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2017年7月、新たにピンバッジの魅力に目覚め、ブログ始めました。

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2019年12月15日のYahoo!ブログサービス終了に伴い、ブログをアメーバに移動します。以降は、アメーバ pins-kのブログ https://ameblo.jp/pins-k/ をご覧ください。

 4月12日の夕刻には、山口県宇部市から島根県大田(おおだ)市へ入りました。
 翌13日は、朝からYAMASUTAスタンプラリーの山陰ホーリーピークスの1座、三瓶山へ登りました。
 朝9時頃に登山道入り口にある島根県立三瓶自然館サヒメルに着きましたが、開館時間は9時半からなのでガラスドアを覗いていたら、帽子をかぶった品の良い案内のお姉さんが出てきて、声を掛けてくれました。これから三瓶山を登るとお話しすると、館の裏手に登山道があり近くに駐車場がある事、ガイドマップを渡してくださり、館内のおトイレもお使いくださいと親切に対応いただきました。有難うございました!
 もちろん下山後に再訪し、職員の方に、とても素晴らしい対応を頂いたと感謝の言葉を述べました。

 登山中は、初心者の私が苦しそうだったのか、後ろから追いついて来られた地元建設会社のOBの方が話しかけてくださり、あれこれと説明いただきながら、一緒に頂上まで楽しく登るが出来ました。
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 残念ながら2018年は、YAMASUTAスタンプラリーの鳥取、島根、岡山、広島の4県にまたがる大山、船上山、三瓶山、三徳山(三佛寺投入堂)、蒜山(中蒜山)、船通山、琴引山、比婆山の8座制覇は叶いませんでしたが、2019年も6月1日からスタンプラリーはスタートしていますので、今年こそ8座制覇し、ピンバッジを手に入れたいと思っています。(9月・10月の一番よい季節がラグビーワールドカップ2019観戦で忙しいから難しいかな?・・・。)
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 下山後に石見銀山遺跡を目指すべく、まずは資料を入手するために太田市の観光関連施設へ向かいました。
 施設は旧の役場のような建物を使っているらしく、土曜日だからなのか入り口が閉まっていました。あちこちと探しているうちに隣の図書館へ迷い込んだので、図書館職員さんに場所と入り口を聞き、歩き出したところ地元のオジサンが追いかけてこられ、わざわざ案内くださいました。
 建物の窓をノックし、施設の方が出てこられ、土曜日は電話対応のみとの事でしたが、中に招き入れてくださり色々な資料を頂きました。
 観光関連施設の方は当日、女性と男性のお二方がおられ、男性の方の素朴で優しそうな雰囲気、私の話ですぐにパソコンをたたく反応の速さ、石見銀山の駐車場の状況まで当日既にチェックされていて、どこに車を停めればよいなど細かい情報をお持ちで、「できる!」と感じました。
 また、女性の方は頭の回転が速く、笑顔を絶やさない事、何より会話だけでなく服装や雰囲気などセンスが良さが感じられ、とても洗練された心地よい対応でした。
 ここ数年、あちこちと日本全国を旅していますが、観光という部署には、お二方ともかくあるべしという能力とお人柄で、大田市は、良い人材をお持ちであると思い、感心した次第です。
 最期に、女性の方から地元のお酒として、太田市温泉津町「開春」をお薦め頂きましたので、石見銀山の案内所で純米吟醸を手に入れました。突然訪問したにもかかわらず、ご丁寧に対応いただき、本当に感謝しています。

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大田市の2017年の世界遺産登録10周年「Ginzan Walking Museum」のロゴマークのピンバッジです。
 中央には、かつて石見銀山の間歩(坑道)でも使われた、サザエの殻に油を入れて火を灯す明かり「螺灯(らとう)」と鉱夫の衣装がモチーフの大田市公式マスコットキャラクター「らとちゃん」。らとちゃんは、恥ずかしがり屋さんだけど、いったん「火」がつくとソコヌケに明るい性格で、頭に揺れる小さな炎で、人々の心や地域の未来に明かりを灯すそうです。

 それから、石見銀山へ向かいました。この地は平成19年7月「石見銀山遺跡とその文化的景観」として、世界遺産に登録されています。
 
 話は変わりますが、私の子どものころの記憶に、映画やテレビの時代劇で、悪人が誰かを毒殺するときに「石見銀山を使って・・・。」などというセリフがありましたが、これは、実際には石見国笹ヶ谷鉱山で銅と共に採掘された硫砒鉄鉱(砒素含有)を焼成して作られた殺鼠剤の事で、「石見銀山」では産出されていないというのを最近になって知りました。

 石見銀山遺跡の中心部は、大田市の中心部から南西にある山間地の大森地区です。
 この地の仙ノ山には、路頭掘りも含め600を越える間歩と呼ばれる坑道があり、銀鉱石を産出していました。石見銀山の間歩群では、特に「龍源寺間歩」、「釜屋間歩」、「新切間歩」、「大久保間歩」、「福神山間歩」、「本間歩」、「新横相間歩」の7つが国指定史跡として登録されています。
 江戸期には大森地区は天領となり、20万以上の人々が住んでいたといわれています。江戸幕府直轄の領地(天領)には代官所が設置され、代官が派遣されて統治いますが、大森代官所跡は、現在は石見銀山資料館となっており、1815年築の表門と門長屋が残っています。役人屋敷「旧河島家」、商家「熊谷家住宅」は国の重要文化財に指定されています。

 そんな石見銀山の中心地、大森町は世界遺産登録後に多くの人が訪れ活気を呈し、登録前の1996年頃の年間20万人程度の来訪者が、徐々に増えていき2007年の登録直後は90万人を超えたそうです。長さ3km、狭い谷あいの人口400人程の町に、年間90万人の観光客が押し寄せ、またゴールデンウィークには短期間に1万人を超えることとなり、当然のごとく観光・住民生活の両面で問題が発生しました。あまりの世界遺産観光の過熱により、街に暮らす人々を疲れさせてしまったようです。
 これに対し地元住民の方々は、既に世界遺産に登録されている岐阜白川郷への視察、県市行政と市民による「石見銀山協働会議」での議論を進め、大森地区での同時滞在の人数を約2千人と設定し、大森地区入り口の駐車場の整備、遺跡までの観光バスの廃止、ガイド育成により石見銀山は「ゆったりと歩く態勢で遺跡を見学する」ところであるという事を目指したそうです。

