POETOGRAPHY

螢 映池 写真集ブログ: 謹賀新年 2012年が良い一年となりますように

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PENTAX 645

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カメラの書庫

今回はずんぐりした、PENTAX645。シャッター速度は1000分の1秒から15秒まで、中央重点測光、自動巻き上げ、そして、最大の特徴(とりえ)はブローニー・フィルムで、6x4.5センチの大きさの写真が撮れること。これは35ミリフィルムに比べて、約3倍のフィルム面積にあたる。つまり、より精細な写真が撮れるというか、まあ、デジタル的に説明するなら画素数、つまり情報量が3倍であると言うことだろうか。1984年発売。

それでは、半年ぶりの(!)ロック史とともに見る1984年。

1月24日  アップル・コンピュータ『マッキントッシュ』発表
       ヴァン・ヘイレン『1984』発表
2月     ボン・ジョヴィ、デビュー
       『Footloose』のサントラ発売。爆発的に売れる。
3月     江崎グリコ社長、何者かに誘拐される(グリコ、森永事件)
       スタイル・カウンシル『Cafe Bleu』発表
4月1日   マーヴィン・ゲイ、父親によって射殺される
6月     プリンス『Purple Rain』発表
       ブルース・スプリングスティーン『Born in the USA』発表
8月     レッド・ホット・チリペッパーズ、デビュー
9月     デビッド・ボウイ『Tonight』発表
10月    ブライアン・アダムス『Reckless』発表
11月29日 バンド・エイド『Do they know it’s Christmas?』発売

久しぶりなので、いつもより多めに書きました。これも情報量の多さ。

ですから今回は、話せば長い物語。

1984年11月25日 午前9時 ロンドン 曇り

この日、エチオピア飢饉のチャリティーとして、ボブ・ゲルドフ(ブームタウン・ラッツ)とミッジ・ユーロ(ウルトラヴォックス)が曲を作り、24時間だけSARMスタジオを無料で借り、当時イギリスで人気のあったミュージシャン達を集め、一枚の記念すべきレコードを作った。このバンド名をバンド・エイドと言い、この時録音した曲が『Do they know it’s Christmas?』である。

報道陣の群がる中に、続々とミュージシャン達がスタジオ入りしていく。デュラン・デュラン、スパンダー・バレエ、ポール・ヤング、(ボーイ・ジョージを除く)カルチャー・クラブ、ジョージ・マイケル(ワム!)、クール&ザ・ギャング(なぜ?)、スティング、ボノとアダム・クレイトン(U2)、フィル・コリンズ、ポール・ウェラー(スタイルカウンシル)、バナナラマ等々、ちなみにこの時、ボーイ・ジョージはニューヨークでまだ眠っており、ボブ・ゲルドフに電話で叩き起こされる。

ミッジとボブは、先ず集まったメンバー全員にコーラス部分を歌わせ、録音し、その後、一人ずつのボーカリストに一曲を通して歌わせている。これは誰がどのソロ・パートを歌うかを決める重要なテストであり、また歌う方にとっては自分の見せ場でもあった。皆が牽制し合う中、最初にマイクの前に立ったのは、スパンダー・バレエのイケメン、トニー・ハードリー(どこか宝塚的な感じのする)であった。この時歌った中で、最もボブに強く意外な印象を与えたのがボノである。まだこの頃のU2は、ポスト・パンクバンドの兄ちゃんくらいにしか認識しかされていなかったのだ。

ボブ・ゲルドフの作詞した『Do they know it’s Christmas?』の歌詞はこのように始まる。


クリスマスには
恐れるものは何もなく
クリスマスには
光が溢れ 影が消える

私達の満ち足りた世界では
喜びの微笑みは広がり
手を取り合い肩を抱きかかえる
年に一度の 特別な日に

しかし 祈ることがあるんだ
私達の知らない人達のために
幸せを楽しんでいる
こんな時に 難しいけれど
窓の向こうに広がる世界には
恐れに震えている人達がいて
そこを流れる水は
ほんの頬をつたう苦い涙だけ
クリスマスの鐘の音さえ
彼らには破滅の響きに聞こえるのだ

そうさ 私達は今夜神に感謝する
それが私達でなく 彼らであったことに


この歌詞の最後の部分。ボブ・ゲルドフがどうしても入れたかった現実感、誰も言いたがらないが、不幸が自分のものでなく、他人であってよかったという本音の部分。ここをボノに歌わせようとボブは決める。一通りセッションの終わった後、それを知らないボノはボブ・ゲルドフに、あの部分だけは歌いたくないと告げる。それは当時まだ硬派な社会批判やロマンティックな宗教観をベースにして、静かに底から震えるようなロックをしていたU2にとっては相反する歌詞であったと思う。しかし。

