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冒険ダン吉なった男・森小弁については、これまでもいろんなところで紹介されている。 以下のエッセイは、8年ほど前に私が書いたもので、小弁の最後の子供がこの世を去った時の雑感をしたためたものである。 ========================== 『南海に生きる』ー 南海に残る大和魂 − 末永卓幸 11月の中旬、森六郎(モリ ロクロー)という日本名を名乗る80歳の現地老人が静かに息をひきとった。多くの親族に囲まれ安らかな旅立ちであった。死の数日前、寝たきりの彼を見舞った時、かれの意識はまったく正常そのものだった。自分の病状を、笑顔を見せながら私達夫婦に話してくれた。そして、自分の父の生涯をえがいた書物、 『“夢は赤道に” を読みました。』と、にっこり笑って教えてくれた。
1892年、今から遡ること112年前。
天祐丸という小さな機帆船が、チューク・モエン島の沖合いに静かに錨を下ろした。外国人宣教師がチュークに足を踏み入れてから、わずか8年後の事であった。日本人が初めてチュークに足を下ろした瞬間である。 彼の名は、森小弁(もり こべん)。土佐の藩士の息子で若干・22歳。当時発足したばかりの貿易会社の社員として、南洋に夢と希望を抱いての渡島であった。その後彼はチュークに根をおろし、50数年に亘る人生の闘いをこの南の島で繰りひろげ、その生涯を閉じる事となる。血を血で洗う民族闘争さなかのスペイン時代。 一・部族に身を置く小弁の身辺には、常に部族間闘争の波が押し寄せて来る。日本刀と鉄砲で武装した小弁は、原住民の先陣を切って部族間闘争に加わり、その勇名を馳せた。武器の略奪にあい惨殺された日本人の敵討ちにと、武闘集団を組織し、その部族に攻め入ったりもした。
迫害に苦しめられたドイツ時代。
小弁を中心にすでに小さな日本人社会がこのチュークにも根を下ろし始めた矢先、ドイツ官警の策略の下、全ての日本人がチュークから追放されという事件が勃発した。この困難にも小弁は智策を駆使しチュークに踏みとどまる。こうして、ヨーロッパ支配の激動の時代を命を賭して生き抜いた。
満を持して迎えた日本時代。
30年間に亘り日本軍政府とチュークの橋渡しとして大活躍をする。彼の本領発揮の時であり、彼の人生で最も光り輝いた時でもあった。勲章を肩に誇らしげに微笑む彼の写真は、今も森一族の家々の壁に掛かっている。男の人生で最も重要な50年間を、彼は南海の孤島・チュークに捧げた。まさに波乱万丈の人生であったと言える。太平洋戦争の終焉は彼の人生の最期でもあった。日本がトラックを去った終戦の年、奇しくも彼もこの世を去っていったのである。 チュークに上陸した7年後、小弁は現地人の娘・イザベルをめとった。
男6人、女5人、日本人の血を引く11人の男と女、小弁が血を分けた子供達である。 その最後の子供が、冒頭の老人・森六郎である。小弁の死から60数年、六郎の死をもって小弁の血を継ぐ直属の者達は、このチューク諸島から姿を消した。しかし、小弁の血を引く11人の子供達から派出していったこの一族は、今では優に3000人を超える。直属の父系一族だけでもすでに1000人を超えている。現在ではすでに5世〜6世の時代を迎えており、この森ファミリーを抜きにして、現在のチュークの社会は語れない。
港、空港は森一族で支配されており、ホテル、ストアー、会社など、ビジネスの多くも森一族の面々が幅を利かせている。政府の役人の中にも『モリ』の人達が数多く勤めており、チュークの社会でそれぞれが重要な地位を占めている。『政治には手を出すな。政治は現地人に任せろ。』という小弁の遺言で、これまで政治とは無縁だった森一族にも、少しずつ政治家を志す者達が現れてきた。たった1人の男の血からこれ程の一族・集団が生まれ、1つの国家・社会に及ぼす影響を考えた時、その事実に驚きと畏敬の念を感じる。