 多くの観光地がそうですが、ブームの到来による町の混乱、去った後に残る寂寥感、観光客に対するお店の丁寧な対応の一方で住民の冷めた視線など、私自身の旅の経験から感じるものがあります。
 日本最大の観光地である京都は、平安時代から訪れる人に対応してきた歴史を持ち、今なお関東地区のテレビCMでは事あるごとに「そうだ、京都へ行こう。」が流れています。十数年関東に住んでいて、そんなCMを見るたびに大阪で生まれ育った私は「何で関東の人がそんなに京都行きたいのんか、ようわかれへん。」と思っていました。平安時代以降、京都には多くの武士、為政者、旅人が訪れましたが、京都の人々の接遇力の高さで見事に対応してきました。それでいて京都に住む自らの住民としての権利や楽しみは、観光客とは一線を画して確保しています。(一見さんお断りや紹介を得ないと通されないお店の特別な部屋、お寺のお庭など)
 冬や夏の特別拝観などで、厳しい季節にもお客様をいざなう発信力の巧みさなどから、もはや、訪客と住民の日々の両立は、私には京都の人々の個人のスキルではなく、風土的性格の域に達しているのだと思います。

 帰宅してから、あらためて石見銀山 大森町のHPを拝見しました。
 現在の大森町は、銀山のみではなく、川のせせらぎと鳥の根の音と共に「おもかげ、ひと、もの、かげ」をキーワードにそこに暮らす人々や町を静かに紹介しています。旅行会社のJTBは、かつて「住んでよし、訪れてよし」は実現しているか?を全国各地で調査していますが、京都のような観光先進都市ではありませんが、世界遺産登録の後に多くの観光客が訪れた石見銀山 大森町では、観光客と住民の両立「住んでよし、訪れてよし」を模索し、努力している姿がHPや住民憲章からうかがえます。

 石見銀山 大森町住民憲章
 このまちには暮らしがあります。
 私たちの暮らしがあるからこそ、世界に誇れる良いまちなのです。
 私たちは、このまちで暮らしながら、人との絆と石見銀山を未来に引き継ぎます。

 「のこる おもかげ やまのかげ 大森町」魅力的な所です。

 大田市に入って、自然館サヒメルの案愛係の女性、三瓶山登山で出会ったお父さん、図書館からわざわざ追いかけてきて案内くださったオジサン、観光案内施設のお二人の職員さん、月並みな言葉になりますが、皆さん親切でよい方ばかりでした。
 観光する場所や、海、山の景色、美味しい食べ物など旅の楽しみは色々ありますが、最高の醍醐味は、「良い人」と出会う事だと今回あらためて思いました。その地の素敵な人に出会う事が、心に残る思い出を作り、再訪のきっかけになるのだと思います。でも、そこには観光と住民の両立のために、地元の方々が大変努力されたのだと今回あらためて気づきました。だからこそ、私に対しても素晴らしい対応をしてくださったのだと思います。島根県太田市、中国地方の旅の最後に良い人々に出会えた街でした。

出典、参考文献・HP
島根県大田市HP
一般社団法人 大田市観光協会HP
文化遺産の世界HP「大國 晴雄:石見銀山の取り組み──これまで・今」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
 


2019年12月15日のYahoo!ブログサービス終了に伴い、ブログをアメーバに移動します。以降は、アメーバ pins-kのブログ https://ameblo.jp/pins-k/ をご覧ください。

楽しかった広島を後にし、翌日の4月12日に山口県宇部市に入りました。
宇部市で最初に出会ったのが、このピンバッジです。
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 宇部市とスペインのカステジョ市が今年の4月4日に姉妹提携調印したばかりで、文化、スポーツ、教育の交流促進や、UBEビエンナーレ(現代日本彫刻展)のグローバル展開、経済交流などを目指しているそうです。両市の久保田市長、マルコ市長や職員さんたちが調印式の際に胸に着けていたものだそうです。
 カステジョ市は、人口約18万人で、スペイン南東部に位置し、バレンシア州第四の都市です。(宇部市は1980年にオーストラリアのニューカッスル市、1992年に中国の威海市と友好都市協定を結んでおり、今回は3都市目になるそうです。)

 その後、宇部市で訪ねたい近代建築関係資料を入手すべく、訪れた施設ではこのピンバッジと出会いました。 
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「維新の風が誘(いざな)う。おもしろき国 山口」
 幕末維新やまぐちデスティネーション 

 2017年(平成29年)9月1日(金)〜12月31日(日)まで、山口県で展開された全国JRグループ6社と共同の大型観光キャンペーンです。

 2018年(平成30年)は明治維新150年、これに向けて2014年(平成26年)度から5年間実施する山口発の観光プロジェクト「やまぐち幕末ISHIN祭」観光キャンペーンが実施されました。このピンバッジは、公式キャラクターの高杉晋作をシルエットにしたデザインです。

 こちらは、
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「やまぐち幕末ISHIN祭」のピンバッジです。

 期間中の2015年(平成27年)には、NHK大河ドラマで、吉田松陰の妹の杉 文(楫取美和子)を主人公に「花燃ゆ」が放映されましたね。

 他に、山口県でこれまでに出会った、明治維新150年に関連するピンバッジも併せて紹介します。
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明治維新150年 2018年 明治維新策震源地 山口市
「幕開け」を印象づける朝日の赤。一、五、〇、の3文字を意匠化し、「本物」を示す落款印風のデザインとなっています。

 萩市では、20018年(平成30年)「明治維新150年」の節目の年を迎え、「明治維新胎動の地」として、ピンバッジが製作されました。
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2018 明治維新150年記念
 デザインの菱形を連続は、萩の景観「なまこ壁」をイメージし、赤は情熱、青は知性、緑は若さを表し、萩から、150年後の今も変わる事がない、明治維新の頃の日本の未来への熱い思いが込められているそうです。

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 萩市観光協会では、旧萩藩校明倫館跡に建つ日本最大の木造校舎で、旧明倫小学校として2014年(平成26年)まで使用され、2017年(平成29年)に整備・設置された”萩・明倫学舎”をモチーフとしたピンバッチを制作しています。

 2018年の「明治150年」に向け、山口全県の機運醸成を図るため、2017年に作られた寄付金(200円)付きのピンバッジは、当時600円で販売されたそうです。
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明治150年記念事業の推進の「維新胎動の地 山口県」シンボルマークで作られました。


 ようやく、宇部市のガイドマップを手に入れ、以前のブログ「日本の近代建築に関するピンバッジ」で、渡辺翁記念会館開館80周年のシンボルマークのピンバッジを紹介しましたが、色々調べる中で、そのデザインのもとになる建物の2階のトップライト(天窓)、1階ロビーのモダンな色彩を持つ支柱、何より村野藤吾の戦前における集大成作品と言われている渡辺翁記念会館をどうしても見たいと思い、訪ねました。

