらいなら、三島案を真剣に検討する時期が来ているのではないでしょうか。

中田厚仁君のお父さんは、訃報の際、「息子は、大好きなカンボジアのために働き死んだので、きっと喜んでいると思います」、悲しみをこらえ、そう言い切りました。お父さんは、本心から語っていたように思われましたが、これから先、犠牲になられた人の家族が、意に反し、そう言わざるを得ない・・・、そんな世の中が来ないことを望むばかりです。

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中田さん、高田さんのご遺族は、日本政府に対して、恨みつらみは一切言わず、称賛されたが、はたして、それでよかったのか・・・

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「文学というのは、認められていない、人から嫌がられる、嫌悪される、除けモノにされるようなものの中に、純粋さを見つけ出して、そこに人間の本当の姿を探そうと思うことだ」
同性愛について聞かれた三島さんが生前語った言葉ですが、それを、そっくりそのまま、「右翼」や「憂国」、「クーデター」、そして、「憲法改正」などに置き換えれば、彼が求めていたものが見えてくると思います。https://www.youtube.com/watch?v=Xy502F3slDo&t=3s

当時は、圧倒的に左翼が強く、特にメディアにおいては、それが顕著で、度を越した理想論、空想論が、テレビや新聞では幅を利かせていました。ですから、三島さんらの主張は、明らかに少数派・・・というより、同調者を見つけ難く、異質であり、嘲笑の対象ですらあったと思います。

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三島さんと楯の会を風刺した漫画
「右」に対しては、無視するか、一段上から見下ろすような評論が多かった

決起当日(1970年11月25日)、白のコロナに乗った5人は、「唐獅子牡丹」を歌いながら現場に向かいました。右翼は理論でなく、心情だと三島さんは、常々メンバーに語っていたといいますが、それを地で行く場面でした。思いの外すんなりと、総監室に通され(しかも、日本刀帯同で)、陸上自衛隊東部方面隊の益田総監の拘束、監禁に、あっさりと成功した三島さんと、メンバー4人でしたが、そこから先は、いくつか誤算があったようです。

誤算1
益田総監を救出しようと、複数の自衛官(計12名)が波状的に総監室に突入してきました。楯の会側の武器は、三島さんの愛刀・関孫六以外には、各自が携帯した特殊警棒と登山ナイフだけです。いくら平和国家・日本といえども、軍隊を相手に事を構えるにしては、恐ろしく軽装備でした。おそらく三島さんらは、総監が人質に取られている以上、誰も向かってはこないだろうと思っていたのではないでしょうか。自衛官たちは、三島さんの軍刀は、おもちゃだと思っていたようで、素手で乗り込んできたといます。そのため数名が負傷し、三島さんへの遠慮もあったようで(その気になれば、彼らはプロなんですから、簡単に捕縛できたはずです)、なんとか「陣地」を守りきった楯の会ですが、このときの乱闘が元で、後々さらに大きな誤算を生むことになりました。

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総監室は、正面、左右と入り口があり、立て籠もるには不向きだった

誤算2
ようやく要求が受け入れられて、バルコニーでの演説が実現した三島さんでしたが、ここで、集まってきた自衛官から、凄まじい罵声が浴びせられました。クーデターの呼びかけに対して、自衛官から同調者が出ないことは、ある程度は想定していたようですが、あそこまで酷いヤジや怒号を浴びようとは思ってもみなかったでしょう。https://www.youtube.com/watch?v=_oNMABlVRtM&t=133s

おそらく、三島さんのイメージでは、命をかけた彼らの気迫に圧倒されて、しーんと静まり返った群衆の中で、最後の説得ができる・・・と、作家的に考えていたのではないでしょうか。しかし、物事には何事も、準備や根回しというものが必要です。体験入隊で懇意になった隊員らが相手ならともかく、ほぼ初対面で、しかも、いきなり乱入してきて、上司を人質にとった上に、複数の仲間に怪我を負わせた彼らを好意的な目で見る人はいなかったでしょう。それにしても、この時のヤジは酷かったようで、現場にいた自衛官たちの中にも、後で三島さんらが死んだことを知らされて、「もっと、ちゃんと聞いてあげればよかった」と、後悔の念を語る人もいたようです。

誤算3
自衛官は武士ではなかった。
残された映像では、三島さんは、「諸君は、武士だろう」と、かなりハッキリと聞き取れる声量で、自衛官たちに訴えかけていました。しかし、事件が一応の落着を見た後、益田総監が「ご迷惑かけたが、私は、このとおり元気だ」と左手を高く振って挨拶すると、「いーぞ、いーぞ」「よーし、頑張った!」などの声援が上がり、拍手が湧いたその光景を見て、現場にいた東京新聞の記者は、なんとも我慢ならないものを感じとして、次のようにコラムで綴っています。

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上には上が・・・
中曽根防衛庁長は、責任をすべて益田総監に押し付け、自分は「無傷」で一件落着させた

「三島の自決に対する哀悼ではもちろんない。民主主義に挑戦した三島らの行動を非難し、平和国家の軍隊に徹するという決意の拍手でもない。いってみれば、暴漢の監禁から脱出してきた「社長」へのねぎらいであり、サラリーマンの団結心といったところだろうか」

三島さんは、メンバー3名に、益田総監が(自らの不覚を恥じて)自決しないよう、生きたまま引き渡すよう命じていましたが、そんな心配をしなくても、自決する気なんて、さらさらなかったようです。連絡を受けて、現場に急行した友人の石原慎太郎さんも、「(三島さんが死んでから、まだ、それほど時間が経っていないのに)庭で、キャッチボールしてた自衛官がいた」と憤っていました。

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益田総監を引き渡す決起メンバーたち
既に、三島さんと森田さんは自決していた

誤算4
介錯は、簡単ではなかった。
先の大戦終結にあたり、敗北を認めない軍人が何名が自決しましたが、最も厳しい批判を受けたのが海軍の宇垣纏中将でした。玉音放送終了後に、11機、23名を道連れに(うち3機、5名が不時着で生還)特攻で散っています。連合艦隊司令長官の小沢治三郎中将は、「兵を道連れにすることは、もっての外である。自決して、特攻将兵の後を追うというのなら、一人でやるべきである」と述べ、宇垣中将に対する感謝状は起案されませんでした。

三島さんも、そういったことは十分承知していたのでしょう。数日前から共に自決することになる学生長の森田さんを思い止まるよう説得していましたし、自身が腹を切る前にも、「キミは、やめろ」と3度も繰り返しています。それでも、「死地」に彼を連れて行ってしまったのは、森田さんがいないことには、計画の成功は覚束ないと考えていたからでしょう。それだけ彼を頼りにしていたということです。

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森田必勝さん 早稲田大学教育学部  右翼学生の内ゲバが起きたときも、
「我々は、圧倒的に少数なんですから、小さな勢力で争っていても仕方ないでしょう」と、いつもニコニコしていたという