第一次世界大戦の後、日本はドイツからこの南の島々を受け継いだ。数多くの日本人がこの島々に移り住み、様々な日本文化や日本人の習慣が根付いていった。チュークの人達は、多くの日本人に接し、日本人の素晴らしさを存分に認識する事となった。30年前、私がこのチュークを訪れた時、彼ら現地人の日本人に対する尊敬の念をひしひしと感じたものだ。多くの先達者が生涯をかけて築き上げた日本人の財産である。
これら数多くの移民による日本人の活動に対し、小弁の現地人社会での生活・活動は異彩を放っていた。たった一人、常に命と引き換えに未開の現地人社会の中に入り込んで行ったのである。サムライ・小弁の名は広くチューク諸島に鳴り響いていた。かつて、私が日本人の誇りを感じたと同様に、おそらく多くの日本人達が小弁の築きあげた日本人像に誇りを感じた事であろう。
小弁の生き様は全く驚嘆に値する。『生死超越日常茶飯事、何事かなら成らざらん』
つまるところ、己の存在のみが頼りのこの世界で、小弁の生き様は私にとってとても大きな模範と成るところである。が、しかし、そのスケールの大きさ、凄さには完全に脱帽する。
小弁の生き様を思うにつけ、この言葉がいつも脳裏を掠めてゆく。自分もこのチュークに来てはやくも30年が経とうとしている。時代の相違であろうか、あるいは度量の相違なのか、私の足跡は小弁の足元にも及ばない気がする。今はただ、小弁や先人達の築いた日本人像をけがすことなく、日本人の素晴らしさを伝えて行きたいと願う。 |
エッセイ・南国にあそぶ
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チューク環礁の北北西の端に、プサモエ島と言うきれいな島がある。 7年前の大嵐で一夜にして消滅した幻の無人島で、今また復活して小さいながらも緑が生え始めた。 かつて嵐で消える前は、日本のメディアにも数多く紹介され、チュークを訪れた旅行者に最も愛された無人島だ。 私の名刺にも、かつてのこの絶世の美女の姿が刷り込んである。 プサモエ島の復活は、無人島が売り物のチュークにとってはとても嬉しい限りだ。 ところで、このプサモエ島が消滅した時に書いたエッセイがあるので、皆さんにご紹介したい。 それは2005年の出来事だった。 『 無人島消滅 』 − 島もまた漂流 − 5月の下旬、西日本を襲った時期早々の台風を皆さんは覚えていらっしゃるだろうか。 西日本で多大な損害をもたらしたこの台風4号は、ミクロネシア随一とも言われる華麗な無人島を一夜にして破壊してしまった。全く跡形も無く。 過去にチュークを訪れた殆ど全てのダイバーや観光客、釣り人達の憧れの島であった『プサモエ島』はもうこの世には無い。申し訳程度に残ったわずかばかりの砂浜が、『プサモエ島』がそこにあったことを偲ばせるだけだ。 西日本を襲う10日程前、この台風はチュークの海で生まれた。 渦の中心をチューク環礁の北西に据え、殆ど移動する事も無く、日毎に巨大な雲の渦を形成していった。その勢力は膨大で、チューク環礁を離れる時のこの熱帯低気圧の雲の領域は半径・最大で1000キロにも及んでいた。その当時、グアム、サイパンの業者仲間に台風接近の危険信号を送った覚えがある。 周囲200キロに及ぶチューク環礁は、約100個近くの島々と数多くの砂浜や浅瀬から形成されている。その中で人が住んでいる島は20島、あとは全て無人島だ。その中には、ジャングルを形成して長さ数キロにも及ぶ大きな無人島もあれば、プサモエ島のように小さな可愛い無人島も沢山ある。 今回の台風で犠牲になったのは不運にもこのプサモエ島だった。こんなに沢山ある無人島の中で、どうしてプサモエ島だけが犠牲になってしまったのか。疑問に思われる方も沢山いらっしゃる事と思う。 『プサモエ島』は年寄りに聞いても全く判らないくらい昔から存在していた。 日本時代は『菊島』と呼ばれ、100年ほど前の地図にはすでに記載されている。 おそらく何百年の単位だと思われる。 『プサモエ島』はチューク環礁の北北西の突端に位置しており、一番、台風の影響を受けやすい所にある。 以外に思われるかもしれないが、元来、チューク地方は台風の非常に少ない地域だった。 私がチュークに来るようになってからでも、すでに25年が過ぎているが、その頃でもチュークに来る台風は4〜5年に1個位の割でしかなかった。