 私の旅は、若いころから営業職だったので、かつて仕事で訪れていた街を再訪し、その土地の風景、美術館、食、地酒などゆっくりと楽しみ、あらたにその地のピンバッジに出会いたいというものです。
 ピンバッジは、遠くにいる私たちには届かない、その街の、その時の出来事を記念するものが多く、持ち帰って調べる事で(ガイドブックやパンフレットの内容よりもさらに深く知る事で)、思いが強くなり、お譲り頂いた人達の対応などから心も感じられ、その地への愛情がわいてきます。(時に、その地で、その時代に働いた立派な人物の事跡を知り、感動することも少なくありません。)
 一方で、友人や何らかのイベントで手に入れた一つのピンバッジから、あれこれと調べ、その地へ訪れたいという気持ちになる事があります。今回の宇部での私の気持ちは、まさに後者でした。

 宇部市渡辺翁記念会館 は、関西を中心に活躍した建築家、村野藤吾の建築の3つある国重要文化財のうちのひとつで、1997年(平成9年)6月に国の登録文化財、2005年(平成17年)12月に国の重要文化財に指定となっています。
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 宇部興産の創業者、渡辺祐策翁の遺徳を記念し1935年(昭和10年)10月着工、1937年(昭和12年)4月に竣工されました。会館の事務所へ、内部の絵見学をしたいとお話しした処、ガイドマップを手に入れた施設から連絡が入っていたようで、たった一人の私に、お一方がついてくださりご案内いただきました。
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 記念会館のファサードのデザイン・構造については、工事関係者の一人の沖ノ山炭鉱株式会社工作課長の篠川辰次の残した文章から断片的に引用します。

 「本建築はインターナショナルタイプにして、自由模作によつてでき上つた曲線流暢なる飛行機型の平面を有し、骨格豪壮容姿端麗の堂々たる殿堂」
 「其の恰好意匠に於て設備に於て實に内外に比類なき先端的大殿堂で、我が宇部發展史上に輝しい一頁を飾ると共に、我が宇部文化の驚異的飛躍のシンボルなのである。」
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 建物は、地上三階建、一部地下室付の鉄筋コンクリート造(会堂部は鉄骨鉄筋コンクリート造)で正面の湾曲する3層の壁、前面のテラス、渡辺翁関連の7社を記念してた本の記念柱と台座型の記念碑など、村野藤吾の建築家としての戦前における集大成作品としての宇部市渡辺翁記念会館を表現しています。
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 外壁は、建設当時は塩焼きタイルで、時間の経過とともに紫がかったとてもいい色に変ってくると評価されていましたが、1992年10月〜1994年3月にかけて行われた改修時に、正面の約2万枚のタイルはすべて還元焼成タイルに張替え、使用可能なもとの約3千枚は建物の側面部や後部に回しています。
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 正面入り口の両側には、かつての石炭のまち宇部市を象徴する炭鉱夫が彫られています。
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 1階ロビーには、山口県長門産出の白色系の色合いの大理石の円柱が、上部にモダンな色彩を持ち、伝統ホールの重厚な空間の趣となっています。
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 1階ロビー階段下にある村野藤吾の設計と言われる木製の椅子は、実際には、村野の好みや意図を汲んで、村野事務所の杉浦 巴が、手がけたそうです。
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 2階ロビーの円柱大理石も同じ長門産出ですが、褐色系褐色系なので違った雰囲気になっています。
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  ホール内の客席数は1994年の改修以前は1,450席ありましたが、車椅子用スペースを確保し、椅子の前後の間隔を広めたことで、1階837席、2階516席の計1,353席となっています。
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 村野藤吾よる設計と言わる照明や金具は、「鷲」や「+」、「×」のモチーフが多いようですが、一方で和風を意識し、障子を思わせる細いフレームと白い面の組み合わせや、斜格子などのデザインとなっています。
  
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玄関扉前照明

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2階ロビーのガラスブロックからの採光

 これらの、戦中の国家主義的風なデザインから、和風のデザイン、現代アートの萌芽を感じさせる天窓、玄関わきの炭鉱夫など、ある一部を切り取って色々評価する人もいるでしょう。
 しかし私は、かつて彼が短い期間ですが、八幡製鉄で苦しい工場労働をした経験から、「工場も美術建築である」との信念を持っていた事や、渡辺翁記念会館全体を見る事で、自らをモダニストとした村野藤吾自身の何らかのメッセージがくみ取れるような気がするのですが、深読みしすぎでしょうか・・・。

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 2017年(平成29年)、渡辺翁記念会館は開館80周年の節目を迎え、そのシンボルマークのピンバッジです。
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 デザインコンセプトは、記念館の内部を象徴するパーツである2階のトップライト、1階ロビーのモダンな色彩を持つ支柱をモチーフに80の数字をデザインし、色彩は中央部分を宇部市の発展の礎である石炭を漆黒で表現、周囲を黄色のフチで囲むことにより、きらめくフレアを感じさせ、80周年を祝うとともに、宇部市の芸術文化活動の振興拠点として、これからも輝きを放ち続けて欲しいとの願いを込めているそうです。
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 宇部市は、現在も市民にこの貴重な重要文化財を市民に提供しています。
 そして、宇部市には建築家、村野藤吾(1891-1984年)設計の
 ・宇部銀行(現旧宇部銀行館)
 ・宇部窒素工業(現宇部興産ケミカル工場事務所)
 ・宇部油化工業(現協和発酵)
 ・宇部興産中央研究所
 ・宇部興産事務所
 ・宇部市文化会館
 ・宇部興産ビル(現ANAクラウンプラザホテル宇部)
が現存しています。どうぞ一度訪れ、村野藤吾に触れてみてください。

 関西を中心に活躍した村野藤吾の「村野・森建築事務所」は、約50年前に設計建築され、現在も大阪市の阿倍野に残っています。もちろん現在は別の、ある会社の保有で、内装はリノベーションされカフェになっているので、中にはいる事も出来ます。外観は当時の面影を残しているようです。

出典、参考文献・HP
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山口県HP、宇部市HP
おいでませ山口観光キャンペーン推進協議会HP
「村野藤吾設計の渡辺翁記念館における照明家具デザインに関する研究」
内山芙美子

 







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福山市を後にして、広島入りの前に竹原市に寄りました。
目的は、竹原の地酒です。