日本刀を携行したまま総監室に5人で入り、総監を拘束し、邪魔が入った場合は撃退し、要求を認めさせて、垂れ幕を下ろし、バルコニーで演説しつつ、檄文のビラを撒いて、終了後に自決する、というスケジュールを考えれば、モタモタしている時間はありません。特に、計画のフィナーレであり、三島さんの人生の最終場面でもある割腹自殺を見事果たすには、どうしても介錯が必要で、意識を失った後、病院に運び込まれて、命を取り留められでもしたら、生き恥を晒すことになってしまいます。とはいっても、切腹で血塗れになった三島さんの背後から、刀を振り下ろす、という行為は容易ではなく、それができるのは、「森田以外にない」ということだったんじゃないでしょうか。

三島さんといえども、切腹の成否と同時に、どの程度の苦痛が伴うのかは、やはり気になっていたようで、事件の3週間前にあたる11月3日の打ち合わせでは、各隊員への指示の中で、「森田は介錯をさっぱりとやってくれ。あまり苦しませるな」と語っています。決起前日の24日にも、「頸動脈は、どこにあるんでしょうか」と聞いてきた森田さんに、頸の横を押さえながら、「ちゃんと、うまくやれよ。串刺しにするなよ」と冗談を装いながらも、本音も滲ませていました。

そこまで言っておきながら、結局、森田さんは介錯に失敗しています。三島さんの最期の数十秒間は、かなり苦しんだのではないでしょうか。検視報告によれば、三島さんの遺体は、頸部に3本の切り口があり、右肩と左顎にも傷が見られ、それでも死にきれない三島さんを見て、堪りかねた森田さんが、「浩ちゃん、たのむ」と古賀浩晴隊員に介錯を代わらせています。

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古賀浩靖さん 神奈川大学法学部
出所後に神主になった。ニックネームは、フルコガ

戦国時代での落城などを除けば、介錯切腹を同時にやった人は、そうはいないはずで、20世紀も後半に入った時代に、これから腹を切って死んでいく人に対して、「その前に、介錯をやってくれ」というのは、あまりにも酷でした。生き残ることを命令されていた古賀さんは、精神を刀に集中できたようで、三島さんに続いて、森田さんの介錯も、一刀の下に成功しています。

警察の検分では、使用された刀は、真ん中からS字型に曲がっていたそうで、それは介錯の衝撃によって・・・というより、総監を助け出そう室内に突入してきた自衛官たちと乱闘になった際、日本刀を使用したために、最初の歪みが生じたのではないでしょうか。本物の名刀なら、そんなに簡単には曲がったりしませんから、三島さんは、偽物を掴まされた可能性がありますし、もしも、あの時、刀が折れてしまっていたら・・・・歴史が変わったのかもしれません。

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小賀正義さん 神奈川大学工学部
森田さんは、「僕は必勝、彼は正義」と、よくおどけていたという。ニックネームは、チビコガ

そして、
最大の誤算は、次のものでしょう。
特攻隊が、「あとにつづく者あるを信ず」という遺書を残して散ったのを引用して、「自らの命を賭けて斬り死にすること、その行為があとに続く者を、また作り出すんだ」と行動に出る意義を語っていた三島さんでしたが、今のところ、それは実現していません。

三島さんの「美」に対する飽くなき追求が「憂国」へと駆り立て、楯の会を生んで、三島事件を起こしましたが、三島さんが自決したことで、すべて完結してしまったような印象が拭えません。最も信頼していた森田さんも失い、楯の会も解散となって「始まり」になるはずだった決起が結果的に、「ゴール」になってしまった・・・・、そこに、三島さんの最大の誤算があったのか、それとも、「三島劇場」は、最初から、そこで終わることになっていたのか・・・。

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小川正洋さん 明治学院大学法学部
古賀氏、小賀氏と共に、懲役4年の判決。1974年10月仮出所

三島さんと森田さんの自決は、楯の会の仲間だけでなく、志を同じくする同志たちにも、逃れようのない「重荷」を背負わせてしまったようで、置いて行かれたと感じた人たちは、ずっと、そのことで苦しむことになりました。

・1975年3月、村上一郎氏が日本刀で自殺
・1977年3月、経団連襲撃事件・・・元楯の会の隊員2名が、野村秋介氏らと経団連会館の会長室に職員12名を人質にとって11時間籠城。
・1993年10月、野村秋介氏が朝日新聞東京本社でピストル自殺。
三島さんの影響を受けたと思われる事件が続きましたが、これらによって、三島さんと楯の会の意志を次ぐべき人たちが一掃されることになってしまいました。

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経団連襲撃事件を起こした野村秋介さん

しかし、そうなった最大の原因は、三島さんも含めて、右翼の人たちの目標設定に問題があったのではないでしょうか。楯の会は、クーデター、憲法改正と目指すところは、ハッキリしていましたが、その理由付けは、何とも分かりにくく、とても大衆に浸透していくようには思えませんでしたし、その他の右翼団体や思想家も、「反ソ」「反共」「北方領土奪回」だけで勝負していましたから、ソ連の崩壊と共産党の弱体化で、存在理由を失ってしまいました。

残念だったのは、三島さんは、1963年4月に起こった「能代事件(北朝鮮の工作員と思しき変死体が次々と日本に漂着)」の揉み消しを後年知って、「どうして、こんな重大な事が問題にされずに放置されるのか」と激怒していたといいます。もしもそのときに「国民の命と安全」が脅かされつつあるという現実をもっと重視し、「それを守る」という単純かつ、解りやすい優先目標を設定していたら、数年後、まったく同じ手口で与野党の政治家、官僚、そして、マスコミが協力し合って、臭いものに蓋をしようとした北朝鮮日本人拉致事件で、彼らの「本当の出番」が来たのではないでしょうか。

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三島さんを囲んで、左から森田さん、古賀さん、小川さん、小賀さん

それこそ、市ヶ谷などという小さな舞台ではなく、自衛官のヤジや罵声に代わって、国民・・・特に被害者の家族からの熱く、重い願いが込められた声援、歓声を浴びながら、「政府も、自衛隊も、マスコミも、同胞を見殺しにするのか!憲法の制約でできないというなら、憲法を改正しろ。それも、できないというなら、クーデターを起こす。誰も動かんというなら、私がここで腹を切る

70年代後半〜80年代に、もしも、そういう決起が行われていたら、世界中の注目がこの問題に集中し、拉致問題など、とうの昔に解決していたはずですし、そういう三島さんらの英雄的な行為を見た者の中から、次々と後に続く者が現れたと思います。自分にとっての利益だけが優先される今の世の中も、まったく別の姿になっていたかもしれません。きっと、後世の人々から、「あの時、楯の会の決起が日本を救ってくれた」と賞賛されたことでしょう。

