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螢 映池 写真集ブログ: 謹賀新年 2012年が良い一年となりますように

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Absence page16

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Bones, sinking like stones,
All that we fought for,
Homes, places we've grown,
All of us are done for.
we live in a beautiful world,
Yeah we do, yeah we do,
We live in a beautiful world,

Oh, all that I know,
There's nothing here to run from,
everybody here's got somebody to lean on

骨、石のように沈んでゆく
わたし達が戦ったすべて
家、育ってきた様々な場所
わたし達みんなで築いたもの
わたし達は美しい世界に住んでいる
本当に わたし達は
素晴らしいところに生きている

逃げだす理由は
何もない ここではみんなが
誰かに寄りかかっていられるから

"Don't Panic" by Coldplay

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Last Regrets

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すごく個人的なこと。

このブログを読んでくれて、僕の無事を案じている限られた人々に対して、この何ヶ月間かブログを更新しなかった理由を説明したいと思う。

2011年の2月の終りに僕は仕事を変えた。変えたと言っても、同じ職種で、やっていることは僕のキャリアの延長線上にあるのだけれど、職場がずっと遠くなり、それに勤務時間が長くなったことで、ブログに費やす時間がほとんどなくなってしまった。それが第一の理由。

その後、引っ越しをした。引っ越しと言っても前の住所から5分の距離だが、これに僕のエネルギーのほとんどすべてを使わなければならなかった。大切なものと、膨大な不要物に直面し、過去と言うものの重さと箱詰めにしたボリュームに圧し潰されそうになりながら、それらを仕分ける作業を追われるようにこなさなければならなかった。4月2日に奇跡の引っ越し。理由その2。それは今も続いている。

そして、父が癌になった。4月の中頃に母から電話があり、父が胃癌であることがわかった。発見が遅れたらしく、ほとんどの胃を切り取り、周りに転移している癌も取り除くことになった。父はゴールデンウィーク明けの5月6日に入院。9日に7時間の手術をした。この間、僕は日本に帰ろうと思っていたのだけれど、父が『頑張るから、帰ってくるな』と言って、今も母との電話でしか状況がわからない。手術は一応終わったが、癌進行のレベルは手術後に上がりレベル3。これからも父は癌と共に生き、弱った体で戦っていかなければならない。

生きている時間。

生活に伴うボリューム。

この期間に、僕はこれだけの体験をした。これがブログを更新しなかった理由である。

でも、僕はブログを諦めずに続けていこうと思う。限られた自由な時間でもできる方法を見つけて、何らかの生きている証を記したいと思う。

今後、形体は変わるかもしれないけれど、僕はできることを小さいなりにでもやっていこうと思っている。



引き続き、ご愛顧のほどよろしく申し上げます。

Canon AT-1

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今回は、キヤノンATー1。

1976年12月。キヤノンのATー1は、海外だけで販売を開始された。この年の4月5日、ちょうど8ヶ月ほど前に、同社はたちまちベストセラーになり、ブームを巻き起こしたAE−1を発売している。この双子のようなカメラは、常に一緒に語らねばならない。ややこしくなりそうなので箇条書きで説明したい。

4月発売 AE−1
世界で初めてCPUを搭載した35㎜一眼レフ。シャッター速度優先オート。
設計の根本から、5つの大きなユニットと25の小さなユニットに分け、それをマイクロコンピュータが中央集中制御する方針を採用。電子化により部品点数を従来機より300点減、また生産にも自動化を大幅に取り入れ、高機能、低価格を実現した。
キャッチコピーは、『連写一眼』
これが世界中で絶賛され、オートマティックカメラの先駆けとなった。
ボディーのみで、50000円、50㎜/1.4付きで、81000円。

12月発売 ATー1
上記、AE−1と同等のボディーに、追針式のマニュアル測光を入れただけのカメラ。
キャッチコピーもなし。
最終的に日本国内で販売されることはなかった。
販売価格、不明。

キヤノンの苦しい公式見解を見ると、一部海外市場では、低価格とは言え、AE−1はやはり高額機種であり、<保守的>なマニュアル指向のユーザーも依然と多かった。このような要請に対して応えるべく、ATー1は開発されたらしい。