チュークの年寄りにも、いつもそう聞いていた。 チューク環礁の緯度は北緯7°〜8°に位置する。 北赤道のこの辺りは熱帯海洋性気候と言い、年間を通して熱帯の高気圧帯に属し、北東の貿易風下にある。 12月〜3月頃まではこの貿易風が強くなり、5月〜10月頃には貿易風もおさまって海も陸も穏やかな季節を迎える。 よく、グアムやサイパンなどのマリアナ諸島とチューク地方の気候をミックスして同じ様に案内しているものを見受けるときがあるが、これは間違っている。マリアナ諸島は緯度が15°前後で、気候的にはモンスーン気候の影響を大きく受けている。このために雨季、乾季がはっきりしており、ミクロネシアの東側の地域とは異なった気候区分になっている。 台風は、このミクロネシア海域でよく発生する。 しかも、それは、熱帯高気圧帯の北側、すなわち北緯10°から15°の海域において発生し、北西に進んでいく。 台風は低気圧帯なので、常に高気圧帯に覆われているチューク地方にはなかなか入って来れない、ということになる。 そういうことから、過去に発生した台風は殆どがチュークの北側を通り、マリアナ方面に向って行くと言う訳だ。 しかし、そういう気候の定説もここ数年来崩れつつある。 世界的な異常気象の影響かもしれないが、来ないはずの台風や長期間に渡る高潮などが頻繁に発生し、少しずつ海岸線やひ弱な無人島を蝕んでいる。今回の『プサモエ島の消滅』もこういう前触れがあっての事と思われる。 去年、チュークには大きな台風が2回襲来した。その他にも大きな熱帯低気圧の通過や高潮時の嵐などで、環礁の北西に位置するプサモエ島は西側の海岸線から序々に侵食されていたのを覚えている。 チュークを襲ったり通過する台風は、殆どがチュークの北側を通る。そのために西側からの風が強くなり、外洋の大きな波がプサモエ島を一気に襲う事となる訳だ。去年から今年に掛けてやってきたこれらの一連の嵐の数々が、プサモエ島を一夜にして消滅させた大きな要因だったと思われる。あの時の巨大な低気圧のことを考えると、きっと、とてつもない大きな波がプサモエ島を襲ったに違いない。 6月のある日、釣り客を案内して、北西のアウトリーフに向かった。 釣りをしながら北上し、プサモエ島に上陸して食事休憩をとる予定だった。 ところが、プサモエ島の見える位置に来てもプサモエ島を見る事ができない。 その時はまだ、まさか島が消えうせているなどとは思いもよらない事なので、なんとなく、『おかしいなあー』位にしか思っていなかった。 『プサモエ島』と並んで、そのそばにちょっと大きな『ピシリーリ島』という島がある。その時は漠然と、『あー、きっとピシリーリと重なっているんだな、だから見えてないんだな』と思い、釣りのガイドに専念していた。 そのうち、ローカルのボートオペレーターもその異変に気が付き、『スエナガ、プサモエはどこだ!』と言ってきた。 その時はまだ、『ピシリーリと重なっているんだろー』と、簡単に答えただけだった。 しかし、その時にはもう私の頭の中は疑問が渦を巻いていた。 この距離までくると、この角度からだと、いつも見慣れたピシリーリとプサモエの遠景が必ず見渡せるはずだ。 しかし、そこには、ピシリーリ島しか見えないではないか! この位置から見て、ピシリーリ島と重なっているはずがない! 無い! きっとプサモエは無くなっている! でも、どうして! 何百年もの間、何十回と無く台風や嵐をしのいできたのではなかったのか? 今年になって、島を消滅させる程の、そんなにひどい台風は無かったはずだ! 何か超常現象でも起こってしまったのか! 私の頭の中はすでに、ありもしないそんな事まで考えていた。 ボートをプサモエに向って走らせた! ダブルエンジンをフル回転させて走らせた! プサモエのあるべき位置が段々近くなって来る! しかし、依然として、見えているのはピシリーリの島影だけだ! プサモエの南側のパスに差し掛かった。 過去に私が漂流の出発点となったあのパスである。もう、疑う事はなかった! 無い! 何も無い! 椰子の木どころか、草木の1本も無いではないか! 一切がこの世から消え去っている! 見慣れたいくつかの岩の中にわずかばかりの砂浜が顔を出している。 