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話を聞いてもらえず、予定より早く演説を切り上げた三島さんと森田さん
最後に、皇居に向かって、「天皇陛下万歳」を三唱した

右翼というのは、そういうときにこそ、存在価値があり、「美しさ」を放つのではないでしょうか。
筆者は、そう思います。

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たかだか、アマチュア・スポーツのワンプレーで、何を大騒ぎしているのかと思っていたら、どんどん騒ぎが大きくなって、「監督がなぜ出てこない」「監督の説明はおかしい」「監督、コーチに言われました」「オレは、そんなこと言ってない」・・・と、まるで収まる気配がありません。各局とも、コメンテーターは言いたい放題で、中には、「今の日本の社会が・・・」等と、したり顔で言う人もいますが、筆者は生き証人として断言しておきましょう。昔は、もっとひどかったと・・・。

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アメフトの反則プレーといえば、すぐに思い出されるのが、アメリカ映画、「ロンゲストヤード」(1974年、2005年にリメイク)です。バート・レイノルズの出世作といわれ、刑務所で、看守チームと囚人チームが戦うことになり、普段の恨みを晴らすべく、館内の荒くれ者、無法者を掻き集めて、反則攻撃で看守たちを叩きのめそうとした主人公だったが・・・というストーリーで、「首の骨、折れちまったってよ、えへへへ・・・・」(リチャード・キール)等、刺激的なセリフと場面の連続は、なかなか見応えのある作品でした。

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この映画に限らず、当時は、どのスポーツにも、ある程度のラフプレーや反則スレスレの攻防は付き物といってもよく、それを含めての勝負だと考えられていました。反則も、反則をかわすのも、技のうち、実力のうちということです。それを、さらに誇張して、子供たちの脳裏に焼き付けてしまったのが、スポーツ根性アニメと呼ばれた作品群でした。どの作品にも、ダーティープレー、それも、ほとんどあり得ない、極端なものが描かれており、その草分けは、「巨人の星」だったと思います

史上最高の三塁手候補と思われた星一徹は戦争で肩を痛め、選手生命の危機に直面します。そして、思い悩んだ末に編み出したのが、走者の頭部をかすめて、相手をビビらせ、アウトを取る魔送球でした。新兵器の威力に自信を持った一徹は、さっそく紅白戦で試してみますが、チームメイトの川上哲治は非情にも、「これはビーンボール」と一刀のもとに切り捨て人事権もないのに独断で星くん、巨人軍を去りたまえと引導を渡します。

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実際の川上さん(たぶん戦時中)
現役時代は、練習嫌い、首脳陣の指示に従わない、だったが、監督になるや、真逆を選手に強要し、V9達成

心の優しい少年だった筆者(?)は、「なんて、酷え奴だ!そこまで言うなら、どうしてポジション(一塁)を譲ってやらないのか」と憤慨し、自分の守備能力を棚に上げて(注、川上さんは「打撃の神様」といわれた一方で守備はダメだったようです)、人の進退をつべこべ言う川上に、星一徹が正しいと叫んだのでした。

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野球をやめ、酒浸りになってしまった一徹、この責任を、どうとるんだ、川上!

「侍ジャイアンツ」(1971年〜74年)も強烈でした。
阪神のウルフ・チーフは、ウーラ、ウラウラウラウラウララ・・・・と雄叫びを挙げながら、進塁より人殺しを目的にしたような殺人スライディングで、他チームの内野手を次々と血祭りにあげていきますが、コミッショナーから出場停止処分を受けたり、審判から注意されることはありませんでした。挙げ句、日本球界の宝であるミスタージャイアンツに対して、「長嶋殺し」を宣言し、それを主人公の番場蛮が受けて立って・・・・と格闘技のような展開になっていき、結局、番場も同じ技で対抗しているわけで、だったら、ウルフが正しいだろー!と筆者はいいたいわけです。

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ジャンボ鶴田対ミル・マスカラス?
結局、両者リングアウトか

同じ梶原一騎さん原作の「新・巨人の星」では、星飛雄馬が巨人に復帰し、スクリュースピンスライディングという荒技を使っていますが、ウルフのと違うのは技の名称だけでした。それを現役時代の掛布さん(阪神)が、「スクリュースピンスライディングを封じるには、スクリュースピンスライディングしかないー!」というわけで、三塁手なのにクルクル回転しながら走者にドロップキックして・・・と、ちょっと待ったー、これじゃあ、侍ジャイアンツと同じ展開じゃないかー!(梶原先生も、自分で書いておいて、忘れてしまったようです)。

両者反則退場→永久追放確実という展開になりながらも、翌週も、平気な顔して飛雄馬は登場し、「やっぱり、ピッチャーで勝負するぜ」なんて言ってたわけですから、これは、どう見ても、梶原一騎が悪い!

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ウルフと、どこが違うんだー、同じじゃないか―、子どもを舐めるな―!
昔の子どもは偉かった、そんな小さなことでは、怒らなかった、大人だった

アニメだけでなく、現実のスポーツ界でも、やはりラフプレーは溢れていたわけで、有名なところでは、サッカーのワールドカップ、イングランド大会です。1958年、62年と連覇したブラジルは、このときも優勝候補の筆頭でしたが、一次リーグで早々に姿を消しました。サッカーの王様ペレがラフプレーのために病院送りとなってしまったからです。

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ブラジルには、ペレがいるから勝てない?
じゃあ、ペレを引っ込めればいいだろ、簡単な話じゃないか

ブルガリアとポルトガルは、「勝つためには手段を選ばない」サッカーに徹して、文字通りスーパースターを潰し、その甲斐あってポルトガルは決勝トーナメントに進出しました。ですから、日大首脳の、「『潰せ』というのは、そういう意味じゃない」という言い訳は、非常に虚しく感じます。また、同大会はアルゼンチンのラフプレーも凄かったようで、対戦相手のイングランドから、「アニマル」という有り難くないニックネームを付けられることになりました。

やはり、記憶に残るのが、ロサンゼルス五輪の陸上女史3000m決勝、先頭を走っていた優勝候補、南アフリカ共和国のゾーラ・バッドの左足が、後方インから彼女を抜こうとしたアメリカのメアリー・デッカーに接触して、デッカーは転倒し、バッドも観衆からの激しいブーイングにペースが乱れ7位に沈みました。接触前にバッドはチラチラと横目でデッカーを確認するような仕草をしていましたから、故意だったのでは、という疑いがもたれています。https://www.youtube.com/watch?v=LfRNtTG9sJg&t=167s

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引っ掛ける前も、その瞬間も、倒れた後も、なんか変だった

こういった数々のラフプレーや反則行為の中でも、もっとも衝撃的で悪意に満ちた(と筆者は考えています)ものが、1972年7月に行われた第一回日米大学野球選手権でした。あれに比べれば、今回の日大は10倍救いがあると思います。当時の大学野球は、まだ人気があり、早慶戦は、毎回超満員になっていましたから、筆者(当時小5)は、真剣勝負による初めての日米決戦に、大いに興奮し、大いに燃えました。