 瀬戸内海に面している竹原市は、穏やかで風光明媚で「安芸の小京都」とも呼ばれています。日照時間が長く降雨量が少ない独特の環境のため、塩田として栄えましたが、同時に米作りにも適した環境でした。また、今でも地下水を水道水として使用しているほど清冽な水に恵まれた土地であり、かつては26軒の造り酒屋が存在していたそうです。

 夕刻になり、あまり時間もなかったので、竹原市役所へ飛び込みました。
 「これから広島市に入る予定だが、竹原の地酒を買いたい。知識もなく、蔵元を回る時間もないので、どなたか詳しい方がいて、購入できるところを紹介いただきたい。」と窓口でお話しした処、奥から悠然と男性が出てこられました。
 一見して、以下にもイケル口の偉丈夫が、「近くのスーパーに入っている酒屋さんだが、店主が利き酒師で相談に応じて、好みのお酒を紹介してくれる。」との事。その場で電話してくださったので訪ねました。

 今では竹原には、マッサンで有名になった竹鶴政孝氏の本家筋の竹鶴酒造株式会社、藤井酒造株式会社、中尾醸造株式会社の三社の酒造だけで、どんな味わいなのか全く知らなかったので、渡りに船とばかりに紹介された酒屋さん、前川商店へ飛び込みました。色々お話をし、しっかりとした旨味のあるお酒ということで、今回選んでいただいたのがこのお酒でした。
 
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「竹鶴 純米吟醸」
前川商店の山田社長さん、後日ご丁寧に葉書までいただき、有難うございました。

実は、ほかの二社のお酒も、とても魅力的です。

 中尾醸造株式会社の創業は明治4年、4代目の中尾清磨が東京帝国大学発酵学教室で坂口謹一郎に師事し、酵母の研究を始めます。(酒どころ新潟上越高田に生まれ、日本酒と雪椿と歌を愛した「酒博士」坂口謹一郎の薫陶を受けているんですね。)やがてリンゴ酵母を発見し、この酵母による酒造りの為に1947年(昭和22年)「高温糖化酒母法」を完成させます。
 1948年(昭和23年)にリンゴ酵母を使い高温糖化酒母法で仕込んだ抜群に香り高い大吟醸酒は、全国鑑評会で1位を受賞、翌年から3年間連続し皇室新年御用酒を献上するという栄を賜ったそうです。しかし、このお酒は様々な手間暇からコスト高で、当時市販されることなく、品評会向けの酒という位置づけでした。
 5代目中尾義孝は、日本酒嫌いで洋酒党でしたが、初めてリンゴ酵母の吟醸酒を口にしたときに、「これなら自分にも飲める、何とかしてこの酒を売りたい。」と考え、1974年(昭和49年)リンゴ酵母で醸した純米大吟醸酒を「幻」という名前で発売しました。普通の日本酒が一升瓶800円の時代に、10倍の8,000円で100本販売したところ、あっという間に完売したそうです。

 藤井酒造株式会社は、1863年(文久三年)江戸時代末期に初代・善七が良質の仕込み水に恵まれた竹原の地に酒造業を興したそうです。
 日本酒は、米の酒であり、製造する酒すべてを米と米麹だけで醸造しています。
 しかし、戦後の純米酒製造が禁止された時代があり、創業銘柄「龍勢」は三代目善七によって一旦その歴史に幕を閉じた時期があったそうです。(なんと、誇り高き酒造でしょう、)
 また、完全発酵(酒酵母が最後まで旺盛に活動を続け、米麹の糖を酒のアルコールに変えること)にこだわる事でまろやかな口当たりと、飲み飽きることのない爽やかな旨み、軽快なあと口のキレを備えているとのことです。

 次回は、「幻」と「龍勢」に出会うために、竹原市に足を延ばそうと思います。

 尚、2019年(令和元年5月)文化庁認定の日本遺産「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間〜北前船寄港地・船主集落〜」 に竹原市が、新たな構成自治体として,追加認定されています。 

 竹原市を後にし、広島のホテルに着いた頃には、日が暮れていました。
 ホテルに車をおき、私が30代の頃に当時の広島の営業所長が連れて行ってくれた居酒屋へ久しぶりに訪ねてみました。四国の営業所の所長に初めて就任し、本社との問題、部下への対応、取引先との付き合い方など、プレーヤーとマネージャーのはざまで苦悩していた頃に、先輩の広島所長は話を聞いてくださいました。私の親指の太さ位の小指を持つガタイの良さとまゆの太さ、「ガハハ」と笑うと臼の様な前歯をむき出しにして、しわくちゃの顔になるイカした先輩でした。広島に来ると、その先輩が話していた「〜じゃけ。」という広島弁が、私の心を和ませます。

 店の大将と奥さんは、私を覚えていてくださり、楽しいひと時を過ごしました。
 この居酒屋さんは、お客さん同士の距離感が近く、隣の紳士は広島の有名自動車メーカーの管理部門の方、反対側の若者は折り紙作家さんと若いサラリーマン。飲むほどに酔うほどに仕事や人や町、会社や社会についてなど六十の親父と話してくれました。「広島も好きな街じゃけ〜。」

「瀬戸内ひろしま、宝しま」
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「瀬戸内」をひろしまの観光イメージの起点にし、「瀬戸内」と「ひろしま」の地名を合体させ 広島には未知の魅力的な観光資源「宝」がたくさんあることを打ち出すという2012年のキャンペーンのロゴです。

 広島市は中四国最大の都市です。
 でも、東北の仙台や九州の福岡などのように、あまり強い主張は感じられない都市です。私は、瀬戸内海に面しているからではないかと感じています。
 瀬戸内海は淡路島と中国地方と四国に囲まれた、温暖で穏やかな美しい海です。特に春の夕暮れ、西に陽が沈む一瞬、静かなさざ波が黄金色に輝き、そこに瀬戸内の島々が浮かびあがります。その空間がキラキラと金色に包まれる景色となり。北海道や東北、関東の海や日本海とはまたちがった景色です。

 広島を訪ねるときには、もちろん、忘れてはいけない人類の不幸な出来事、原爆の事を考え、世界の平和を考えてください。そしてそこから、人類には、国には、街には、私たちには何が必要なのか・・・。私は、隣の人との会話、やさしさ、愛、寛容が導き出されると思っています。そんなことを考えたり、現代の街やお好み焼きや牡蠣やお酒を楽しみながら歩く広島。

 瀬戸内海の風景もあり、優しい旅になります。

「瀬戸内ブランドマーク」
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瀬戸内海にある大小700以上の島々「多島美」と呼ばれる景色と温暖な気候、穏やかな海をモチーフにした、瀬戸内を象徴するブランドマークのバッジです。残念ながら、マグネットタイプですが・・・。

