地獄に落ちた勇者ども
左翼八十八か所伝説の旅シリーズ 第五回 佐世保 
秋山勝行、成島忠夫他、左翼オールジャパン + 中道&右翼

10.8(ジッパチ)の羽田闘争から一ヶ月後にあたる1967年11月12日、新左翼各派は、佐藤栄作総理の渡米阻止を目標に、第二次羽田闘争を戦いました。

前月に学生たちの投石で甚大な被害を受けた機動隊は、装備を改め、万全の迎撃体制を整えてデモ隊の襲来にに備えていました。そのため、蒲田駅から進撃を開始した約2300名の三派全学連の連合軍(前回、内ゲバで分裂寸前でしたが仲直りした?)は、3つの橋に取り付くこともできずに、はるか前方の大鳥居交差点近辺で補足されてしまいます。ここは、前回の集結場所だった萩中公園から、わずか200mしか離れていませんでした。

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10.8では猛威を奮った投石攻撃も、機動隊が新たに装備に加えた大盾と防石ネットで封じられた

やはり、戦の世界では、同じ手は二度と使えません。どうしても、羽田に侵入するというのなら、陸路は諦め、海か、空から攻めるしかなく、当日の朝も、「ヘルメット姿の学生らしき男を乗せた船、約20隻が隅田川を下っていった・・・」と110番通報が入りますが、調べてみると、港湾作業員だったと判明しています。二年後に連合赤軍の前身である京浜安保共闘の突撃部隊は、海老取川を泳いで渡り(凄い!)、滑走路に侵入して、火炎瓶の投擲に成功しました。

前回に続いて学生たちは、やりたい放題でした。無賃乗車、非常コックを引いての強制停車、線路侵入、踏切上での集会、路線バス強奪→環7封鎖、交番襲撃、ホームで集会などなど・・・。

同じ頃、明治神宮には、七五三参拝客が4万人代々木公園で行われた社会党、総評、中立労連の抗議集会には7万人羽田の駐車場に置かれた警備本部に機動隊が3000人集まり、当日行われた菊花賞の売上は史上最高額となりました。小さな子どもは七五三へ、大きい子は蒲田へ、おじさんたちは代々木へ、勝負師は場外馬券場へ、そして、働くおじさんたちは、警棒片手に羽田に集まり、はっきりしていたのは、日本は平和だったということでしょう。

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同時期に現れたフォーク喫茶
若者たちは、何かを求めていた・・・

見ていたわけではないので断定はしませんが、二度の羽田闘争は、参加した学生たちと野次馬だけで盛り上がり、レジャーや仕事でどこかに移動しようとしていた人たちからは、ずいぶんと顰蹙を買ったのではないでしょうか。彼らの乱暴狼藉(失礼)に怒った右翼や地元商店街が自警団を結成したという話も残っています。

そして、明け68年の新年早々に起こったのが原子力空母エンタープライズ佐世保寄港問題(1968年1月19日に寄港)でした。1粒で二度美味しい」のグリコ・アーモンドチョコレート発売(1958年)から10年、ベトナム反戦運動と、長崎の反核運動が合体して左翼陣営にとっては、またとない絶好機の到来となりました。

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佐世保の米軍基地に向かうエンタープライズ
後年は、漁船に囲まれ、嫌がらせを受けた同艦も、このときは圧倒的な威圧感で安々と入港

1967年ー68年は、世界各国で学生運動が一気に過激化した時代でしたが、共産革命への幻想が崩れゆく時代でもありました。
1967年10月9日、チェ・ゲバラボリビア山中で射殺
1968年1月30日〜、ベトナムでテト攻勢
1968年5月、パリで5月危機
1968年8月20日、「プラハの春を武力鎮圧すべくソ連軍侵攻
また中国では、文化大革命が進行中でした。

そんな世相の中でやってきたのがエンタープライズでした。この闘争には、左翼のみならず、公明党や民社党などの中道勢力や、第二次羽田闘争では敵対関係にあった右翼団体右派学生(約700名)のグループも参戦し、特に注目すべきなのは、政治団体や労組だけでなく、名もなき地元の市民や労働者たちが挙って参加、あるいは見物し、学生たちを応援していたことです。筆者は、まだ6歳で、事件があったことすら知りませんでしたが、もう4〜5年早く生まれていたらきっと、ニュースを見ながら声援を送っていたのではないでしょうか。

というのは、10〜13歳頃の筆者は、模範的な反米愛国少年で、連合艦隊の再興を目指していたからです(ホントだぞ)。プラモ艦隊を駆って、毎日、米軍相手に仮想戦闘していましたから、エンタープライズと、フォレスタル級空母(当時販売されていた米艦船は、この2種のみだった)の2隻は、現実の世界でも、「いずれ撃沈せねばならない最優先ターゲット」として筆者の脳内にインプットされていました。

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筆者が毎日撃沈していたフォレスタルのプラモ
長い間、お世話になりました

1月11日、九州大学で代々木系全学連と、反代々木系は、まだエンタープライズも来ていないというのに、早くも内輪揉めで激突しています。社会党や共産党などの既成政党や労組は、新左翼の仕切る三派全学連について、統制に従うなら共闘するという方針を立てていましたが、土台無理な話だったのでしょう。

そして、エンタープライズが、いよいよ日本列島に近づきつつあった1月15日、法政大学に集結した約200名の学生が佐世保に向かおうと角材片手に飯田橋駅に入ろうとしたところ、機動隊と衝突し、131名が逮捕される事件が起きました。

学生たちは、羽田事件で1000人以上が無賃乗車してますから、この日も、佐世保までタダ乗りしようとしていたと思われ(当時は、20時間以上かかったそうで、いくらなんでも、そりゃ無茶だ)、5万人以上が参加した闘争に、200人が加わるかどうかなど大した意味はありませんから、凶器準備集合罪違反というよりも、無賃乗車の阻止が目的だったのかもしれません。

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みなさん着替えは、どうしたんでしょうか・・・
プラカードは、板を外せば、ほら、すぐ角材に
実に便利です

15日の朝に出発した部隊は、飯田橋での乱闘の後、バラバラに東京駅に向かい、博多に着いたのは、翌16日の朝6時45分だったということです。博多駅では、さっそく機動隊に挨拶代わりのキツい出迎えを受けましたが、なんとか凌いで、デモで九大に向い、教養学部の校舎に入りました。当時の大学内は治外法権で安全地帯と思われていたのでしょう。戦国時代における「城」の役割を果たしていたものと思われます。
17日には、別の部隊も到着し、下車するや、すぐに平瀬橋へ急行して、さっそく機動隊と戦闘に入りました。いつも、仲間割れし、乱闘に明け暮れた新左翼各派でしたが、このときばかりは違っていたようで、左翼史に残る感動的な名場面(ホントか?)がここで見られました。

中核派は、飯田橋で先発部隊が武器と一緒に警察に捕まり、その後も角材が補充できずに困っていました。羽田で大暴れした後だけに、今さら素手では格好がつきませんし、警察にも、カモだと思われ集中攻撃を浴びるでしょう。他派に協力を依頼したいのですが、10.8(ジッパチ=羽田闘争)の前日、ブントと社青同解放派の幹部を大勢で袋叩きにし、怒った両派の殴り込みを受けましたから、なんともバツが悪く、決起集会でも、各派の代表が壇上で殴り合う騒動があったばかりでした。しかし、背に腹は代えられないということで、秋山勝行三派全学委員長(中核派、横浜国大)は、ブント(共産主義者同盟)の成島忠夫三派全学連副委員長(静岡大)に協力を依頼します。成島さんは、10.8の前日に暴行を受けた一人でした。

以下、史実を忠実に再現しつつも、ところどころ筆者の妄想を織り交ぜ描写します(敬称略)。

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  成田闘争で吠える秋山さん

「成島、こんなことを言えた義理ではないんだが、なんとかならんか」
目をつぶり、腕組みして考え込んでいた成島だったが、次の瞬間、カッと両目を見開き、
「秋山、俺たちも、ぎりぎり人数分しかないが、明朝までにはなんとかできる。中核派が今日突っ込むのなら、持っていけ。ただし、この角材は、俺たちの魂だ。それだけは忘れるな」
「成島、貴様の侠気(おとこぎ)、しかと受け取ったぞ。俺が死んだら、骨は拾ってくれ」
「無理だ、貴様が死んだのに、俺が、おめおめと生き残れるか。地獄で待っていろ。必ず、後を追う」
二人は、互いの肩を両手で強く握りしめ、健闘を誓い合うと、立ち去る秋山に向かって、成島は・・・

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必ず勝て、阻止線を突破するんだー
世界の平和は、お前の肩にかかっているんだぞー(ワナワナ・・・)

と、こんな感じだったでしょう(断言)。まさに、梶原ワールド全開的なシーンだったと思われます。因みに、このとき渡された角材は、ブントのメンバーの実家が所有する山(!)で切り出されたものでした。新左翼の人たちは、裕福な家庭で育った人が多かったといいますが、田中角栄さんの列島改造やバブル経済を経て、うまく売り抜けていたなら、今頃相当な資産家になっているんじゃないでしょうか(革命やらずに大正解?)。

19日は、社青同解放派丸太特攻を敢行しています(やっぱり、山から切り倒してきた?)。数名のチームごとに丸太を抱えて突進する戦術は、かなりの迫力だったようで、他派の学生たちからも、感嘆の声が上がっていたということです。そこうしているうちに、ニュース映像を見て興奮した学生たちが続々と佐世保にやってきました。

20日は、学生たちの一斉カンパが行われました。
学生たちが抱えるヘルメットには、地域住民や労働者から、どんどんお金が集まり、見る見るうちに1万円札で一杯になった・・・と一部で伝えられていますが、実際には、当時使用されていた100円札、500円札がほとんどだったようです。

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さっぱり弱くなった西鉄ライオンズの代わりに、全国から元気な学生さんたちが大勢やってきた・・・
娯楽の少ない田舎では、学生運動も立派なエンターテイメントだった?