第2戦の7回、三遊間突破の安打で出塁した走者が一死後、内野ゴロで進塁しようとセカンドベースに向かった際、相手内野手の送球を顔面に受けてしまい、すぐに救急車で病院に運ばれましたが帰らぬ人となりました。

通常こういった場面では、走者側は、ダブルプレーだけは避けたいと、相手の送球進路を塞ごうとしますし、守備側は、それを左右にかわして一塁に送球します。技術レベルの高いプロの試合なら、両者が見事に交差して、見た目にも鮮やかな併殺プレーが完成しますが、このときはそうなりませんでした。

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あの時の走者は、もうちょっと手前(たぶんベース前4〜5mの辺り)を走っていたものと考えられます

そして、筆者は、46年たった今でも、あれは、ワザとやったと思っています。意識的に狙わなければ、あんな至近距離で走者の頭に送球がぶつかるなどあり得ないからです。同じアメリカ人同士、白人同士なら、絶対にやらなかったでしょう。硬球の衝撃力、破壊力を完全に無視しており、明らかに殺人です(怒)

もしかしたら第一戦から、野球文化の違いなどで(アメリカ側は観光気分で来ていた?)、日本側のプレーに米国側が不満をもっていたのかもしれませんが、相手内野手はアウトを取りにいかず、ぶつけて日本人選手を懲らしめる方を選びました。まさか死ぬとは思っていませんから、ショックもあったようで、彼は死んだ選手のご両親に深々と頭を垂れたということですが、結局それで幕引きとなり、「あれは、不運な事故だった」ということにして大会は終了し、現在に至っています。昨年、42回目の大会が開かれました(隔年)。

もしも、日本チームが、あるいは遺族が、「故意ではないのか?」とクレームを付け、こだわりを見せたら、大会は大混乱となって、最後までできなかったかもしれませんし、その場合は、当然、第2回以降は開催されなかったでしょう。それでは他の選手や関係者に申し訳ないということで、ご両親は、泣き寝入りし、矛を収めたのではないでしょうか。「公」の利益のために、「私」を抑えた悪い例だったかもしれませんし、米軍基地の周辺で起こった、「あれは、間違いなくわざとだ」と言われた数々の事件や事故と性格的にも、事後処理としても、近いものがありました。

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山口(阪急)、山下(横浜)、長崎(横浜)、藤波(中日)ら、錚々たるメンバーが出場した

この事件は、日本の野球史のみならず、すべてのスポーツ史の中でも大きな汚点を残すことになりましたが、関係者が臭いものに蓋をした努力が実ったのか、今では、すっかり忘れ去られた感があります。因みに亡くなられた選手は、背番号13で、早稲田でも、9番を付けていました。スポーツをやるときは、ある程度縁起をかついでもいいのかもしれません。

そして日大です。
選手と指導部の話が食い違っていますから、どちらかが嘘をついている・・・というか、監督、コーチが一方的に悪いことになっていますが、筆者は、どちら側も、ある程度は本当のことを喋っているのではないかと思っています。

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40年間、スタイル変えてないんだけどなあ・・・

「潰せ」というのは、もちろん、「プレーできなくしろ=場合によっては怪我をさせてもいい」という意味で指令を出しているわけですが、言葉にこそ出さないものの、そこには、「周りの人間や審判に気づかれないように=つまり、バレないように」という補足説明が暗黙の了解として付いていたはずです。「頼むぞ」「うまくやれよ」という意味が含まれていたでしょう。だから、日本代表に選ばれるような選手(=つまり実力者)を、わざわざ指名したのだと思います。

ところが、あまりにもあからさまな、誰の目にも、はっきりと分かる見え見えの反則となってしまい、しかも、そのニュースがアメフト界以外にも拡散してしまいましたから、首脳陣も、どう対応していいか、わからなくなってしまったのでしょう。もっとうまくやってほしかったし、やってくれると思ったけど、できなかったということではないでしょうか。選手にしても、「えっ?だって、そうしろって、言ったじゃねえですか」ということで、こちらも納得いかないと思います。

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「引退します」と語る選手ですが、なんとかプレーを続けてほしい

おそらく、過去にも似たような指示を別の選手に出していたものと思われますが、そのときは、もっとうまくやったのか、それとも、やはり、見え見えだったけれど問題が大きくならなかっただけなのか・・・

内田前監督は、1955年の生まれですから、彼が大学(日大)に入った(たぶん1974年=昭和49年)あたりに、日本で始めて本格的なNFLのテレビ放送が始まったはずです。東京12チャンネル(現テレビ東京)とNET(テレビ朝日)が積極的で、お正月のローズボウル(カレッジ・フットボール)やスーパーボウルもメジャー局の地上波で放送されていました。NFL各チームのエンブレムをあしらった文具類も人気を集め、このとき日本で始めてのアメフト・ブーム(当時は、アメラグという呼び方のほうがメジャーだった)が起こりました。

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ほとんどの男の子が一度は買ったNFLグッズ

その盛り上がりを見て、内田前監督がアメフトを始めたのか、もともとやっていたのかは定かではありませんが、いずれにしても、このときを最後に、二度とブームは訪れませんでした。錚々たるスポンサーが付き、あれだけの後押しがあったにも関わらず、結局、アメフト文化が日本で花開くことはありませんでした。日本人のテーストに合わなかったのか、日本人の心に響くものがなかったのか(・・・最大の敗因は日本人スターがいなかったことでしょう)、半ローカルの東京12チャンネルが一社だけで頑張っていたローラーゲームよりも低い地位にあったのは間違いなく、本当に対照的な結果に終わったと思います。

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華々しくスタートしたものの、ラストがどうなったか誰も知らない「フットボール鷹」
同時期にスタートした「新・巨人の星」も、同じ運命に・・・。スポ根の時代は終わっていた

そんな状況の中でも、じっと辛抱して今の地位に上り詰めたのが内田さんだといえるでしょう。誰からも、まったく注目されないアメフト冬の時代をしぶとく生き抜いてきた彼は、きっと、こう思っているんじゃないでしょうか。
「試合中継しないだけでなく、結果すら、ろくに報道しなかったくせに、こんなときだけ大騒ぎするな。オレは、必死にアメフトに打ち込んできたし、これまで、ずっと同じやり方できたんだ」と。

こうなったら、追手はどこまでも追いかけてきます。逃げ切りは不可能でしょう。筆者は、川上とは違いますから、内田くん、日大を去りたまえなんてことは言いません。ただ、星一徹も、巨人にしがみつかずに、新天地で勝負するという手もあったはずです。川上が認めなくても、魔送球の価値を評価してくれるチームは他にあったんじゃないでしょうか。そもそも、一塁手が川上では、魔送球は捕れないでしょう。

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ふざけるな川上、お前のせいじゃないかー

なら内田さんも、一旦は身を引いて理事も退き、時期を選んで、もう一度アメフト界へ再挑戦された方がいいんじゃないでしょうか。幸か不幸か今回の騒動で、久しぶりにアメフトは注目を集めましたし、タイミングよく・・・というと語弊がありますが、4月9日、日本のアメフト育ての親であ後藤完夫さんが亡くなられましたから(ご冥福をお祈りします)、後を継いで、「TOUCHDOWN」の再開を目指すという道もあると思います。

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日本で唯一の専門誌「TOUCHDOWN」は、2016年に廃刊
内田さん、これからは、批判する側に回れ!

