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 人的セレクタ

 「私」はしばしばブログの「書き手」であるが、「読者」は漠然としたインターネット上の、様々な姿を持った人間である。従って、何を誰に伝えるのかがはっきりしていないと、そのブログは誰の目にも止まらない。「読者」は前もって想定されていなければならない。

 ブログの中に出てくる「私」は、しばしば「書き手」と同じ人間ではない。「タレントの○○さんが私は大好きです」という「私」は「タレントの○○さんは人気者です」というときの主体とは明らかに違う。後者は客観的な事実を述べたものであり、「私」の気持ちが表れているものではない。読者に「ある人物」を見せているのは書き手ではなくいわば「語り手」としてのブロガーなのである。「物語論」では自明のこうしたこともきちんと理解していないと、商用文を書くときに「自分の体験に引っ張られ商品と関係のないことを書いてしまう」とか「依頼者等の横やりで語りが一貫していない文章ができてしまう」といったことが起こりうる。

 「誰が」とは例えば、私・あなた・彼女・彼氏・夫・妻・親・子供・社長・上司・店員・HP管理者・第三者 etc

 「誰」を「主体」あるいは「客体」と拡張した時、

 犬・猫・猿 etc

 もっと擬人化すれば

 樹木・石・星

 なども主体・客体となりうる

 仮に「私はこの商品を使ってとても便利だと思いました。だからこの商品がオススメなのです」といった文章を例にすると、この文章の「私」は書き手そのものではない。「私」が「使った」という経験と、その経験に基づいて商品の紹介をする行為にはそれ相当の距離がある。実際に使った経験がなくてもこうした文章は書ける。だからといってそれが「嘘」の範疇に一緒くたにされるものではない。
  
 「誇大広告」と「誇張された表現の広告」の間の隔たりを読者に感じさせるものは「書き手」「語り手」「読者」の間の距離感なのだ。洗練された商用文は、洗練された物語文同様に「距離感」を感じさせるということだ。

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