「あのパートは君に歌ってもらおうと決めた」とボブは言った。「あそこを歌えるのは、君しかいないのだ」と。

結局、ボノはこれを受け入れ、髪型の可愛いスティングと、当時人気のあったサイモン・ル・ボン(デュラン・デュラン)との間に挟まれ、とても真摯に、祈るように歌っている。まさにこの部分が下品にならなかったのは、ボブ・ゲルドフが求めていた、ボノの人間的な深みのためだったと言えるのかもしれない。
 
ちなみに、1984年から20年後の2004年、今度はスーダン救済のために録音されたバンド・エイド20の『Do they know it’s Christmas?』にもボノは参加し、同じパートを歌っている。

ボノ曰く、「あのパートの歌い方は、あれからずっと気になっていた。あそこは本当はシャウトするべきではなかったんじゃないかって。だから今回もあそこを歌って、歌い方を変えようと思った。本当は、ささやくように歌うべきなんだって、わかったからさ」

よかったら、聞いてみてください。

「……」

あまり違わないと思うのですが。

それからも、プロデュースも担当しているミッジ・ユーロによって録音は続けられ、先ず最初のパートは、ポール・(every time you go away)ヤングが歌い、当時のスター達が、それぞれに割り当てられたパートを録音していく。

午後六時。ボブに電話で叩き起こされたボーイ・ジョージ(カルチャー・クラブ)がコンコルドでロンドンに到着し、SARMスタジオで録音をすませると、全ての予定が終了。後はボブ・ゲルドフとミッジ・ユーロでのミックス作業となり、それが終わるのが11月26日の午前8時。ボブ・ゲルドフは最後に声明を録音している。

「このレコードは1984年11月25日に録音された。現在、26日の午前8時。私達は24時間ここにいたことになる。さあ、家に帰ろう」

レコードは大急ぎでプレスされ、ビートルズの『サージェントペパーズ』を手がけたことで有名な、ピーター・ブレイクのジャケットを冠して、1984年11月29日に発売される。この記念すべきレコードは飛ぶように売れ、シングル・チャートでの売り上げ350万枚を記録。翌年のUSA・フォー・アフリカ、世界2大都市同時進行のライブ・エイドに発展し、いわゆるチャリティー・ブーム(そんなブームがあるとして)を巻き起こすことになる。この売り上げ枚数は1997年、ダイアナ妃を追悼したエルトン・ジョンの『Candle in the Wind』の売り上げ、500万枚まで、抜かれることはなかった。

もちろん過去にも、チャリティーの音楽活動はあった。でも一曲にこれだけのスターを一斉に集めて、一緒に歌わせて、映像を記録し編集し、MTVでPVを流して基金を集めたことは今までになかった。この一曲に詰められた情報量の多さ。

ちなみに、この映像はyoutubeで見られる。探していくと、メイキング・オブ的なものもあり興味深く、今回の書庫のネタもそれらを下敷きにしている。現在と比べてみるとよくわかると思うが、あのスタジオで真面目にチャリティーとして参加している人達だけが今でも一線で活躍している。ボノ、スティング、ポール・ウェラー等。それ以外の当時売れていたスター達は、パーティーみたいな感じで集まってきて、遊んでいるように見えてしまう。誰とは言わないが、メディアに対しても自分たちのことしか語らず、エチオピアの飢饉なんてすっかり忘れている。そうして彼らは消えていった。いや、細々と十両くらいで相撲を取っているのかもしれないが、それらはテレビでは映らない。彼らは時に本来の仕事とは関係なく、彼らの起こしたニュースで存在を確認されたりする。ありがちなパターン。いちいち、誰とは言わないが。

だから、何にでも真面目に取り組もうと言う話ではなく、忘れていました、PENTAX645。

このカメラ、ずんぐりして大きいので、今どきこれを首からかけて歩いていたりすると、それは何だと聞かれたりする。一昔前の、いや、もっと前のビデオカメラくらいの大きさはある。変な奴だと思われているのかもしれない。だからかどうか、このカメラを構えた時、一瞬まわりがしんとなる。

