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花まつり人から人へ渡されるアルミニウムの硬貨のひかり    
 
現代社会において何を抒情するのかとはなかなか困難な課題である。嵯峨直樹の第二歌集『半地下』は、短歌表現で現代社会の様相にどれだけ迫真できるかという試練を自ら突きつけている。それは単に題材や文体の次元を越えて、形而上的な問題として事物のありように迫りつつ、抒情の対象を手探りしつづける孤独な思索そのものようにも思える。
 
作者は、感情や感覚といった通常、短歌の存立の軸になるものを、表現から注意深く削ぎ落としている。既存の人間主義的な立場を懐疑しているのだろう。抒情の存在基盤とされる、いわゆる「自我」「個性」、そこにまつわる「独自性」とか、「根源性」「実体」といった漠然とした存在の認識のしかたを徹底的に疑っている。主観は関係の網の目によって構成され、外界は関係性の層として捉えられている。モノのリアルも関係性のなかに入ったときに現れる。
 
巻頭に引いた歌にもそういった思考が強く働いているように思う。アルミニウムの硬貨といえば一円硬貨であろう。軽量な一円玉が流通のシステムに乗って軽々と人の手を渡っていく。その社会的関係性に入ったときにはじめて硬貨は一円という価値を帯びて「ひかり」を放つ。よく言われることだが、貨幣自体には何の価値もない。一円玉であればただのアルミニウムの金属片にすぎない。価値とは関係そのものである。関係の網の目によって構成されている世界の様相や意味を作者は一枚の一円玉をとおしてリアルにあぶりだしている。
 
  関係に入りて色づきいる初夏のお昼やすみの雲のかがやき    
  てらてらと夜の車は行き交って此処とわずかに関わりはある   
  しらじらと無瑕疵の月は照りており関係の根は底へ伸びていて       
 
歌集には「関係」という言葉が散見する。自然も、人工物も関係の中に組み入れられてこそ存在が拓かれていく。一首目、雲がかがやくのは「お昼休み」という勤務のなかの短い自由時間に見られているからであり、二首目の「車」は、主体の所在と夜の都市空間を共有しあうものとして、わずかな「関わり」が発生する。三首目は、天体である月そのものは、「無瑕疵」とされているように関係のなかに組み入れられてはいない。「無瑕疵」とは「無意味」と近いようにも思う。それに対して、地上は関係の根が深く絡み合っている世界であり、われわれの存在はそれぞれの局面で意味づけられ、無瑕疵ではありえない。
 
 自転車の灯り連なる秋の夜の夕やみ人の臭いは満ちて          
 エアコンの暖風吹いてゆるやかな陰毛のかげ陽に揺れている   
   
 店頭に積まれたゼリー透きとおり桃の欠片(かけら)を宙に浮かべる
 
主観とはなんだろうか、その実体を失い、存在の根源性を疑うとき、なお世界の中に存在させるものは、外界と主体とを媒介する知覚であろう。そこに主観はあらわれ、冷えた抒情のひかりが射してくる。一首目は、「匂い」を感じ取る知覚をとおして夕暮れの人の動きを顕在化している。また、二首目は性愛の場面かと思うが、情緒や情感はぬぐい取られており、人工的なエアコンの風を感じ、揺れている陰毛を見ている視覚だけが主体のありかを示している。クールなタッチで、二人が存在する場面がリアルに切り取られている。また、三首目はゼリーという透き通った固体を、そのなかで宙に浮かんだように見える桃の欠片との関係のなかで立ち上げている。ストイックで静謐な静物画を見ているような印象を与える。情感に浸蝕された感覚的な表現はぬぐい去られ、モノの輪郭がくっきりと立ち現れる。
 
  クリアファイルに挟むつかのま労働の汗とはうわべを滑りゆくもの  
  日常が猛スピードで過ぎて行く今日は二人は半地下にいる      
 
われわれは、有限の時間を与えられ、その大半を労働に費やす。一首目、その労働の実体でさえ、すでにクリアファイルのようにつるんとして可視性を喪失している。流す汗も価値の代価とは感じられず、「うわべ」をすべってゆくしかない。自己とは時間そのものである。現在はある一瞬の局面であり、猛スピードで過ぎ去る時間の流れの中で無化し、断片化する自意識を背負ってわれわれは辛うじて生きている。二首目に登場してくる「半地下」とは無機的な時間の流れから身をよけることのできるわずかな空間を指すのであろうか。そこは地上でも地下でもない逸れた場所であり、未来にも過去にも所属しないことで未分化はあるが、かえって無垢な空間にもなっている。タイトルになっている「半地下」には、わずかな自由への希望を託されているようにも思える。
 
  君は僕の僕は君の媒体となって表皮に汗きらめかす       
  君の撒く暗喩であるなら関わっていたいと思う百合の花束   
 
 一首目、二つの身体はそれぞれの媒体でしかないが、ここでの汗はきらめいており至福感に溢れている。また、君との関係も実体を隠されている暗喩ではあるが、その君と関わり続けたいと願うことで未来の時間が「百合の花束」のように美しく拓かれるものとして与えられている。
 
  明太子の粒子を春日に光らせてパスタからめるうつくしい人   
  愛されている耳の裏見せながらしずかに水を飲んでいる人    
 
 
 
無機的な関係性のなかで絶え間なく無化されていく存在であるが、そうであるからこそ生きている実感を渇望し、全体性を希求する。その願いが実現された瞬間が愛する人との出会いであり、二人でいる時間のつややかさではないだろうか。ここに挙げた二首はそういう意味でとりわけ幸福感に満ちた美しい歌と思う。その光沢のある時間は風景との出会いにも立ちあらわれ、広がりをもった明るい視界を構成している。一見、さりげないこの歌が歌集にあることで、ひかりがさし込んでいるようにも思えるのだ。
 
鉄橋の下に広がる河川敷あかるい世界のようにかがやく  
 

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