内田正人前監督は、現在62歳で、ぎりぎりですがスポ根アニメを見た世代だと思います。スポ根には、ラフプレーだけでなく、粘りや根性も描かれていました。人気のなかったアメフト界で、ずっと耐えたきた内田さんなら、それだけの辛抱強さを兼ね備えているわけで、この歳からでも、もうひと華咲かすことはできるんだというのを、ぜひ全国の高齢者予備軍に見せて頂きたいと思います。

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飛雄馬見ておれ、父ちゃんは、もう一度、頑張るぞ
川上を見返してやる

奮起に期待します。

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米朝会談が6月12日、シンガポールで行われると発表され、同時に、北朝鮮で拘束されていたアメリカ人3名の帰国も実現しました。何やかやと言われ続けるトランプさんですが、国民の命と安全を守ることに関しては、きっちりと仕事をしており、米国人の信頼を裏切ることはありませんでした。

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売名行為でも、筋が通ったものなら、誰も文句はつけない
空港には巨大星条旗が用意され、しかも、被害者から見える場所ではなく、画面に映る場所に置いているのは、さすがだ

もしものときは、力ずくでも取り戻すと、強固な意思を示したのは歴代の政権と変わらず、米国は、過去にも自国民に危害を加えた者に対しては、大日本帝国(真珠湾攻撃)、ビンラーディン(同時多発テロ)、カダフィー(各種のテロ支援)など、全員血祭りにあげています。

翻って、我が日本国ですが、憲法の制約があるので軍事行動はとれない、という理屈で戦後ずっとやってきましたが、その結果、竹島は奪われ、拉致問題が起こり、40年も経過しているのに、5人しか帰ってきていません。平和を守るはずの憲法を守ることによって、逆に人の命や領土が奪われるなら本末転倒で、この辺で考え方を根本から変えてもいいのかもしれません。

今回、米朝会談が行われるということは、何らかの合意があったということで、考えられる内容は、
1.米国が主張してきたリビア方式(核兵器の即時廃棄、制裁解除は査察後)か、それに近いものを北朝鮮が認めた
2.一応、即時廃棄を謳っているが、査察に関しては、北朝鮮の言い分を一部認め、事実上、骨抜きにされる可能性を残すものになった
かのどちらかでしょう。確立としては、2:8くらいで、後者になると思います。

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「どうだ、うまくいっただろ」と言いたげなトランプさん
ちゃんと絵になるよう計算し、7人で画面に入って、Gメン75の丹波哲郎さんを意識している?

そして、いずれにしても、米朝が決着すれば、次は日朝となり、お金と引き換えに拉致被害者数名が帰ってくることになりますが、結局それで打ち切られ、一件落着となってしまうのは今のところ避けられない情勢となっています。そもそも、被害者が何名いるのかも日本側に調べる手立てはなく、各被害者が自分で名乗り出れるような状況を北朝鮮国内に作らない限りは問題は永久に解決しないでしょう。

そして、安倍さんです。
財務省、防衛省、総理秘書官と次々に不祥事が発覚し、今や彼の評判は、ウナギ下り(?)で、このままでは、じいさん(岸信介)の代からの悲願だった憲法改正が絶望的なだけでなく、秋の総裁選でも岸田さんと交代で決まりでしょう(?)一発逆転を狙うには、相当思い切ったことをやらなければ難しいと思います。そこで・・・

緊急避難という言葉があります。
愛する人が連れ去られてしまったときに、憲法違反もクソもないわけで、安倍さんだって、自分の子どもや孫がそういう状況にあれば、超法規的措置を使ってでも取り返すでしょう(奥さんなら見捨てる?)。誰だって同じだと思います。憲法があるからできない等というのは、他人事だから言えることで、身内だったら、まず動く、そして、その後に憲法を改正する、それが普通じゃないでしょうか。拉致被害者たちの家族は、かなりの高齢になってきており、急がないことには間に合いません。横田のおやじさんが生きてるうちに、娘さんに会わせてやるのが人情ってもんでしょう。

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いつも人を頼らないで、自分の仕事は自分でやろう
幼稚園で習わなかったのか?

そもそも憲法には、戦力を保持しない云々の前段に、<国際紛争を解決する手段としては・・・>と書いてあるわけです。それなら拉致問題は、明らかに範疇の外でしょう。そして米朝会談は、場所も日程も分かっているわけです。おそらく、1948年9月の北朝鮮建国以来、金王朝のトップが何月何日どこに行くと公表されたのは今回が初めてではないでしょうか。

飛んで火に入る初夏のデブあるいは、ブタがネギ背負ってやってくるとは、まさにこのことで、国民が飢えているのに、自分だけ、あんなに太っている大罪の報いを、とうとう受けるときがきたといえます。

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やっべぇなあ・・・という表情ですが、なんとかクビはつながった?

北朝鮮国営の朝鮮中央通信は12日、「(日本が)既に解決された『拉致問題』を再び持ち出すのは卑劣で愚かな醜態」「日本の過去の罪悪の歴史が、朝鮮人に与えた損失は、日本という国をまるごと捧げても到底賠償できない」等と挑発的な物言いを続けており、豊渓里(プンゲリ)の核実験場を廃棄する式典(23〜25日)の取材も、主要関係国では日本だけ閉め出されました。プロレス道でいえば(?)、そろそろ反撃に出てもいい時間です。

おそらく金正恩氏は、前日の11日に、シンガポールに入ることになるはずです。さすがに陸路では行かないでしょうから、航空機を利用することになりますが、次の2つのルートのうち、どちらかをとることになるでしょう。

<A> 専用機が旧式で、しかも護衛戦闘機を付ける必要からも、遠回りしている余裕はなく、シンガポールまで、最短距離を飛ぶルートです。つまり、平壤→広州→南シナ海→ベトナム沿岸→シンガポールという航路で、飛行時間は、約7〜8時間となります。

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<B> 護衛戦闘機を全行程付けるのは諦め、平壤を出た後、すぐに安全地帯(?)の中国領空に入り(ここで、護衛戦闘機は帰還)、ミヤンマーの首都ネピドーで給油し、マレー半島に沿うようにアンダマン海を南下して、シンガポールへという、言ってみれば、裏道を通るルートです。http://www.yomiuri.co.jp/world/20180512-OYT1T50024.html?from=yartcl_blist

