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両毛線の旅
GWは混雑を避け、栃木と群馬を跨ぐ両毛線、ローカル線途中下車の旅に。
先ずは栃木県足利市にある 史跡足利学校に行ってみました。
足利学校の庫裡は、竃(かまど)のある土間、板敷の台所、畳敷きの四部屋へとつづき、その奥には湯殿などがあり、庠主や学生の日常生活の場として使われていました。
腕用ポンプ
上杉憲実像
足利尊氏像
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栃木
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両毛線の旅
GWは混雑を避け、栃木と群馬を跨ぐ両毛線、ローカル線途中下車の旅に。
先ずは栃木県足利市にある 史跡足利学校に行ってみました。
足利学校の教育の中心は儒学でしたが、易学、兵学、医学も教えました。
戦国時代には、足利学校の出身者が実践的な学問を身に付け、戦国武将に仕えるということがしばしばあったといわれています。
学費は無料、学生は入学すると同時に僧籍に入りました。
学寮はなく、近在の民家に寄宿し、学校の敷地内で自分たちが食べるための菜園を営んでいました。構内には、菜園の他に薬草園も作られていました。
享保年間(1530年頃)には火災に逢い一時衰退しましたが、第7代庠主、九華が北条氏政の保護を受けて足利学校を再興し、学生数は3000人と記録される盛況を迎えます。
この頃の足利学校の様子を、キリスト教の宣教師フランシスコ・ザビエルは
「日本国中最も大にして最も有名な坂東のアカデミー(坂東の大学)」
と記し、足利学校は広く海外までその名が伝えられました。
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両毛線の旅
GWは混雑を避け、栃木と群馬を跨ぐ両毛線、ローカル線途中下車の旅に。
先ずは栃木県足利市にある 史跡足利学校に行ってみました。 足利学校には、方丈の北と南にそれぞれ書院庭園の築山泉水の庭があります。
足利学校・南庭園
書院庭園の築山泉水とは、この当時一般に行われていた庭園の造りで、湧水をたたえて池の入り組んだ汀と巨大な立石、それにかぶさる松が特色です。
3つの峰を持つ築山は比較的高く、池の水面から3メートルほどもあり、池に映えてよく調和しています。
足利学校・北庭園
北庭園は、奥の庭として南庭よりも格が高く、大きく、方丈、書院から鑑賞できるように造られています。
形式は南庭園と同じく築山泉水庭で、池は湧水をたくわえ、水際は亀の様に見え、中島を置きた華麗なデザインとなっています。
築山は4つの峰で池を囲み、一番高い峰で水面から3メートルほどの高さがあります。
かつては鑁阿寺の森や遠くの両崖山の峰が築山超しの借景となっていたと思われます。
ナンバンハゼ |
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両毛線の旅
GWは混雑を避け、栃木と群馬を跨ぐ両毛線、ローカル線途中下車の旅に。
先ずは栃木県足利市にある 史跡足利学校に行ってみました。 上杉 憲実(うえすぎ のりざね) 室町時代中期の武将、守護大名。
関東管領を務め、足利学校や金沢文庫を再興したことで知られています。憲実は学問を好んだ人物として有名で、多くの関東人の啓蒙に励んだおかげで、関東の人間の教育水準は飛躍的に上昇、鎌倉幕府が滅んだ後荒廃していた関東は一気に文明的な地域となりました。
憲実は関東管領として鎌倉公方足利持氏を補佐すると同時に教育係でもありました。しかし、反骨精神の強い持氏は何かと憲実に反発し、素行は荒く、ついには後に6代将軍となる足利義教と真っ向から対立します。
将軍義教は、持氏の反抗に対し、教育係、監視役である憲実の責任を厳しく糾弾しました。そのため、憲実はやむを得ず主人持氏に刃を向けることとなり、ここに永享の乱が勃発します。
結果、持氏は滅亡し、憲実は主人殺しの汚名を着ることとなりました。憲実は世を儚んだのか、一時は出家して隠遁しようとしました。 しかし、結城氏朝が持氏の遺子を担ぎ出して、またしても将軍義教に反旗を翻したので(結城合戦)将軍から鎮圧の命令が下り、憲実は、無理矢理前線に引きずり出されたあげく、またも主人殺しに荷担する事になってしまいます。
心身ともに疲弊した憲実は、隠居して各地を放浪し、最後は周防の大内氏の世話になり、文正元年(1466年)長門大寧寺で、淋しく生涯を閉じました。
享年57歳でした。
足利学校には、当時の教具・教材や貴重な文献、書籍などが数多く残されています。
宥座(ゆうざ)の器 孔子が魯の国の桓公廟に行くと、斜めに吊るされた金属の器がありました。役人に問うと「座右の戒めをなす器である」と言います。
孔子はそれを聞くと
「宥座の器は、水が空の時は傾き、ちょうど良い時は真っ直ぐ立ち、水をいっぱい入れた時はひっくり返ってしまうと聞いている。」と述べました。
宥座(ゆうざ)の器
水を入れてみると果たしてその通りだったので、孔子は「いっぱいに満ちて覆らないものはない」と、慢心を戒めました。
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GWは混雑を避け、栃木と群馬を跨ぐ両毛線、ローカル線途中下車の旅に。
先ずは栃木県足利市にある 史跡足利学校に行ってみました。
足利学校 下野国足利庄(現・栃木県足利市)にあった、平安時代初期 若しくは鎌倉時代に創設されたと伝えられる中世の高等教育機関で、室町時代から戦国時代にかけて、関東における事実上の最高学府でありました。
足利学校の成立をめぐる論争
足利学校の成立や、初期の体制については記録が残っておらず、しばしば論争になりました。 『鎌倉大草紙』の記述による国学起源説では、足利学校は元来下野国の国学であり、都賀郡の国府に併設されていたが、足利家が将軍家となったので、1467年(応仁元年)に所縁の地である足利市昌平町の現在地に移転したとされています。
また、新しい国学起源説では、創立は8世紀であり、下毛野国(のちの下野国)が作られた際、現在の足利市伊勢南町付近に置かれた国府に併設して国学がおかれ、これが足利学校の由来であるとされています。
有力視されている説では、『鎌倉大草紙』に基づき、平安時代の839年(承和6年)または842年(承和9年)ごろ、小野篁(おののたかむら)によって創設されたというものがあります。
この他、12世紀末に足利義兼によって設立されたという説がありますが、この説は、『高野春秋編年輯録』巻七に、12世紀末の文治年間ごろ、足利義兼が足利に寺(現在の鑁阿寺)と学校を持っていた、という記述があることを根拠にしています。
ただし、現存するにもかかわらず、鑁阿寺側には該当する記録が残っていません。
それでは、室町時代の最高学府、足利学校の中へ入ってみましょう。
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