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昭和40年〜50年代は不良高校生たちの黄金時代でした。各町、各地区ごとに名だたる暴力スター(?)や強豪校がひしめいて、伝説的な逸話も数多く残されています。筆者の地元・杉並区は、世田谷や中野といった激戦区に挟まれていた割には無風地帯でしたから、学生同士の大きな揉め事は、ほとんど起こらず、そのためなのか、各地で発生した乱闘事件が、かなり誇張されて伝わってきていました。

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いろんな人を経由していくうちに、どんどん話が盛られ、杉並に届く頃には、かなり信憑性が怪しくなっていましたが、そういった話は大袈裟であるほど面白く盛り上がったものです。<暴力高校&凶悪高校生ネタ>は、仲間内でも、「絶対にすべらない話」として常に好評でした。

そんな中でも、最大、最強の鉄板ネタが、国士舘VS朝高の頂上決戦でした。
朝高(=チョン高、朝鮮高校の略)と国士舘(俗称シカン)が市街戦もどきの大乱闘を都内各地で繰り広げていたのは、かなり有名な話で、頻繁に新聞紙上を賑わしていたのです。


「100名以上が新宿駅で激突し、半数が重傷を負った!」と友人が見てきたような口調で解説してくれましたが、実際のところは、両校合わせて40名程度で重傷者の有無は不明です。学生たちの一部が線路に下りて、電車が止まり、挙句には、ホームに設置された場内放送用機材でマイク・パフォーマンスまで行っていたということでした(どうも本当らしい)。

しかし、そこまでやっていながら、補導される者は、ほとんどいなかったようです。当時は、何事に対しても甘かったこともありますが、取り締まる側の人たち(警官)に国士舘のOBが多く、可愛い後輩達を、しょっ引くことはできなかったのでしょう。ついつい目溢しし、逃走できるように「時間調整」していたのかもしれません。

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相手(朝高)だけ捕まえるというのも、アウトロー的には「男の美学」に反していた(?)ようで、「決着は、いずれまた、お前らの手で付けろや(なぜか関西弁)」と、教育的な指導に終始し、「両者成敗せず」という温情裁定を巡査の身分(一番下っ端)で勝手に行っていたようです。

とはいっても、あまりにも新聞沙汰が続いたせいで、現場の判断だけでは誤魔化しきれなくなったのか、いつの間にやら乱闘事件のニュースは伝わらなくなりました。高校生抗争は、ある意味では、仲間を大切にし、いかに目的(喧嘩での勝利)を達成するか、それを学べる場でもありましたが、この頃から、何事に対しても、<大目に見る>という余裕が日本社会から、少しずつ失われていったのかもしれません。

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バリバリだった頃の国士舘。白ランにゴム長靴という、いでたちが凄い!

当時は、国士舘を卒業しても、就ける職業は4つくらいしかありませんでした。親の家業や事業を継ぐ以外では、ヤクザ、体育教師、自衛官、そして警察官です。朝高の場合は、そこから、さらに警官と自衛隊が外れ、体育教師も母校以外ではお呼びがかかりませんでしたから、おいおいヤクザの世界に足を踏み入れることになっていました。

ですから、昭和40年代くらいまでの日本の暴力界は、在日の人たちが背負っていたといってもいいでしょう。同時期に行われた「山口組壊滅作戦」発令時に警視庁の入り口に貼り出された看板にも、それがよく現れていました。正式名称は、「山口組・柳川組壊滅作戦」だったのです。

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柳川組の集合記念写真

在日である柳川次郎組長率いる柳川組は、組織図的には山口組内の単なる一団体に過ぎませんでしたが、グループ内でも、際立って凶暴だったらしく、常に山口組の全国侵攻作戦の先頭に立って戦っていましたから、親である山口組と同格に扱われてしまったようです。彼らは、日本全国にヤクザ抗争を撒き散らした張本人といえたでしょう。

とにかく朝高といえば、当時の高校生は震え上がったもので、対抗できそうなのは国士舘くらいでしたが、彼らに助けを求める人など誰もいませんでした。人食いワニが恐いからといって、虎やライオンに近づくシマウマがいないのと同じ理屈です。

朝高は大阪にもあり、こちらは東京以上に凶悪で、ウルトラ7兄弟と呼ばれた猛者たちが浪速の街を仕切っていたといいます。因みに、このウルトラ7兄弟には、セブンやゾフィー、帰ってきたウルトラマンなどに混じって、帰ってこないウルトラマン呼ばれた男がいたそうで、もし存命なら、ぜひ名乗り出て、命名の由来を言い残しておいていただきたいと思います。また同じ時期には、「浪速のロッキー」と呼ばれた赤井英和さんやプロレスの前田日明さんもいましたから、大阪は無法者たちのワンダーランドと化していました。

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「ウルトラマン対ロッキー」の夢の対決は実現したのか?