おそらく嘘であろう。

キヤノンは最初からATー1を製造していた。(この意見は『キヤノンAシリーズに萌え萌え』というホームページを持っておられるBISON氏から借りている)もし、AE−1という世界初のオートカメラが今までのユーザーから受け入れられなかった場合のことを考慮して、保険というか、じゃんけんの<あとだし>のような感じというか、先発ピッチャーがすぐにKOされたときの、つなぎのような役目というか……。とにかく、国内の写真家達は案外保守的ではなく、AE−1は飛ぶように売れた。それでまあ、せっかく作ったんだから、安いレンズとセットにして外国に出せば、国内的にキヤノンの名前に傷もつかないし、案外ビビってたという本心もばれないだろう、ということで、ATー1は廻り廻って、今僕の手元にある。

ロック史と見る1976年。

1月16日 ボブ・ディラン『欲望』発表。
1月20日 ヤマト運輸『宅急便』発売。初日引き受け個数は2個。
3月    ビーチボーイズ 結成15周年を迎え『偉大なる15年』を発表。
4月23日 ラモーンズ『ラモーンズの激情』でデビュー。
6月26日 アントニオ猪木対モハメド・アリ戦。武道館で行われる。
7月 7日 モントリオール・オリンピック開催。
10月   レッド・ツェッペリン『永遠の詩』ライブ映画上映。
11月   ジャクソン・ブラウン『プリテンダー』発表。
12月8日 イーグルス『ホテル・カリフォルニア』発表。

実は、1976年について、以前ペンタックスMEの項でやっているのです。
ですから、少し違う角度から見た1976年とは。

アメリカの夢の終り。『ホテル・カリフォルニア』(アルバム)

1976年はちょうどアメリカ建国から200年目にあたる。
ドン・ヘンリーもインタビューで答えているように、このアルバムは200年という節目に立って、アメリカ、とりわけ開拓期間から楽園のように思われ、人々を集めてきたカリフォルニアの行き詰まった現実を歌ったコンセプトアルバムである。最も良く知られる、意味深な歌詞で色々な解釈の尽きない、一曲目の『ホテル・カリフォルニア』にもその暗い影は濃く落ちている。

アメリカのフロンティアは東に始まり西へ西へと進んできた。ヨーロッパから大西洋を渡り、あるところで土地を所有し定住した人達もいれば、そこで上手くやっていけずに、広い大陸をより良い場所を求めて、人々が数珠つなぎになって移動してきた。ある人は夢や希望を持ち、ある人は隠れ場所を求めるようにして。もちろんスタインベックの『怒りの葡萄』を読めば解るように、現実は厳しく、楽園なんてなかったのだけれども、その温暖な気候と豊かな土地、ハリウッドに代表される華やかさがいつまでも人々を魅了してきた。美しき罠。甘い蜜。ネオンサイン…ってやっぱり惹かれてしまう。

欲望を満たすためだけの場所が『ホテル』であり、『ホテル』にはたくさんの部屋がある。誰もがようこそと招き入れられ、ある部屋ではドラッグ、ある部屋ではセックス、見えない裏側では暴力が行使されている。全てはマネーであり、トレンドの追求であって、スピリットなどはとうに失われてしまったのだ。気がつけば、そこを短絡に享受していた自分があり、昔を思い出しここから抜け出そうとするが、容易には抜け出せない……。

ジャクソン・ブラウンの『プリテンダー』もそうだけれども、この年のアメリカには心情的に行き場を失った感じと、強大に膨れ上がった資本主義という権力が引っ張り合って悲鳴を上げつつあるような感じがする。

だからかどうか、この年の11月2日に行われた大統領選挙では民主党のカーターが初当選しているし、ナイフを突き立てるようにしてロックを革新する、パンク・ミュージックの筆頭ラモーンズが衝撃的なデビューを飾っている。アントニオ猪木がモハメド・アリとがんじがらめのルールであっても、敢えて対戦したように、時代は沸々と、自らを見失いそうになる悪夢のような現状から、打破を求めていたのだ。

