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「あなたが生まれてきた理由」
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書庫ヘルマン・ゲーリング ナチス党

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神を自分で定義し(誤解)勝手に崇拝する人間を考えた時、思い浮かぶ人物の一人にヘルマン・ゲーリングがあります。

、ニュルンベルグ裁判で絞死刑の判決を受けたナチス党で国家元帥にまで登りつめたヘルマン・ゲーリング

「私の唯一にして最愛の妻よ。私は真剣に考え、心から神に祈った末、悪辣な方法で我が敵に処刑されないため、自ら命を断つことにしました。(略)最後の面会で貴女に別れを告げたときに私の人生は終わったのです。それ以降、私の心は信じられないほどに平静になり、死を解放と考えるようになりました。(略)私はいつまでも、貴女とエッダと親しかった人々のことを思い続けるでしょう。我々の偉大にして永遠なる愛のために、私の心臓は最後の鼓動を打っています。」


「我が総統。1941年6月29日の命令に従い、国内的にも対外的にも完全な行動の自由を持って、貴方の代理たる私が、直ちに国家の全指揮権を引き継ぐことを了承してくださいますか?22時30分までにお答えがない時には、貴方の行動は完全に自由を奪われたものと推定します。その時には貴方の命令の条件が満たされたとみなし、私が国民と祖国の幸福に尽くす覚悟です。私の生涯におけるこの重大な時期にあたり、私がいかに貴方のことを考えているかお察しください。それについて、私は表現すべき言葉も知らないほどです。神の御加護により、貴方が最終的にはできるだけ早く当地に来られんことを祈ります」


「私はいかなる時にも、人殺しを命じた事はないし、残虐行為を指示したり、それを容赦したこともありませんでした。私がそれを知っており、かつ止める力があるときには、決して容赦しなかったのです。私がユダヤ人を殺せとハイドリヒに命じたなどという主張は、一切の証拠がありません」


「私は戦争を望んでもいませんでしたし、それを始めもしませんでした。外交交渉によって戦争を阻止する為に全力を尽くしました。しかし、いったん戦いの口火が切られた後には、勝利のために全力を尽くしました。地球上の三大国が、他の国々と一緒に、私達に対して戦いを挑み、結局、私達は、圧倒的な敵の優位に屈しただけなのです。私は、私が行なったことで被告席に立っていますが、戦争手段によって、他国民を服従させようとか、彼らを殺害しようとか、彼らを略奪しようとか、彼らを奴隷としようとか、虐殺や犯罪を犯そうと願って、行動したのではないと断言します。私を導いてきた唯一の動機は、我がドイツ国民に対する真摯な愛情であり、その幸福と自由を願う気持ちでした。私はここに、全能の神とドイツ国民を証人として誓うものです。」

しかし彼の答弁も虚しく、説得力に欠けます。

以下は1946年9月30日に言い渡されたゲーリングへの判決。

「情状酌量の余地はない。なぜならば、ゲーリングはしばしば、いや、ほとんど常に総統に次ぐ有力者であった。彼は政治的にも軍事的にも指導者であり、侵略戦争の統率者であった。彼は奴隷労働計画の監督者であり、ドイツ内外のユダヤ人もしくはその他の人種に対する暴虐計画の首謀者であった。これらの犯罪を彼は公然と認めている。特定の場合には、証言の食い違いがあるものの、彼自らが認めた事実を全体的に考えた時、それらは彼の罪状を決定的とするに十分である。この罪は極悪非道さにおいて比類がないものである。この人物には裁判記録全体において何一つ弁護する物が見いだされなかった。ここに、彼は起訴状の四つの全訴因について有罪であると認める」

彼はIQが全被告中で3番目に高かったそうです。
その彼でも理性的に物事を、そして神を考える事さえ出来ない、という事実は確かにこういう場所で神について議論する事の無意味さを感じます。

