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「あなたが生まれてきた理由」
真実を探求するクリスチャン のブログ

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死んだら皆大地の肥料になるだけだと考えている人が多いのは日本だけではありません。教会離れ、信仰を捨て、この世だけだ実在する世界だと考える人々が増加しています。
残念なことにこれは世界的なトレンドのようです。
勿論神など存在しなく、我々がもし単細胞生物から進化したとしたら、我々には絶対的(客観的)な意味での"生きる目的"は存在しないことになります。
勿論そうなると"生きる目的" "善悪"など、時代、文化圏、個人で自由にきめることになり、私の意見が貴方の意見より勝っていることも劣っていることも無く、すべては個人により定義されます。つまりは"歩いている人をいきなり殴ろうが、お金をあげようが、意味がない、という事で同じです。当然自殺にも善悪はなくなります。
それでいいじゃん、という方もいるでしょう。でも殆どの方は自分の財布を盗まれたらそれが絶対悪である様に振舞います。なぜでしょう?
もし"他人の所有物を盗む事が絶対的に、客観的に悪なら、あなたがなぜ盗まれた時に怒ったか説明がつきます。
逆に善悪など個人で違うと言うなら、貴方がものを盗まれたとき、怒る、という反応は可笑しいわけです。それはとりもなおさず、絶対的な悪が存在している事の証拠なんですね。

さて、今回はキリスト教に関しての基本的な質問、応答をWEBでみつけた若草教会さんから抜粋してみました。

以下。

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Q1 この時代に、神を信じることが必要でしょうか。

A1 必要です。信じることなしに、人は生きていくことができないからです。
 ある人は、学歴を信じています。別の人は、健康や幸せな家庭を、この世での地位や名誉などを、生きていく上での頼りとしています。もちろん、お金を信じている人も、大勢いることでしょう。どの人にも、「わたしは〜を信じる」というものがあります。「いや、わたしは何も信じない」と言う人は、自分が何かに頼っていることに気がついていないだけなのです。
 だから、ほんとうに信じるに値するものがあるかどうか、ということが重要です。ほとんどのものは、失格です。永遠に残りはしないからです。「火で精錬されながらも朽ち」(ペトロの手紙一1章7節)ないもの、つまり「罪と死に対する勝利者」(コリントの信徒への手紙一15章57節)だけが、まことに信じるに値するお方ではないでしょうか。
 まことの神を知り、信じてこそ、わたしたちは不安から解放され、活き活きと生きることができるでしょう。
 「世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか」(ヨハネの手紙一5章4−5節)




Q2 神を信じるのは、弱い人のすることで、意志の強い、まじめな人には、必要ないのではありませんか。

A2 どんな人でも、神を信じることは必要です。
 たしかに病気や障害、老いなどを負う人々のなかに、深い信仰をもった人がいることは、事実です。しかし弱くない人間などいません。「自分はまじめで強い」と思う人は、自分を隠し、偽っているのにすぎません。人間をあまく見ているだけです。
 聖書は、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ記19章18節)と命じています。この戒めを真剣に考えれば、自分の罪深さは、あきらかです。そんなことは、できていないからです。むしろ、まじめになればなるほど、自分の罪と弱さを知らずにはいられなくなることでしょう。
 神を信じる者とは、自分が弱いことを知っている人のことです。それを隠さずに、神の御前で告白し、悔い改めます。自分の本当の姿を知っている人のことです。けれども同時に、その弱い自分をゆるしてくださる神の愛を知っています。だから、この神の愛に押し出されて、あきらめずに、粘り強く生きていくことができます。
 「なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(コリントの信徒への手紙二12章10節)



Q3 山に登る道が多くあっても行き着く先は同じ頂上であるように、どの宗教を信じても結局は同じではないですか。

A3 まったく違います。たしかに日本人は、この考え方で信仰の違いをあいまいにしてきました。その結果、諸宗教は国家神道にからめ取られ、戦争を防ぐことができず、悲惨な結末を迎えたのでした。
 信仰には二つの面があります。信じる人の姿勢や心の状態という面では、なるほどどの宗教も共通な部分があるかもしれません。けれども人間ばかりを見て、「信じる相手はどうでもよい、いわしの頭でもよい」というのは暴論です。結婚するときに、愛するという自分の気持ちが大事で相手はだれでもよいとは思わないでしょう。信仰も同じです。まことの神を知ってこそ、豊かな信仰の実が生まれていきます。
 「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」(ガラテヤ5:22) これらが、イエス・キリストを信じる信仰の結果です。まことの主がいましてこそ結ぶ実なのです。



