今回は考古学。ブログ設立はこれがメインになるはずだったが、全く違う方向に
写真はすべて筆者撮影。左端に写っているのはレンズのヒビ。
2016年より世界遺産に登録された端島(通称軍艦島)の第3竪坑跡の保存における調査に従事。
12月から1月まで行ったが、海上は荒れ船がなかなかでない日が多かった。特に端島では、観光船の接舷以外に特別の申請を出して許可された船舶は航行が許されていない。また、特別な申請を出して許可されているのは漁船1隻のみ。つまり、観光船で調査に向かうか、漁船で調査に向かうか選択迫られる。
当然ながら、観光船は観光客しか乗れないので、漁船で上陸。漁船は島の小学校に接岸する。舫を固定できないので、船が揺れる中を桟橋に飛び降りるが、桟橋が狭いので、下手したら海に落ちそうになる。測量機器(光波、スタッフ、バカボー)やカメラ、掘削道具(てみ、ガリ)で後ろのめりになるので怖い。
海が荒れるので、いつもびしょぬれ。海風で寒い。保存地区なので火もたけない。朝の4時に出発するので着くのはまだ6時。暗くて調査もできないので、ランタンで明かりをつけて食事をとり、調査に向けての準備をする。
夜明けはだいだい7時30分ごろ。
8時ごろから掘削と測量等の調査を開始する。昼休みに周囲を探索するのが唯一の楽しみ。秘密基地に来た感覚になる。いつも船の都合なので、帰りは15時だったり16時だったりまちまち。こうして1日の調査は終了し翌日また同じ繰り返しとなる。
端島は、長崎港から南西約19㎞の沖合で南北約480m、東西約160mを有する。1810年に地元漁民により石炭が表採され売買されたのがきっかけで、1890年に三菱が所有権を有すると本格的な採炭を開始した。以降閉山するまで日本のエネルギー事情を支えた。
小さな岩礁だったが、拡張工事や埋め立てにより面積は年々拡張されたうえ、アパートは鉄筋で高層化され、島の周囲を防潮壁で取り囲んだ。その姿は当時就役した軍艦「土佐」にちなんで軍艦島といわれるようになり、いつしか定着した。
1960年に島内人口が5,300人近くとなり、その人口密度は東京の約10倍と、非常に活気溢れる島となった。しかし、石炭から石油へエネルギー政策転換から1974年1月に炭坑が閉山、炭坑の他に産業がない島からは同年4月までに全島民が退去し、軍艦島は閉山からわずか3カ月の間に無人島となった。
しかし、慌てて離島したことで、生活感そのままの状態を残すこととなり、2019年現在でも社宅内部には一升瓶が残っていたり、三輪車があったり、テレビが置いてあったり、茶碗はふせたままでまるで使い主が今にも帰ってくる様相だ。また、学校のプリントから当時の給与明細といった書類もそのまま残されているが、シロアリが大量に発生していてボロボロになっているものも少なくない。また、小学校の横に存在する病院はレントゲン機器などの医療器具がそのままだったが、自分はわからなかったので、奥まで入ってしまった。
ちなみに、端島には墓地はないので、隣の島が墓地になっていた。
そんな中、「軍艦島を世界遺産にする会」が2003年に発足、2009年1月には福岡県の三池炭坑や同じ長崎県内の旧グラバー住宅などとともに「九州・山口の近代化産業遺産群」の構成遺産の1つとしてユネスコ世界遺産暫定リストの国内候補として記載されたことから、観光地としての活用が期待され始めた。
地獄坂 タイムスリップした気分になる不思議な場所だ。
最下層はいつも異臭で暗く、24時間電気が必要だったが、最上階は比較的住みやすかったそうだ。
調査対象地。第3竪坑跡 基礎の崩落が激しいので足組で固定して地中に埋まった基礎構造を見るために人力で掘削
掘削後、土層断面図、基礎の図面を手書きで作成し、埋め戻しをして今後の保存処理に向って更なる調査を進めていく