「……」

1984年11月26日 午前8時 ロンドン 曇り

さあ、家に帰ろう。

Absence page14

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Mangaを読んでいたり
テレビのTalk Showを観て
笑っている彼女に触れて 
僕は 生きている感覚を取り戻す

何がおもしろいのか
そんなことはどうでもよくて
笑っている彼女に触れて
僕は 生きている感覚を取り戻す

頭のてっぺんから
手の指や 足の先まで 笑って

あたりまえのようだけれど
生きているとは不思議なことだ

おもしろさを 想像する 
彼女が笑って 僕が笑う

そうすると急に
Ramenが食べたくなったり
朝までDriveしたくなったり
Stonesが聞きたくなったりする

2010年の夏 長過ぎる午後 
背が伸びた彼女がMangaを読んで笑い
老いた僕がミック・ジャガーのように
悪魔を憐れみ Danceする

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poetography 動画

..............
poetography

(以前に作った『poetgraphy』の動画をトップページに貼付けました。ここからyoutubeに設けてある thekeieichi のチャンネルに行くと『home:』の動画も見ることができます)

写真を撮り始めてしばらくすると、自分の表現方法らしきものがわずかに見えたような気がした。
一枚の写真(プリントの完成度)だけで勝負できる写真家もいるけれど、どうも僕はそういうタイプではないようだった。たどり着いたのが写真集。言葉と写真で、伝えたいものが、よりうまく伝えられるか。言い忘れていたが、もともとは詩を書いていたのだ。コンテスト応募のために、『POETOGRAPHY』(2006年)、『home:』(2007年)の二作を作った。どちらも出版にはいたらず、それぞれこの世で一冊だけしかない。しかし、このまま埋もれさせるのももったいなく思え、この場を借りて発表することにした。できれば、温かく見守ってあげてくれますように。

2008年3月 螢 映池

追記: 写真集のUPがとりあえず終わり、新たに書庫を3つ増設しました。
『Absence』(仮称)は未完の第三写真集。
『mini van』と 『Camera』は趣の少し異なる書庫です。
今後ともよろしく。

2008年5月 螢 映池

miniature vancouver page 12

久しぶりのミニチュア・バンクーバー。
今回の場所は、ホワイト・ロックと言う名前の小さな市。以前に書いた広大なサーレー市の一部をひっそりと間借りしているようにも見えるのだが、ここが喉元というか、サーレーの下顎というか何というか……また、例のゾウの横顔マップを見て頂きたい。(赤い部分です)

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ホワイト・ロックは、バンクーバー島との入り海であるジョージア海峡に面し、その遠浅の美しく広い砂浜で有名である。1913年にBC州のバンクーバーからアメリカのワシントン州シアトルまで続く鉄道の駅が、ホワイト・ロックに設けられると、その砂浜を目当てにバンクーバーやニュー・ウエストミンスターから多くの避暑客が訪れるようになった。同時期に開業し始めた複数の製材所の影響もあり、街はにわかに賑わいを見せるようになっていく。

1950年代になり、サーレー市の都市計画から孤立させられていると感じるようになったホワイト・ロック地区(この頃はサーレー市の一部)は、州政府から特別な補償を受け、57年に正式に市として発足する。そのようないきさつで、この喉元というか、気をつけないと二重顎になりかねない微妙な場所に、ホワイト・ロックと言う名前の小さな市が誕生したのである。

書いていて思い出したのだが、昔、僕の友人が『豚晴』で豚カツを食べて、衣の固さに『上顎をやられた』と言っていたが。これは余談……しかも下顎……

450メートルある、ホワイト・ロックの桟橋。ちなみにビーチの長さは2.5キロもある。

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Minolta HI-MATIC 7Sにて撮影。 Ilford Delta 100使用。 D76 1:1で現像。

さて、ホワイト・ロックという名前。原住民の言い伝えによると、昔々、若い海の神がバンクーバー島のカウチン族の姫と恋に堕ち、結婚を誓ったが許されず、失意と怒りのなかで、この海の向こうで姫と新しい部族を作ろうと白い岩をジョージア海峡の向こうに投げたと伝えられている。海の神が希望を託して投げた、白い岩のたどり着いた場所がこのホワイト・ロックという浜辺らしい。ここで海の神とカウチン族の姫は新しい生活を始める予定だった。証拠に、その白い巨岩は実在する。高さ4メートル、重さ488トンの白い岩は今でもホワイト・ロックの砂浜にあって、記念写真を撮られたり、鳥に糞を落とされたり、卑猥なラクガキをされたりしている。