Q4 日本には先祖伝来の仏教や神道があるのに、どうして外国の宗教であるキリスト教を信じるのでしょうか。

A4 神が、あらゆる人を救うまことの救い主であるイエス・キリストを与えてくださったからです。
 仏教はインドに発生し、渡来しました。そこに真理を感じて日本人が受け入れた外国の宗教です。神道にも東南アジア起源の神々が多くあると言われています。むしろ良いもの、真実なものを積極的に取り入れてきたのが、私たちの先祖たちでした。
 キリスト教がヨーロッパやアメリカの宗教だと思うのは誤解です。アジアに生まれ、世界中に広まりました。それは、一つの民族信仰に留まらない、広く豊かな内容があったからです。いや、キリストそのお方こそが、すべての人を罪のもとから解き放つ、まことの救い主でいらっしゃるからです。
 「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(ガラテヤ3:28) 国際化の必要が叫ばれる現代、日本人が狭い島国根性を捨てて、魂を、まことの救い主に向かって大きく開くべき時が来ています。





Q5 一つの宗教に凝り固まって狭くなるよりも、どの神をもおがんで各宗教の良いところを取り入れるべきではないでしょうか。

A5 信仰とは、生ける神との人格的な交わりです。二股かけたり、あちらこちらと渡り歩くのでは、本気で信じているとは言えないでしょう。習い事でも、一つの流派に徹してこそ、奥の広さを知るようになります。まして大事な信仰のことです。唯一の神を信じ、従い抜かなければ、信じる恵みは得られません。「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6:24)
 それは決して偏狭になるということではありません。信仰を持ったからといって、他の宗教の悪口を言う必要はありません。むしろまことの神の御前にひれ伏す者は、謙遜にされます。「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」(エフェソ2:8) 神から賜わった信仰に忠実に歩むのが、キリスト者の道にほかなりません。



Q6 神といっても、結局は人間の考え出したものではないでしょうか。

A6 聖書はそれを偶像と呼んでいます。自分の好みや欲求にこたえてくれる神を作り出すのです。けれども人間が作ったものをおがみ、それに縛られている限り、自由はありません。この世の名声や学歴、お金などは、すべて人間の産み出したものです。なのにそれらを神とし、支配されている人の多いのが現実です。自己疎外とも呼ばれます。人間が作った神などに人間を救えるはずはありません(イザヤ44:9以下を参照)。
 聖書の神は、人間の都合やこのみで作り出されたものではありません。反対に人間を造り、越え、人間に左右されることなく義と愛とをもって人に対され、私たちが自分中心にではなく、神の御心に従って生きることをお求めになるお方です。主である神に従ってこそ、まことの自由に生きることができます。「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。」(ガラテヤ5:1)



Q7 なぜ、神は唯一であると言われるのですか。

A7 本物は一つだけだからです。
 日本には八百万もの神々があると言われます。にぎやかですが、逆に言うと、「これだ」という本物がないということです。ギリシアにも多くの神々があり、その中でもゼウスが最高神とあがめられました。けれども優劣の比較ができるということは、他を絶する絶対の神を知らない証拠です。
 聖書の神は第一に、神々の中で最高の神ではありません。このお方のほかに神とお呼びできるものはありません。「わたし、わたしが主である。わたしのほかに救い主はない」(イザヤ43:1) 唯一の神とは、この世のどんなものをも越えた絶対のお方だということです。
 第二に、だからといって近寄りがたい恐ろしい神というのでなく、人間と一対一の真剣な交わりをお求めになるお方です。一人の夫と一人の妻であってこそ、夫婦の愛と信頼が成り立ちます。そのように、唯一の神に結ばれ、従ってこそ、まことの信仰と言えるでしょう。

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