彼についたあだ名の一つに「道徳観の欠如した偉人」というのがあります。


ヘルマン・ゲーリングのニュルンベルグ裁判に対する思いは以下の彼自身の言葉に要約されるでしょう。

「勝者の正義」

つまり勝った者が何が正しいか、という事を決定する。

という事を彼は言ったんですね。

ここで私が不思議に思うのは、ナチス・ドイツは何百万人者ユダヤ人、その他、を殺害しましたが、その一人一人は裁判にでもかけて有罪判決でも受けたからそうしたのでしょうか?
勿論違います。ユダヤ人というだけで命を奪われました。老若男女も関係ありません。
つまり、ナチス自身が「勝者の正義」を行ってきた、という事実があるにも関わらず、ゲーリングの裁判への感想が「勝者の正義」という事はどういうことなのでしょうか?
もし彼が本当に相対的道徳観念(Moral Relativism)を信じていたならこういう発言は、裁判への不満としては出なかった筈です。
なぜなら、相対的道徳観念においては「勝者の正義」が正しいわけで、
つまり道徳観は煮詰めると、個人で異なって当然、という事ですから。
では彼は神を信じていたのでしょうか?つまり絶対的道徳観観念を持っていたのか?

「彼(ヒトラー)の姿を見、声を聞いた最初の瞬間から、私はぞっこん参ってしまった。」(1924年)

「私に良心などない。私の良心は、その名をアドルフ・ヒトラーという。」

どうやら神を信じていたかどうかは別に、彼の生きかたにはかなり柔軟性があったようです。

続いて彼の右往左往するユダヤ人観をみて見ましょう。

「私が反ユダヤ主義者だったことは一度もない。私の人生は反ユダヤ主義とは無縁だ。ナチ党が反ユダヤ主義だけの政党だったら、私は関心を持たなかっただろう。私がナチ党に惹かれたのは、強大なドイツを作り、ヴェルサイユ条約を打破するという主張だ

「ドイツのユダヤ人全体には、醜悪な犯罪の罰として十億マルクの負担金が課される。遅滞があってはならない。ユダヤの豚どもに二度目の殺人(一度目の殺人はエルンスト・フォム・ラート殺害を指している)をやらせてはならない。私はふたたび断言する。ドイツには一人のユダヤ人もいてほしくないと!」

「ユダヤ人大虐殺について、私は実際に何も知らなかった。1943年以降、ユダヤ人に多くの犠牲者が出たことは報告されたが、私は報告者にあまり外国のプロパガンダ報道を聞くなと注意していた。200人とか2000人が殺されたという報道なら、私も場合によっては信じたかもしれない。だが数百万人が殺されたなどという報道は、私には全くあり得ないことのように思えた。」(1946年1月、ニュルンベルク裁判での拘禁中に)[19]


「私としては貴重な品物を壊されるぐらいなら、ユダヤ人を200人ほど殺してくれた方が良かったのだが。」


■まとめとして彼、ヘルマン・ゲーリングに付いてい得る事は

・彼はイエスの教えとは程遠い生きかたをしていた。
・相対的道徳観念、絶対的道徳観念のどちらを信じてもいないようである。
・発言に一貫性がない。


以下はニュルンベルク裁判の際にゲーリングの精神分析をしたアメリカ軍心理分析官グスタフ・ギルバート中尉のコメント。

「ゲーリングの独善的で古臭い価値観はあらゆる事に及び、女性に対する騎士的な態度にまで表れている。おもてむきは、ことさら腰を低くして、保護者のようにふるまい、寛大なところを見せながら、その裏には利己的な目的が隠されており、その目的の妨げとなる、めめしい人道主義的な価値など認めていないのだ。」

最後になりますが、この裁判中、一時休廷します。それは、ナチス側の有能な弁護士の発言に原因します。
それは何かと言うと、これら24人のナチスの被告は単に彼らの文化に於ける価値観で、それを善と信じて行ったに過ぎず、彼らの行為を悪とは呼べない筈であり、単なる文化の違いに於ける価値観の多様性である、というものです。
ここで法廷は一時中断されます、しかし連合国の役人であるロバート・ジャクソンが立ち上がり発言します。『法の上に存在する法があります、、、』
そして裁判は継続します。そしてこれら24人のナチスの被告に判決が下されます。
正義は尊重されました。
ロバート・ジャクソンのこの発言は、"文化というものは究極的に事の善悪の基準にはなりえなく、誰が戦争に勝とうが負けようが、そこには連合国側にも、そしてナチスドイツ側にも適用される法の上にある法があり、それが真実であるにはある種の神の存在があり、何が善か悪かを定めている事が必要になる"という事にもとずいているのです。

私たちが持つ合理性は全くの非合理から生まれたと推測すべきか、それとも合理性は、我々にそれを与えた合理性を持つものから与えられたとするのか、どちらがリーズナブルでしょう?

貴方は「勝者の正義」を信じますか?それとも「法の上の法」を信じますか?

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