 「せとうち観光推進機構」
 2013年に瀬戸内を囲む7県(兵庫県・岡山県・広島県・山口県・徳島県・香川県・愛媛県)が合同して瀬戸内全体の観光ブランド化を推進するための「瀬戸内ブランド推進連合」が結成され、瀬戸内全体での観光マーケティング・プロダクト開発を推進してきました。現在では、「せとうちDMO」として効果的な情報発信・プロモーションで観光地域づくりを推進しています。

出典、参考文献・HP
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
中尾醸造株式会社HP
藤井酒造株式会社HP
竹原市HP
せとうちDMO HP
広島県HP、広島市HP

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4月11日の福山市は花の盛りでした。
市役所前の噴水にある桜は、今を盛りに咲いていました。
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市役所の方から伺ったのですが、福山の桜の名所はやはり福山城だそうです。
 この桜は、福山城が1873年(明治6年)の廃城令により廃城となり、ほとんどの施設は民間に払い下げられ、二之丸に建てられた福山製紙株式会社の創業者田中八九郎氏の別荘に1915年(大正4年)に桜が植えられたのが始まりの様です。
 外堀であった、現在の福山駅のある城の南側も埋められ、山陽鉄道の線路が敷設され、1914年(大正3年)に両備軽便鉄道駅舎(両備福山駅)が建設されました。
 いまのJR福山駅から下車せずに桜が楽しめるのは、こんないきさつがあったのですね。
 その後も福山城は、広島県や当時の福山町、地元有志の間で活性化策を講じますが、補修や管理費用などの問題から区画の随時売却がなされ、宅地や農地などに転用されていきますが、1931年(昭和6年)天守、1933年(昭和8年)伏見櫓、筋鉄御門、御湯殿が国宝に指定されます。
 1936年(昭和11年)には本丸が史跡に指定され、福山城の文化的価値が評価されたのです。しかし、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)8月8日、福山大空襲により城下に残る多くの文化財、天守、御湯殿、涼櫓は焼失しました。 
 その後1966年(昭和41年)市制50周年事業として天守閣と御湯殿、月見櫓が復元され、1988年(昭和63年)頃から、「文化ゾーン」として三の丸西側は、ふくやま美術館や広島県立歴史博物館が建てられました。
 2006年(平成18年)2月13日には、日本100名城(71番)に選定されています。

 2019年(令和元年)は、水野勝成 初代藩主 入封400年
 2022年(令和4年)は、福山城築城400年 です。
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城のあるまち 福のまち
 「福山城築城400年を契機として、先人の歩みや大切にしてきた思いを、あらためて振り返り、市民の心を一つにする機会とします。さらに、福山城をはじめ、市全体の歴史・文化資源等の価値を再認識し、磨き上げ、その魅力を市内外に発信することで、「城があるまち福山」を市民全体の誇りとします。」
 として、福山市では福山城築城400年記念事業実行委員会が中心になってプロジェクトを推進されています。

 初代福山藩主の水野勝成ですが、名将言行録に「倫魁不羈」、常山紀談には「勝成あら者にて人を物ともせず」 と書かれています。
 戦国時代末期だからこそ現れたともいえる、とても面白く有能な男です。

 元々、水野家は尾張春日井郡水野郷の小豪族でしたが、勝成の祖父 水野忠政の代には尾張知多郡の緒川城から三河国刈谷の刈谷城の二つの拠点を有していました。尾張の織田信秀の西三河侵攻に協力しながら、三河岡崎の松平と縁戚関係を結ぶなど、尾張・三河では一定の勢力を持つ豪族であったようです。徳川家康の生母・於大の方(伝通院)は水野忠政の娘で、その弟で九男の水野忠重が勝成の父です。

 父の水野忠重は、当主である異母兄・水野信元に仕え、信元が織田信長に属したので、信長の陪臣となります。
 1561年(永禄4年)兄弟不和により兄信元から離れ、三河岡崎城の松平元康(徳川家康)の傘下に入り、1563年(永禄6年)から翌年にかけて、家康が最も苦労したといわれる三河一向一揆の鎮圧で戦功をあげ、1570年(元亀元年)小谷城の戦い、姉川の戦いでも戦功がありました。
 特に、1573年(元亀3年)12月22日、三方ヶ原の戦いでは、その武功により、家康から特別に兜と鎧を賜っています。
 (家康の影武者を務めた為ではないか、との説もあります。)

 1575年(天正3年)水野家当主である兄・水野信元が佐久間信盛の讒言により、信長から武田氏との内通の嫌疑をかけられます。
 信元は家康を頼り岡崎へ逃亡しましたが、家康は信元親子を自害させています。
 (この頃の家康は、信長の命令に逆らえず、後に同様の疑いを掛けられた嫡男や妻さえ助けられなかったのです。)
 しかし、1580年(天正8年)兄・信元の冤罪が明らかになり、信長は佐久間信盛を追放し、忠重を招いて水野家を継がせ刈谷城を与えています。以降、水野家当主となったことで忠重は信長の家臣となり、織田信忠の軍団に組み込まれたようです。

 讒言により自害した水野信元は、1562年(永禄5年)の信長と家康による清洲同盟の仲介役であり、尾張と三河の間で隠然たる勢力と影響力を持った人物でした。
 家康が大敗した三方ヶ原の戦いでは援軍として参陣し、敗走した家康に代わり指揮をとり、夜の浜松城に松明をたき鉄砲隊を配し、武田軍を威嚇をして窮地を脱しています。 
 将軍・足利義昭の『永禄六年諸役人附』には、信元が「外様衆」として登録されており、幕府直臣であった事、 1568年(永禄11年)の信長の上洛に従軍し、その際に信長とは別に朝廷に対して2千疋の献金を行っていることなど独自の動きもしていたようです。
 これらのことも有り、信長と家康が、武田弱体後に不要となった信元を意図的に排除しようと考えたのではないかと疑う説もある程です。
 信長に属した時に信元は、信長の考え方に触れ、危険を感じ家の存続の為に不和説を流し、弟たちを家康のもとへ送ったのでは?と深読みをしたくなりますね。

 現代でも、そんなリーダーはいます。自分より能力の高い部下をとことん働かせて、その功は自分に帰すと誇り、やがて、その部下に人望や力がついてくると排除しようと動くリーダー、そんな組織は、やがてリーダーが自分中心でなければならず、異論を許さないために、そのリーダーの能力が限界となり、それ以上の仕事ができなくなっていきます。
 すると組織防衛力が働き、リーダー自身がいずれ排除されるか、組織自体が腐っていくことになります。
 なんだか、信長の最後が見えてきますね。
 家康が幸いなのは、自分の前に信長・秀吉がおり、その失敗例を見る事が出来た事だと私は考えています。