プサモエの横を猛スピードで走りながら、わずかに残された砂浜を横目で追ってゆく。その目に涙がとめどなく溢れてくる。涙が頬を伝う。 プサモエ島の思い出が走馬灯のように頭を巡って行く。 色んな人達の顔が次々と思い出されては消えて行く。 1つの時代が終わったのだ。 それにしてもなんと言う運命だろう。なんという巡り合わせだろう。 何百年もの間その優美な姿を誇ってきた『プサモエ島』が、よりによって、今、この私の目の前で消えてしまうなんて。 私のチュークでの仕事はこのプサモエ島と共にあったと言っても過言ではない。 ダイバー、スノーケラー、ハネムーナー、家族連れ、釣り人達、そして数多くの恋人達がこの楽園に遊んだ。 プサモエは究極の無人島だった。 それが、今、はっきりと終わりを告げたのだ。 ご存知の通り、チュークには沢山の綺麗な無人島がある。その中でもこのプサモエ島は別格の存在だった。 このプサモエ島とならび、私のチュークでのライフワークの1つとして重要な無人島の1つに、『パラダイスアイランド』というきれいな砂の島がある。 チューク環礁の東端にあり、その海域にボートが入って行くときの素晴らしさは、何度行っても、何百回見ても感動する。 私がチュークに来た頃、パラダイス島は沢山の木が生えており、やしの木も5〜6本生えていた。 その海のすばらしさから、何度か、日本の娯楽番組やコマーシャルにも登場したことがある。吉野雄輔さんのすばらしいサンゴの写真もこの海から切り取ったものも少なくない。そんなパラダイスアイランドも15年程前から少しずつ侵食され、ついに10年程前に完全に陸上から姿を消してしまった。 そこには、砂浜すらなく、ただ遠浅のきれいな海域が広がっているだけだった。 そうして、3年程前の嵐が続いた後、忽然として、また同じ位置に砂浜が姿を見せた。 この3年間、少しずつビーチの大きさを増やし続け、現在では小さな木も生え始めている。『パラダイスアイランド』が復活したのは言うまでも無い。 『プサモエ島』が無くなった今、この『パラダイスアイランド』の復活は、チュークにいらっしゃるお客様にとっても、私達にとっても、とてもうれしい事である。 チュークの無人島は殆どが砂浜だけから成っている。 環礁の岩盤の上に砂浜が出来、やしの木が生える。砂上の楼閣である。 砂は流れ、砂は移動する。島は消え、島はまた復活する。 人知れず散っていった『プサモエ島』の姿を思うにつけ空しさが込み上げてくる。
『プサモエ島』もまたいつの日か復活するのだろうか。 |
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トラック島を舞台にした産経新聞連載の冒険小説・『ダン吉』が単行本として発刊された。 過去に何度もTVなどで紹介された、トラックのモリファミリーのご先祖・森 小弁がその主人公である。 この小弁とモリファミリーについて、以前書いたエッセイがあるのでご紹介しよう。 以下はそのエッセイ・『南海に生きる』ー 南海に誇る大和魂 ー ============================================== 11月の中旬、森六郎(モリ ロクロー)という日本名を名乗る80歳の現地老人が静かに息をひきとった。 多くの親族に囲まれ安らかな旅立ちであった。 死の数日前、寝たきりの彼を見舞った時、かれの意識はまったく正常そのものだった。 自分の病状を、笑顔を見せながら私達夫婦に話してくれた。そして、自分の父の生涯をえがいた書物、 『“夢は赤道に” を読みました。』と、にっこり笑って教えてくれた。
1892年、今から遡ること112年前。
天祐丸という小さな機帆船が、チューク・モエン島の沖合いに静かに錨を下ろした。外国人宣教師がチュークに足を踏み入れてから、わずか8年後の事であった。 日本人が初めてチュークに足を下ろした瞬間である。
彼の名は、森小弁(もり こべん)。土佐の藩士の息子で若干・22歳。