(地理学的に言うと、氷河期の終りに沿岸の山から運ばれてきて、氷が溶けビーチに残ったと説明されている。実際、白い花崗岩であると言われているが、今はラクガキを消すために定期的に白いペンキを塗られており、みょーに白い。)

南海電車に乗り、サーレー市ではなく、堺市に向かうと石津川という川にあたる。ここはまだ堺市西区だが、それは些細なこと。古代の神々の話から、現在の行政区画に従い、定規で線が引けるものであろうか。過去のホワイト・ロックがサーレーに含まれていたように、多少の含みを許して頂きたい。

さて、ホワイト・ロック市は南海本線石津川駅より南に、諏訪ノ森駅、浜寺公園駅、羽衣駅、高石駅の周辺にあたり、ビーチは、夏目漱石の『行人』にも出てくる有名な浜寺公園とする。古くから白砂青松の景勝地として和歌に詠まれ、多くの貴人歌人達が遊覧に訪れた浜寺は、大久保利通の下手な歌の助けを借りて、明治6年に日本最古の公園と指定され、それ以降も関西の避暑客を集めている。ここらはさして珍しくもない。さて、では白い岩の符合はいかに?

ここで僕達は高石駅から引き返して石津川駅に戻る。(ちなみにこの間にある諏訪ノ森駅と浜寺公園駅の駅舎は登録有形文化財に登録されている。どちらも阪神間モダニズムの雰囲気を残しており、特に浜寺公園駅は日本銀行とか大阪市中央公会堂とかを手がけた辰野金吾と言う人が設計したものらしい)この石津川駅のやや南、石津川のすぐ北側に石津太神社がある。この辺りは昔浜であったらしく、イザナギ、イザナミの生んだヒルコが流れ着いた場所とされる。

ヒルコとは『古事記』にある国産みの際、イザナギとイザナミとの間に生まれた最初の神である。しかし、子作りの際に女神であるイザナミから声をかけた事が原因で不具の子に生まれたため、葦の舟に入れられオノゴロ島から流されてしまう。漂着したヒルコは携えていた五色の神石を、今の石津太神社の鳥居の前あたりに置いたと言われる。五色の石を置いた場所を『石津』といい、五色の石は埋められて、封をするように大きな石(岩)が今でも置かれている。ちなみに石津太神社は戎宮であり、ヒルコ→蛭子→エビス→戎を祀っている。

五色の石の色が何色であったのかは知らない。封をしてある岩は写真で見る限り、(行ったことはございません)神社にある普通の石の色(グレー)であるが、カナダの神が投げた岩と、日本の神の流した石が辿り着いた場所の符合(この場合ホワイト・ロック市と石津ー高石間)は何と興味深いではないか?

晴れて、ホワイト・ロックは大阪の地図の上に重なり合う。

よし。

下が、証拠の白い岩。家族が記念撮影をしています。

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Minolta HI-MATIC 7Sにて撮影。 Ilford Delta 100使用。 D76 1:1で現像。

『豚晴』の関係者の方、僕の友人の昔の発言に気を悪くされたらすいません。

『やめとけ。上顎やられるぞ』とも、よっぽど腹が立ったのか、彼は顔をしかめて僕に余計な世話までやいてくれましたが……。

2010年 5月

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4月1日から2週間、日本に子供と二人で帰った。前に帰った時から3年半ぶりになる。27で日本を出てかれこれ15年になるが、今回の帰省がなぜか一番思い出深い。もちろん歳を取ったせいもあるだろう。僕も両親も子供も友人も、世界がまんべんなく歳を取ったせいで、物事の見え方はずいぶん変わってくる。新しくなった部分、変わっていない部分がどれも新鮮で、忘れていたことをたくさん思い出させてもらえた。上手く説明できないけれど、今回は《しみじみ》いいなと思った。

カナダに戻って、僕は愛用するギターの弦を張り替えた。18の時に買ったフェンダーのテレキャスター。21の時に買ったタカミネのエレアコ。この15年間一度も張り替えていなかった弦を新調し、ハモニカホルダーも、カポタストも、新しいピックも3つ揃えた。これが現在の僕の心境。《しみじみ》が、何度か転がっていくうちにこうなったのだろう。Like a Rolling Stone。よし、これから毎月このブログに『目標』を掲げてみようか。写真集ブログだけれど、いいじゃないか。

5月の目標は『唄』を一曲作る。

2010年 5月


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