それでも佐世保での運動が一般市民や労働者たちから乖離することなく、受け入れられていたのは間違いなかったでしょう。新左翼史上、これだけの一体感が見られた闘争は、佐世保以外にはなかったのではないでしょうか。地域住民を困らせ、自警団を作られてしまった羽田とは、まったく様子が違っていたと思います(東京の人は情が薄いですからね・・・)。

21日は、特に激しい攻防が繰り広げられました。
全学連の部隊は平瀬橋を渡ろうと繰り返し突撃し、機動隊が反撃して出てくると退却し、逃げてくる学生たちを市民の群れが包み込んで守ったと伝えられています。まさに、人民の海」に隠れたわけですが、この戦術のおかげで、見分けがつかなくなった機動隊は、「疑わしきは罰する」方針に変更したようで、市民と言わず、報道陣と言わず、手当たり次第にぶん殴って(スタン・ハンセン化した?)、かなりの誤爆が発生しました。https://yahoo.jp/D0kH0r(地図上の佐世保共済病院では激戦が繰り広げられた)

そんな攻防が続いた末、ついに学生たちは、橋の西側を除いた大部分の占拠に成功し、機動隊が逃げる際に置いていった装甲車を奪って(羽田の時と違って、鍵は持っていった模様)、車上に自軍の旗をなびかせました。

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凄まじい放水(しかも海水催涙剤入りだ)を耐え、よくぞ装甲車に取り付いた

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この瞬間、ギャラリーからは、大歓声が湧き起こった?
この日も、部分的には勝利したが・・・

ここで、合法活動を仕切っていた社会党は、「そろそろ潮時」と判断したのか、学生たちを下がらせて、市民と労働者のデモで平和的に抗議した方が効果的だとみたようです。このまま続けていれば、10.8のように死者を出してしまいますし、左翼の親分を自認していた(?)社会党としても、見せ場を作りたかったものと思われます。

しかし、ようやく相手を追い込み、もう一歩というところで、「はい、交代」では、とても現場は収まりません。社会党の方針に従って退却を主張する社青同解放派と、戦闘継続を主張する中核派らとの間で内ゲバが勃発し、敵を放ったらかしての殴り合いが始まりました(まただー!もうひと押しだったのに、なにやってるんだー)。劣勢だった機動隊は、それをポカンと眺めていたのでしょう。

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いいとこ取りに失敗した社会党
後に委員長となる石橋政嗣さんの顔が見える

この乱闘の最中、中核派の司令部から前線に「伝令」が伝えられました。
佐世保川を見ろ
最前線を仕切っていた部隊長が川下に目をやると、城を囲む堀のように学生たちの前進を阻んでいた佐世保川が、干潮によって水位が下がり、膝くらいの深さになっていました。
「これなら、渡れる・・・」
隊長は、すぐさま副長を呼んで先頭集団の後方にいた約100名を組織して別働隊を編成させ、川下に移動し、川を渡って向こう岸に上陸すると、米軍基地の鉄条網を攀じ登りました。ところが・・・

鉄条網の天辺まで上った隊長は、振り返って、驚きます。
100名いたはずの部隊の多数は、川を渡っておらず、まだ向こう岸で傍観しており、付いてきた約30名も、鉄条網を越えようとはしませんでした。(詳しくはこれを→https://blogs.yahoo.co.jp/meidai1970/34468772.html#34469260

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アメリカ軍の「皆殺しオーラ」に怯んだ?

そりゃあそうでしょう。
橋の後方にいたということは、戦意があまり高くないわけで、その人達を引き連れて、米軍基地に侵入するのは無理がありました。平和日本の機動隊と違い、戦争大好きアメリカ軍の本陣に突っ込めば、「無慈悲な報復」に遭うのは確実で、軽い気持ちでデモに参加していた人たちは、「そこまでは、やってられないよ・・・」という意識があったのではないでしょうか。

結局、隊長と副長だけで突入することになり、中核旗が一瞬、基地内に翻りましたが、米兵より早く駆けつけた日本の刑事(凄い! 米軍に、もしものことがあればクビになる?)に取り押さえられています。生活がかかり、「命がけ」の刑事さんと、生活の心配のない学生たちの覚悟の差が見て取れる瞬間でした。

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「坂道のアポロン」より
広瀬橋の下流に米軍基地が

この出来事は、4年後に起こった連合赤軍の山岳ベース事件を予見していたと思います。
運動が過激になればなるほど、ついていけないメンバーは現れるわけで、武装闘争を貫徹しようと思えば、頭数より少数精鋭という方向に、どうしてもいってしまうでしょう。ですから、佐世保川渡河や有刺鉄線を前に躊躇した人たちは勿論、突入した人たちも、その後の運動で、ちょっと冷めた見方ができたのではないでしょうか。この頃から、革命運動は、広く一般的な認知を目指す方向から、他党派との比較の中で、いかに目立って、仲間を増やすか、という方向へ流れていったように感じます。

翌22日、エンタープライズは、何事もなかったかのように、佐世保を離れていきました。

これだけの大騒乱が発生しながら、日没後はコールドゲームになったようですエンタープライズの水兵さんたち約4000人が街に繰り出し、あちこち飲み歩きましたが、特に問題は起こらなかったということです。「夜の部」では選手交代で、博多や広島、関西などから遠征してきたおねえさんたちが米兵を迎え撃ち、次々に「撃沈」したのではないでしょうか(これぞ大和魂だー!)。

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船から降りれば、ただの人?
米兵も、市内では、安全だったようだ

事件の翌年、日本テレビは、「コント55号!裏番組をぶっとばせ!!」(1969年4月)をスタートさせました。メインの野球拳は、日本中の話題をさらい、筆者も、毎週日曜夜八時が来るのを楽しみにしていました。こちらの方が巨人戦より、はるかに面白かったからです。そして、やってることの低俗さに反比例し、どういうわけか番組の雰囲気は健全で、男性も、女性も、大人も、子供も、一緒になって楽しんでいたと思います。脱いだパンツを売って、チャリティーまでやってました。

左翼運動も、この頃までは、多少違法行為があったとしても、家族みんなで楽しめる(?)健全さがあった・・・というか、違法行為があったからこそ、楽しめたんじゃないでしょうか。昼は、お弁当を持って学生さんたちの応援に行き、夜は休戦して、米兵も一緒に(ホントか?)薩摩焼酎で宴会やって、二次会、三次会では、学生と機動隊と米兵が同じおねえさんを相手に・・・・・、エンタープライズが出ていくときは、みんな、ちょっとガッカリして、「来年も、また来いよー!」という、甲子園的な雰囲気も、一部には、あったんじゃないかなあと、筆者は勝手に想像しています。

そして、もしも、本当に、そういったノリだったのなら、昭和50年代前半あたりに、社共の連立政権なんかもできていたんじゃないでしょうか。左翼の人たちは、あまりにも堅っ苦しくいき過ぎて、失敗したように筆者には思えます。

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広瀬橋近辺から川上に向かって撮った写真
右手に、佐世保共済病院が見える

ところで、反米愛国少年だった筆者が「転向」するきっかけとなったのが、集英社の「PLAYBOY 日本版」の創刊でした(昭和50年7月=1975年)。

新左翼各派が大暴れした激動の昭和40年代が終わり、下半身の黒船来航とも言われた、その圧倒的な肉厚に秒殺された筆者は、これは、反米なんかやってる場合じゃないぞ」と、あっさり連合艦隊を裏切って、寝返り、かなり長い間、「金髪白人路線」を歩むことになったのです。筆者、14歳夏の衝撃でした(いかにも、タイミングが悪かったですね、はい・・・)。

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連合艦隊敗れたり
米軍の卑劣な(?)肉欲物量作戦に完敗した筆者は、「親米」に転向
「エロは、剣よりも強し」か・・・
  
左翼と市民と、右翼までもが一緒になって戦えたエンタープライズ闘争は、ある意味で学生運動の頂点を極めていたのかもしれません。

騒動から、ちょうど50年経ちました。あの時の一体感や、盛り上がりを、もう一度実現するには、やはり、ある程度エンターテイメントの要素がないことには難しいように感じます。そこに、少しでも、「死」の匂いを感じ取った瞬間、人は離れていくんじゃないでしょうか。



革命やるなら、こういうぐあいに・・・




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不健全なことを、健康的にやる・・・
今こそ、この精神を取り戻したい
アップテンポな生オケ、荒々しいカメラワーク、55号のアクションと場内の熱気
「宴会芸」を感じさせない爽やかな演出が素晴らしい
ここに革命のヒントがある?

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地獄に落ちた勇者ども
左翼八十八か所伝説の旅シリーズ 第四回  羽田  極左関東オールスターズ

10月8日で、羽田事件1967年=昭和42年)から51年になります。
昭和40年代は、学生運動が過激化した時代でしたが、発端となったのが、「10.8=ジッパチ」と呼ばれたこの闘争でした。

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重信房子さんら、無名時代のレジェンドたちが総登場(たぶん)

因みに、この年は、
6月25日、世界初の宇宙中継によるテレビ番組で、ビートルズが、「愛こそはすべて」を生演奏
7月14日、タカラがリカちゃん人形発売
10月1日、阪急ブレーブス球団創立32年で初優勝
10月2日、深夜放送「オールナイトニッポン」開始
同日、   ツイッギー来日ミニ・スカート・ブーム
そして、グループサウンズ(以下GS)が大流行した年でもありました。

ビートルズ、深夜放送、ミニスカート、GSは、どれも筆者の少年時代を語る上で、欠くことのできない重要なツールであり、当時の若者たちの大人への反抗心や、上の世代、古い日本に対する当てつけの意味もあったと伝えられています。そして、そんな世相の中で、学生運動や革命運動も盛り上がりを見せていました。

特に筆者は、事件の一週間前に初優勝した阪急ブレーブスの躍進に注目します。日本のプロ野球史上、強力なチームは数多く現れど、阪急ほど、強いのに人気がなかったチームは珍しかったかもしれません。名将・西本幸雄監督、闘将・上田利治監督に率いられ、1978年までにリーグ優勝9回、日本一3回を誇った強豪チームでしたが、阪急が頑張れば、頑張るほど、チームも、リーグも、人気は低迷していきました。

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阪急初優勝で胴上げされる西本監督
西宮球場に、こんなにお客さんが入ったのは、この日が最後だった?

そして、阪急の黄金時代と共産主義は、妙に重なるところがあって、どちらも人の心を揺さぶるような「楽しさ」や「華やかさ」が欠けているイメージを持たれてしまい、学生たちがいくら声高に革命の必要性を叫んでも、一般的には受け入れられる要素はなかったでしょう。経済理論云々以前の話で、共産主義は資本主義に、阪急とパ・リーグは巨人とセ・リーグに、「明るさ」で、完全に圧倒されていました。そして、新左翼の学生たちが頑張れば、頑張るほど、共産主義に対する一般的な支持は下がっていったように思います(新左翼=阪急ブレーブス説?)。

そして、ベトナム戦争が泥沼化し、反戦運動が世界的な広がりを見せる中で、新左翼とよばれる団体が次々に生まれ、枝分かれしていきました。共産党は、1955年以来、合法路線を採択していますから、各種の抗議行動を行う場合にも、穏健な方法しか採らず、血気にはやる若者たちは、追々不満が溜まって、そこに新興諸派がつけ入るスキが生まれていました。

そして、佐藤栄作首相の東南アジア訪問が決まり、戦争当事国であるベトナム共和国(南ベトナム)が含まれていたため、これに反対する各陣営は、総理の渡航日である10月8日に向かって、「絶対阻止」を旗印に決戦に備えていました。総兵力は、2500人だったと伝えられています。

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筆者にとって、「総理」といえば、まず、この人
子供の頃の8年は、圧倒的に長いのだ

その後、数々の抗争事件、内ゲバ事件で血で血を洗う抗争を繰り広げることになる新左翼の各派ですが、このときは、都学連の再建1965年=事件の2年前)や三派全学連の結成66年)といった流れの中で、共同戦線を張っており、各軍団の担当地域、攻略ポイントも、話し合いで決められるはずでした。ところが、そう簡単にいかないのが、左翼の世界です。全体の指揮を誰が執るかを巡って、本番前から分裂の様相を呈していました。

