|
先日のゲリラ豪雨の夜のことである。シャワーを浴び、夕食を済ませ、焼酎をグラスに注ぐと、机の上のキエフ4aが目に留まった。椅子に座るとモニターの奥の障子は時々雷光に白く照らされ、外は激しい風と雨の音に充ちていた。風雨の響きは皮膚を通じて体を震わせ、次第に気持は解されてきた。 グラスではなくキエフ4aを手にした。キエフ4aを落札したのは、頭の「66」という製造番号から私の生年と同じと知れたからである。バースカメラに興味はなかったのだが、長きにわたって生産されたキエフのなかで、品質と価格のバランスが取れた60年代の個体を確認してみたいと考えたからだった。 カメラを手にしてみると、草臥れた感じが良かった。草臥れているのはカメラがカメラとして正当に扱われてきた証左である、が、確認をしてみるとシャッターの動作は怪しく、フランジバックは狂っていた。狂いは最大で-0.49mmである。日頃明るいレンズを開放で使うことはないので実用上は問題ないのだが、これほどの誤差は気持が落ち着かないのでフロントパネルを外し、ファインダーグラスをきれいにしてからヘリコイドユニットを止めるビスを緩めていった。 妻の声が聞こえた、「Sさんが来ました」と。 首を巡らすと、眠たげな妻の顔が見えた。外したヘリコイドユニットのビスを留め直し、玄関でSを迎えた。 Sは権現に住む十数年来の友である。出会ったのは、20世紀の終わりの乾期のバンコックであった。私が週末に開催される広大なチャトゥチャック市場へ向かおうと伊勢丹前からバスに飛び乗ると、バスの車掌を前に困惑する若い日本人の男がいたのだ。日本人と知れたのは小綺麗な格好と、前屈みの姿勢であった。 タイの路線バスは、近距離であっても料金が変動をする路線があり、車掌は乗客の行き先を確認するのだが、中年の女性車掌は若い日本人が発する言葉を理解できずに戸惑っていた。 私はふたりの横に歩みでて言った、「チャトゥチャック」と。 「7バーツ」中年の女性車掌は頬を緩めて言った。 私は眉を上げて男を指し示し、20バーツ札を差しだした。女性車掌は2枚の切符と6バーツを返して寄越すと、窓際の空いた椅子に腰掛けて外を眺めた。私は1枚の切符を男に渡して踵を返そうとすると、男が襷がけにするカメラに気がついた。ライカM3である。レンズは沈胴ズミクロンであった。 私は男に向きあったまま、鞄からカメラを取りだして見せた。男は微笑んだ。2人のカメラとレンズは同じであった。バスに乗っている間、私と男はただカメラと写真の話に興じた。チャトゥチャックへ着いてからは、互いに無言でシャッターを切り、時折彼方を見やっていた。 市場内は乾期の熱気と人気に溢れ、私と男は一本のトライXを撮っただけで疲れてしまった。私は男を手招いて「トープール」というエアコンのあるレストランへ向かった。男はSと名乗った。20才になったので、父親から譲られたカメラを携えて初めて海外に出たのだと言った。Sがバンコックにいたのは1ヶ月ほどであったが、週末になるとふたりで街を歩いて廻った。その後も私がバンコックにいた3年の間に何度かSが訪れて、一緒に灼熱の路上を彷徨い、ブラックライトの下でグラスを交わした。私が日本に帰国してからも、Sとの交流は続いた。時に海外からのメールであり、時に突然の来訪であった。 先日のゲリラ豪雨の夜にSが前触れもなく来たのには、幾分驚かされた。かつては2、3ヶ月に一度は海外からメールを送ってきたり、自宅で成った柿をもってやってきたのだが、ここ5年ほど音信がなかったからである。私から連絡をしようにもSは携帯を持っておらず、権現の自宅へ電話しても留守電になっていたのだ。 5年振りにSが前にいる。少し痩せたようだが血色は良く、かつての猫背は消えて背筋は伸びていた。Sは昔のようにM3に沈胴ズミクロンをつけていた。嬉しかった。グラスを交わした。外の風雨の音が消え、やがて彼方に走る電車の音が無くなった。 「今年の柿の出来はどうだ」と私は訊いた。 「もうありません」とSは言った。 「切ったのか」 Sはしばらく黙してから言った。「あの家はもうありません」 「今どこにいるんだ」 「神流川の河川敷です」 Sは音信が途絶えていた、この5年に起こったことを淡々と話し始めた。私がブログを書くのは自らの気紛れな備忘録なのだが、Sの話を聞くうちに、Sの身に起こったことをひとつの事象として記したくなった。ブログを書くのは決まって酔っているときであり、Sの独白の際にも相当酔っていたのだが、事実を違えないようSの言葉を文字に起こしたい。それは同情であるとか、義憤であるといった感情ではなく、ただ目の前の事象を写しとめるという写真と同質のものであるのだ。 |

- >
- Yahoo!サービス
- >
- Yahoo!ブログ
- >
- 練習用