北朝鮮とミヤンマーは、1983年10月のラングーン爆破事件で国交を断絶しましたが、2007年から回復され、付いたり離れたりしながら現在に至っています。一時期は、両国が協力して核開発しているのでは、という噂もあり、北朝鮮にとってB航路は、馴染みのあるルートだといえます。しかも、ミヤンマーの首都ネピドーは、2006年にヤンゴン(旧ラングーン)から遷都されたばかりで誰も住んでいない首都(?)とも言われる不気味な街です。警備の点でも、情報漏洩を防ぐ点でも好都合だといえるでしょう。筆者は、行きか、帰りどちらか・・・、たぶん往路は、このルートで行くように思います。

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ネピドーの大通り。これを壮大な無駄と見るか、将来を見越した都市計画と見るか
それにしても、どうやって反対側に渡るのか・・・

金正恩氏も、まさか平時に、アメリカ軍がインド洋に展開してはいまいと思っているでしょうから、この海域にイージス艦と空母いずもの機動部隊を先回りさせておきます。

後は偵察衛星・・・がなかったら、グーグルマップを使って(はあ?)、送られてくる情報を元に、タイの領空に入ったところで海と空から挟み撃ちにして撃墜です。タイ空軍のレーダー管制官に<3年間飲み放題><日本旅行付き><きれいな子もいっぱいますよ・・・>という条件で予め話を付けておけば、いろいろ協力してくれるでしょう(ホントか?)。

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空母に改修できるか調査中ということですが、最初からそのつもりだったのは、一目瞭然な護衛艦「いずも」

金正恩氏が往路でA航路を採用した場合は空振りに終わりますが、その場合は、機動部隊をそのまま同海域で待機させ、行きはよいよい帰りは怖い作戦に切り替えます。

会談が思惑通りに進んで上機嫌の金正恩氏は、早く家に帰ろうと油断して、再びA航路の最短ルートを使ってくる可能性があります。これにはシンガポールに待機させていた北朝鮮の戦闘機部隊が同行しますが、先月行われた南北首脳会談同様、見苦しいくらいの護衛(車を囲んで12名走らせる)を付けてくることでしょう。

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護衛戦闘機も12機付ける

6月12日現地時間21時32分、シンガポールに潜伏させていた防衛省の偵察要員から、金正恩氏の専用機離陸の報を受けた航空自衛隊那覇基地、第9航空団司令の稲月秀正空将補は、「天気晴郎ナレドモ、降ラセテ見セフ、北ノ雨」と必勝の決意を防衛省に打電し、市ヶ谷庁舎地下5階に設置された作戦本部の正面中央に掲げられた大時計が作動され、運命の180分間が始まります。

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「みなさんの手で、日本の正義を取り戻してください」
安倍さんからの激励メッセージを受け、斬首作戦に燃える第9航空団の面々は、水盃で勝利を誓う

22時13分、南シナ海航行中の護衛艦から発進した偵察ヘリが、北朝鮮機群はA航路上にあることを確認し、これを受けて、レーダー追尾に切り替え、ターゲットがベトナム沖を通過するのを待って、市ヶ谷本部から正式に作戦開始命令が発動されます。

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「作戦本部より指令です。全機、ただちに発進せよ」

23時36分、那覇に集結したF15戦闘機40機が次々と発進。

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若きサムライたちよ、日本の力を見せてくれ

24時08分、第204飛行隊が作戦予定空域の南シナ海に到着。
24時11分、第304飛行隊も到着し、全機が揃ったところで攻撃準備完了。

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「1号機より、司令部へ、これより、突入します」

24時14分、ターゲット捕捉、第一波攻撃開始。

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「お願い、神様・・・」

24時17分、護衛戦闘機の隊列が乱れたところを、第二波攻撃開始。

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護衛戦闘機が次々に撃破され、金正恩専用機は、丸裸に

24時18分、ターゲット、ロックオン。

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「日本を・・・・・・  なめるなー!

24時19分、ターゲット撃墜。

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ゴーおおおおおおおおおおおおおおおお−ル
ニッポン、やったー!

24時20分、北の護衛戦闘機部隊殲滅。
24時55分、全機帰還、作戦終了。

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「バンザーイ、バンザーイ、バンザーイ!」
成功の知らせに大歓声が湧き起こる作戦本部、安倍さん(中央)も、ガッツポーズだ
これからは、ウソをつかずに頑張ってほしい

A航路は、4年前に行方不明になったマレーシア航空機が飛ぶ予定だったルートに近いですから、「またか・・・」ということになり、結局、未解決事件として処理されることになるでしょう(ホントか?)。

中国や北朝鮮、あるいは韓国からも、「日本が怪しい」と嫌疑をかけられますが、ここで防衛省に出向させておいた日本の至宝(?)元財務省の佐川宣寿氏や、首相補佐官の柳瀬唯夫氏が登場し、国連の査察団に対して、得意の「覚えていない」「会っていない」を連発し追求をかわします。1年以上も国会を空転させた実力は、ダテではないということでしょう。

万が一、作戦が失敗した場合は、安倍さんに文字通り腹を切ってもらうことになりますが、「日本国民に危害を加える者は絶対に許さない」という強い決意を国際社会に示すことができれば、国士として死ねるわけで、彼も本望でしょう。そのときは、佐川氏、柳瀬氏、小野寺防衛大臣、ついでに、片山さつき参議院議員も追腹を切り、兵器、弾薬、官僚、政治家の在庫一掃セールということになります。

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なんで、わたしも?

戦後の日本では、国家とは、政府とは、憲法とは、軍隊を持つ意味とは何なのかを何ら議論することなくここまできましたが、この作戦で、そういったものにも結論を出せるのではないでしょうか。

では、安倍さんの英断に期待します、グッドラック。

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第204飛行隊の象徴、ミスティックイーグル

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1984年夏、ポーランドを出国し、ルーマニアに向いました。
いろいろと楽しい思いや、珍しい経験もさせてもらったポーランドの旅ですが、やっと西側に戻れると思うと、ホッとしたというのが正直なところです。

途中、西ベルリンに2泊して、東ベルリンまで地下鉄で行って一日観光しました。フリードリヒ・シュトラーセ駅で下車すると、構内に入国審査場と検問所があり(といっても、ほとんどチェックなし)、25西ドイツマルクを、25東ドイツマルクに1対1のレート(もちろん、インチキ・レートです)で交換すれば、手続きは終わります。地上に上がると東ベルリンの街が広がっていました。