いよいよ明日は決戦・・・と各派泊まり込みで準備していた前日、とうとう内紛が勃発します。ブント(共産主義者同盟。後に赤軍派が分裂)に所属する全学連副委員長(静岡大)と、社青同解放派所属の同書記長(早稲田)が中核派の拠点・法政大で集団暴行される事件が起こり、それを聞いた両派の学生たちが法政に殴り込みをかける騒動がありました(この辺の経緯は→https://blogs.yahoo.co.jp/meidai1970/34360322.html?__ysp=576955Sw6ZeY5LqJIOmdqeODnuODq%2Ba0vg%3D%3D

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当時の法政大学

筆者の世代からすれば、10.8だけでも、「スゲエな、おい」という感じですが、その前夜から仲間同志で乱闘していたと聞いて、「いったい、あんたら、どんだけエネルギー無駄使いしてるの?」と言いたくなってきます。当時の大学生は、それほど元気だったのでしょうか?もしも、ご近所に、やけに熱く、理屈っぽいじいさんや、普段おとなしいのに、ときどき異常にテンションが上がるじいさんがいたら、逆らわない方が無難でしょう。怒らせたら、エライことになると思います。

空中分解寸前だった学生たちでしたが、一晩開けると闘志の炎がメラメラと燃え上がってきたようで、まず、社学同と社青同解放派の連合軍(兵力約1000名)が軍勢を動かしました(おそらく9時〜10時頃か)。

東京駅に集合し、そこで、「品川駅京浜急行ホームに向かえ」と命令が下り、品川駅のホームでは、ピーっと笛が鳴って、「乗れー」と号令がかかり、全員電車に乗り込みました。実は、この中に、その後、日本赤軍のボスとなる重信房子さんが社学同の救護班として参加していたといいます。file:///C:/Users/Admin/Downloads/sigenobu10.8%20(5).pdf この闘争には、重信さん以外にも、その後、左翼史に名を残すことになる大物たちが名もなき一兵卒として参戦していたのではないでしょうか。

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現在の京急品川駅
1000人が本当なら、これくらいいたはず

学生たちがしばらく電車に乗っていると、大森海岸駅の手前で誰かが非常用コックを開け(開けちゃダメだってー)、電車を緊急停車させ(停めちゃダメだってー)、合図とともに全員下車して(駅じゃないってー)、コンクリートの柵を乗り越え(無賃乗車だってー)、線路外に出ると(大勢で道ふさいだら一般車両通れないってー)、ゲバ棒が用意されていたといい(凶器準備集合罪だってー)、各自それを持って、首都高1号線の鈴ヶ森出入り口に向かいました(歩行者は入っちゃダメだってー)。

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お巡りさんも、越中詩郎化したが止められず
みんな、ルールを守らなきゃダメだってー

鈴ヶ森ランプから首都高に侵入した学生たちは、羽田に向かって怒涛の大進撃を開始羽田まで4キロ以上あるってー!・・・していたはずだったのですが、うっかりして逆方向に進んでいたといいます。慌てて、走ってきた観光バスを止めて進路を確認し、間違いに気づいた彼らは、Uターンして、しばらくすると、ようやく現れた警察の迎撃部隊と遭遇しました。白兵戦が始まり、勢いにまさる革命軍(?)は、殴り倒した機動隊員を高架下に落とそうとするなど落としちゃダメだってー大暴れしましたが、次々に増強される機動隊についに後退を余儀なくされ、攻勢は頓挫しました。

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戦国絵巻を見ているような乱闘風景

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高速道路の大決闘
鈴ヶ森から南下して→https://yahoo.jp/uFoIra
シュミレーションしてみよう

首都高を使った、この攻勢は、警察にとって、まったくの想定外でしたが、羽田まで4〜5キロを走り切るには、世界記録保持者でも10分以上かかります。その辺の兄ちゃんらが角材抱えて走れば30分はかかるでしょう。それでは、警察の追跡を振り切ることは不可能です。

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こんな調子で走っていては、30分以上かかっただろう
見えていても、羽田は遠いのだ

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この人たちでも10分以上かかる

しかし、自転車を使えば、5分ほどで到達します。一気に管制塔を攻め落とすこともできたのではないでしょうか。陽動作戦で萩中公園に集結した部隊を囮に使い、警察の目をそちらに釘付けにしておいて、アタック隊は、国電(当時)と京急を乗り継いだりしないで、品川集合で、機動力を使って一直線に空港まで南下すれば、イギリス軍は(はあ?)、為す術もなく壊滅したでしょう。

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まず、歩兵部隊と工兵部隊が高速入り口の阻止線を破壊する
できた隙間から銀輪部隊(300名)がなだれ込む
これなら、空港まで5分だ
シンガポールも、羽田も、必ず落とす

前日に内輪揉めしている暇があったのなら、しっかり下見し、偵察して、作戦を見直し、もっと戦力を増強していれば、空港内に乱入していたようにも思います。

一方、羽田空港の西方、約4キロの萩中公園に本陣を構えた三派全学連の本隊は、中核派が弁天橋に、革マル派稲荷橋に進撃し、首都高から押し出され、態勢を立て直した社学同と社青同解放派、ブント、構造改革派(竹中さん?)、反戦青年委員会(労働者)などは、一番大きな穴守橋に殺到しました。

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萩中公園でアジ演説する全学連副委員長

東京湾、多摩川、海老取川(多摩川の分流)に囲まれ要塞化された羽田空港を攻めようとすれば、海老取川から羽田空港に架かる3つの橋・・・弁天橋稲荷橋穴守橋の奪い合いが勝敗の分かれ道となります。一つでも橋が陥ちれば空港は丸裸となって、もはや学生たちを止めることはできません。警察側は、ここを絶対防衛ラインと定め、有刺鉄線と装甲車で阻止線を築いていました。シュミレーションしてみよう→https://yahoo.jp/0vwf7I)。

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弁天橋上空から

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戦争映画「遠すぎた橋」で、こんなシーンがあったような・・・
背後に空港ビルが見える

「何が何でも死守せよ」
「絶対に落とす」
両軍は激しく衝突し、一進一退の攻防が繰り広げられました。この合戦で機動隊相手に初めて投入されたというゲバ棒(=角材、学生同志の乱闘では既に使用済み)の威力もさることながら、学生たちにとって、一番強力な武器になったのがでした。その破壊力たるや、被弾した経験のある右翼の鈴木邦男さんによると、「虐殺と同じ」「殺されると思った・・・」そうで、「学生運動」「抗議行動」の範疇を完全に超えていたといいます。警察側の負傷者840名は、ほとんど投石でやられたのではないでしょうか。

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警察の被害は甚大だった
投石攻撃は、戦国時代の合戦でも使われただけあって、破壊力は抜群だったようだ

特に激しかったのは弁天橋で、機動隊350人 中核派600人が激突し、午前11時25分頃から始まった戦闘では、歩道の敷石を剥がし、それを砕いて投石する学生軍に数で劣る機動隊は防戦一方となり、放水でなんとか対抗していたものの、ついに装甲車(5台配備)に取り付かれ、終いには車両を奪われてしまいました。奪われた装甲車は最初は前進し、進路上で戦う機動隊員を押しのけ、押し倒し、その後、ギヤをバックに入れて後方に置かれた別の装甲車に体当たりする映像が残されています。

運転した学生は、機動隊員を、ひき殺そうと思えばできたと思われますが、さすがに自主規制したのでしょう。川に転落した機動隊員を学生たちが助ける場面があったりと、この頃までは、「超えてはならない一線」は守られていたようです(https://www.youtube.com/watch?v=YaqLdp7YI9A&t=1s←これは凄い)。

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硫黄島陥落?
勝ったー!バンザーイ!
・・・と言いたいところだが、ちょっと待て、目標は、この先の空港じゃなかったのか?

ところが、ついに死者が出てしまいます。
午後11時40分頃(東京都監察医務院の死体検案書による)、中核派の学生、山崎博昭さんが死亡しました。学生運動で死者が出たのは、1960年6月の樺美智子さん以来でした。

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亡くなった山崎さん
まだ18歳でした

警察は、装甲車を強奪して運転した学生が轢き殺した(前輪で腹を、後輪で頭を轢いた)ものとみて過失致死傷事件として捜査に乗り出し、学生たちは、警察の暴行によって死亡したと主張しました。真相は今だに藪の中ですが、あれだけの激しい攻防があったのですから、死者が出ても、何らおかしくなかったでしょう。

学生側が装甲車を分捕った場面では、スピードを加減して轢き殺さないよう配慮していたように見えますが、いくらそうしたからといって、両軍入り乱れたあの場面では、不慮の事故が起こっても不思議ではありません。

また警察にしてみれば、ゲバ棒だけならまだしも、凄まじい投石攻撃で甚大な被害が出ている中で、遠慮している余裕などなかったでしょう。雨あられと降り注がれる石弾をなんとか凌ぎ、激痛に耐えて、なんとか取り押さえた学生に、思いっきり焼きを入れ、戦闘能力を奪う、そうしないと、こっちがやられる・・・そんな判断の中で、ついつい、やり過ぎてしまったというのも、あり得る話だと思います。

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投石にやられ、ついに切れた機動隊?
こうなったら、もう手加減なしだろう

死者が出たことで一時休戦となり、川を挟んで両軍が睨み合いとなって、午後1時、現場にいた学生、機動隊が全員で黙とうを捧げ、それが終わると、また戦闘が再開されました。

これ以上を犠牲者を出してはマズい、という判断が当局側には当然あったでしょう。午後1時20分、警察が60年安保以来という催涙ガスの使用で、ようやく騒動は納まりました。

警官840名、学生17名(記録にないだけで、実際には、もう少し多かったと思われます)が負傷し、一般人5名も、トバッチリを受けました。また、学生58人が公務執行妨害と凶器準備集合罪で現行犯逮捕され、75人が検挙となり、その中には全学連の秋山勝行委員長も含まれていました。警察車両7台が使用不能、3台が大破したということです。

事件後、警察は、機動隊の装備を再検討し、軽合金製の大盾を隊員たちに持たせ、防石ネットを導入し、歩道に使われていた敷石を廃止し、アスファルト舗装に変えて、投石攻撃を封じました。

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約一ヶ月後の第二次羽田事件(11月12日)では、機動隊の装備は格段に向上していた
戦の世界では、同じ手は二度と使えないのだろう

この騒動以来、学生の活動家たちがアジる(扇動演説)際は、必ず、10.8が切り開いた・・・」という「枕詞」が用いられるようになりました。それまで、やられっぱなしだった機動隊を初めて押し返した興奮感動は、それほど大きかったのでしょう。

そして、この闘争に参加した、あるいはニュースで見た、聞いた、読んだことで人生が大きく狂ってしまった人は、かなりの数に上ったのではないでしょうか。筆者も書いていて思いましたが、今の「平和日本」からすれば、信じられない場面の連続で、その場にいようがいまいが、どんどん行け」「もっと、やれー」「俺も参加するぞ」となったのは普通の感覚だったと思います。あれだけの激突があった後で、卒業し、就職して・・・とは、ならなかったんじゃないでしょうか。

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事件を伝える新聞

10.8までの学生運動は、「警察は本気で来ないし、絶対に発砲しない。だから殺されることはないという前提で成り立っていたと思います。山崎さんが死んで彼らがいきり立ったのが、なによりの証拠でしょう。