当時発足したばかりの貿易会社の社員として、南洋に夢と希望を抱いての渡島であった。その後彼はチュークに根をおろし、50数年に亘る人生の闘いをこの南の島で繰りひろげ、その生涯を閉じる事となる。 血を血で洗う民族闘争さなかのスペイン時代。 一・部族に身を置く小弁の身辺には、常に部族間闘争の波が押し寄せて来る。 日本刀と鉄砲で武装した小弁は、原住民の先陣を切って部族間闘争に加わり、その勇名を馳せた。 武器の略奪にあい惨殺された日本人の敵討ちにと、武闘集団を組織し、その部族に攻め入ったりもした。
迫害に苦しめられたドイツ時代。
小弁を中心にすでに小さな日本人社会がこのチュークにも根を下ろし始めた矢先、ドイツ官警の策略の下、全ての日本人がチュークから追放されという事件が勃発した。 この困難にも小弁は智策を駆使しチュークに踏みとどまる。 こうして、ヨーロッパ支配の激動の時代を命を賭して生き抜いた。
満を持して迎えた日本時代。
30年間に亘り日本軍政府とチュークの橋渡しとして大活躍をする。彼の本領発揮の時であり、彼の人生で最も光り輝いた時でもあった。 勲章を肩に誇らしげに微笑む彼の写真は、今も森一族の家々の壁に掛かっている。 男の人生で最も重要な50年間を、彼は南海の孤島・チュークに捧げた。 まさに波乱万丈の人生であったと言える。太平洋戦争の終焉は彼の人生の最期でもあった。 日本がトラックを去った終戦の年、奇しくも彼もこの世を去っていったのである。 チュークに上陸した7年後、小弁は現地人の娘・イザベルをめとった。 男6人、女5人、日本人の血を引く11人の男と女、小弁が血を分けた子供達である。 その最後の子供が、冒頭の老人・森六郎である。 小弁の死から60数年、六郎の死をもって小弁の血を継ぐ直属の者達は、このチューク諸島から姿を消した。 しかし、小弁の血を引く11人の子供達から派出していったこの一族は、今では優に3000人を超える。直属の父系一族だけでもすでに1000人を超えている。 現在ではすでに5世〜6世の時代を迎えており、この森ファミリーを抜きにして、現在のチュークの社会は語れない。 港、空港は森一族で支配されており、ホテル、ストアー、会社など、ビジネスの多くも森一族の面々が幅を利かせている。 政府の役人の中にも『モリ』の人達が数多く勤めており、チュークの社会でそれぞれが重要な地位を占めている。 『政治には手を出すな。政治は現地人に任せろ。』という小弁の遺言で、これまで政治とは無縁だった森一族にも、少しずつ政治家を志す者達が現れてきた。 たった1人の男の血からこれ程の一族・集団が生まれ、1つの国家・社会に及ぼす影響を考えた時、その事実に驚きと畏敬の念を感じる。 数多くの日本人がこの島々に移り住み、様々な日本文化や日本人の習慣が根付いていった。 チュークの人達は、多くの日本人に接し、日本人の素晴らしさを存分に認識する事となった。 30年前、私がこのチュークを訪れた時、彼ら現地人の日本人に対する尊敬の念をひしひしと感じたものだ。 多くの先達者が生涯をかけて築き上げた日本人の財産である。
これら数多くの移民による日本人の活動に対し、小弁の現地人社会での生活・活動は異彩を放っていた。
たった一人、常に命と引き換えに未開の現地人社会の中に入り込んで行ったのである。サムライ・小弁の名は広くチューク諸島に鳴り響いていた。 かつて、私が日本人の誇りを感じたと同様に、おそらく多くの日本人達が小弁の築きあげた日本人像に誇りを感じた事であろう。
つまるところ、己の存在のみが頼りのこの世界で、小弁の生き様は私にとってとても大きな模範と成るところである。
が、しかし、そのスケールの大きさ、凄さには完全に脱帽する。小弁の生き様は全く驚嘆に値する。『生死超越日常茶飯事、何事かなら成らざらん』 小弁のこの生き様を思うにつけ、この言葉がいつも脳裏を掠めてゆく。 自分もこのチュークに来てはやくも30年が経とうとしている。時代の相違であろうか、あるいは度量の相違なのか、私の足跡は小弁の足元にも及ばない気がする。 今はただ、小弁や先人達の築いた日本人像をけがすことなく、日本人の素晴らしさを伝えて行きたいと願う。 (2004年12月記)