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世界一薄暗い(?)東ベルリンの入国審査場

何もなかったワルシャワ(失礼)の後ですから、この街の華やかさは一段と目を引きます。西側の観光客だけでなく、ソ連や東欧の旅行者らしき人の姿も目立ちました。彼らにとっての東ベルリンは、訪問可能な最西端の都市で、ここから先は、一度超えれば二度と戻れない、いや、生きては、ほとんど超えられない、三途の川のようなベルリンの壁が立ちはだかっていたのです(越えようとして死んだ人は、192名とも言われています)。

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血も涙もない、瞬きもしない、息もしない(?)東ドイツ兵
見てるだけで、恐いぞー

DDRと呼ばれた東ドイツは、1949年の建国以来、目覚ましい経済発展を遂げて、「東欧の日本」と評され、首都の東ベルリンは、「社会主義のショーウィンドウ」と呼ばれていました。ところどころに商店もあって(注、ワルシャワでは、ほとんど見かけなかった)、デパートには、ちゃんと商品が並んでいます。全フロアーが売り物で満たされ、何もない、スカスカの張りぼてみたいなポーランドのそれとは大違いでした。ただ、どの品も、一昔前といったデザインで、最新流行にはほど遠いものがあります。電気製品の売場には、ずいぶん型の古いソニーのラジカセが置かれていました。

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当時の様子を伝える一枚

しかし、それでも、社会主義が成し遂げた、一つの到達点だったに違いありません。本来なら、称賛されてしかるべきだったのですが、地下鉄に10分も乗れば、その数倍華やかな西ベルリンの街があるわけです。当時の社会主義国の指導たち・・・、特に東ドイツのホーネッカー議長は、きっと、こう思っていたことでしょう。もしも資本主義国がなかったら、俺の功績は、今の10倍評価されていただろうと・・・

広場に出ると、大きなカフェもありました。そこでは大ジョッキに注がれたビールと食欲をそそる美味しそうな臭いと共に、もくもくと煙を出しながら焼かれるジャーマンソーセージが・・・。思わず生唾が溢れ出そうになりながら、ああ、普通に物があるって、本当に素晴らしい!今、北朝鮮から出稼ぎに出ている労働者たちも、中国やロシア、あるいは世界のどこかで、きっと同じ思いをしていることでしょう。

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宣伝放送は、もう古い。これからは、北に向かって臭い攻めだ!
ジュー、じゅじゅジューっ、じゅじゅじゅジューッ・・・ どうだ、まいったかー!

「上を見たら、キリがない」という言葉があります。しかし、人間というのは、どうしても、そう単純にはいかないようで、社会主義の優等生といわれた東ドイツの人たちでさえ、自分たちより遥かに貧しいポーランド人やロシア人の暮らしっぷりを見て、「ああ、オレたちは恵まれている」とは決して思わなかったでしょう。彼らの目は常に、壁の向う側にある、より豊かな西ベルリンや、その先にある西側先進諸国の華やかな生活ぶりに向けられていたと思います。

賑やかな東ベルリンでしたが、何だか外に出たくてもがいているアリの群れを見ているようで、ちょっと複雑な気持ちになってしまいました。日本で生まれた幸運をつくづく感じながら、東ベルリンの検問所を再び通って西ベルリンに戻った筆者は、東独を横切り、ハンブルグで一泊して(夜は、もちろんレーパーバン?)からオーストリアのウイーン経由でルーマニアの首都ブカレストに入りました。

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当時の東欧
ドイツが大戦で、いかに広大な領土を失ったかがよくわかる

ポーランドでは貧しさを、東ベルリンでは、経済活動の素晴らしさ(?)を痛感した筆者ですが、ブカレストでは、まったく違った経験をすることになりました。ここには、笑顔がほとんどないのです。

列車を降りたら、駅員さんも、街ですれ違う人々も、なんとなく、ムスッとしていて愛嬌がありません。ホテルに着いてチェックインします。ところが、ここでも笑顔がありません。社会主義国には、サービスという言葉がないと、よく言われましたが、ポーランド人の暖かさも、東ドイツ人の自信もブカレストにはなく、ひたすら無愛想な公務員が溢れている・・・そんな感じでした。

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それでも、今だにルーマニアの印象が良いのは、この人のおかげでしょう。まさに国宝です
因みに、たけしさんは、「コマネチ」の肖像権使用料として、200万円払ったという

日本でも、中曽根臨調(1981〜83年)が始まるまでは、役所や国鉄の職員さんに、とんでもなく横柄で感じの悪い人がいましたが、ブカレストには、ああいうのが到るところにいたわけです。ルーマニアの国名は、「ローマ人の土地」という意味だそうで、本来なら、もっと陽気な国民性でもよさそうなものですが、何が彼らを、そうさせていたのでしょうか。

「こりゃあ、かなわんなあ・・・」と感じながら、例によって、街をブラブラ歩いていたら、やっぱりというべきか、「米ドルもってるか?」と尋ねられました。ところが、いざ交換というときになると、「早くしろ、ポリスが来る、早く、早く!」と、やらた急かされ、こちらもやましい気持ちがありますから、急いで手渡し、受け取って、すぐにその場を離れました。

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怒りと、驚きと、諦めの通貨(?)、ルーマニア・レウ

しかし、なんか変だと、すぐに気付いて、お札の束を見てみると、表の一枚以外は全部新聞紙でした。「やられた!」と思いながらも気を取り直し、その翌日、今度は絶対に騙されないぞと、ずいぶん注意していたにも関わらず、またまた、やられてしまいます。まるで、マジックのようで、ルーマニア人恐るべしと、つくづく感じました。

知り合った日本人留学生に誘われ、彼が宿泊する大学の寮に遊びに行きました。すると、この人は、せっかくだからコーラをご馳走するといいます。米帝の象徴ともいうべき敵性飲料(?)のコーラ(ペプシ)が共産主義国にあるわけないだろう、と思いましたが、本当にありました。何でも、アフリカから留学で来ている学生が自室を利用して小遣い稼ぎにやっているそうで、彼の部屋以外にも、ビールなら何号室、タバコは何号室と、寮内には、様々な「専門店(?)」があるということでした。同じ共産圏でも、クソ真面目なポーランドに対し、何かと裏がありそうなルーマニアといった感じです。

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あんた、何しに来たんだ
外交そっちのけで、ソ連のフルシチョフ相手にペプシの営業に励むニクソン大統領。コカコーラは、なぜ怒らなかったのか?