しかし、それには学生側の遠慮がないことには話になりません。ある種の八百長と言ってもいいのですが、学生たちが機動隊を本気で倒しにかかり、ゲバ棒と投石でかかってくるなら「ブック破り」となって、警察も負けるわけにはいきませんから、相応の反撃はするでしょう。最後はセメントマッチ・・・つまり殺し合いになってしまいますし、実際、4年後にそうなりました。

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セメントを挑んだ以上、ボコボコにされても最後までやるしかない

そこに、「興奮」や「感動」などあるはずはなく、それでも運動を続けたり、新たに参加してくるには、相応の社会情勢・・・軍事独裁政権で普通選挙がない(タイ王国は今、まさにそうですね)とか、あっても不正選挙が横行し意味を持たないとか(ロシア?)、貧しい人たちが飢えてバタバタ死んでいるとか・・・でないと、まず難しいのではないでしょうか。

10.8によって、彼らの運動は一時的に盛り上がり、その後、急速に萎んでいったのは自然の流れだったと思います。そして、運動に残った人たちも、羽田で得られたほどのカタルシス、スペクタクルは、二度と味わえなかったのではないでしょうか

羽田事件と同じ日に、日本共産党は、多摩湖畔で赤旗まつりを開いていました。大騒ぎしたところで佐藤総理の渡航を阻止できるわけでなし、なら、党員さんたちが楽しみにしていたイベントを優先するのは組織として当然の判断でしたが、この頃から、「闘う新左翼=若者、学生」「闘わない既成左翼=年長者」の色分けがはっきりし、新左翼の崩壊後も、その流れが変わらなかったことで、左翼陣営は、新たな人材の供給路を断たれることになりました。

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第二次羽田事件で出撃する学生たち

GSブームの中で様々なバンドがデビューし、大いに人気を集めた中で、少女たちの熱狂があまりにも凄まじかったために、「GSを聴くと非行に走る」「ギターを弾くと不良になる」などと言われ、教育関係者や父兄から激しい「弾圧」(会場が借りられない等)を受けることになりました。

そんな中で、ブルーコメッツだけは、優等性的な存在で、NHKや大人たちから評価されながらも、GSブームが終わると結局、他のグループの道ずれにされるように「没落」していきました。その姿は、なんとなく、共産党や社会党と、新左翼各派との関係に似ていたようにも思えます(赤軍派は、タイガース?)。

そして、GSを聴いて、女の子の家に電話して、親に取り次いでもらって(最大の試練!)、「明日、会えるかな・・・、今日は、デモなんだ・・・、うん・・・、じゃあ、明日・・・」と、軽い調子で翌日の約束ができたのも、もしかしたら「羽田」が最後だったのではないでしょうか。

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ギョロメ、道路工夫、金魚、カッパ、茶々丸…アイドル離れしたニックネームで呼ばれたという・・・
テラテラの7:3分けが素晴らしい

学生運動史上最大の盛り上がり見せ、多大な影響を及ぼした羽田闘争でしたが、同時に、学生運動や左翼運動が若者たちの憧れる風俗や文化の座から滑り落ちただったのかもしれません羽田事件は、その後の左翼の運命を決定づけたといえるのではないでしょうか。




バラ色の雲と思い出を抱いて

逢いに行きたい海辺の街へ

くちづけかわした海辺の街へ・・・





1967年8月1日リリース 「バラ色の雲」より
https://www.youtube.com/watch?v=yOaxTsdNN70



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 兵どもが夢の跡・・・

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地獄に落ちた勇者ども
左翼八十八箇所伝説の旅シリーズ 第三回 大菩薩嶺   塩見孝也

高倉健さん主演の「網走番外地」で、こんな場面がありました。
刑務所内で安部徹さんから、「おめえ、たいそうイキがってるようだが、どんなヤマをふんだんだ」と聞かれた田中邦衛さんは、自信満々に答えます。「こう見えても、前科13犯よ。窃盗、詐欺、置き引き、ひき逃げ、売春、無銭飲食・・・」、すると阿部さんは怒って、「バカヤロー、ションベン刑ばかりじゃねえか、恥を知れ」。

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罪人にも罪人なりのランクがあり、おそらく最も位の高いが政治犯だと思います。特に、凶器準備集合罪破壊活動防止法違反などは滅多に出会えるものではなく、一般的には飯干晃一さんのヤクザ小説にしか出てこない幻の罪状といわれる中で、当時(1970年)は誰も知らない未知の犯罪といわれたハイジャックの共謀共同正犯まで付けられて、19年9ヶ月も刑務所に入っていた人がいました。昨年の11月に没した赤軍派の議長・塩見孝也さん(享年76歳)です。

何かと問題の多かった左翼史の中でも、特にトンデモない人(失礼)という印象は残るものの、男たるもの、どうせ捕まるのなら(?)、こういう特殊犯罪でパクられたいと思うのがロマンというものでしょう。誰も殺していないのに、20年も入れられた人は珍しいのではないでしょうか。

よど号事件、連合赤軍事件、日本赤軍の数々の人質事件など、左翼がしでかした大犯罪は、連続企業爆破事件以外、すべて塩見さんが率いた赤軍派が源流となっており、彼は、いうなればキング・オブ・極左といういうべき存在なのです。

「たまたまいらっしゃった方」「塩見さん?塩見貴也さん?」「どういったことを・・・」
聞き手がまったく彼を知らなかったので、拍子抜けしつつも、素人相手に左翼独特の難解な表現は控えたようで、
非情に聴きやすい、いいインタビューになっています

残されたインタビューを見ると、70過ぎて、相変わらず、世界同時革命(スケールだけはデカイ!)なんて言ってますから、ちょっと感心しました。ちろん、若い頃は、こんなんとは全然違って、悪人然としていた(たぶん)はずですが、この頃は、ほのぼの感が出ていて、年をとるというのは、あながち悪いことばかりではないんだな、というのを教えられたような気がします。

まさか世界同時革命なんて起きはしないだろうと、こちらも安心してますから、気楽に聞けるわけで、エンターテイメントとして楽しめば、このおじいさんの話は、なかなか面白いと思います。もっとメジャーな媒体で喋らせて、芸人さんらにイジられていれば、ずいぶん人気が出たんじゃないでしょうか。

結果として天下が取れませんでしたから、いろいろと、しくじりはあったわけですが、中でも最大のものが大菩薩峠事件でした。事件に至るまでの大体流れは、以下のとおりです。

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53名が凶器準備集合罪で逮捕され、中には高校生も含まれていたという
よど号事件もそうでしたが、数合わせで高校生を巻き込んだのは、大いに反省すべきだったのでは

1969年7月、第二次ブント(共産主義者同盟=日本共産党から1958年に分裂)で内ゲバ勃発。因みに、この年の1月に東大で安田講堂攻防戦があり、翌年の3月に、よど号事件、11月に三島由紀夫さんが割腹自殺しています。
8月28日、ブントの関西人が中心になって赤軍派を結成。塩見さんが議長に就任。
9月4日、 集会に300人を動員し、世界革命戦争宣言。こちらもスケールだけはデカイですが、たった300人の前で、よく、これだけ大風呂敷を広げられたか、そちらにも感心します。
9月22日、大阪戦争、派出所3箇所に火炎瓶を投げる。
9月30日、東京戦争、警察署、派出所に火炎瓶を投げる。そして、
11月5日に起こったのが大菩薩峠事件でした。

大阪戦争(同名のヤクザ抗争あり)は、警察を同時多発的に襲撃することでパニックを起こし、労務者の居住区である釜ヶ崎に解放区を作って、武装蜂起へ・・・という作戦で、東京戦争は、やはり警察を襲撃して騒乱を起こし、暴力革命に発展させる予定でしたが、大阪では労務者が、東京では後楽園競輪場の群衆が加担してくれる(!)という前提で話が進んでいたといいます。

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大阪戦争の様子を伝える新聞

今聞くと、なんといい加減な・・・と思われそうですが、実は、この頃のデモは、正規メンバー以外の飛び入りで成り立っていた部分もあって、68年10月の新宿騒乱では、デモ参加者2000人に対して、ヤジ馬が、なんと10倍の2万人も集まっています(逮捕者743人)。お茶の水周辺等で、たびたび発生した騒乱でも、デモ隊の周りには、常に、その数倍のギャラリーが観戦(?)していたといいますから、いざとなったら助っ人に入ってくれるか、あるいは、当局側に味方して敵に回るかは、その時の雰囲気次第ということだったのでしょう。

ですから、群衆を扇動して騒ぎを拡大させるには、勢いを見せる必要があり(まるで関が原だ・・・)、赤軍派の火炎瓶とゲバ棒、石だけで武装した、わずか100〜200名の手勢では明らかに戦力が不足していました。しかも、ほとんど寄せ集めだったといいます。

どちらの事件でも、警察は事前に情報をキャッチしていたようで計画は頓挫し、単に仲間を失うだけの結果に終わっています。そして、両事件の失敗を取り戻すために新たな計画(首相官邸襲撃)を立てる必要に迫られ、その準備として企画されたのが大菩薩峠での軍事演習でした。

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見るからに危なそうな人たちという雰囲気は漂いますが、当時の最新流行だった?

で、このときも、やはり機密保持ができず、計画がダダ漏れとなり、新聞記者にまで嗅ぎつけられて、メンバーたちが逮捕される姿を日本中晒すことになってしまいます。おそらく、集められたメンバーの中にスパイがいて、逐次、公安に報告が入っていたのでしょう。

気付かなかったと言ってしまえばそれまでですが、左翼団体に体制側のスパイが入り込むのは戦前から既にあった話です。日本共産党では殺人事件まで起きており、そこから派生した団体にしては、あまりにも迂闊でした。簡単な引っかけ問題に何度も引っかかってしまったのに、京大医学部の入試はパスしましたから不思議な話ではあります。

彼らが大菩薩峠で利用した山小屋の「福ちゃん荘」も、ちょっと奥まった場所にあるものの、普通に観光客が利用する施設だったといいます。日本転覆を狙う非合法組織が極秘訓練を行うために利用するにしては、あまりにも人出が多く、不適切な選択でした。

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現在の福ちゃん荘。とっても健康的です

要するに、大阪戦争も、東京戦争も、大菩薩峠も、計画が杜撰(ずさん)で独り善がりだったため、まるで話になっておらず、失敗するべくして失敗したといえるでしょう。現状分析を怠って、思いつきと気合いだけで始めてしまうのは、大日本帝国が大戦中に延々と繰り返した過ちと同じで、赤軍派の実体は、指導者たちの自己過信誇大妄想だったように思います。

だいたい、1969年〜70年といえば、人類の偉業といわれたアポロ11号の月面着陸に世界は湧き、人々の話題は大阪万博一色でした。日本のGNPは、既にアメリカに次いで世界第2位(1968年に西ドイツを抜く)となっており、世の中は、ひたすら明るく(唯一暗くしていたのが新左翼=特に赤軍派だった?)、国民の所得も生活も、どんどん上昇している中で、「武装闘争で世界同時革命だー!」とは、現実離れにもほどがありました。

もしかしたら革命運動は、登山や旅行と同じで、計画しているときが一番楽しく、ついつい現実の社会情勢を考慮に入れるのを忘れてしまうのでしょうか。酒を飲みながら、壮大なロマンを語り、侃侃諤諤の議論に熱中して夜が更けていく・・・、酒に酔い、革命に酔い、明日を夢見る自分自身にも酔っている・・・・、塩見さんも、先の動画では、実に美味そうにビールを飲んでいました。

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若き日の塩見議長
黒シャツにネクタイで、やっぱり、悪人だった?