この二大高校以外でも、暴力エリートたち(?)が集まる高校は各地に存在し、それぞれ独特の光を放っていました。

中野電波高校という恐ろしい学校もありました。彼らは喧嘩のときに電波攻撃というのを使ったそうで、てっきり得意分野である電波を使った高度な科学戦法なのかと思っていたら、「(授業で使う)電線で首を絞める」んだそうです。

中野には、その他にも、数々の芸能人を輩出した堀越学園や、元横綱・若貴の出身校で相撲の強い明大中野、古くは、スパイを養成した陸軍中野学校など個性あふれる学校が揃っていました。

帝京(板橋)も、かなり強かったらしいのですが、野球やサッカーで有名になってしまい、暴力事件=出場停止という嘆かわしい風潮が広まりつつあったこともあり、スポーツで強くなればなるほど、喧嘩が弱くなっていきました。そして、トンネルズの登場で止めを刺されれた形となって、暴力界からの撤退を余儀なくされたといいます。

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帝京のイメージを劇的に変えた石橋さんと木梨さん。次期学長候補か?
  
国士舘は世田谷で、朝高は北区十条台でしたから、本来なら衝突するはずはなく、新宿などで行われた例外的な乱闘事件以外は、帝京が「日本代表」として定期戦を戦っていました。「十条ダービーと言われながら、なぜか決戦場は、十条や東十条駅ではなく、赤羽や池袋だったのは、地元には、「先生がいるから、ヤバイ!」という理性的な判断(?)があったからでしょう。

朝高の先生たちは、東京中から恐れられた朝校生たちのチン○○が縮み上がるくらい恐かったといいます。どれくらい恐かったか、想像するだけでも恐ろしいのですが、もしかしたら、組関係の先輩たちが出向していたのかもしれません。「喧嘩は売るな、売られたら買え。買ったら負けるな、負けたらチョン高には来るな」と毎朝、朝礼で訓示しているという噂もありました。

喧嘩を通して朝高生たちが、日本文化に与えた影響もいくつかありました。
今でこそ日本語として、すっかり定着した感のある「チョーパン」も、もともとは彼らが得意とした顔面への頭突き攻撃のことを「朝鮮人パンチ」と呼んでいたのが略されてできた言葉だといいます。

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チョーパンをプロレスに導入した故・大木金太郎選手

また当時、大流行した(?)チョン・バックは、朝高生が持ち歩いていた何も入らなさそうなペラペラの学生鞄が他校の不良たちにも広まったものでした。今なら、さらに小型化して、iPadの専用ケースとして売り出せるかもしれません。

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昭和40年代は、子供向けのアニメにも、堂々と番長モノが認められていた時代で、「夕焼け番長」や「男一匹ガキ大将」といった番組が一家団欒の夕食時に流されて、家族みんなで、<子どもたちがぶん殴りあう乱闘劇>を楽しんでいました。当時の不良たちは、多かれ少なかれ影響を受けており、「これ以上は、やっちゃあダメだ」とか、「男として、それはマズい」とかを、そういった作品から学び取っていたと思います。

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ケンカに強い番長が子どもたちの憧れだった

昭和50年代に入ると、不良の世界にも徐々に現代化の波が押し寄せてきたようで、各高校がアイデンティティーを前面に押し出した抗争劇は、だんだん影を潜めていき、地域を拠点とした暴走族が勢力を拡大していきました。そもそも不良たちは、学校にほとんど行かないから、そう呼ばれたわけで、そんな彼らを学校単位で行動させるのは無理があったのでしょう。