ポーランド、東ドイツ、ルーマニアと周ってきましたが、3カ国とも対外債務で財政は破綻寸前だったようです。今にして思えば、どんどん気前よく援助していた西側諸国は、悪徳サラ金と同じやり口で、最初から返済できないのを見越して貸し与えていたのではないでしょうか。遅かれ早かれ彼らは手を挙げるから、ワルシャワ条約機構の各国を、一枚、一枚引き剥がすように、ソ連を丸裸にしてやろうという魂胆だったのでしょう

そして、3カ国の首脳の中で、最も悲惨な末路を辿ったのがルーマニアのチャウシェスク大統領でした。ベルリンやワルシャワは、ソ連の首都モスクワに直結する、いってみればメインストリート上にあり、ロシア人にとっては絶対国防圏ともいうべき認識だったと思われますが、それらの都市と比べると、ルーマニアは、明らかに裏街道といった存在です。ソビエト首脳からも、それほどキツい注文はなかったようで、そのためなのか、1965年に実権を握ったチャウシェスク氏は、ソ連と距離を置いて、西側諸国に接近を始めました。当然、アメリカを始め西側諸国からは歓迎されて、たしか日本にも来たのではないでしょうか。しかし、その頃から個人崇拝に重きを置いていったのは、ほとんど北朝鮮と同じ方向性だったでしょう。

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三木首相と会談。 ルーマニア人離れした(?)笑顔と、揉み手!
意外と憎めない人だったのかも・・・

1980年代に入ると、多額の対外債務がいよいよ重荷となって(約130億ドル)、遂には飢餓輸出(国内で必要とされる最低限の量を超えた物資や農産物を外貨獲得のために輸出に回し、飢餓を生むこと)の道を選んでしまいます。食料が配給制になり、停電が頻発して・・・というのも今の北朝鮮と同じで、筆者が訪れたときは、ちょうど、そんな時期でした。

その他にも人口増を目的に多産を奨励し、人工中絶の禁止、離婚の禁止など、指導者の思いつきで強引な政策を推し進めたのは北朝鮮や毛沢東時代の中国と酷似しており、その結果、多くのストリート・チルドレンを生み出してしまうなど、政権後期は、やることなすこと全部裏目に出て、結局最後は1989年のルーマニア革命で逮捕されて、12月25日のクリスマスの日に妻エレナとともに銃殺されました。享年71歳で、皮肉なことに、その年の夏に、ようやく対外債務を全額返済し終えて、「さあ、これから」という矢先でした。余談ですが、コマネチさんは、革命直前の11月にアメリカに亡命しています。

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1989年12月21日、チャウシェスク大統領が生きて国民の前に現れた最後の日
演説中に爆竹が破裂し、悲鳴が起こって、せっかくの舞台が台無しになり、逃亡→拘束→裁判→銃殺へ

その後、ストリート・チルドレンたちは、ジプシーの犯罪集団となって、最近は、パリや他国の都市にも「出張」しているようで、地下鉄の車内や駅の構内での引ったくりなどが社会問題化しています。トップが政策を誤ると、その人が倒れても、負の遺産は、ずっと引き継がれてしまうということなのでしょう。

一方、東ドイツのホーネッカー議長は、最後の最後まで、頑強なマルクス・レーニン主義者を貫き通しました。ソ連のゴルバチョフ書記長を始め、東欧のほとんどの指導者たちが既に社会主義体制に見切りをつけていた中で、それでも諦めなかった一人だったのではないでしょうか。ソビエト首脳も、彼のあまりの石頭ぶりに思わず苦笑いしたと伝えられるほどで、最後の一兵まで闘ったところは、なんとなくドイツ人的ではあります。失脚後は、ベルリンの壁を越えようとして殺された人たちに関する訴追から逃れるためにソ連に亡命し(1991年)、1994年5月にチリで肝臓がんのために亡くなりました。享年81歳でした。

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ゴルバチョフ書記長に完全に見限られ、失脚したホーネッカー議長(右)
共産主義一筋80年だった

1981年2月からポーランドを率いたヤルゼルスキ氏は、同じ年の12月に自由化を求めるデモを鎮圧するために戒厳令を敷き、世界中から非難されましたが、その決定に関しては評価が分かれるところです。同時期は、他の東欧諸国では、まだどこも民主化運動を行っておらず、ゴルバチョフ書記長も就任する前で、ペレストロイカも始まっていませんでした。彼の置かれた立場は、本当に厳しいものだったでしょう。

政治的にも、地理的にも、ソ連の国防上、極めて重要な位置にあったポーランドの民主化を、ソビエト首脳は、そう安々とは認めなかったでしょうから、デモを放置していれば、軍事介入は必至の情勢で、ヤルゼルスキ氏には、与えられた条件下での苦渋の選択だった・・・、あるいは、体制内の変革を、ギリギリまで模索したという評価が妥当ではないでしょうか。戒厳令でも、必要以上の弾圧は行わなかったということです。

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戒厳令を発表するヤルゼルスキ首相

1989年7月に、民主化されつつあったポーランドの初代大統領に任命されますが、1年後に大統領選挙で勝利したワレサ氏にその座を譲っています。体制側と反体制側に別れ、ずっと対立関係にあった2人ですが、祖国を思う気持ちは同じだったようで、タフな交渉を通じてお互いに認め合うところもあったのでしょう。退官後に2人は親友になりました。

東アジアでは、欧米列強の掌で踊らされ、対立を続けたために、結局、植民地にされてしまった国が多かった中で、私利私欲や組織防衛といった小事に流されることなく、国にとって何か必要か、国民にとって、どうすることがよりよい道か、常に考えて行動した明治維新の巨人たちにも、共通する懐の大きさがこの2人にはあったということでしょう。まさに勝海舟と西郷隆盛といった関係で、文明とは、そういうものではないでしょうか。

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昨日の敵は、今日の友
引退後は、夫婦で交流を続けた

民主化後のポーランドは、一時期、対外債務が423億ドルにまで膨張し、政治も、旧共産党系の左翼政権が誕生するなど不安定な状況が続いてきましたが、経済は順調に発展し、ワルシャワは、欧州で最もビジネスに適した都市の第3位にランクされています。

一方で、ルーマニアは、バセスク大統領が弾劾→復帰(2007年)するなど、ドタバタ続きで経済も停滞し、最近は反政府運動も起こって、「チャウシェスク時代の方が良かった」といった声まで聞かれるということです。

そして、最後に米朝会談です。
トランプさんには、ノーベル平和賞に目がくらんで正常な判断ができないのでは、という疑いを持ちますし、金正恩氏に至っては、国民の窮状など、まったく眼中にありませんから、後は安倍さんが、お人好しぶりを発揮して、つまらない約束などしはしまいかと、それだけが心配です。どんな結果になっても、しばらくの間は、北朝鮮国民の苦難は続くのでしょう。

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明らかに媚びを売る金正恩氏の表情に注目
「ご命令には絶対に背きませんので、お助けください・・・」で、また一枚、中国にカードが増えた?

結局、東アジアにゴルバチョフはおらず、勝海舟も、西郷隆盛も、そして、徳川慶喜も、朝鮮半島にはいませんでした。明智光秀も既に殺されてしまいましたから、最後は、北朝鮮の人民が自力でなんとかするしかないのでしょう。もしかしたら、世界最大規模の百姓一揆打ち壊しが勃発するかもしれません。

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