赤軍派の活動は、明らかに左翼陣営各派の足を引っ張り、革命運動そのものにも大ブレーキをかけましたが、生き残りを模索する他のグループからすれば、どこまでなら許されるのか、一つの目安にはなったかもしれません。

文書こそ出しませんでしたが、赤軍派を潰すことで、警察は、こう言いたかったのだと思います。
・合法的な資金集めをしなさい、銀行強盗など非合法なものはダメですよ
・飛び道具、爆発物は使わない、拳銃、ライフル、猟銃、ダイナマイト、鉄パイプ爆弾はダメですよ
・殺すなら仲間か同業者だけ、一般人、ましてや政治家や政府要人はダメですよ
この3点さえ守っていれば、けしからん存在ではあるが見逃してやろう・・・ということだったのでしょう。

1970年3月15日、よど号の乗っ取り事件が起こる2週間前に、塩見さんは、警官と小中学生6、7人(!)に追い詰められて逮捕されました。子どもたちは、コソドロか何かと勘違いしていたようで、「俺は人民のためにやっているのに、なんでガキ共に追いかけられるんだ―」と大いにボヤいたということです。

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実物よりカッコいい(?)坂口拓さん演じた塩見議長

こうして懲役に服した塩見さんでしたが、ここで思いもよらない大騒動に巻き込まれます。
塩見さんら幹部が大量逮捕された後、赤軍派は、よど号グループが北朝鮮に、重信房子さんがパレスチナへ渡り、残ったメンバーをまとめていた森恒夫氏は、京浜安保共闘と合流して連合赤軍を結成しました(1971年)。そして、翌72年に浅間山荘事件が起こるわけです。ここで、赤軍派のトップとして、塩見さんの責任も問われることになりました。

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山岳ベース事件の遺体発掘現場
日本中が震撼した

もちろん、獄中から塩見さんが殺人指令を出したりしたわけではないのですが、赤軍派→連合赤軍=塩見理論が元ネタだったのは間違いなく、ついこの間まで一緒にデモに参加していた仲間たちでしたから、ちょっと立ち位置が変わっていれば、同じことが別のメンバーにも起こっていた可能性はありました。連合赤軍事件は、塩見さんに限らず、すべての革命勢力、共産党ら合法政党を含めた、すべての左翼陣営を直撃する大問題となり、この事件を、どう評価するかに、各党派とも苦しむことになりました。

彼らは異常で特殊な集団
合法、非合法を問わず、左翼の人たちは、そういうことにして乗り切ろうとしましたが、本当にそういう解釈でいいんでしょうか。レッドパージの国アメリカでさえ2年前、バーニー・サンダースさん(社会主義者を自認)が大統領選挙であれだけの票を集めましたから、緩やかな社会主義政権なら、遠くない将来、日本でも現れる可能性はあると筆者は考えています。しかし、そうなるにしても、その前に超えねばならい大きな壁、それが連合赤軍事件の「再総括」ではないかと思われます。

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連合赤軍事件の総括は本当に終わっているのか?
左翼退潮の原因は、もしかしたら、総括の仕方に問題があるのかもしれない・・
そして、「間違った総括」の代表的な例が塩見さんだったのかもしれない

塩見さんにとって、山岳ベース事件は、たいへんな重荷だったようで、獄中で連合赤軍メンバーの植垣康博氏と論争になった際も、因果関係を否定し、最後は喧嘩別れしていましたし、先に紹介したインタビューでも、「(赤軍派は)連合赤軍とは違うよ」と即座に打ち消していました。

しかし、自分の生み出した新しい命塩見理論と、それを実現しようとした森氏=塩見さんの直系が、いつの間にか怪物化してしまったというのに、他人事でいられるはずはありません。連合赤軍は、あくまでも別グループの仕業で、自分とは関係ないというスタンスをずっと取り続けてきたのは、それだけ責任を痛感していた裏返しだったと筆者は見ています。

彼は、赤いフランケンシュタイン博士でした。
完璧な闘争方針を作り上げたつもりだったのに、塩見さんの理論が共産主義そのものが持っている矛盾、共産主義体制、あるいは、それを目指す組織を作り上げ維持していこうとするときに起こる矛盾、暴力路線を採ることによって生まれる危険性・・・、そういった諸々の歪みと融合できずに、山に籠もって迷走していた仲間たちの身に一気に降り注ぎ、塩見さんのまったく予期せぬ方向に独り歩きした結果、大変な惨事となってしまいました。

時代は、まさにハードロックで、ビートルズが甘いリズムで愛や平和を訴えた時代は終わり、「平和のための暴力」「戦争反対のための人殺し」が平然と行われる世の中が訪れていました。その先頭に立ち、攻撃的なリズムに乗って学生たちを煽っていたはずの塩見さんが、ふと気づくと、既に彼らは、塩見さんの、はるか彼方まで突き抜けていたのです。

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左翼はハードに突き抜けた・・・?

1989年12月に刑期を終えて出所してきた塩見さんは、完全に浦島太郎になっていましたかつて革新と呼ばれ、もてはやされた社会党や共産党は、既に古い体質を引きずるダメな政党扱いされており、進歩的文化人と呼ばれた左翼言論人たちは死滅寸前で、塩見さん自身も、かつては大受けしていたはずの過激左翼思想を昭和40年代と同じノリで語ろうものなら、親子ほども年の違う若者にボコボコに野次られてしまいます(日本のレーニン相手に実に失礼な連中です)。論破されたとかいう以前の話として、ほとんど聞く耳を持ってはもらえませんでした。

そんな世相の中、連合赤軍問題にも、ようやく心の整理がついたのか、2010年に行われた生前葬では、とうとう、潔く、我に罪ありと、きちっと言って、生き直していく・・・」と責任を認めました。おそらく、塩見さんの中で様々な葛藤が繰り返し、繰り返し、起こっては消え、また起こっては沈めて、ずっと苦しんでいたのでしょう。https://www.youtube.com/watch?v=_tVuRTyDqGY(ところが、その5年後くらいの発言では、また逃げていたような・・・。おっさん、往生際が悪いぞー!)

晩年の塩見さんは、東京都清瀬市の駐車場管理人を時給950円で始め(2007年頃)、「66歳にして労働の意義を知る」と充実ぶりを語っていました。しかし、この発言こそが共産主義運動が実を結ばなかった最大の要因を説明していたと思います。塩見さんに限らず、左翼の中心にいた人たちの多くは、ほとんど経済活動をやっておらず、労働者の本当の苦しみや、あるいは喜びを知ることもないまま、「労働者のために・・・」なんて言っていたわけです。実体のない、上っ面だけの話だったからこそ、彼らの話は広く大衆に浸透しなかったのではないでしょうか。

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充実の日々に満足げな塩見さん
若い頃からちゃんと働いていれば、運動も思想も、別の可能性を見い出せたのかも知れません

その過ちにようやく気づいて、今度こそ本物の運動をやろうと意識したのか、塩見さんは、2015年4月、「銀河の会(シルバー世代という意味)」を主催し、「若者から希望を奪う安倍政権打倒、老人イジメの清瀬市政と闘う」をスローガンに清瀬市議会議員選挙に立候補しました。反骨精神がふつふつと蘇ってきたのかもしれません。

キング塩見は、久しぶりに吠えました。
「私は73で、じいさんになりましたが、少なくとも塩見は、後ろには倒れません前に倒れますから、よろしくおねがいします」https://www.youtube.com/watch?v=2A3N774ItbA

しかし、結果は候補者23人中、22位で落選(定数20)となりました。
セールスポイントだった「獄中20年」が逆作用したのか、「赤軍」の旗を先頭に街を練り歩いたのが失敗だったのか、今どき「左翼」を売り物にする人などほとんどいない中で、「極左」を強調した戦術は明らかに無謀でしたが、頑なに自分を曲げようとしない塩見さんの姿には、ある種の「爽やかさ」は感じられたのではないでしょうか。

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いったい、誰が選挙プランを考えた?
「獄中二十年」の幟が素晴らしい

選挙は落ちましたが塩見さんの周りには、いつも悩める若者たちがいたといいます。彼らにとって、昭和40年代からタイムスリップしてきたような塩見さんは、大きな癒やしになっていたのでしょう。

「なかなか仕事が見つかりません」「資本主義のせいやな」
「せっかく見つかった仕事だったのに、すぐやめちゃって・・・」「それも資本主義のせいやろ」
「お金もないのに、飲みに行ったら、スッカラカンで・・・」「明らかに資本主義のせいや」
「オ○ニーしてたら、親に見つかっちゃって・・・」「間違いない、完全に資本主義が原因だー」
どんなしくじりも、「資本主義のせいだと一刀のもとに断じ、返す刀で、「早く世界同時革命をやらなあかんですから、つまらん悩み事など、簡単に吹き飛んでしまいます。

そして、塩見さんの断定と一致しているかは定かではないものの、資本主義が行き詰まりつつある、というのは、疑いもない事実でしょう。ゼロ金利、マイナス金利など、マルクスも、ケインズも、想定外だったでしょうから、もしかしたら、彼の言い分は、単なる笑い話ではないのかもしれません。50年後に、驚きの再評価・・・そんな事態が訪れるのでしょうか。

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世界同時革命は、清瀬の駐車場から始まる・・・はずだったのに・・・
塩見さんは、筆者の父の晩年に、風貌と傲慢なところがよく似ていた

塩見さんと仲間たち、そして、彼らと敵対したグループの人たちが生きた時代は、男たちにとって実に幸福な時間でした。60〜70年代前半に左翼運動を引っぱった思想家、活動家たちの本や回想をいくつか読みましたが、彼らは、ほぼ例外なしに、「殴った」「殴られた」「襲撃した」「襲撃された」という経験を語っています。

ちょっと意見が対立すると、すぐ殴り込みで、一応口頭のやり取りから始まるものの、埒があかないと見るや、殴り合いが始まるわけです。無頼漢という表現が死語となって久しい日本にも、そんな時代があったのか、と大いに驚かされますが、当時は、それが男たちの理想像、憧れの世界だったのかもしれません。

ただ、そんな荒くれ者どもの世界でも、彼らには、ちゃんと遊びごころ歌ごころ、そして、日本の心がありました。どの回想録でも、こういう書き方をしているのです。

「2、3発いいのを喰らった。そこで乱闘が始まり・・・」「殴りに来たんだろうと思っていたら、やっぱりそうだった」・・・つまり、「やっつけた」「勝った」「潰した」「完全論破」といった自己顕示欲丸出しの下品な表現は避けられ、「やられた」ことが強調されつつも、最後は、「相手を羽交い絞めにしたところで警察が来て…」と、ちゃんと「返し」も入れていたと控え目に書かれているわけで。これこそ、日本人の美徳いうものでしょう。

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赤軍旗は彼らの魂のはずだが、そのへんに生えている木に括り付けているように見える・・・