そして高校生抗争では、まったく蚊帳の外だった杉並の少年たちが、暴走界では中心に躍り出ることになります。ブラック・エンペラーやマッド・スペシャルなどの拠点が作られ、多くのティーンエージャーがそれに加わったのは、経済的な要因が大きかったからだと思われます。

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当時の高校生の喧嘩は素手が基本で、武器を使っても、空き瓶や木刀などでしたから、ほとんどお金はかかりませんでした。しかし、暴走族に参加するには、最低限バイクと免許が必要となり、それ以外にも整備や部品、ガス代等、費用が嵩んで、とても貧乏な家の子には工面できません。

親が裕福な家の子が多い杉並は、その点でアドバンテージがあったようで、根性は、まったく据わっていませんでしたが、そこそこ金があったので、それなりにカッコがついたのでしょう。この頃から、ワルにとっては冬の時代が始まり、金がない者は、不良にすらなれない・・・そんな風潮に流されていくように、いつの間にやら、国士舘や朝高の噂も途絶えていきました。

喧嘩に強い奴が女にモテると信じられていた時代(男には、人気があった?)が終わり、お金持ってる奴=カッコいい・・・という幻想が生まれようとしていたのです。当時の人気漫画「ビー・パップ・ハイスクール」は、そんな世相を憂い、時代の変化に戸惑いながらも、「こうあってほしい!」との想いから描かれていたのではないでしょうか。

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あれから30数年。一億総シャバ憎時代が到来

そして当時、政界で問題視された「数の論理」がアウトローの世界にも及び始め、各地の暴走族が合流して混成チームを結成し、大勢力を誇示する時代に入っていきましたが、いつの間にやら、それもなくなり、今は、すっかり、じいさんになった当時のメンバーが昔を懐かしんで健康的に走る(?)レトロ暴走族時代に入ったようです。

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数で勝負という風潮が暴走族にも・・・

喧嘩で鳴らした有名校も、消滅したり、まったく別の姿に衣替えして、細々と生き長らえている状態のようです。国士舘高校は、制服をブレザーに変えなんと男女共学になってしまった(!)といいますし、朝高の卒業生には、あろうことか国士舘大学に進学する者もいるといいます。行く人も行く人ですが、入れる方も入れる方で、伝統文化の継承を軽く見る風潮は、こんなところにも表れていました。電波高校は、とっくの昔に解散し、烏山工業は世田谷泉高校に統合となって、もはや不良たちが生存できる場所は、どこにも存在しません。既に絶滅品種といってもいいでしょう。

適度にガス抜きできる場所がなくなったことが凶悪犯罪や無差別殺人の温床になっているのでは、という気がしてなりません。

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なんとも爽やかな平成の国士舘高校
こんなことで、いいんだろうか・・・

そして何年か前、市民団体を名乗る人たちが、「ヘイト・スピーチを行っている」というニュースを耳にしました。「なんて無謀な・・・、殺されるぞ!」と最初は思いました。

70年代の常識なら(?)、10分もしないうちに朝高のOBといわず、在校生といわず、どこからともなく現れて、その後は、世にも恐ろしい地獄絵図が展開され、ズタボロ状態の相手は、近くの電信柱に吊るされたと思われますが、このときは誰もシバキに来なかったといいます。かつて朝鮮部落と恐れられた在日朝鮮人居住地域も、今や横文字で「コリアン・タウン」などと呼ばれ、骨抜きになってしまったのでしょうか。

さらに驚いたのは、その市民団体のリーダーがポッチャリした見るからにケンカの弱そうな中年のおじさんだったことです。もしかしたら、杉並出身なのかもしれません。70年代の国士舘は恐かっただけでなく、ある種、男っぷりの良さを感じさせる存在ではありました。朝高との抗争でも、一歩間違えば、自分らが逆にボコボコにされる、というリスクを常に背負っていたと思います。

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ソウルでやったら、一目置かれるだろう。
平壌でやれば、歴史の教科書に名を残すだろう。しかし、東京じゃあ・・・

ところが、デモの人たちは、行政問題やら、歴史問題やら、いろいろ理屈を並べ立てながらも、もっぱらマイク・アピールに専念する気ようで、安全地帯から一歩も出ようとしません。あそこまで乗り込んで挑発する以上、自ら捨石となって殺されることで、国民の意識を喚起しようという崇高な使命感に駆られての行動なのだろうと思っていましたが、どうやら、そんな覚悟は、さらさらなさそうです。