(アルバム)『ホテル・カリフォルニア』は、ドン・ヘンリーの歌う『Last Resort』という美しい曲で締めくくられる。これはアメリカのフロンティアという精神の終りと、資本という欲望が当然のように破壊していく環境問題を扱っている、ロックとしては珍しい種類の曲である。自然を破壊して作り上げられる新しい楽園とはいかなるものか、それをドン・ヘンリーが長々と、7分以上もかけて歌うのだが、この『Last Resort』というタイトルがどのような意味を込めて付けられたのかが興味深い。

『Last Resort』は通常『最後の手段』とか『頼みの綱』とか、そういう意味で使われる。この曲を頼みの綱として、環境問題とか、アメリカ人の失ったスピリットの回復に呼びかける意味で付けられたのか、それとも、最後の手段の後に、失われてゆくものを追悼して付けられたのかを考えさせられる。

キヤノンはAEー1によって新たな道を切り拓いた。一大ブームとなったこのオートマティックカメラは400万台を販売した。(アルバム)『ホテル・カリフォルニア』の売り上げ枚数、アメリカ国内だけで1600万枚には到底及ばないけれど、同じ年に大ヒットした(シングル)『およげたいやきくん』が450万枚だから、相当な数だと言っていい。日本はアメリカに比べて平和と言うか、この頃はノーテンキだったんでしょうねえ。ちなみにピンクレディーが『ペッパー警部』でブレイク。都はるみの『北の宿』、村上龍『限りなく透明に近いブルー』が上半期の芥川賞を受賞。

このようなベストセラーの陰で我がATー1は生まれ、ひとつのメッセージを僕に伝えてくれました。

『Last Resort』

キヤノンがこっそり製造したATー1は、僕の仮説によるとキヤノンの『頼みの綱』であったように思われます。最新の技術を駆使して、今までにないものを発表するのは、かなりの勇気と覚悟が必要だったでしょう。キヤノンは大見得を切るAEー1の、失敗の代償として、ATー1を懐刀のようにしたのです。


【追記】
このカメラ、とてもいいカメラです。僕はAE−1も持っていますが、どちらかと言うとATー1の方が好きです。『連写一眼』なんてコピー、意味もよく解らないし……。慌てずに、ゆっくりマニュアルで露出を合わせるほうが、お米を噛んで食べているような、充実した気持ちになれますよ。FDレンズの写りも◎。個人的には最新のスマートなEFレンズよりも個性があるように思えます。外観もどこかストロングスタイルで、ほら、格好いいではありませんか。

Absence page 15

イメージ 1


STONE PIECE

Find a stone that is your size or weight.
Crack it until it becomes fine powder.
Dispose of it in the river. (a)
Send small amounts to your friends. (b)
Do not tell anybody what you did.
Do not explain about the powder to the
friends to whom you send.

1963 winter

Yoko Ono “grapefruit”

石の作品

あなたのサイズか同じ重さの石を一つ見つけること。
そして、それがさらさらの粉になるまで砕くこと。
川にその粉を流しなさい。(a)
小さく分けてあなたの友人達に送りなさい。(b)
あなたのしたことを決して誰にも言わないこと。
届けた人達に対して、その粉が何であるのか、
いっさい説明しないこと。

1963年 冬

ヨーコ・オノ『グレープフルーツ』

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miniature vancouver page 13

今回のミニチュア・バンクーバーは、以前に紹介したリッチモンド市の《新市街編》である。前回の《旧市街編》で取り上げた、スティーブストンの記事の日付が2008年10月となっているので、ちょうど2年が過ぎたことになる。2年前か……。時間的には北京五輪が終わって、みんな一息ついた頃だったろう。ずっと前のことのようにも、つい最近のことのようでもある。僕は今と同じ格好で、ブログを書いていたと思うけれど、上野さんだったっけ、あの五輪のソフトボールが凄かったんだ。

リッチモンド市は、一番大きなルル島、バンクーバー国際空港のある海島(Sea Islandという名前)を含む、13の小さい島々で構成されている。フレーザー川の堆積土でできた陸地だけに、海抜が0から12メートルくらいしかなく、島の周囲にはダイクと呼ばれる土を盛った堤防が築かれている。これらの条件のため、地下のある家屋は少なく、また空港が近いことから、ビルの高さも150フィート(46m)までに規制され、どことなく、だだっ広い印象を受ける。