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昨日のユニフォームの記事にちなんで、今日は、チュークの『ウンドウカイ』の素晴らしさをお届けいたします。 過去に書いたエッセイです。 古き良き時代の日本の運動会をなつかしみください! 以下、そのエッセイです。 ======================================= ヨーイドン! スタートラインについた選手たちが日本語の号令の下に一斉に飛び出す。 場内アナウンスでは、コンゴウリレー(混合リレー)、レンゴウリレー(連合リレー)、などと言った日本語種目の案内が流れている。ここは、ミクロネシアのチューク(トラック)諸島。グランドでは昔ながらの日本の運動会そのままに、現地の人達によってスポーツゲームが行なわれている。10月中旬、モエン本島で行なわれた全島大会の一コマである。
ゴールに駆け込む選手達は、競技の係員によって、イットウ(1等)、ニトウ(2等)、サントウ(3等)と呼ばれ小旗をもたされて表彰台に足を運んでいる。そこでセンシュ(選手)が手にするものは、ショウヒン(賞品)だったり、ショウキン(賞金)だったりする。 そして彼らはこのスポーツの祭典を、『ウンドウカイ』と呼んでいる。そこには日本人の姿はまったく見えないし、ましてや日本人主催による催しでもない。しかし目に映る光景は日本の運動会そのものである。
これは、いったい何処から来たものなのか・・・? それは遠く、日本統治時代にまでさかのぼる。
当時、各島々は5つの地区に分けられ、イチクミ(1組)、ニクミ(2組)、サンクミ(3組)・・・・・、と呼ばれていた。この組み分けは今もそのまま残っており、島を挙げての催し事や、地区分けの基礎となっている。そして戦後60年経った今も尚、島々の運動会は、この区域によってチームが編成されるのである。チームの応援旗には、大きく、『ICHIKUMI』 『NIKUMI』 と染め抜いてあり、ハチマキ(チューク語)にも同じく、『ICHIKUMI』 『NIKUMI』 と書かれている。
センシュ カケアシ レンシュウ ガンバレ オーエン など、運動会関連の言葉も数多く残っており、グランドでよく耳にする言葉である。 オーエンもとても賑やかで、興に乗って来ると、グランドのそこかしこで激しいオーエン合戦が始まる。『ガーンバレ〜♪♪、ガンバーレ〜♪♪、・・・・・ ♪♪』と言った応援歌が、あちこちのチームから聞こえてくる。小錦バリに太ったオバサンが選手団の前に出て、狂ったように踊りだす。 それを合図に、あちこちのチームの前に、負けじとまたオバサンや若者が即興の歌や踊りでグランドを盛り上げる。そうなるともう、競技はそっちのけでグランド内は歓声で騒然となる。 グランドのまわりには、沢山の出店が並び、学校や官庁は殆どが休みとなり、島中のポリスが総動員され、交通整理や警備に当たっている。子供から大人まで、老若男女、正に島を挙げて運動会を楽しむ事となる 理由がふるっている。 『州知事はじめ、政府の要人は全てウンドウカイに出席しているため、お会いできない』と言うものであった。『ウンドウカイ』は、政府間レベルの用件を反故(ほご)に出来るほど彼らにとっては重要なものなのである。 大会当日の早朝、各島々から集まってきた選手団は、港に集結し、それぞれのチームが州旗や団旗をひるがえし、グランドまでの約1マイルの道のりを、大声を張り上げ応援歌を歌いながら ゆっくりと行進してゆく。彼ら選手団の熱気は行き交う人達を巻き込みその興奮は次第に島中に広がってゆく。
種目は、日本時代の伝統的な種目や、短・中・長距離、各種リレーなどの陸上競技種目がメーンで、一般男子による『椰子の実割り競争』や、女性による、椰子の葉っぱを使った『バスケット編み競争』などローカル色豊かな種目もいくつか用意されている。中でも彼らの最も興味をそそる種目はリレー競技だ。小さい子供達から、女、男、まで、ありとあらゆるリレーが次から次へと展開されてゆく。