また、左翼の過激度は西高東低といわれ、関西、特に京都は、もっとも急進的でした。そんな関西の人たちによって結成されたのが赤軍派だったのです(阪神ファンが母体か?)。しかも、関西人を集めることに主眼を置いていたので、闘争方針は、みんなで集まってから決める(!)という、いかにも赤軍派的なアバウトなノリでした。

そこで彼らは、「世界同時革命」「前段階武装蜂起」「日米同時蜂起」など非現実的な方針を次々に立て、案の定頓挫し、それでも世界の至る所で自分たちの過去や経歴を誇っていましたが、それを聞いた他国の革命家たちは、みなジョークだと思って、大笑いしたといいます

ペンタゴン襲撃」「NATO本部占拠・・・、過激さでは引けを取らない彼らにも、とても正気の沙汰とは思えなかったのでしょう。日本の・・・、いや、塩見さんの度を越した想像力と、ファンタジーぶりは、世界基準からも突き抜けていました。

命バカ一代、塩見孝也さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。




悪の天才が時に野心を抱き
世界征服を夢見た時に

キミはどうするか
キミは・・・



塩見孝也 眠れ 眠れ・・・



1974年10月7日リリース 「マッハバロン」より

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闘いの歴史がここにある

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地獄に落ちた勇者ども
左翼八十八か所伝説の旅シリーズ 第二回 ベイルート 岡本公三 丸岡修 檜森孝雄 山田修 

ニュースバリューでは、戦後一貫してパッとしなかった右翼界に比べ、左翼には、人々の記憶に深く残る大事件や、ダーク・ヒーロー、悪のスターたちが輝ら星の如く存在し、八十八箇所を巡る場合でも、その第一歩を、いったい、「にするか?」は、実に悩ましい問題でした。

そして、筆者は悩んだ末、1972年5月30日(当時筆者小5)に起こったディル・ヤシン作戦テルアビブ空港乱射事件)を選んだのは、イスラエルやアメリカ、そして日本での轟々たる非難や怒りの声に隠れて、ほとんど伝えられることはありませんでしたが、彼らに対して、パレスチナやアラブ諸国からの熱狂的な支持が紛れもなくあったからです。

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イスラエルの法廷で証言する岡本公三氏
すっきりとした、いい表情です

この作戦は、テロ事件と見るか、戦闘行為として見るか・・・、つまり、テルアビブ空港乱射事件と見るか、ディル・ヤシン作戦と見るかで、まったく性格が変わってきます。前者の立場を採るイスラエルは、
・自分たちでやらず、外国人を傭兵にして残忍な犯罪行為を行わせた、実に卑劣な奴らだ
とパレスチナ人を非難し、後者の立場を採るアラブ側は、
・イスラエルの度重なる残虐行為を見るに見かねた日本の若者たちが、義憤に駆られて立ち上がり、戦闘を挑んだのだと言いたいわけで、両者が交わることは決してありません。

そして、パレスチナ領内での小競り合いならともかく、敵地に殴り込んだ上に、外電で世界を駆け巡るほどの衝撃的な「大勝利」、イスラエルにやられっぱなしだったアラブ側にはほとんどなく、しかも、それがわずか3名の日本人によって成されたということで、相当な驚き感動を持って受け止められたのではないでしょうか。彼らは、いってみれば、アラブ版・杉原千畝みたいな存在なのかもしれません。

2002年の報道番組で紹介された、自然発生的に集まってくる地元の人たちに囲まれた岡本公三氏の姿には、スターや英雄を超えて、ある種、神々しい雰囲気すら漂っていたと思います。https://www.youtube.com/watch?v=rnX5K7-SMWk(2分35秒くらいからその場面)

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1946年以降のイスラエル占領地域の変遷(白色がイスラエル側)
事件のあった1972年は、左より3枚目の状況で、パレスチナ支配地域がどんどん圧迫されていく過程にあった
これが日本なら、筆者も当然イスラエルと戦うだろう
そして、女・子供・老人と殺されている中で、相手側の民間人は傷つけないという作戦が果たして採り得ただろうか・・・

作戦リーダーだった奥平剛士氏(当時26歳、京大工学部、アラブ名バーシム)は、後に日本赤軍のリーダーとなる重信房子氏のパスポート取得に協力するため、1971年2月2日に入籍し、直後の2月26日に出国して、レバノンの首都ベイルートに向かいました。

新左翼全般に言えることですが、裕福な家庭に生まれ育ったことに対して罪悪感を持っている人が多く、奥平氏も、京大生のエリート候補なのに、人民と同じ階級に降りるために、好んで肉体労働に従事していました。当時は、比較的豊かな家庭の子→左翼、貧しい家の子→ヤクザ、右翼、あるいは起業家というイメージは、あったような気がします。日本全体が上昇傾向にあった中で、その恩恵を最も受けた家庭で育てられた子どもたちが革命運動にのめり込んだと言えるかもしれません。

作戦実行を決意した奥平氏は、同年9月、日本から安田安之氏、山田修さん、檜森孝雄さんの3名を召集しました。その際、メンバーたちに途中テルアビブを経由してロッド空港を偵察するよう指示を出し、見取り図には、目視によるアバウトなものではなく、歩数から得られる正確な数字を求めたと言います。そのため安田氏ら3名は、出発前に京都で歩測、目測の訓練をしたということです。奥平氏は、綿密な計画を立て、周到に準備し、それを確実に成功させるためには、腹の座った信頼に足る日本人だけでチームを組む必要があるとみていたのでしょう。

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現在のロッド空港(ベン・グリオン国際空港)のロビー

彼は、非情に真面目な性格だったようで、何かに殉じることに美徳を見出していた節があり、パレスチナ紛争については、あまり詳しくなかったといいますから、生きている証が感じられる場所を探していたのかもしれません。新しいものを求めながら、実は古風な人間だったのではないでしょうか

出撃前に彼は両親に遺書を書いていますが、そこには、「お父さん」「お母さん」という言葉が見られず、代わりに、「お二人」「あなたがた」という表現が使われていました。当時の新左翼は家族の絆を断ち切って闘争することを奨励していましたから、その影響と思われますが、彼らの思想が広く一般に受け入れられることなく終わった一因が見て取れるような気がします。https://ameblo.jp/yuugeki-internet/entry-12102120179.html

逆の見方をすれば、彼らがもし、家族の絆、親戚、友人、知人らとの結びつきを大切にし、日本の伝統、文化を尊重した上で革命運動を進めていれば、もしかしたら、日本は今頃、世界の手本になるような先進的な国になっていたかもしれません。
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ベッカー高原で戦闘訓練に励んだ頃の奥平氏

一方、安田安之氏(当時25歳、京大工学部 アラブ名サハ)は、京大の在学中に、活動家の仲間になることを心配した親が訪れ、「お前だけは、バカなことをしてくれるなよ」と言われたにも関わらず、最後は、「ヨーロッパに勉強に行きたい」と嘘をついてお金をせびり、パレスチナに渡って、作戦に参加しました。

親不孝の限りをつくしたわけですが、両親に申し訳ないと思ったのか、大学は、ちゃんと卒業しています。性格的には、明るく、楽しく、酒の席でも場を盛り上げて、誰からも好かれたと言われています。20代で、「やりたいことは、すべてやった」と話していたそうですから、豪快な人物だったのでしょう。

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出発前は、走るのも大変なほど太っていたそうで、3ヶ月間の軍事訓練で見違えるような戦士に変身

イスラエルの警察、軍人だけでなく、一般市民を巻き添えにする作戦については、やはり問題意識を持っていたようで、ケジメをつけたかったのか、最後は手榴弾で自決し、遺体には首がなかったということです。この人が作戦に同意しなければ、計画は中止されたのではないでしょうか。奥平氏とは、兄弟以上の固い絆で結ばれた盟友関係でした。

事件後、実家に押しかけた報道陣に、彼のお父さんが、「(大勢の人を殺した息子は)死んで当然で、死んでよかった」と語ったのは世間体を気にした発言と思われますが、本人ではなく親がテレビカメラの前で針のむしろ・・・という場面がワイドショーやニュースの定番になったのは、この頃からで、ずいぶん長く続いていたように思います。

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奥平氏の盟友、安田氏
ときに、取っ組み合いの大喧嘩もしたという

檜森孝雄さん(当時22歳、立命館大学法学部、アラブ名ユセフ)は、安田講堂攻防戦(1969年1月)で逮捕歴があり、奥平氏にパレスチナ行きを誘われたときは、「行く、行く!」と二つ返事で快諾したということです。

3人が日本で、作戦内容について、どこまで聞かされていたかは定かではありませんが、檜森さんの遺稿集「水平線の向こうに」によれば、現地への移動の際、機内で、ほとんど会話を交わさなかったといいますから、確実に死が待っている決死作戦だということは知らされていたものと思われます。

現地での作戦会議では、管制塔破壊を主張する奥平氏らと、空港ロビーからの戦闘開始を求めるPFLP(パレスチナ解放人民戦線)で、意見が別れました。しかし、安田氏ら3人が正確に調査できたのは空港ロビーだけです。彼らがイスラエルを出国する際に撮影した空港全体写真を見ても、管制塔への侵入経路はおろか、その他の施設の位置取りも、ほとんど判りませんでした。結局、PFLP案を採用することとなり、その時点で大勢の民間人が巻き込まれることが確定的になりました。

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旅券法違反で逮捕される檜森さん

作戦に最も強く反対したのが山田修さん(アラブ名オリード、当時の年齢不明、安田氏の親友でしたから、おそらく当時25歳で、京都大だったのではないでしょうか)でした。軍事訓練の途中でも、彼は、一人でポツンと考え込むことが多かったといいます。https://blog.goo.ne.jp/akame_2005/e/a773c2c1547fb8f964a4e1233668de43

ところが、年が明けた1972年1月24日、その山田さんが水泳訓練中の不慮の事故で急逝し、しかも新聞にも出てしまったため、複数の日本人が同地に滞在中であることが広く知られてしまいます。そこで、奥平氏は、計画を早める必要に迫られ、檜森さんが山田さんの遺体と共に帰国して、補充メンバーの手配をすることになりました。因みに、遺体の搬送手続き等は、日本大使館の職員さんが手伝ってくれたということです。事件前でしたから、善良な日本人青年という扱いだったのでしょう

日本に戻り、人探しを始めた檜森さんでしたが、「決死作戦ですけど、やりませんか? はい、確実に死にます」と言われて、行く人などいません。「左翼史に残りますよ」と言われても、すでに学生運動は下火になっており、連合赤軍事件が起こって、左翼に未来があるかも怪しくなっていましたから、人選は難航を極め、それでも、宥めすかして、嘘ついて(たぶん)、どうにか探し出してきたのが丸岡修さんでした(浪人中、当時21歳、アラブ名ニザール)。 しかし、その丸岡さんは、ベイルートに入り、奥平氏から作戦内容を聞かされると、あっさり拒否しています。

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おそらく事件当時の一枚か

そりゃあそうでしょう。
「はるばる来たぜ、パレスチナ、この俺が来たからには、今後10年、イスラエルの連中には、勝手な真似はさせんー!」と張り切っていたのに、「すまん、丸岡くん、その10年のうち、9年11ヶ月は、誰か他の人にやってもらってくれ。オレも、キミも、来月死ぬんだ」と言われたら、「すいません、帰らせてもらいます」となってしまうのは当然だったでしょう。