ようやく反対陣営が現れて、「今度こそ、激突か!?」と思っていたら、こちらも罵声を上げて並走するだけで、一向に乱闘は始まりません。お互いに相手の暴力の証拠を撮ろうとカメラを向け合い、「先に手を出した方が負け」といった幼稚園児並の喧嘩をやっているくらいなら、アタマ同士でタイマン張って決着つける方が、よっぱどスッキリするでしょう。 

それにしても、朝校のOBたちは、いったい何をやっているのでしょうか?
平和日本の中で、すっかり裕福になって、子も立派に成長し、孫に囲まれて、ほのぼのとした幸せを味わっているのかもしれませんが、こんなときこそ、「帰ってこないウルトラマン」が帰ってこないとダメだろうと思うのは筆者だけでしょうか。

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「帰ってこないウルトラマン」は、今、何を思う・・・

右も左も、朝高も国士舘も、すっかりマイルドに堕落して、なんとも不気味な時代になったものです。

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30数年前に上京して就職した先の先輩が国士舘OBでめっちゃ怖かった記憶がある。東京や大阪みたいな修羅場な状況とは全く無縁な地域から来た自分には当時色々聞かされたりもしたけど、あまりピンとは来なかったな。むしろリアルタイムではその後、渋谷や新宿辺りのチーマーが猛威を奮っていたと思う。それと半グレ集団の代名詞になってしまった中華系の暴走族グループの怒羅権の連中が暴れていたよ。

2019/1/24(木) 午後 6:01 [ mel**ddi*palm*enom*non ] 返信する

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> mel**ddi*palm*enom*nonさん
当地の前の会長さんが国士舘卒ですが、ボコボコにされた人はいません。みなさん、社会に出るとマイルドになるんでしょうか。
たまには、高校生が集団で大暴れ・・・というニュースもあった方が健全な世の中のようにも思えます。

2019/1/25(金) 午後 0:09 [ phuchan_n ] 返信する

昭和54年歌舞伎町の帰りに国士舘の朝鮮狩り〜チョーセンいないか!出て来い〜と言いながら50人の蛇腹と遭遇
大柄なスキンヘッドもいて下手なヤクザよりも迫力半端なかった!
地元の水産高校制服蛇腹県内中から喧嘩上等の悪名高き集団!平成が終るのに硬派な校風健在伝統ある唯一無二の公立高校

2019/2/18(月) 午後 9:45 [ zlb***** ] 返信する

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「適度にガス抜きできる場所がなくなったことが凶悪犯罪や無差別殺人の温床になっている」は違います。民度は全体に上がっていて凶悪犯罪も無差別殺人も少年凶悪犯罪も全て昭和の頃よりはずっと減っています。警察白書を見ればわかります。同じ事件を全メディアがしつこく報道するので多くなったと思ってしまうんでしょう。昭和の頃は一人殺した程度の事件はローカルニュースでも扱うかどうかというレベルでしたし。 削除

2019/5/15(水) 午後 2:42 [ 通りがかり ] 返信する

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国士舘では無いのですが。
昔の埼京線になる前の赤羽線の黄色い電車でたまにトラブルが起きてましたね。
高校時代の先輩が王子駅でしゃがんでいたらチョン高の方がやってきたので喧嘩を売ったみたところ、あれよあれよと言う間にチョン高の方々が何処からともなく現れて危険を感じて線路を走って逃げた話がありました。

しかし物忘れの激しい先輩は懲りず数日後に王子駅でしゃがんでいたところ、先日のチョン高の方々に一気に囲まれ謝ってみたところ回答はパンチとキックの嵐で、なんとその現場を仕切って居たのがチョン高の教師だったと言う事実。

その後は包帯だらけで登校してきました。
当時は生死に関わる喧嘩以外はさほど事件としては取り扱われる事はなかったので恐ろしい時代ですよね。

因みに数年後新宿を歩いていたらその先輩とバッタリと出会ったのですが本職になってました(笑)

当時の不良もチョン高生も今は一般人の仮面を被って社会に溶け込んでるんじゃないかな。 削除

2019/5/22(水) 午前 0:22 [ 通りがかり2 ] 返信する

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