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最近また小澤さんの本を読んでいます。
スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」出版社: 朝日新聞社 (2006/2/7)
小澤さんが大使館に居たため、環境政策にかかる国際的政治背景がきちんと書かれており、「そうだったのか」の連続です。
それで、最近最も印象的だったのがSD(Sustainable Development)概念の発祥とも言えるブルントラント委員会への最大の資金拠出国が日本だったということです。拠出額は総額の三分の一に相当する175万ドル。日本政府は1982年に国連に環境特別委員会を設置することを提案し、この提案に基づいてブルントラント委員会が設置されたわけです。ところが、ブルントラント委員会が1987年に公表した報告書“Our common future"で得られた結果を日本政府はまったく活用していない。「活用していない」という言い方は極めて官僚的ですね。いえ、もっと官僚的な配慮をするなら、こういうことすら書かないかもしれません。退官したからここまで書ける。本当は、「都合が悪かったから、なきものとして取り扱った」「国民には知らせなかった」かもしれないわけで。
こういうことは、日本政府のよくやるパターンですね。彼らは、難しいことは全て上のほうで処理してしまい、国民には結果だけを知らせるというビヘイビアがもう無意識に埋め込まれているので、こういうことが後々どういうことを招くかということが全く感知できないのではないくらい危機感覚が鈍くなってしまっているのだと推察致します。
それで、「は〜なるほど」と思った訳です。「持続可能な」とか、Sustainabilityという言葉を初めて耳にしたのは2004年、ラジオを通してでした。その頃「持続可能な」という日本語訳が「なんかおかしいな〜」「腑に落ちないな〜」と感じていたんですよね。。生まれつきの反骨精神の塊のようなワタシは「持続可能な」というヘンな日本語に込められた主流派の意図を感じて嫌悪感を抱いたのかもしれません。Sustainabilityという言葉もキライだった。だって、いかにも「現状維持」したい気持ちが満々に現れているじゃあないですか。今まで、メタメタに自然を搾取してきた輩が、今後も引き続き自然をあまり怒らせない程度に引き続きフリーライドしようとしているんじゃあないかと思ってね。申し訳程度に環境配慮をしながら本音はどんどん次の資源を獲得する算段を整えようとしている様をありありとイメージさせるワードですよね、これって。
ところが、小澤さんの説明を読んで、もともとこの“持続させたい”対象が「社会」だったんだとわかりました。スウェーデン的には。豊かな“社会”をそのままに、自然と共存しようという意味だったと。
日本に住んでると政治の腐敗があまりにも醜いので「持続」=引き続き権力の座に居座り続けたい・・・という特定グループによるメッセージであるように感じて来たんですね。だから非常に嫌悪していた。ただ考えるとちょっと悲しいですが、日本には「守りたい、大切にしたい」社会って広義に存在してますか?今の日本社会を守りたいですか?今のままじゃあ・・・ね。「持続」しなくて良くない?
しかも、スウェーデン的なsustainは「生態学的に」なんだよね。GDPの数字をホールドするとかでなく。
国土の生態系をホールドしようっていう政策に、日本政府はどんだけ予算を割いてるか?微々たるもんですよね。そういうところがダメかもね。プライオリテイ変えないと。
だからやっぱり「生態学」っていう学問を生まれたときから教えたほうがいいと思うんですよ。こどもには。その中にダイバーシティマネジメントも入るし、クロスカルチュラルトレーニングやらピースビルディングもきちんと教えていったほうがいい。そのように思います。
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