ここで、奥平氏が偉かったのは、うまく言いくるめて、なんとか引き込もうとは思わず、詳しい事情を話せなかったことを丸岡さんに詫び、彼の意思を快く受け入れたことです。無理なお願いをしておいて、相手が聞き入れないと逆恨みしたり、自分の思うようにいかないと他人のせいにする人がいますが、もしも、奥平氏がそういうタイプの人間だったなら、丸岡さんは、すんなり帰国して、左翼から足を洗い、大学にも入って、サラリーマンとして、それなりに成功していたんじゃないでしょうか。

彼は、その後、重信房子さんの片腕として日本赤軍を引っ張り、1887年に、偽造旅券所持のため東京で逮捕され、1993年12月、無期懲役の判決を受けました。2011年5月、心臓病で獄中死しています。享年60歳でした。どうも日本では、左翼過激派の重罪犯については、獄中で病気になっても助けず、苦しめて死なす(?)、という政策があるのかもしれません。捕まりそうな人で持病があれば、早目に偽装転向した方が無難でしょう。

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丸岡さんの死を伝える記事

丸岡さんは、ドバイとダッカのハイジャック事件(どちらも殺さず)に関与したということで、重いを罰を課せられましたが、テルアビブ闘争に参加するのと、思い止まるのとでは、まったく事情が違いますから、日本国政府が被害に遭ったイスラエルに遠慮して、見せしめにした可能性もあります。そして、彼が受けた厳しい判決が他の日本赤軍メンバーに波及し、「連れ高」となったのでは、と筆者はみています。

それに対して、映画監督の若松孝二さんのラインで3月にベイルートにやってきた岡本公三氏は、決死作戦への参加を決断します。岡本氏は、よど号乗っ取り事件のメンバーだった岡本武さんの弟だったため、他のメンバーたちからジョー(あしたのジョー)と呼ばれていました。お兄さんを尊敬しており、100のうち、90は兄の話だったといいます。大学時代は、セクトの活動には馴染めず、一匹狼のような存在だったということです。友人に金を貸すためにバイトまでしていたといいますから義に厚い人だったのでしょう。

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1947年12月7日生まれ、鹿児島大学農学部、アラブ名アハマッド、当時24歳
どこから見ても普通の青年・・・そんな感じです

鳥越俊太郎さんは、岡本氏を評して、「パレスチナ紛争について、大して知識もないのに、お兄さんに会えると思って、ロマンチックな気分で出かけたのかなあ・・・」と番組で語っていましたが、確かにインビュー映像を見る限りでは、彼は、ゴリゴリの共産主義者、反日思想家、狂信的な活動家・・・どれにも当てはまらないように感じます。

しかし、尊敬する兄に会いたい・・・それだけの理由なら決死作戦になど参加しなかったでしょう。
なにか大きな仕事をやって、兄に近づきたい、超えたい、あるいは、奥平氏に兄の面影を感じて、「手伝ってあげなければ・・・」という思いに駆られたのでしょうか。奥平氏は、昭和20年7月21日生まれで、兄の武さんは、その4日前、7月17日が誕生日でした。

「死ぬ気でやろうとしても達成が困難なのに、死ぬ気がない奴が革命をやろうとしてもダメだ」と奥平氏が話していたと、岡本氏は、証言しており、この一言が彼の胸にグサリと突き刺さってしまったのかもしれません。どこからか流れてきて、人を助けるために人を殺し、また、どこかに消えていく・・・、奥平氏と安田氏が昭和残侠伝なら、岡本氏は、昭和中期に流行った西部劇や時代劇の主人公のような人でした。

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あっしには、関わりのねえこって・・・
とは、言えなかった

結局、作戦は3人で決行され、だったら檜森さんを帰さず、そのままやっていればよかったわけで、「置いていかれた」と感じた彼は、その後も、ずっと苦しむことになりました。そして、2002年3月30日、日比谷公園で焼身自殺しています。享年52歳でした(合掌)。ディル・ヤシン作戦では、参加しなかった人の方が苦しみ、辛い人生を送ったように思えます。

岡本氏は、空港で拘束された後、裁判にかけられ、「弁護士はいらない。極刑を望む」と語り、終身刑の判決を受け入れる一方で、
・「我々は、レッド・アーミー(赤軍派)である」との発言を誤訳され「連合赤軍」と書かれてしまった
イスラエル兵の銃撃によって犠牲となった人たちも多かった
の2点については判決後も拘っていたということです。彼ら3人が撃ったとされる弾数は、イスラエル当局の発表で135発となっており、それでは死者、重軽傷者を合わせた99名は多すぎます(マシンガンなのに、百発百中?)。

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 殺された人たちがイスラエル兵の銃撃によるものか、岡本氏らによるかは、銃弾を見れば分かるので、司法解剖を求めたが
イスラエルは国連の調査を拒否した・・・と重信氏の著書にはある

事件直後から、PFLP(パレスチナ解放人民戦線)は人質交換要求リストの最上位に岡本氏を載せ、奪回しようと試みましたが、イスラエル側が拒否し続け、13年が経過した1985年になって、ようやく認められ、パレスチナに帰還しました。2000年にレバノン政府から政治亡命を認められて、現在もベイルートに滞在しています。

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1985年に捕虜交換で釈放され、英雄として凱旋
アラブの地で伝説になったのは、日本人では岡本氏らだけだろう

イスラエル政府は、事件の4ヶ月後に起こったミュンヘン五輪事件に関与した疑いのある人物を、諜報機関モサドに命じてリスト・アップさせ、7年かけて、ほぼ全員を殺しています(=神の怒り作戦。別件によってパリで逮捕され、獄中死した首謀者を除く)。人質交換で釈放された岡本氏が、いくらベイルートの有志によって護衛されているとはいえ、イスラエルがその気になれば、暗殺できたはずで、なぜ彼が「恩赦」されたか、謎が残りました。13年間服役したので、一応の「禊ぎ」は済んだと考えられたのか、捕虜交換の対象者を殺すのは、信義に反するとイスラエル政府が判断したのかもしれません。

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事件発生から42日目の7月10日に岡本氏を裁くための軍事法廷が開廷され、8月1日に早くも刑が確定
なぜ、そんなに急いだ?

彼が生き残ったことについても、様々な説がありますが、出撃メンバーが全滅したのでは、パレスチナの人たちにも負担が大きく、彼らにとっての真の勝利とは、生きて帰ってくることが条件だったのではないでしょうか。

実際、死んだ奥平氏、安田氏より、生き残った岡本氏の方が遥かに有名で、ダッカハイジャック事件で超法規的措置によって釈放された東アジア反日武装戦線、浴田由紀子さんは、彼らの受け入れ先であるアルジェリアで、コゾモト、ブラボー」と民衆から大歓迎されたと証言してます。コウゾウオカモトがいつの間にか、「コゾモト」になっていたようで、日本赤軍は、チーム奥平のおかげで、パレスチナから飛行距離で3000キロも離れたアルジェでも、英雄扱いされていました。

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事件の詳細を著したのは世界で当書のみ?
限られた条件下で、脚を使って取材した素晴らしいルポです。お薦めします

日本政府は、事件直後から終始一貫して、この闘争をテロと決めつけ、イスラエルの立場に組みしてきましたが、考えてみるに、どちらか一方を選ばねばならないというものでもないように思います。パレスチナやアラブの人たちとの信頼関係、友好関係を築きたいと思うなら、「岡本公三」は、使い方しだいでは、最強のコンテンツになるでしょう。

そもそも、50年も経っていれば、もはや歴史上の人物なわけで、150年前の新選組の斬殺や、300年前の赤穂浪士の要人テロを、「けしからん」と言って騒ぐ人はいません。せっかく、向こうで評価されてるんですから、もっと、岡本神話大切にすべきなんじゃないでしょうか。

ディル・ヤシン作戦のあった年の1月、28年間もグアム島のジャングルに潜んでいた横井庄一さんが発見されました。その2年後(1974年)、やはり、ルバング島に29年間潜伏していた小野田寛郎さんが帰国しました。よれよれのボロボロといった姿の横井さんに対して、小野田さんは、眼光鋭く、「まだ戦えるぞ‥・」と精一杯の虚勢を張りつつ、現役バリバリの戦士としての佇まいを残していたものです。

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戦後27年経って帰還し、国民から祝福、歓迎された横井さん
あの頃は、「へえー、27年も・・・」という感じでしたが、テルアビブから既に46年も経っている・・・

この二人に限らず、国に属して戦えば、いつまでも英雄として扱われ、その点では、イスラエルも、アメリカも、日本も同じですが、一旦、「国」という巨大組織から離れてしまうと、やったことは同じでも、単なる殺人犯として、何十年たっても追われる身の人生しか残っていません。
  
左翼のレジェンドたちも、さすがに70歳にもなると、小野田さん(当時49歳)のようなわけにはいかず、どちらかといえば、横井さんのように、疲れ果てた兵士という感じに見えてしまいます。目指した革命は実現せず、すべてが忘却の彼方へと去りつつある中で、敗者は、ただ消えゆくのみ・・・

昭和が終わり、平成も終わろうとしている今、歴史の隙間から零れ落ちた夢の欠片を繋ぎ合わせる作業にも、それなりの意味はあると筆者は考えます。たとえ敗れても、その勇敢さに見合った栄誉は与えられてしかるべきですし、敗北の中にこそ漢(おとこ)としての真価が見いだせるんじゃないでしょうか。

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進撃の巨人?
パレスチナ人を隔離する分離壁は、どんどん狭められている・・・
この状況が続く限り、負の連鎖は断ち切れず、第二、第三の「岡本公三」が必ず現れるだろう

もしも帰国が実現したなら、その際は、ぜひプーケットを経由して、当店にお立ち寄りください。当地は、ベイルートと日本の中間地点にありますから、をかけて戦った最後の日本人戦士として、手厚くお迎えできると思います。



それでは、いつの日にか、お会いしましょう
アテブレーベ、オブリガード



岡本公三
熊本県葦北出身
24歳の時 国を捨て
天涯孤独の彼が
なぜ決死作戦に参加したかは定かでないという・・・



1972年1月5日リリース 「だれかが風の中で」より

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日の丸とパレスチナの子どもたち
この子らが平和に暮らせる日は、はたしてくるのか・・・

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東京医科大の内部調査委員会は、
・女性や3浪以上の受験者に対して合格者数を抑制していたこと、
・裏口入学の依頼を受けた受験者の得点に、不正に加点していたこと
上記二点を認める報告書を公表しました。臼井前理事長は、「寄付金を増やすためだった」と説明しているということです。短期間で、かなり突っ込んだ内容になったのは、大学関係者の間では、公然と認識されていた問題だったからでしょう。

このニュースを聞いて、まず感じたのは、「これは東京医大だけじゃないな」ということです。
報告書には、2006年からとありますかが、それ以前からやっていたはずで、関係者が死んで確認できないだけの話だと思います。かなり昔から、場合によっては創立以来ずっとやってきたんじゃないでしょうか。

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前任者も、前々任者も、その前の人も、その前の前の人も、ずーっとやってきたはず
臼井前理事長は、前例踏襲で、貧乏くじを引くことに

