誤解の第一歩は、男の幸せと、女の幸せを、混同していることです。
男の幸せは、女を喜ばせることで、自分だけが喜ぶことではありません。
女の幸せは、自分が喜ぶことで、自己完結的です。
例外は母の子供に対する喜びです。
この場合も女が自分自信に喜びが少ないと、子供が喜びの対象になりにくいのです。
男が女に尽くし、それを女が受け入れ、子供に返す・・・愛の流れる方向です。
そして、世代を通じて、愛が流れていくのです。
この流れが澱んだり、止まったりすると、問題発生です。
最初に気付くのは、女です。
それだけ女は、愛を必要とするのです。
自分だけでなく、子供の分まで要るのですからね。
男はほとんど、気付きもしません。
男自身、それほど必要としないからです。
とくに子供のころ、親から愛を受け取っていない男には、判らないのです。
愛の何たるか、表し方、捧げ方・・・。
そう、愛は捧げるもので、呉れてやるものではないのです。
呉れてやるのでは、愛とは呼べないですものね。
捧げられた愛は、女を潤し豊かにします。
これが男の喜びになって、さらに愛を注ぐことになるのです。
そして子供は、このなかで愛をたっぷりと受け取り成長するのです。
このとき、愛の何たるかを学んでいくのです。
親でなくても、身近に感じられれば、学べるのです。
学ぶことが出来難かった子供は、強く愛を求めてしまいます。
ところが、不幸なことに、与えられていないことは、判らないのです。
そこで、自分の欲しいものは、相手も欲しいのだろうと思ってしまいます。
自分が判っていないにもかかわらず、です。
感じることが出来ないので、言葉で受け取ろうとしてしまいます。
感じることがないので、言葉で表そうとしてしまいます。
はっきり言います。
言葉のなかには、愛はありません。
愛の言葉はあっても、愛はそこにはないのです。
どこにあるのか?
愛は行動、行為、行い、のなかに在るのです。
そして、感じるものなのです。
感じつづけるものなのです。
だから、言葉を必要としなくなるのです。
男は行動により、女に愛を捧げるのが喜び。
女は行動により、男の愛を感じるのが喜び。
男は行動で捧げた愛を、女に受け取ってもらう喜び。
女は男の行動で捧げられた愛を、受け取る喜び。
行動を伴わない愛はない、つまり行動が無ければ愛ではない。
時間もそうです、時を創り出せないのは愛ではない。
愛は目的、結果であって、手段ではないのですから。
大好きな人の危機に、仕事や付合いを優先させるのは、愛ですか?。
だから、男に尽くしてはいけません。
男の尽くす喜びを奪うから。
女に尽くされると、男は喜びません。
「うざい・・・」となるのです。
よく観察してくださいよ。
男の表情をみてください。
男は女にサービスしている時、いちばん良い顔をしているはずですから。
たとえば食事、食べないで待っていてはいけません。
○時になったら、先に食べてるから、デザートのお土産待ってるよ・・・が正解です。
または、食べる時は連絡してね、ご馳走造るからデザートお願いね・・・も正解です。
意味、判りましたね。
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