 話を戻します。
 1581年(天正9年)水野忠重は信忠の命により派遣され、家康の高天神城攻めに加わり(攻城軍の目付or軍監として?)、信長に詳細を報告しています。
 1582年(天正10年)2月、信忠の甲州征伐に従軍し武田滅亡後の凱旋途中、三河池鯉鮒にて信長を饗応しています。
 同年6月の本能寺の変では、信忠に従い妙覚寺・二条御新造にいましたが、難を逃れて京都を脱出し、刈谷城に戻ります。 
 その後、織田信雄に仕え小牧・長久手の戦いに参戦し秀吉と戦いますが、信雄が羽柴秀吉と講和してからは秀吉の家臣となり、秀吉の死後は徳川家康に従い、関ヶ原の戦い直前に堀尾吉晴、加賀井重望らと宴席を共にしていたとき、些細なことから口論となり加賀井重望に殺害されます。 
 
 忠重の跡を継いだのが、初代備後福山藩10万石藩主の水野勝成です。
 勝成は、父の跡を継いだというより、自らの力で10万石を勝ち取った男と言えます。
 
 1581年(天正9年)第二次高天神城の戦いに父忠重と共に参加し、16歳にして首級をあげ、信長から感状を与えられます。
 1582年(天正10年)、武田勝頼を攻撃した天目山の戦いに参戦します。
 同年6月の本能寺の変では、父忠重とともに京都東山の東福寺山林に三日間身を隠し、東福寺塔頭霊源院に匿われ、京都脱出後、京極高次の居城の大津城に入り、京極勢の助力で、刈谷城へ戻ります。 
 同年、勝成は父の許を離れ徳川家康の下で天正壬午の乱に参加し、1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦いでは織田信雄の与力である父忠重に従い星崎城を攻略します。ここで勝成は自ら先頭を切って城に突入しますが、眼痛で兜を着用せず鉢巻のみであったのを忠重が見とがめ叱責すると、勝成は反発し「兜がないことで頭を割られても、時の運である。一番首を取るか、自分が取られるか見ているがよい」と、暇乞いを申し出て馬に乗り、そのまま敵の陣に突入し一番首を取って家康に持参します。
 しかし、父からは「先駆けは軍法に背く者、許さぬ」と怒りを買いました。 
 その後、秀吉と家康・織田信雄との戦いの陣中において、讒言有りとして父の寵臣富永半兵衛を切り出奔しました。

 以来14年間、父忠重から奉公構(他家への仕官禁止)とされ、放浪の旅に出ます。

 清州、美濃、尾張、転々とし、京都では南禅寺の山門に寝泊まりし、無頼の徒と交わり、喧嘩をし人を切ります。
 織田信雄の肝いりで、仙石秀久のもとで四国征伐に加わり、秀吉から摂津国豊島郡700石の知行を授かりますが、これも捨て逃亡しています。秀吉は是に怒り、刺客を放ったという伝説もあるそうです。
 家臣から見限られた主人は、現代で考えると、社員から無能の烙印を押された社長のようなものかもしれません。私も現役の頃、それに近いような話を聞いたことがあり、相当深い恨みを買うようですね。まして相手が天下人の秀吉ですから、すさまじい怒りだったと思います。逆に水野勝成の度胸に驚きます。

 その後、九州にわたり1587年(天正15年)に肥後で佐々成政、豊前で黒田官兵衛(黒田孝高)に仕え、武功を上げます。そして、息子の黒田長政が豊臣秀吉に拝謁するため海路大坂に向かう随伴途中、備後国鞆の浦で下船し出奔します。
 長政に操船の手伝いを命じられためとも、過去に秀吉の怒りを買っていたので大坂行きを嫌ったともいわれますが、後に後藤又兵衛基次も長政の代で黒田家を出奔しているので、これはむしろ黒田長政の器の小ささをあらわすエピソードになるかもしれません。
 (器の大小は相対的なものなので、長政の器が小さいのではなく、勝成や又兵衛の器が大きかったとも言えますね。)
 1588年(天正16年)には小西行長に千石で仕官し、その後、加藤清正、立花宗茂に仕官するも間もなく出奔します。
 勝成は各地を流離い、虚無僧や後に福山藩の名産として贈り物とされた姫谷焼の職人にもなっていたようです。
 最終的に備中国成羽の国人・三村親成の食客となり、そこでの世話役の娘との間に子供をもうけます。この娘が後年室となる於登久で、この時の子が後に福山藩第2代藩主となる水野勝俊です。 
 
 思うに、この頃に九州を放浪し、庶民の暮らしを見聞し、人と出会った事が彼の人間性を豊かにしていったのでしょう。多くの優れた大名や家臣たちの知遇を得たこと、為政者としての考え方や哲学も学んだのではないでしょうか。とくに黒田官兵衛、立花宗茂、加藤清正などのなだたる戦上手の指揮のもとで戦ったことが、彼の戦場での駆け引きに磨きをかけたと思われます。逆にこれら錚々たる武将に認められ、仕官できた水野勝成は、どれほどの男だったのか・・・。

 1599年(慶長4年)勝成は、家康の要請を受けた山岡景友の仲介により父・忠重と15年ぶりに和解し、1600年(慶長5年)会津征伐のため下野小山に宿陣していたところ、父殺害の知らせを受け家督を相続します。
 1600年10月21日(慶長5年9月15日)の関ヶ原の戦いでは、家康から主戦場に出ることは許されず、曽根城で島津軍を撃退したり、戦後大垣城こもる敗残兵を九州人脈を生かし、内通させ開城させるなどしました。
 翌1601年(慶長6年)明智光秀が名乗り避けられていた従五位下日向守に叙任されますが、勝成はむしろ喜び、以降は「鬼日向」と渾名されます。
 1608年(慶長13年)勝成は備中国成羽から妻子を呼び寄せ、嫡男勝俊は徳川秀忠に仕えることになります。 