筆者の父は、大学病院にいましたから、こういう類の話は、おおよその見当はつきます。現役時代、同僚たちを招待して家で飲み会をやったときなどは、その気がなくても、話し声はダダ漏れで、よくオフレコの会話が聞こえてきました。そして、今でも、はっきり覚えているのが、次のような話でした。
「ウチも、他の私大のように、ちょっとだけ甘くして、2人か3人、入学後に鍛えれば、なんとかなりそうな成績の者を受け入れ、2、3億入れば(一人1億?)、ずいぶん余裕がでるんだがなあ・・・

父の話には、「我々は、やらない」というプライドと、「ウチも、できれば・・・」という、ちょっとした願望のようなものが混じっていたと想像しますが、「(真偽はともかく)他の大学は、やっているはずだ」という意識が明らかにあったように感じられました。昔は(今でも?)、金がない家庭で育ち、医者になりたいと思った人は、何がなんでも、国立大学に行かねばならず、私大は、授業料が高いだけでなく、目ん玉が飛び出るような寄付金を求められ、卒業までに、いったいいくらかかるんだ・・・ということになりますから、金のある開業医の子息くらいしか行けないことになります。

当時の私大では、K大とJC医大だけは、例外的に安い学費と寄付で学生を受け入れていましたから(注、最近は、6年間で2000万円以上かかるようで、それでも、上位にいる)、合格ラインが高く、旧国立一期校並か、それ以上の難易度がありました。そして、半官半民のJC医大はともかく、K大医学部は、経営的には、やはり苦しかったようです。医学部の世界は偏差値が低い学校になればなるほど金がかかり、中には億が必要な大学もあって、筆者の友人が某歯科大に入学したので遊びに行ったら、駐車場には、スーパーカーが並んでいました。
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偏差値が低いほど、金がかかるのが医学の世界だ
つうことは、今いるお医者さんの多くが、それほど頭はよくないということ?

日本という国は、名誉に金は付いてきませんから、大学病院の先生たちは、経済的には恵まれず、掛け持ちバイトに余念がありません。そういう如何ともし難い状況がずっと続いてきたことが、今回の問題に繋がっているものとみられます。昭和が終わり、時代は変わって、もしかしたら、そのへんの「そこそこ医大」や、「なんちゃら歯科大」ですら、「裏」はなくなったのかもしれませんが、それはそれで困った問題もいろいろ出てきたのでしょう。

東京医大の資金集めは、昔ながらのやり方というか、論外に学力が足りない人は、最初から除外されているようで、加点も、少ない人で、8点、多い人で、49点(こちらは、結構大きいですね)とあり、問題とされた佐野前局長の息子さんは、わずか10点の加点でした。空手も接戦になれば、最後は体重判定で決しますから、お父さんの影響力の「重さ」を考えれば、筆者的には、「実力突破」の判定を出します(どういう基準じゃ?)。一浪すれば、普通に合格し、佐野前局長も文科省をクビにならずに済んだんじゃないでしょうか(急がば回れだなあ・・・)。

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報道では、佐野前局長が不正を強要とありましたが、たぶん逆でしょう
「安倍方式」を見ても、こういうのは、下々の者が忖度するのがマナーってもんです

話は突然変わりますが、今を去ること数十年前、筆者の高校受験の話です。
偏差値で60〜64くらいを行ったりきたりしていた筆者は、
名門K高・・・・・・・・・・偏差値70
そこそこ有名X高・・偏差値64
進学校J高・・・・・・・・偏差値62
スベリ止めTU高・・・・偏差値56
と4校受験しました。(注、偏差値は当時の数値)

たぶんJ高は受かる、調子が良ければX高もいけるかもしれない、ただ、K高は、ちょっと無理だろう・・・そういう見通しを立てていたと思います。
で、結果は、そのとおりになりました。やっぱり、高望みしても、人生は思うようにはいきません。実力相応のところに落ち着いた、そう思いましたし、それを疑うこともなかったと思います。ところが、よくよく記憶を手繰っていくと、X高合格には、ちょっとしたやり取りがあったことを思い出しました。

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筆者にも、こういう時代があったなあ・・・
最初の2校受験では、純粋な少年だったのに、後半の2校では、「悪い大人の世界」に仲間入り?

合格発表の、たしか前日か、前々日のことでした。X高の職員だか、先生だか分かりませんが、こんな電話が入ってきたのです。要約すれば、こういう内容でした。
「息子さんは、今、ギリギリのボーダーラインです。今、入学予定者からの寄付を募っているのですが、一口10万で二口以上のご寄付をいただけないでしょうか・・・」
落ちそうだとも、合格できるとも、言わないわけですが、あとは忖度して考えろということなんでしょう。そして、親は二口寄付して、筆者は無事合格、面接もクリアしてX高に通うことになりました。寄付しなくても合格できたのか、寄付がなければ落されたのかは分からずじまいです。

それまで受験した3校の中で、事前に電話が入ったのは、X高のみでしたが、これに味をしめた(?)筆者は、「まてよ・・・、X高で二口なら、K高だって、10口くらい寄付すれば入れてくれるかも・・・」、そう思ってしまったようです。試験後の自己採点では、パッとしない結果だったものの、K高から必ず電話が掛かってくるはずだ・・・そう確信した筆者は(確信するな―!)、今か今かと首を長くして待ち構えていたのですが、待てど暮せど、一向に電話は鳴らず、合格発表を見に行くと、案の定、不合格でした。K高は、もともと、そういうことはやっていなかったのか(たぶんそう)、それとも、筆者の得点が低く相手にされなかったのかどちらかなのでしょう。

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「はい、10口ですね・・・・・、卒業式の練習? こっちは、それどころじゃないんだー」
3日間、こういう状態だった

因みに、筆者がもし加点してもらえるとしたら、何点でK高に合格できたかですが、おそらく、50〜60点(300点満点)は必要だったでしょう。合格ラインは、250〜260点程度と思われ、筆者は、190〜210点くらいだと自己採点していました。
(もし実現していたら)こういうのこそ、裏口入学と呼ぶに相応しいと思われます(自分で言うなー!)。佐野前局長は、本当に可哀想だと思いました。彼を厳しく糾弾している人たちは、自分の受験時代を、よーく思い出してみたらどうでしょう。親が生きていれば、聞いてみてもいいかもしれません。
「母さん・・・、俺の合格、あれ、本当に実力だったの?」と・・・。

やはり、どの学校も、特別な配慮で合格させるとしても、加点の厚みと対象者数は、極力少なめにしておかないと、レベルが下がってしまうと考えているのでしょう。特に一流と呼ばれる有名校の場合は、ブランド・イメージにも響きますから慎重だと思います。

筆者が受けた印象では、
・試験結果が合格点に、まったく届かなければ、声はかからず、
・余裕で合格ということなら、やはり寄付(裏金)は必要なく、
・イミグレ近辺で入国審査に群がっている移民たち(?)の中から、そこそこ金のありそうな者を抽出して、忖度強要するのが学校運営を円滑に運ぶための秘訣なのではないかということです(今は、入学試験の終了後に成績開示申請ができるところもありますから、みなさん確認されたらいいと思います)。当時は、「上の下」か、「並」に毛の生えたレベルの学校なら、どこもやっていたんじゃないでしょうか。

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はい、押しちゃダメ、押しちゃダメ、押しても入れませんよ―
払うもん、払ってもらわないと、入れませんよー
昭和の入試は、こういう感じ?

筆者の場合、そういう経緯があったので、X高からX大に行く際(注、準付属校で成績上位者以外は一般入試に回る)にも、付属校の生徒は全員ゲタを履かせてもらえると信じて疑いませんでした。担任の先生から、「加点・・・?バカ、そんなもん、あるわけないだろ」と、はっきり言われていたにも関わらず、「いやいや、先生も立場上、ああ言ってるだけで、本当は裏があるはずだ」と、まったく聞く耳を持ちませんでした(心が真っ暗でしたね、あの頃は)。合格発表を見に行く、その日まで、疑ってなかったと思います。

結果は、案の定、不合格でした。当たり前ですね。
合格を確信していた筆者(何度も確信するな―!)、スベリ止めを受けることもなく、一本勝負でしたから、その時点で浪人が確定しました。あれは、ショックでしたねえ(自業自得だ、トホホ・・・)。

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桜は散った・・・

ですから、加点10点なら、むちゃくちゃ良心的(?)で、もしも筆者が東京医大の理事長なら、理事会で、こう説明したと思います。「さんざんお世話になってる文科省の役人さんなんですから、芸術点を加えましょう。責任は、私が取りますー」と大見得を切り、結果、言葉通り責任取らされたでしょう。入試時の特殊配慮をなくすということは、足りない分を、学生たちに均等に負担させることになって、学費や寄付(もちろん強制です)がさらに値上がりすることになると思われます。

そして、もう一点の問題・・・女性や3浪以上の受験者の制限ですが、こちらは、複雑な事情が背景にあるようで、女性は、体力的にキツい外科医になろうとせず、妊娠・出産で雇用が安定せず、勤務地も選ぶ傾向がある等というのが理由のようですが、要するに、大学附属の病院経営にとって、どういう状態が望ましいか、それをクリアするための策だったようです。いずれにしても、日本の医療制度の歪・・・健康保険制度に縛られた中での慢性的な人手不足や、待遇の悪さ、その他、諸々の問題は、そう簡単には解消できないということです。

以前人気のあった医療ドラマ、「医龍 Team Medical Dragon」では、世界一の天才外科医が安マンションで一人暮らしし、彼の率いる世界最高チームのメンバーは、これといって見栄えのしない職員寮で暮らしていました。地下室を改造したような薄暗い控室を充てがわれているというのに、「これ、ボクらで使ってもいいそうです」と、むしろ喜んでいましたし、主人公のライバルだった、世界一のカテーテル医も、やはり、ボイラー室のようなところでイメージ・トレーニングしており(個室がない?)、いったい、日本の医療現場は、どうなっているんだと心配になりましたが、あれは、ドラマの中だけの話ではなさそうです。

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陽当りの悪さが気にならず、地下倉庫(?)を充てがわれたことを喜んでいるのが情けない
一応、断っておくが、彼らは世界一なのだ

腕に自信があれば、アメリカでは、数倍のギャラがもらえるでしょうし、おそらく、中国でも近い将来、富裕層を対象にした高級病院に、日本の人材がどんどん奪われるんじゃないでしょうか。
このままでは、スポーツの世界同様、日本の医師で、
・トップスターは、アメリカ大リーグに、
・実力選手は、中国の卓球団に、
・そこそこ医大卒の、そこそこ医は、日本に・・・
という図式がはっきりしてくると思います。そして、日本に残った医師や看護師は、さらなる人手不足によって、これまで以上の重労働や負担に耐えねばならないと想像されます。

抜本的な改善、対策が必要なんですが、それが急にはできないということなら、今やっていることを、もっと、オープンにやるしかないでしょう。
「はい、東京医大、東京医大、東京医大・・・、あと二人だよ、あと二人、どうだどうだ・・」
「300口ー!」
「さあ、300口でた、300口でた、さあ、いないかー」
「320口ー!」
いっそのこと競りにかけて、できるだけたくさんお金を集めた方が、まだ救いがあるような・・・。

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さあ、最後の一人だ、最後だよ―
これなら公平?

どうでしょう。

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