そして、雨や嵐もなんのその、彼らのウンドウカイは必ず『雨天決行』である。彼らはむしろ、悪天候や予期せぬアクシデントなどから来る予想外なレース展開を最も好む。グランドは雨でドロドロ、それでもリレーは決行される。先頭を走っている選手が足を滑らせて転倒する。強者の足を引っ張る。だれが勝つか負けるか、全く予想もつかない。そうなるともうグランド内はヤンヤの喝采である。ルールを最重要視し、比較的紳士的に遂行される学校のウンドウカイとは赴きを異にするこの破天荒な争いの『ウンドウカイ』こそが、彼らの本領発揮の場なのである。
平和な社会になった今、彼らの闘争民族の血をぶつけるものはスポーツを置いて他、何も無い。闘争のはけ口を失った彼らが日本時代に遭遇した運動会は恰好の彼らの戦いの姿だったのかもしれない。パプアニューギニアに今も残るシングシングの祭り。彼らもまた、闘争民族の血を発散させるために、この戦闘のダンスを今に伝えている。
『ウンドウカイ』をかくも熱狂的な闘争の場とする彼らの戦いの根源は、彼ら自身の民族の血から来るものであろう。彼らの闘争本能を存分に受け入れ、発散させる『ウンドウカイ』は、島社会を平和に保つための潤滑油ともなっている。文明人達によって両の腕をもがれた彼らにとって、『ウンドウカイ』はむしろ彼らの血を受け継ぐ恰好のお祭りだとも言えよう。ガンバレ! チュークの戦士達! |
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先日ご紹介した、南十字星の出現を教えてくれる“カポック”は、それと同時に、南の島に春の到来を告げる希少な植物でもある。 今日は、初春の寒さに凍える日本の皆さんに、心温まる南国の春のエッセイをご紹介しよう。 一足早い春の気分を味わって頂ければ幸いです・・・。 『 常夏の春 』 ― 南の島にも春が来る ― 南の島にも春があるのだろうか・・・・。 3、4月の北半球が春ならば、北緯7度のチューク諸島もやはり春である。1年中が常夏の熱帯の島ではあるが、気をつけてよく見ていると随所に春の季節を感じる事ができる。 その筆頭が、南洋桜であろう。 3月、日本に桜情報が聞かれ始める頃、それに呼応したかのように赤い大きな花を枝一面に、一気に咲かせ始める。それ故、かつて南の島々にいた日本人達に『南洋桜』として親しまれた花だ。ただし、本家本元のか弱い桜と違い、情熱的な真っ赤な花を半年間にも亘って咲かせ続けていく。南洋桜が咲き始めた頃に感じる春の季節は、この花の最盛期には灼熱の夏の季節に突入している。この南洋桜がか弱い可憐な花でなく、情熱的な真っ赤な花であることが何となく実感できようと言うものだ。南の島は、春も情熱的だ。 ここチュークの春は、貿易風の吹き荒れる最後の季節でもある。そしてこの春の貿易風は、南の島に1つの風物詩を見せてくれる。 春の澄み切った青空に、時として雪ならぬ純白の綿が舞い始める。 手のひらほどもある大きな物から、正に小雪がちらつくような小さな物まで、様々な大きさの綿雪が春の空に舞っている。どこから飛んでくるのか、かなりの高空を大小の白い綿毛がふわふわと風に乗って流れてゆく。ふと下を見ると、路上一面に、あるいは草むらに白い花が咲くように、純白の羽毛が積もっていたりする。 『カポック』と呼ばれる綿の木の花である。 チューク環礁の大きな島々には、このカポックの木が随所に見られる。熱帯のジャングルでも一際大きな背の高いこの木はどこからでも眺められる。そして3月の声を聞くと一斉に白い大きな花を咲かせる。この花が綿雪の正体だ。手のひらに乗せても全く重さは感じない。とたんに柔らかい温もりがてのひらに広がってゆくのを感じる。それもそのはずで、どんな物体よりも浮力に優れ、断熱効果に優れている。ジャングルの木々の間から大きく顔を出し、白い綿毛の中に小さな種を包み込み、青空を浮遊する。 その圧倒的な春の中に柔らかい春の季節を感じさせてくれる綿雪。 巨木を覆い尽くす純白の綿の花に春の到来を感じ、青空に舞う綿雪に行く春を想う・・・。 注)このカポックの綿毛は本当は花ではありません。 果実のはじけたものです。 ここでは情景描写を考慮して、敢えて『花』と表現させて頂きました。 ご了承願います。 ところで、、、少しは温まりましたでしょうか??(*^_^*)
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