ヤオハン・スーパーマーケット(今は中国企業が経営)の裏側

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PENTAX645で撮影。Ilford Delta100使用。 D76 1:1にて現像。

BC州で4番目に人口が多い市で、海外からの移民の人口が全人口の59%(カナダで最高)、そしてそのほとんどが1990年以降に来た、香港、台湾、中国本土からの移民である。

わりと中国。

漢民族の大移動。

この大移動は1984年の英中共同声明により、香港返還が1997年の7月1日に決まったことに起因する。それ以降、英連邦であるカナダに香港系の華人の移民が多くなり、1989年に起こった天安門事件の翌年には6万2千人が移民、バンクーバーは(くだらないけれど)ホンクーバーとまで揶揄されるようになる。

その後はリッチモンド市の(今やメインストリートである)No.3ロード沿いに中国系スーパーマーケットやショッピングモールが乱立され、中国語のみで書かれた商品や、多数の中国語新聞が発行され、売る方も買う方も中国語を喋ると言う状態で、まったく英語を理解しないでも生活できるというような街ができた。

けっこう中国。

前回の《旧市街編》で、リッチモンド市を大阪ベイエリア(住之江区)になぞらえたことをふまえて、この《新市街》を当てはめるならば、その最も適した場所は何を隠そう、大阪市此花区となる。

大阪市此花区も昔は漁業と農業で栄え、その後阪神工業地帯の中心となる巨大工場が田畑の後に建設されたが、1980年以降重工業が振るわなくなり、将来を模索していた。その後の動きとして2001年、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンが開業、2008年のオリンピック誘致のため(失敗)人工島である舞洲にスポーツアイランドを造成し、あげくの果てに、巨大でセンスのないラブホテルかと思わせる、下水処理場とゴミ処理場まで建ててしまった。フンデルトヴァッサーという人の建築らしいが、莫大な税金がつぎ込まれたことは言うまでもない。

もちろん此花区は悪くない。すべては大阪府、大阪市に責任がある。

それで、此花区とリッチモンド市の新市街のどこが似ているのかと言う話だが、どちらもデルタ地帯で海抜が低いこと。二つの大きな川に挟まれていること。どちらもオリンピックに関係していること。バンクーバー五輪の会場になったリッチモンド市。大阪が負けて、2008年にオリンピックを開催したのが中国の北京であったこと。北京で起きた天安門事件とリッチモンド市の中国人移民の関係。オリンピックが北京に決まったのが2001年、同年に此花区にUSJがオープン。これだけ観ても、どこか因縁のある奇妙な三角関係に思えないだろうか。

それに、リッチモンド市と大阪市此花区にはどちらも海底トンネルがある。

此花区のそれは、安治川トンネルと呼ばれ1944年に竣工。日本初の沈埋工法(潜函工法)によるトンネルであるらしい。両岸には(此花区と西区)エレベーターがあり、歩行者、自転車が、地下15メートルまで降りて約80メートルの通路を横断するという仕組みで、もちろん今でも現役である。(僕も昔、自動車教習所に通うのによく利用させてもらいました。)

対して、リッチモンド市のトンネルは、フレーザー川の対岸にあるデルタ市とを結ぶ4車線の自動車用のトンネルで、ジョージ・マッシー・トンネルと呼ばれている。1959年竣工。建設にはプレキャストコンクリートで作った6つのトンネルを浮かべておき、繋いで沈める(沈めてから繋ぐ?)北米で初めての方法が用いられたらしい。最深部が25メートル。全長は629メートル。

建設方法や規模、利用客のタイプは違えども、この海底トンネルはリッチモンド市と大阪市此花区をしっかりと結んでいるのだ。

ちなみに、もっと古い中国系移民はバンクーバー市に多く、チャイナタウンを形成している。これは世界の大きな都市だとどこでもそうだけれど、メトロ・バンクーバーでは5人に1人が中国人。

かなり中国。

アバディーン・センターのフード・コートから

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PENTAX645で撮影。Ilford Delta100使用。 D76 1:1にて現像。

アバディーン・センターは今一番人気のあるアジア(中国)系ショッピング・モールで、中には日本からのダイソーもあります。値段は100円ではなく一律、2ドル。円とカナダドルの為替でしょうか。

それでは、この項、終了。

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