 史上、家康はその時代や立地点から戦国時代の名将に囲まれていました。同時代には上杉謙信、武田信玄、北条氏康、今川義元、織田信長、真田正幸がいます。また家臣にも徳川四天王と言われる酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政や大久保忠世など歴戦の武将がいました。幼少時の人質生活から青年時の今川・織田幕下での働き、ついには日本国内最大の会戦である関ケ原に勝利したことから、多くの人は家康を戦上手と考えているかもしれません。
 しかし、私は家康は戦下手と思っています。個人的身体からくる戦闘能力、実戦で部隊を指揮する戦術、戦争を仕掛ける戦略など、それぞれに於いて彼自身がどれほどの能力を持っていたのか、はなはだ疑問に思っています。
 家康が若き日に行った数々の戦いの多くは、老臣たちや酒井忠次や大久保忠世などのリードが功を奏しています。
 生涯最大の敗北であった信玄との三方ヶ原での戦では、信玄の誘いに乗ってしまい開戦するも、多くの家臣の犠牲があり、水野信元の助力で窮地を脱しています。 
 小牧長久手では四天王の活躍、秀吉死後の政権簒奪戦略には本田正信の謀略があり、関ケ原ではその陣立てなどから、四つ相撲で戦えば負けていたかもしれず、大阪城攻城戦も真田信繁に自身の本陣まで攻め込まれているのです。
 
 (私は、ここで家康は打たれ、大阪堺市の南宗寺に葬られたと信じています。何故なら南宗寺には家康の墓碑があり、寺の記録に1623年(元和9年)7月10日に徳川秀忠、8月18日に家光が相次いで同寺を訪れた記録が残っているのです。家康が亡くなり、それを秘すために影武者が活躍する、隆 慶一郎氏の『影武者徳川家康』は私の好きな小説に一つです。)

 では、なぜそんな家康が天下人となり徳川幕府の開くことができたのでしょうか?
 私が思うに、答えは人です。
 家康の家臣は、主君を人質に取られ、今川家の属国となり辛酸をなめました。その苦労した家臣の中から有能な人材が育ちます。そして、家康が成長と共に人質生活で身に着けた、人の心に敏感になる感性が、家臣たちの心を打ったのです。
 家康が優れていたとすれば、自分の能力を正しく自分で評価していた所で、できないことをできる有能な部下に任せた事でしょう。
 信長や秀吉と家康が大きく異なる所は、使える部下を自分で見極め登用して使うのではなく、できる部下を家臣の推挙で探し、任せざる得なかった凡人であるところではないでしょうか。
 (家康の人を見る目に関しては、勝成の扱いやその他でも疑問のところが多く、重臣や譜代の家臣たちが自分を磨き有能であった事、その家臣たちの推挙が的を得ていた事が幸いしていたのだと思っているのですが・・・。)
 
 関ケ原での勝成は、戦いの主戦場ではなく後方の備えで、さしたる恩賞は与えられませんでしたが、戦後、旧主であった小西行長が大坂・堺を引き回しの際に、用意していた編笠を被せてあげたというエピソードを残しています。

 1614年(慶長19年)勝成は、大坂冬の陣では嫡子勝俊を連れ参加します。
 夏の陣では大和口方面の先鋒大将に指名されますが、家康は勝成に「将であるから昔のように自ら先頭に立って戦ってはならない」と命じています。
 (ここに私は、家康の欠点を見ます。先鋒大将に勝成を任命した時点で全てを任せるべきで、余計な制約は将の手足を縛るものです。)
 しかしさすがは勝成、京都を発ち、奈良に進み郡山城の戦いで大野治房の奈良焼討ちを阻止します。そして道明寺の戦い(河内国志紀郡道明寺村)では、前夜のうちに単騎で小松山を登り、地形を確認し作戦を立て、家康の命を無視し一番槍をあげ、後藤基次の部隊を壊滅させます。
 (もし、勝成が家康の指示に従っていたら、戦巧者の後藤基次を倒せたでしょうか?若き日に黒田家で競い、その実力を知る基次であるだけに、兵の勢いと戦術眼から勝成が先頭に立ったと私は思う次第です。)
 さらに誉田村に兵を進め、渡辺糺に深手を負わせ、薄田兼相は勝成の家臣に討ち取られたました。この時、真田信繁、毛利勝永、明石全登、大野治長の後詰の部隊が進出してきたので、勝成は戦端を開くべく伊達政宗との連携を図ろうとしましたが、伊達隊の死傷者の多さと弾薬不足から拒絶されかなわず、睨み合いの状態の後、豊臣方が撤退しました。
 ここで開戦し、真田信繁を打ち取っていたら、翌日の天王寺口の戦いはなく、家康も打ち取られることがなかったと思います。
 もちろん、徳川の歴史では、家康の旗本隊まで攻め込む真田信繁へ水野隊が駆けつけ、越前松平隊ととも茶臼山を落とし家康は無事でした。後方を遮断された真田隊は足止めされ、そこに勝成は愛染堂勝鬘院の西側から攻め寄せ、真田隊はついに壊滅しました。続く、明石全登の軍勢も、勝成が自ら槍を手に先陣に立ってこれを撃退し、大坂城桜門に一番旗を立てました。 

 大坂落城後、これほどの活躍にもかかわらず、家康の命に背いたとして大和郡山にわずか3万石加増の6万石で転封されます。
・・・ (やはり、これは家康を救う事が出来なかったためではと私は思うのですが・・・。)

 1619年(元和5年)福島正則の改易に伴い、備中西南部と備後南部の福山10万石を与えられ初代藩主となります。若き頃に諸国を流浪し、貧しさや苦労を知り、名だたる武将たちの為政者としての領国の治め方を目の当たりにした水野勝成は、上水道整備や新田開発、治水工事、殖産興業に努め、民衆の気持ちのわかる領主として慕われたそうです。

 勝成の死後、勝俊、勝貞、勝種と続きましたが、5代藩主水野勝岑の早世により元禄11年(1698年)無嗣除封となりました。
 
 その後元禄13年(1700年)に、出羽国山形藩より松平忠雅が入封しますが、宝永7年(1710年)に再び伊勢国桑名藩に移封させられ、同年、阿部正邦が下野国宇都宮藩より入封し幕末まで続きます。

 さて、「倫魁不羈:りんかいふき」(あまりに凄すぎて、誰にも縛ることが出来ない)といわれた水野勝成ですが、若き日の諸国への流浪や家康の命に従わなかったことがこのような評価になったのだと思いますが、凡人家康(皆さんは異論がおありかと思いますが・・・。)では、有能な水野勝成を使いこなせなかったというところが真実に近い所ではないでしょうか。

 むしろ、私は孫子の言葉を家康に送りたいと思います。
 将能而君不御者勝
 将の能にして君の御せざる者は勝つ
 将軍が有能で主君がそれに干渉しなければ勝つ

 そして水野勝成の立場では
 逆命利君
 命に逆らいて君を利する、之を忠と謂い
 主君に逆らっても、それが主君の為なら、真の忠義である

 福山には、水野勝成がいたのです。
 
出典、参考文献・HP
福山城築城400年記念事業公式サイト
福山市HP、刈谷市HP
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『孫子 謀攻編 五』
小説『影武者徳川家康』隆 慶一郎
『説苑劉向

 2019年12月15日のYahoo!ブログサービス終了に伴い、ブログをアメーバに移動します。以降は、アメーバ pins-kのブログ https://ameblo.jp/pins-k/ をご覧ください。

 4月11日の午後、倉敷市から浅口市へ
 浅口市では、JR西日本岡山支社の公式キャラクター「くまなく・たびにゃん」のピンバッジと出会いました。2匹は岡山のとある山で駅員さんに発見され、現在はJR西日本岡山支社で働き、吉備之国の魅力を「くまなく」探し、地域の方たちと一緒になって情報発信しているそうです。
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 岡山支社では、2016年春開催の「晴れの国おかやまデスティネーションキャンペーン」を契機に、「吉備之国くまなく旅し隊」を結成し、「ふるさとおこしプロジェクト」と「ふるさとの魅力発信」を展開し、「くまなく・たびにゃん」をデザインしたラッピング列車を運行していました。

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 2018年10月30日からは、地元サッカーチームでJ2のファジアーノ岡山のキャラクター「ファジ丸」と「くまなく・たびにゃん」の新しいラッピングトレインが2022年1月頃まで運航予定で走っています。
 ラッピング対象列車は電車1編成(115系3両)で、運行区間は山陽線(姫路〜岡山〜三原)、伯備線(岡山〜新見)、赤穂線(岡山〜播州赤穂)、瀬戸大橋線(岡山〜児島〜琴平)、宇野みなと線(岡山〜宇野)、福塩線(福山〜府中)です。

 また浅口市は、天体観測に重要な「晴天率の高さ」「大気の安定」「星空の美しさ」を誇り、「天文台のまち、あさくち。」としてPRしています。
 (中国地方へ:その1)で明石市を紹介した時に、明石市は日本標準時の基準となる東経135度子午線上のまちで、天文台も有名と記し、兵庫県には明石市立天文科学館あることをそれとなくおつたえしましたが、岡山県にも、浅口市鴨方町(竹林寺山:標高約350mに隣接)に岡山天文博物館があります。
 1960年、当時は世界第7位の口径を誇る国内最大級の規模を誇る188cm反射望遠鏡で、東京大学東京天文台の「東洋一の望遠鏡」として設置され、1988年、国立天文台に改組、2018年には、浅口市が国立天文台・東京工業大学と協定を結び、現在は独自に観光、教育目的で運営しています。
 同じ2018年に京都大学岡山天文台「せいめい望遠鏡」が完成しています。こちらは、東アジア最大の大きさと世界一の技術を兼ね備えた3.8メートル反射望遠鏡で、3メートル以上の大型望遠鏡の空白地帯だった東アジアにできたことから、3メートル以上の大型望遠鏡の空白地帯だった東アジアにできたことから、24時間、各国間のリレー形式での観測が可能になり、超新星などの観測において活躍が期待されています。
 でも、なぜ名前が「せいめい望遠鏡」なのでしょうか?
 私が思うに浅口市には、平安時代中期に活躍した陰陽師、安倍晴明や蘆屋道満の墓と言われるものがあり、安倍晴明が占いの為の天文観測のために居を構えていたという伝説が、浅口市の北に隣接する笠岡市と矢掛町の境の阿部山にある事に関係があるのではと考えてたら、「名前は全国から募集し、岡山県内でも天体観測をしたと伝えられる平安時代の陰陽師・安倍晴明にあやかり、「地球外生命の探査につながる成果を」の意味も込めた。」の記事を2018年4月19日朝日新聞デジタルでみつけました。
 
 安倍晴明は、平安時代中期に活躍した陰陽師で、賀茂忠行・保憲父子に陰陽道を学び、天文、占、陰陽道に通じ、宮中の陰陽寮を統括した土御門家の祖といわれています。数年前には、夢枕獏「陰陽師」や野村萬斎主演の映画、マンガなどで有名になりましたね。
 彼の墓は、かつて天龍寺塔頭の寿寧院境内にあったといわれ、現在は晴明神社の飛び地境内(京都市右京区嵯峨天龍寺角倉町)の安倍晴明嵯峨墓所が有名です。
 浅口市だけでなく全国に安倍晴明の墓や碑がありますが、これは、在野の陰陽師、つまり民間の祈祷師などが権威付けの為に安倍晴明の名を利用し、晴明ゆかりの地を作っていったと考えられているようです。
 晴明ゆかりの地としては、彼が活躍した京都、堀川通一条上ル(京都市上京区晴明町806)の晴明の屋敷跡に安晴明神社があります。
 大阪で生まれ育った私には、晴明の生誕の地といわれている大阪阿倍野の安倍晴明神社や晴明の母「葛の葉」と父「安倍保名」がであった信太の森の葛葉稲荷神社などが、訪れた事もありなじみ深いです。特に「恋しくば尋ねきてみよ和泉なる信田の森のうらみ葛の葉」の歌は、狐の化身と言われる葛の葉の、夫保名と子である晴明への深い愛情をあらわしており、歌舞伎や文楽の演目にもなっている伝説です。

 そして浅口市には、丸本酒造があります。
 古くから「備中杜氏」はその技術力の高さで名を馳せ、岡山は酒造りの盛んな地域でもあります。1867年(慶応3年)から酒造りを続けてきた丸本酒造は、自社栽培米での酒造りにチャレンジされています。酒造りには、技術が80%、原料米が20%の割合と考えられていますが、その20%にこだわることで、何かが生まれると考え、山田錦と朝日米、2種類の酒造好適米を栽培し、いずれは全て自社栽培米の酒にすることを目標とされているそうです。銘柄は「竹林」と「賀茂緑」。
 今回は、急ぎ足の旅だったので訪れる事は出来なかったのですが、2003年(平成15年) 12月1日に岡山県の酒蔵で初めて、登録有形文化財とされた店や蔵など、最近は日本酒に魅せられ、また建物好きの私としては次回はぜひ訪れたいと考えてる酒蔵です。

出典、参考文献・HP
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
JR西日本岡山支社HP、浅口市HP、丸本酒造HP、
安倍晴明神社 大阪阿倍野区HP
晴明神社 京都HP
京都大学岡山天文台HP

 

 

 
 


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